『ミスライムのカタコンベ』について-IwriとMisraim

エンデの短篇集『自由の牢獄』に『ミスライムのカタコンべ』という作品があります。エンデ作品の中でもぼくが好きな作品のベスト5には入る作品なのですけど、この記事ではこの作品について少しだけ書いてみたいと思います。とはいえ、全体的な作品解釈というわけではなく、フリードリヒ・ヴァインレープ*1の観点からイヴリィとミスライムについて興味深いと思える点を書いて見たいと思います。もちろん、これは解釈の一つのバリエーションにすぎないので、これが正しいとかそういうことではないことは最初に書いておきたいと思います。
さて、まずは本作の主人公の話をしないといけません。本作の主人公の名前はイヴリィと言い、原文ではIwriと書かれています。実はこのIwriというのはヘブライ語由来の言葉で、旧約聖書のヨセフに使われている言葉でもあります。ヴァインレープはIwriという言葉について、次のように説明します。

ヨセフはIwri、ヘブライ人、「彼岸から」―ヘブライ語からはそう訳せる―である。彼はここに現れている人間であるが、しかし、彼岸から来た。彼の現れの中で、彼は二つの側、二つの現実を一つにしている。(Kabbala im Traumleben des Menschn S.73)

つまり、Iwriとは「彼岸の人(向こう側から来た人)」だというのです。エンデが隠れたもの、もう一つの別の現実というのと同様に、ヴァインレープにとっても世界はこちらとあちら、此岸と彼岸、現れる側と隠れた側とにわかれています。また、ここもエンデと共通するところですが、何かどこか彼方に隠れた側がある、というのではなく、現れたものと同時に隠れたものはそこにある、しかし人間にとって隠されているという立場をとっています。もう一つ付け加えるなら、ヴァインレープは聖書の出来事はかつて起こったことではなく、今、ここで、人間の中で起こっていることだといいます。子安美知子先生が『「モモ」を読む』でモモの作品全体を人間の内面の反映として解釈されていたように、エンデにとっても作品の世界は同時に人間の内面のイメージでもあるわけです。そう考えていくと、カタコンベ・システムのなかにおけるイヴリィとは、人間の内面における隠れたものであるという風に考えることもできそうな気がしてきます。さて、ヨセフにはもうひとつ興味深い点があります。ヨセフは夢の解釈者なのです。ヴァインレープは、

ヘブライ語で書かれた「夢解釈」というタイトルの本がある。それはこう始まる。「この本はヨセフが我々に残した夢解釈に従って書かれている」。あらゆる夢解釈はヨセフ-側から人間の中へやってくる。だから、「残した」はここでは歴史的な意味でいわれているのではない。そこで言わんとされていることは、夢解釈に関する我々の全ての知は、現れているものの世界のなかで、我々の中で「目に見えることなしに」生きることができるヨセフに由来するということである。(ibid S.194)

と書いています。作中でイヴリィは夢を見るというところが重要なポイントになってきます。イヴリィが自分たちがカタコンベに囚われている囚人であることに気づくきっかけは、夢に由来するからです。ここでも、イヴリィとヨセフは何か響きあうところがあるように思います。
ところで、タイトルにもあるミスライムとは一体なんのことなのでしょうか。実はミスライムもヨセフと関係している言葉です。ちなみに、エンデはMisraimと書いていますが、ヴァインレープではmizrajimです。ヴァインレープは次のように語ります。

病気であることは、ヘブライ語でエジプトに対応するミツライムmizrajimに属している。この言葉はすでに自身のうちに2性、分裂を含んでいる。ミツライムで人間は常にあれか-これかに苦しむ。人は結びつくことのない二つの現実を生きている。そうして、混乱し、1性が存在することを信じず、聖なるものと俗なるものを区別し、交互に攻撃的であったり抑圧的であったりする。あらゆる人間は多かれ少なかれミツライムにいる。(ibid S.142)

ミスライムはエジプトだというのです。そして、旧約のヨセフはエジプトに売られていきます。そして、ミスライムは2性であり分裂であるといいます。つまり、現れたものの側です。「カタコンベ」ではどうでしょうか。イヴリィたち地下の住人はカタコンベに逃げて来ます。そして、彼らはGULを食べることでかつて来た場所を忘れます。GULについて、訳者の田村先生は物質を意味する言葉であると解説されています*2。物質とは、現れたものの側です。GULを食べることによって、彼らは一種の病気になるのです。1性の世界から2性の世界へと逃げてくることで、一つであったもの・1性(Einheit)が、現れたものと隠れたものとに分裂するわけです。ヴァインレープは旧約聖書の洪水やバベルの塔建設における混乱*3によって、人間は半分になった、半分は隠されたと語りますが、地下の民もミスライムに逃げ込むことによって半分になるのです。イヴリィがこのことに気づくのは、夢を通じてです。夢世界とは1性の側、隠れた側です。夢を見るとは、1性の世界に触れるということなのです。隠れた側を思い出すからこそ、イヴリィは自分の来し方を思い出すわけです。ちなみに、ヴァインレープにおいては、覚醒の世界、昼の世界は因果的(Kausal)であり、夢世界は非因果的(akausal)であると言われます。因果論的/非因果論的という、特に合理性と創造性に関するエンデの観点からも、このことを見ることができるかもしれません。
最後に、ヨセフとイヴリィの物語はかなり異なったものになっていきます。ヨセフは夢の解釈を通じてエジプトを支配したとヴァインレープはいいます。一方で、イヴリィは危険な扇動者に仕立てあげられ、ミスライム・システムの外部へと追いだされます。イヴリィがどうなったのか、エンデは書いていませんし、作中からそれを確実に推測させる描写もありません。これはまさに読者の解釈に委ねられているのであって、エンデ作品の多くに見られる作品の開かれでもあるように思います。そこをどう捉えるかは、まさに読者次第だというように思います。

*1:エンデがシュタイナーと並んで集中的に取り組んだと言われている人物でカバリスト。ロマン・ホッケの報告によれば、1981年4月、ヴァインレープはエンデ夫妻を訪れ、そこから彼らの交流は始まったという。エンデはその後ヴァインレープが当時開催していたチューリッヒのセミナーに足を運んだといわれている。

*2:ぼく自身はまだヴァインレープの著作中では出会っていません。とはいえ、エンデの知識はヴァインレープだけに基づくものではないので、他のところから得ている可能性も否定できません。

*3:ヴァインレープによれば、洪水(Sintflut)はヘブライ語で混乱を意味するといいます。

「"わたし"の持続性」を読む

『エンデのメモ箱』に「"わたし"の持続性」というタイトルのメモが収録されています。このテキストについて、ぼくは長いことエンデはなぜこんなことを言っているのだろうと思っていました。この理由は、ぼくのテキスト理解が間違っていたからなのですけど、この記事ではそのことについて書いてみたいと思います。
このテキストではまずエンデ自身の小学校時代の登校風景が描かれます。そのあと、エンデは「これからの人生で、わたしはどうなるのか、十年後や五十年後も今ここにいるおなじ私であり続けるのか、それとも別人なのかと」と自問します。この問題に対し、エンデはその後の人生の中で、その光景を繰り返し思い出そうと決意します。なぜそうするのか、エンデは次のように考えます。

この思い出す行為は、ただ思いついたときにするべきだった。強制されるのではなく、あくまでも、気が向いたからするのだ。そうすることで、わたしがまだ"わたし"であることの保証を得たかった。もしわたしが別人になっていたら、(外からの助けなしでは)むろんこの決心をもう知らないはずだからである。

ぼくがこのテキスト理解を間違えた理由は、上に引用した部分にあります。というのは、この「私の決心」を「思い出す」ことに力点が置かれていると読んでしまい、"わたし"の持続性は「記憶」によって担保されると理解してしまった点にありました。そのため、他のエンデの発言等からしても、なぜこういうテキストを書いたのか疑問だったわけです。ですが、今ぼく自身が理解する限りでは、このテキストはいわば記憶によって「わたし(自我)」(私/自我意識)が構成されているといったことを言っているわけではないと考えています。
この思い出すという行為を行うのは、恣意的で、自発的で、自分が決めたという理由でだけなされるべきであるとエンデはいいます。邦訳ではカッコ書きのなかは、外からの助けなしではとわかりやすく訳されていますが、直訳すると「外的原因なしに」となります。例えば、かつての登校風景のなかにあったお店や機械やショーウィンドー等々に似たものをどこかで見て、そこからふとかつての登校風景をありありと思い出すというようなことではなく、ただ"わたし"が思い出そうと決めた、何か他の原因によらずにただ思い出そうと決めたという理由でだけ思い出すということが、"わたし"の持続性を"わたし"に保証してくれるというわけです。単に記憶が問題になっているだけであれば、自発性や恣意性といったことは問題にならないはずです。ここでは因果論的な事柄と非因果論的な事柄とが問題になっているように見えます。この「思い出す」ことが非因果論的に(外的な原因なしに)わたしによって決定されているがゆえに、わたしの持続性が担保されているというように見えるのです。この非因果性はエンデにとって、いわゆるもう一つの別の世界、隠れた側と関係しています。また、エンデにとってこの因果論的関係にとらわれない行為は、人間の創造性、そして自由と大きく関係しているといえます。同じく『メモ箱』の中のテキスト「創造力」の中では、エンデは「世界の隠れた側からくるものがすべてそうであるように、人間の創造力も、測ったり、数えたり、重さをはかることができ」ない、「創造力の問題は人間の自由の問題と切っても切りはなせない。その存在の前提条件において、人間はけっして自由ではないのだから。」と言っています。因果論的なものと計算・計量・計測可能性は、エンデにとってマテリアリスムスを代表する考え方ですが、創造力や自由や愛や遊びはこのような因果論的で計算・計量・計測可能なものに回収されない、この世界の隠れた側と関係する人間的なものとして考えられています。そうすると、わたしがわたしの決意に従って行為することができるということも、非因果的な行為であり、ある意味では(外的な原因に左右されないという意味で)創造的な行為であり、世界の隠れた側に関係していると言えそうに思えます。こう考えるならば、"わたし"=自我*1もまた、世界の隠れた側にあると言えそうです。重松禅師との対談の中でエンデは自我についてこのように言っています。

我々が自分自身の自我を知覚しようとしても、何一つ知覚することはありません。空虚を知覚するのです。そこから今日の心理学者はそこにはなにもないのだろうと結論づけます。ですが、本当はそこに人間の本来の創造的な力があるのです。

やはりここでも自我と創造的な力*2関係付けられています。以上の点から、"わたし"の持続性を問うということは、同時に非因果的で自発的に行為できる"わたし"=自我の存在への問いとして読めるということ、人間の自我がマテリアリスム的な思考に回収されることのない、隠れた側と関係した何かであるということが、この「"わたし"の持続性」というテキストから読み取れるのではないかと思います。

*1:ここで"わたし"と訳されている言葉はドイツ語では一人称代名詞「Ich」であり、名詞として使われている場合、特に哲学等では多くの場合、自我と訳される。

*2:先述のメモ「創造力」では創造力という言葉にKreativitätが使われており、対談ではschöpferische Kraftが使われています。この語の使い分けについて、エンデがどのように考えていたのかは今後の課題にしたいと思います。

エンデと共同体

まず最初に以前の記事でもときおり触れていた、エンデのLebensgebärdeという言葉について、少し考えて見たいと思います。ぼくがこの言葉に興味をもったのは、ヨーゼフ・ボイスとの対談『芸術と政治をめぐる対話』の次のエンデの発言を読んだことがきっかけです。

芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生じるわけです。つまり、多くの人をまとめることのできる共通の大きなライフスタイルが、生じるのです。(エンデ全集16『芸術と政治をめぐる対話』P.43)

ここで「ライフスタイル」と言われていることが、ずっと引っかかっていました。文脈を考えるとライフスタイルというのは、わかるようでわからない言葉です。文脈から判断をすれば、ここでライフスタイルと言われている言葉は、文化の根底に存在する何かであるように思われます。では、原文ではどうなっているでしょうか。

Aus der Kunst, aus den schöpferischen Leistungen solcher Leute wie Shakespeare entsteht die Gesamtheit der Kultur, das heißt, es entsteht daraus die Gemeinsamkeit einer großen Lebensgebärde, in der viele Menschen sich zusammenfinden können.(Kunst und Politik ein Gespräch S.31)
「芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生まれるのです。つまり、そこから多くの人間が共同できる大きなLebensgebärdeの共通性が生まれるのです。」(拙訳)

Lebensgebärdeにどのような訳語を当てるのが妥当か、未だに判断できないのでさしあたり原語のままにしておきました。余談ながら、Twitterのエンデボットには「生の身振り」と訳しましたが、ちょっと大仰すぎるという気がしています。他の対談等では生活態度なんて訳語をも使われていますが、文化(Kultur)との密接な関わりの下に使われているこの言葉の訳語としては、日常的なライフスタイルや生活態度という言葉の使われ方からすると、少し物足りないなという印象を否めません。Lebensgebärdeという言葉は、Leben(生活、生命)とGebärde(身振り、手振り)を合わせたものです。辞書的には、生活態度のような言葉は確かに妥当なような気がしますが、エンデがこの言葉に付与している意味を考えると、やはり少し納得しがたいものがあります。ぼく自身がボットで生の身振りというわかるようなわからないような言葉を選んだのは、哲学用語で言う生という抽象的ながら人間の根底にあるものが、自然な形で、あるいは無意識のうちに表出するというイメージだったのですが、これもそれほど妥当という気はしません。なので、ここではさしあたりLebensgebärdeと原語のままで書いていこうと思います。
すでに書きましたように、Lebensgebärdeというのは文化という概念と密接に結びついています。『オリーブの森で語り合う』の中では、エンデは次のように述べています。

ぼくは文化という言葉について、むしろ生活形式の、価値連関の、―こう言ってよければ―、Lebensgebärdeの共通性のことだと理解している。この共通性はそれを再認識し、それ自体を表現する社会や時代が所有するものだ。(Phatasie/Kultur/Politik S.30)

ここでも文化ということが問題になっていることがわかります。個々人のLebensgebärdeの共通性が、文化を、ひいては文化的共同体を形成し、その営みのなかでこの共通性が再認識され、表現されるというように理解してよいでしょう。エンデはあるインタビューのなかで、文化というのは内的な世界の外的な投影だ、ということを言っています。そして、現代においてそれは失われてしまったのだと。これはエンデ文学のなかでもたびたび取り扱われているテーマでもあります(例えば、モモのように)。更にこの共通性について、『ものがたりの余白』の中では次のように語っています。

(…)特に、わたしたちは今日、国別の文化が、すでに支える力を失った時点に達しました。(…)わたしたちは、この(地球という)惑星でみんな一緒に生きてゆくことを学ばなければならず、それに、わたしたち自身を理解することを学ばなければなりません。ということは、つまり、神話を見つけなければならないということです。そして、この神話は次の二つのことを含んでいるのですが、この二つは今まで一緒にならないとされており、どのようにして一つにすればよいのか、わたしたちはまだ知らないのです。一つは、絶対的価値として、人間の個人の有効性であり、他方は、人類全体です。(…)これ(二つを一緒にすることが)が、今、特に詩人や作家、そして画家にとっての課題だと思うのです。(ものがたりの余白 PP64-65)

ここでは神話という言葉が使われています。神話というのはここでは例えばある民族のなかで共通にもつことのできる何かあるものとして考えられています。しかし、こういった民族の神話はすでに不可能だ、とエンデは続けます。そういった民族の神話にかわる神話を、あるいは先ほどの話に戻るとLebensgebärdeの共通性を作り出すことが、芸術家の使命だというわけです。エンデ自身は、個人の神話が必要になるというふうに話を続けます。その理想から98%を引いたものが『はてしない物語』だというのです。『はてしない物語』の終幕部で主人公バスチアンと気難しい古本屋のコレアンダー氏はファンタージエンを旅したということによって、精神的な結びつきを得ます。二人のファンタージエンは全く別物であることが作中でも触れられていますが、まさにファンタージエンを旅した、個人の神話を持ったことによって二人は結びつくわけです。エンデの言う個人の神話というのは、このようなものであると語られているわけです。
『ものがたりの余白』のインタビューを読んでいると、一つの事に気づきます。エンデが特に強い関心を示す事柄、貨幣・遊び・言語/神話はどれも人と人とを結びつける機能をもっています。エンデは貨幣の白魔術ということについてもあるインタビューの中で語っていますが、エンデが批判するような黒魔術的な貨幣ではなく、白魔術的な、ポジティブな貨幣とはどういうものなのか、このイメージを得ることが大事だというのです。「単なる自然科学は決して本当の文化へと導くことはありません。そうすると、ポジティブな、貨幣の白魔術が存在しなければならなのです。」(Zeit-Zauber S.21)とエンデは語っています。こう考えていくと、エンデの思想を理解する上で、貨幣も単に経済の問題というだけでなく、トータルな社会、トータルな文化を構成する一つのファクターとして捉えることもできると言えます。文化を、Lebensgebärdeの共通性を、どのようにエンデが理解し、またそれを新たに作り出していくべきだと考えていたか、この点を問題化することで、以前の記事でも触れたような社会批判者エンデと芸術家エンデという分裂しているようにみえる2つの顔を架橋することもできるように思います。
以上のことを踏まえると、エンデは新しい共同体の可能性を模索していたという視点が可能なように思います。それは、先祖返り的な、民族とか血縁とかを基盤にした共同体ではなく、ある共通の価値(の体系)を、共通のLebensgebärdeをもつということを基盤にした共同体だという風に考えられるように思います。『オリーブの森で語り合う』でエンデはエプラーの構造保守と価値保守という概念対に対して、構造革新と価値革新という概念対が可能なのではないかということを語っています。ぼくの理解では、構造革新とは―ここではおそらく当時の共産主義国家が念頭に置かれていたのだと思いますが―構造を革新すれば全てうまく行く、社会的ユートピアが訪れるというような態度であるように思います。価値革新というのは、価値保守が既存の価値を守っていく―例えそれによって既存の構造を解体したとしても―という立場であるのに対して、新しい価値を作っていくという立場です。そして、エンデは様々なところで繰り返し、この価値の更新こそ芸術家の課題であると言っているわけです。少し脱線しますが、エンデには政治的アンガージュマンとか社会改革に対する行動がないじゃないか、というような批判を時折見かけます。ですが、エンデのこのような考えを踏まえれば、エンデが自身の作品でやって来たことそのものが、エンデの答えなのだというふうに思えます。エンデが繰り返し語ることの一つですが、エンデはゴッホのひまわりによって、当時の意識は全く違うものになったのだというようなことを言っています。芸術というのはそういう力があるんだ、と。いずれにせよ、価値やLebensgebärdeの共通性を新たに作り出し、新たな文化を構築していくこと、それによって新しい文化的・精神的共同体を作り出していくこと、このことが現代社会との関係性でみたとき、エンデの重要な関心事の一つだったのではないか、そのように思います。
最後に、『ミヒャエル・エンデの読んだ本』に収録されているノヴァーリスの「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」について少し触れておきたいと思います。エンデはこの『読本』のなかで、自身の人生において決定的な影響を与えたテクストを選んで収録しています。エンデは自身をドイツ・ロマン派の後継と自認しており、なかでもノヴァーリスを精神的な父とまで呼んでいます。ノヴァーリスの代表的な作品というと『青い花』や『夜の讃歌』が思い浮かびます。思想的なテクストであれば、断章集『花粉』やいわゆる百科全書学のための『一般草稿』が有名なところでしょう。あの有名な白百合と赤薔薇のメールヒェンやクリングゾール・メールヒェンなどではなく、なぜ「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」という小論が選択されたのか、この点はここまで書いてきたことと関係があると考えています。そもそもこの小論自体、イェーナサークルで発表したときにシェリングによって激しく批判され、最後にはゲーテにお伺いを立てて公刊が見送られたという経緯を持ついわくつきのものです。その内容はあたかも中世ヨーロッパを賛美するような内容として捉えられたのです。ここでこの小論の細かい内容に立ち入ることはできないのですが、ぼくの理解ではノヴァーリスは、現代というのは非常に唯物論化している、中世ヨーロッパにおけるようなキリスト教的精神に基づいた精神の共同体を構築する必要があるのだ、と説いていると考えています。しかし、ここで中世と呼ばれているのはもちろんそのまま歴史的な過去としての中世ではなく、理想化された来るべき黄金時代としての中世であり、いわば自乗された中世なのです。『ノヴァーリス作品集3』の解題で訳者の今泉文子先生はこの論考について次のように述べています。

死者たち、虐げられたもの、軽蔑されたもの、災いなどを、活気づけbeleben、格上げしerheben、止揚しaufheben、ジンテーゼにもちきたす―これが「天才」であり、「ロマン化」であると、ノヴァーリスは言いつづけている。この論考も、イエズス会を称揚するなど、一見いかに反動的に見えようとも、その意味で、「俗人のいわゆる宗教は、阿片とおなじ作用をもつだけである」と書いたかれの思考とけっして矛盾するものではなく、その真意において一貫しているものである。

精神なき危機の時代に、未来の、来るべき精神の共同体を説いたノヴァーリスのこの論考をエンデが選んだことは、上で素描してきたエンデの現代に対する視座を踏まえると、理解できるものであるように思えてきます。エンデもノヴァーリスと同様に、精神=文化なき時代にあって、来るべき新たな共同体を夢み、そして芸術の力を通じて世界を「ロマン化」(あるいは「詩化」)することを課題としたのではないでしょうか。

『エンデの遺言』について考える

最近、『エンデの遺言』(以下『遺言』)について考えています。とはいえ、経済の問題(これ自体はとても重要な問題だと思いますが)についてではなく、日本のエンデ受容との関連で考えているわけです。ぼくは『遺言』には功罪あると考えていて、功の一番はやはりエンデの経済や貨幣に対する視点を紹介し、地域通貨のような取り組みへのきっかけとなった点でしょう。また、「ファンタジー児童文学作家ミヒャエル・エンデ」という顔に「現代社会の批判者ミヒャエル・エンデ」という側面を紹介したことも、功と言えるかわかりませんが、エンデ受容という意味では大きいことかもしれません。もっとも、後述しますが、この『遺言』的な言説によって、エンデの芸術家としての顔と社会の批判者としての顔が分裂してしまい、未だに架橋されていないという問題もあるにはありますが…*1
さて、この記事で取り上げたいのは、エンデ受容という観点から見た場合のこの本の問題点についてです*2。以前、モモの時間を貨幣として解釈する仕方に違和感があるといった記事を書きましたが、ぼく自身はかなり以前からこの『遺言』的な眼差しにある程度批判的でした。このかなり最近まで取っていたぼくの理解について、まずは書いて見たいと思います。
まず『遺言』の構成を見てみますと、エンデのインタビューに基づいた問題提起、エンデに影響を与えたり、エンデと共通の問題意識を持っている、オンケン、マルグリット・ケネディ、シュタイナーの思想などの紹介、そしてゲゼルの紹介と続き、地域通貨制度の取り組みの実例についての報告となっています。ここで注目されるのがエンデに多大な影響を与えたシュタイナーが一節を割り当てられているのに対して、ゲゼルを一章分を割いて大きく取り上げている点です。これはシュタイナーの扱いが小さいのけしからん!というような話ではもちろんなくて、エンデの現代社会に対する問題意識のうちどこに焦点を当てるか?という問題と関係する問題だ、ということが注目すべきポイントです。シュタイナーの三分節論は経済を含む社会全体に対するトータルな提案です。一方、経済学者のゲゼルの理論は社会の中の経済という領域にだけ焦点を当てています。そのため、ゲゼルを大きく取り上げてエンデの貨幣観・経済観という論じ方をすると、どうしてもそれ以外の部分が捨象されてしまうわけです。さて、エンデはヨーゼフ・ボイスとの対談で次のようなことを言っています。「経済生活を経済的熟慮だけで救うことはできません。そうではなく、経済生活を救うために、経済生活に由来しない何かがやってこなければなりません。」(芸術と政治をめぐる対話)。このような発言を考慮にいれるとすれば、まさにエンデの経済に対する問題意識について論じるためには、それ以外の社会領域―ここではエンデは三分節論的区分に基づいて発言していますので、精神生活や法生活ということになりますが―に対するエンデの考え方をも参照する必要があるように思えます。では、エンデの社会に対する考えはどのようなものなのでしょうか。先のボイスとの対談では特にエンデは新しい価値観、そしてそれに基づいた新しい社会像を作り出すということを強調しています。美的な領域でこのような価値観のイメージを作り出すことが芸術家の課題である、とまで言っているわけです*3
『オリーブの森で語り合う』という対談の中で、ユートピアという言葉によって議論されてきた問題も、このぼくたちはどのような価値観にしたがって、どのような社会を目指したいか、そのイメージを作り出そうということでした。このユートピアという言葉のために誤解されるかもしれませんが、これは社会的ないわば楽園を目指すということではありません。このことはエンデ自身が『オリーブの森』の中ではっきりと一切の問題がなくなる社会的ユートピアを望むことはできない、どんな社会でも問題が発生するとはっきり語っています。そうではなくて、『オリーブの森』の中で言われているユートピアとは、前提抜きに、つまり○○だからこうせざるをえないとか、○○だから仕方がないと言ったような、因果論的な論理の鎖に縛られない態度の下で、一体どんな社会が目指すべき目標として望ましいか、そんな社会像のことを指しているわけです。
さて、上記のような議論は三分節論的には精神生活に属するものと言えると思いますが、先に引用したボイスとの対談でのエンデの発言に即して言えば、こういった新しい価値を作り出し(あるいは名付け)、目指すべき新しい社会像を作るということから初めて新しい経済―経済も当然そのような社会像の一分肢なわけですが―の形も見えてくると言えるように思います。つまり、エンデの見方に従えば、経済問題の根幹に貨幣問題があるわけですが、そこで貨幣問題だけを取り上げて、何がしかのシステム上の変革を行えば良い、ということではなく、トータルな望ましい社会像にもとづいて、トータルな社会の一つの分肢として貨幣問題への処方箋が与えられる、ということになります。
エンデは遺稿集に収録された「精確なファンタジー」というメモの中で、ゲーテの精確なファンタジーという概念を引いて、現代の問題を解決するために未来から解決案を先取りしてくるようなある種預言者的な能力を精確なファンタジーと呼んでいますし、『メモ箱』に収録された「創造力」というメモでは、非因果論的に原因なしにあるものを作り出す能力として創造力を語っています。価値を作り出すとか、名付けとか、因果論の鎖に縛られないといった形でいくつかのキーワードを述べてきましたが、実は今まで述べて来たような観点から見ていくと、エンデが芸術や人間の精神やファンタジーと言ったことについて語っていることが、社会を語る上でも重要なファクターとなっていることがわかります。既に、ファンタジー児童文学作家としてのエンデと現代社会の批判者としてのエンデが分裂しているということを述べましたが、実は分裂しているように見えるのは―特に『遺言』的なパースペクティブでは―経済などの特定の領域に焦点を絞るせいであって、エンデの発言を一つ一つたどって行くと、実際は根底に同じ思想が見えてくることがわかるのではないでしょうか。
ところで、今までの議論とも関連するのですが、この問題と絡めて最近ふと思いついたことが一つあります。それは端的に言えば、「エンデは実際エイジング・マネーや交換リングと言った発想にそれほど強くコミットしていたのだろうか?」という疑問です。これはまだ全く検証できていない問題なのですが、一つの問題提起として書いてみたいと思います。ぼく自身がそう思っていた(思い込んでいた)ように、『遺言』以降、エンデ=地域通貨という等式が成り立つくらい、エンデの貨幣問題への言及は地域通貨制度とセットで語られていた、という印象があります。『遺言』に影響を受けて地域通貨制度の実践を行っておられ、『パン屋のお金とカジノのお金はどう違う』をお書きになられている廣田裕之氏などが好例ではないかと思いますし、あるいは松岡正剛氏の『遺言』の千夜千冊などを読んでもそういう印象を受けますし、何よりぼく自身もそのように考えていたということもあって、これは必ずしもぼくの勝手な思い込みではないのではないかと思います。しかし、まだ手持ちからさえ全ての資料をチェックしたわけではないのですが、『遺言』のインタビュー部やその他の対談などでのエンデのゲゼルやヴェルグルへの言及を思い返して見ると、実はエンデは必ずしも今の貨幣に代るものとしてエイジング・マネーや交換リングを提唱しているわけではないのではないかと思うのです。例えば、『遺言』のインタビュー部ではヴェルグルでの例を引いたあと「この話はシルビオ・ゲゼル信奉者からよく例に引かれ、いまあるお金のシステムのなかで、二次的に導入できる証拠としてよく論じられています。」(強調は引用者による)(P33)と語っています。この語り方自体が少し距離をとったような印象を受けますが、それ以外にも「二次的に導入できる証拠」という言い方は、現在の貨幣システムの代替としてではないという含意を感じます。
また、ボイスとの対談の中で、エンデは自分は貨幣とは一体何なのかわからないといった発言をしています。つまり、貨幣は法生活に属するものなのか、経済生活に属するものなのかわからないというわけです。ここで重要なポイントは、エンデ自身、貨幣とはなにかという根本的な問いに対して、自分なりの答えを持ちあわせていないということです。なぜかというと、これは『遺言』のインタビュー部でも語っていますが、もし貨幣が法生活に属するならばそれはただの法的な権利証であり、売買してはならない。一方、もし貨幣が経済生活に属するならば、ゲゼルが言うように貨幣は汚い競争相手であって、減価していかなくてはいけない、とエンデは言うわけです。つまり、貨幣とは何か?という問いに答える以前に、エンデ的な立場からあれこれの貨幣制度がオルタナティブとして提唱できるというようなことは言えないのではないか、という問題なのです。
上記のような理由から、エンデの基本的な問題意識は、『ハーメルンと死の舞踏』のモチーフにもなっていますが、金が金を生む錬金術的なシステムをどう手当するかであり、それに対する処方箋の一つの例として交換リングのような貨幣制度をあげているのではないか、というのがぼくの現在の(仮説的な)理解です。もし、こういった考えが正しかったとすれば、エンデと貨幣の問題について、一度切り離した上で再接続する作業が必要になってくるのではないかなぁという気がしています。また最初に書いた狭いテーマの中でという条件付きで、『遺言』自体を再検討する必要もあるのかなぁという気もします。また、これはずっとぼくが抱いている考えですが、善かれ悪しかれ『遺言』以後、エンデの社会問題への眼差しのうち経済にばかり焦点があたって来ましたが、政治や文化を含めたトータルな社会に対する眼差しがもっと論じられて欲しいと思います。そのときにこそ、エンデの2つの顔の架橋作業が進むでしょうし、それが必要かどうかはともかくとしてエンデ作品を別の光の下で見ると言ったことにもつながるかもしれないと思います。

*1:とはいえ、例えばElena Wagnerの論文でもこのような問題意識は語られているので、これが日本独自の状況というよりは、本国ドイツでもこの架橋作業がまだきちんとなされていないのだと思いますし、寡聞ながらぼく自身そのような本や論文を読んだことがありません。その意味では必ずしも『遺言』だけが問題なわけではありませんが。

*2:念のため、誤解のないように申し上げておくと、『遺言』が本質的に取り扱っているテーマ(貨幣の問題、地域通貨の取り組み)については特に批判するつもりはありません。あくまでエンデ受容という限定的なテーマ設定のもとでの話です。

*3:私見では、このあたりの議論はLenbensgebärdeという概念と密接に関係があると思います。生活様式とかライフスタイルと訳されているこの語は、とりわけ社会と芸術に関するエンデの議論の中核的な概念であるように思いますし、ぼく自身適当な訳語が思いつかないのですが、既存の訳語ではまるで表現できていないような深遠な概念であると考えています。ぼくは数年前からこの概念をどう理解するかという問題と関わっているのですが、まだまとまったことが言えませんので、ここでは示唆するに留めさせてもらいます。

エンデを楽しむための副読文献リスト的な何か

以前、エンデの思想を知るのに役立つと思う参考文献をまとめたことがありますが、だいぶ以前に書いた記事なのでかなり不足なところがあり、あれを拡張したいなぁと思っていたので、基本的に前回記事と被らないものを並べて見ました。相変わらず、チョイスはぼくの主観なのでご参考程度で。

  • 『Michael Ende und seine phantastische Welt. Die Suche nach dem Zauberwort』Roman Hocke,Thomas Kraft

エンデの編集者であり友人でもあるロマン・ホッケによるエンデ本です。トーマス・クラフトのテクストとの二部構成になっていて、前半ではクラフトがエンデの思想世界を簡潔にまとめています。分量等を考えると過不足なく、と言えるように思います。一方、ホッケによる後半はエンデの伝記となっていて、前半生についてはボカリウスのものをかなり参照していることもあってボカリウスのものを読めば十分とも思いますが、ボカリウスが触れていない後半生については非常に面白い話が色々と出てきます。エンデの未公開の原稿や書簡などからの引用が豊富になされているところも魅力ですね。

  • 『Michael Ende - Magische Welten』Roman Hocke,Uwe Neumahr

こちらはまるまる一冊エンデの伝記です。ですが、劇作家としてのミヒャエル・エンデという視点をメインに据えていて、上で触れた本とはまた違った味わいがあります(もちろん重複している記述もありますが)。日本人には事情がわかりにくいエンデの戯曲の上演の話ももちろんですが、人形劇場での様々な上演の話や作曲家ヴィンフリート・ヒラーとのエピソードも興味深いです。エンデとブレヒトとの対比も行われていて、あまり光の当たらない部分を見事に描いていると思います。

  • 『夢の時』ハンス・ペーター・デュル

エンデの友人でもあったという人類学者ハンス・ペーター・デュルの著作。ぼく自身は文化人類学とか全くわからないので細かいところはわからないですが、ものすごく大雑把な括りで言えばカスタネダ系だと思っていいような気がします。ただし、デュルは(少なくともこの著作では)フィールドワークではなく文献から起こしているようですが。山口昌男さんとの対談などでも、エンデはデュルに触れています。デュルはこの本で言っているのは、いわば未開の魔術的世界での魔女が空を飛ぶような経験は、それ自体経験として現実なのである(エンデがWirklichkeit(現実)=wirken(作用する)と言った意味で)、といえるように思います。それ以外にも、「人類学者が島に入ると霊が飛び去る」というエピソードに端的に現れている観察の問題などエンデと通底するところが非常に多いと思います。次の引用のところでは、ぼくが頻繁に言及している『鏡の中の鏡』などで表現されている「中心なき中心」について触れられているように思います。
「「夢の話」は、どこにもあって、どこにもない。「夢の時」も同じく、いつでも生じ、一度も生じない。「夢の場」という言葉は、いかなる特定の場とも関係がない。われわれはどこにも到達しないことによって、そこに到達するのだ、といってよいのかもしれない。」(237P)。

  • 『Quellen der Nacht』Werner Zerfluh

本書は、明晰夢(体外離脱)について、著者ツアフルーの経験を基に彼の明晰夢(体外離脱状態)についての考えを書いたものです。エンデはトーライの明晰夢についての本の中に、このツアフル―の著作への示唆を見てこの本を読み始めたといいます。先述のデュルとこの本について語ったあと、デュルからツアフル―の住所を聞き、彼に手紙を送っています。その中でエンデは「ここ十年で、あなたの本のように、一つの本が私を感動させ、あれほど決定的な旅立ちの気分で私を満たしてくれたことはほとんどありませんでした。」と自分がいかにこの本に感銘を受けたかを著者に伝えています。エンデは「あなたの書き方とあなたの経験の説明において、私を特別信頼させたものは、あなたがどの瞬間も”上から下へ”話すことがないという事実です。つまり、聴衆を良かれ悪しかれ―共感の脅しによって―征服するグル的な要求が全くないのです。」と言う仕方で本書を賞賛しています。ツルフルーはもともとは生物学を大学で研究していたのですが、幼少時から持っていた体外離脱体験のことが気になり、ユングインスティテュートで心理学を勉強します。しかし、ユング心理学にも満足できず、自分自身の経験から本書で語られる体験を理論化していこうとします。こういう経歴からでしょうか、ツルフルーには類書の著者には見られないような中立的で平静な判断があります。彼は科学にもスピリチュアルにも偏ることがなく、どちらも彼自身の立場から一定の肯定と批判をしています。ユングのアクティブ・イマジネーションを彼が不十分なものとみなしている点も注目に値します。彼の一貫した立場は、夢(体外離脱状態を含めて)の中で自我意識を保つということです。これは非常にシュタイナーに近い立場だと言えると思います。また、彼は先ほど述べたデュルの立場から一歩進んで、夢の世界とはもうひとつの別の現実、ことによればより現実的な現実なのだという立場をとります。これはエンデの立場とほぼ一致すると言っていいのではないかと思います。個人的には、エンデへの書簡の中で彼がラディカル構成主義に集中的に取り組んでいる(その中にはマトゥラーナ・ヴァレラの名前も挙げられていました)と言っているのが興味深かったです。本書の中でも自己組織化のことが少し述べられています*1

  • 『KABBALA im Traumleben des Menschen』Friedrich Weinreb

カバリストであるヴァインレープのチューリッヒでのセミナーに手を入れたものです。ヴァインレープはより明確に夢の世界は昼の世界と同じくらい、むしろより以上にリアルな高次の現実である、との立場を取ります。そして、トーラー(モーセ五書)を元にこの夢の世界について語っていきます。エンデとの関連で興味深い点のひとつは、ヴァインレープが言語は夢の世界からやってくると言っている点でしょう(もっともこの主張は神秘学的言語論では特別珍しいものでもありませんが)。彼がヘブライの伝承とヘブライ語に依るのも、そういう高次の世界からやってきた(古代のいわば原)言語は真実を語っているという立場をとるからです。また、昼の世界と夢の世界に因果的Kausal/非因果的Akausalという対立項を対応させている点もエンデとの共通性を見いだせます。本書で面白いところのもう一つは、例えば『ミスライムのカタコンベ』のイヴリィiwriについて、旧約の(夢の解釈者)ヨセフに使われた言葉であり、彼方の人を指す言葉であることや、ミツライムMizrajim=ミスライムがエジプトを指す言葉であったことなどエンデ作品に現れるモチーフや、輪廻転生を表すGirgul(ギルグル)やイツァクの原理など、エンデが対談で語っていることが色々出てくることですね。ヴァインレープの解釈も含めて、かなり面白い部分です。ボカリウスの報告によれば、エンデはかなりヴァインレープを研究していたようで、実際にこの本は本当に色々な示唆を与えてくれるのですが、象徴的なところを引用してみます。「すべてが最後まで分析し尽くされれば―我々は今日”コンピューター化する”と言うかもしれない―、もう規範に従って振る舞うことの死ぬほどの退屈しか存在しなくなる。人間は排除される。」このあたりは、本当に『モモ』の「死ぬほど退屈病」を思い出させます。かなり確実に『モモ』を書いた時点ではエンデはヴァインレープのことを知らなかったと推測できる分、余計エンデ自身の考え方との根本的な共通性を感じざるをえないところです。

  • 『金と魔術』ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー

エンデの遺言』でも触れられている著作なのでご存知の方も多いかと思います。ゲーテの『ファウスト』を経済という観点から解釈しようというものです(科学・芸術にも触れられていますが)。錬金術の卑金属から貴金属(金)を作るという課題が、錬金術後に貨幣経済によって継続されているというのが一貫したテーマといえると思います。本書では、肯定、という言葉は強すぎるかもしれませんが、中立的な言い方がなされていますが、このような「貨幣の黒魔術」をエンデは批判していたわけで、そういう意味では少しエンデ自身の発言と対照した上での読み込みが必要かもしれません。個人的な感想ですが、本書で錬金術が扱われているのは、錬金術の基本的な原理と上で述べた金の錬成、それと賢者の石の生成だけで、正直錬金術そのものはちょっとしたスパイスくらいの印象でした。本書でも若干触れられてはいますが、エンデ自身は例えば錬金術師は金の錬成プロセスを内的に体験することで内的に発展することが目的だ、ということを言っていたりするので、錬金術というキーワードでエンデと本書の記述を結びつけるのは難しいのではないかなと思います(ぼく自身、中世の錬金術の思想体系に明るくないので詳しいことが言えないのですが)。むしろ、ぼく自身の感想としては、エンデの貨幣観のより根幹的なエンデの世界観全体に根ざす問題系*2を本書を通じて探ることができる事のほうが重要だと思います。

  • 『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ

禅師重松宗育さんとの対談の中で、エンデは禅に関して特に影響を受けた書物としてヘリゲルの『弓術と禅』と本書を挙げています。とはいえ、禅について解説した本というより、著者の形而上学的思考を巡る旅行記風エッセイと言ったもので、ヘリゲルのものほど禅を強調しているという感じではありません。エンデは禅について鈴木大拙なども読んでいるが、自分にとっては何よりも芸術との関係が重要なのだといったことを言っています。エンデはそこで「ぴったりなときにぴったりなことをすること」を「名人(芸)の原理」ということを言っているのですけれど、この「名人芸の原理」が特にオートバイ修理技術ということと関連して、本書では頻繁に言及されます。本書の形而上学的な思想も面白いです*3が、エンデとの関係ということで言えば、この視点から読むのも面白いのではないでしょうか。

ブレヒトの有名な演劇論。エンデがブレヒトで「苦労」していたことは、エンデファンなら周知のことだと思います。ブレヒトとの対比は上述のロマン・ホッケの本でもやられていますが、ブレヒト自身の言っていることを見るのも参考になるのではないかと思います。ホッケも指摘しているように、エンデとブレヒトは好対照をなしているわけで、そういう反省的な観点から見れば逆にエンデの考え方がはっきりとしてくるのではないでしょうか。

エンデのシュルレアリスムに対する立場は複雑なものだと思います。しかし、エンデ自身がシュルレアリスムを広い意味で解釈するなら自分はシュルレアリストだと言っていることからもわかるように、どちらかと言うと無意識への考え方の問題と言うのが重要なポイントだと思います。シュタイナー(=ツルフルー)=エンデ父子的な立場で言えば、例えば薬物を利用したり自動筆記を行う際のような意識状態はある種の(オカルト的な)キッチュであるわけです。エンデが父の仕事を説明する際に強調するように、瞑想的な意識状態で自我意識を保つことが重要なポイントです*4ブレヒトの『小思考原理』もそうですが、こういう点を考慮して読めばむしろエンデの立ち位置をはっきりさせるのに役立つのではないでしょうか。

  • 『方法への挑戦』ポール・K・ファイヤアーベント

エンデはインタビューの中で新しい思考の流れとしてデュルなんかと並べてファイヤアーベントを挙げています。ロマン・ホッケもエンデにとって重要な著作として本書を挙げていたりします。ファイヤアーベントといえば「anything goes(なんでもアリ)」で有名ですが、占星術を擁護したりしたこともあって、ぼくの知る限り科学哲学的にはイロモノ扱いされているという印象です。エンデの自然科学理解はむしろシュタイナーに近いもので、ファイヤアーベントの思想がそのままエンデと親密な関係があるといえるほどではないようにぼくには思えますし、彼のあまりにラディカルな議論は必ずしも科学哲学の議論の主流とはいえない部分もありますが、そういうところを踏まえて読めば、エンデ的な視座から科学について考えるヒントになるんじゃないかなと思います。

『迷宮としての世界』は美術を論じていますが、こちらはタイトルどおり文学について論じているので、よりエンデとの関係性を考えやすいんじゃないかなぁと思います。とりわけ重要なのはミメーシス/ファンタスティコンの対立項が精神史に一貫して流れているというホッケの見方だと思います。ファンタスティコン=イデア芸術の立場は、エンデにとって完全に自分の文学立場を正当化してくれるものだったのだと思います*5ルネサンス期におけるクリスティアンカバラやネオ・プラトニズムの影響がアルス・コンビナトリアという思想の中にはあるわけで、この流れは初期ドイツ・ロマン派(特にノヴァーリス)にもつながっています。そういう意味で、精神史的な意味でもエンデの棹さす潮流を見ることができるのではないでしょうか。

  • 『Finite and infinite game』James P.Carse

これは前回も取り上げましたがもう一度。この著作の重要な概念はタイトル通り無限のゲーム/有限のゲームという概念対にあります。有限のゲームとは勝つこと=終わることを目的としており、プレイヤーは勝利条件に合意すると言われます。それに対して、無限のゲームはゲームの継続=終わらないことを目的としており、プレイヤーはゲームを継続させることに合意し、そのためならゲームの規則を変えることもすると言われます。言い換えると、無限のゲームにおいてはプロセス/過程/動きが、そしてその継続が重要なわけです。エンデは父エトガーとの関連で父の好きだったブルックナー交響曲を評して「動きが決定的」なのだと言っています。シシュポスが結果より動くことが重要であることを理解すれば彼は既に呪われていないのだ、と*6。実際、「動くこと」はエンデの思想の中でも決定的に重要なファクターだと思います。本書ではこの基本的な概念対から出発して、社会のゲームや芸術のゲームなどを様々に論じています。そのため、本書は単に遊戯論だけにとどまらず、エンデの世界観全体の問題とも関係する…というよりは、むしろ(無限の)遊戯という概念がエンデ思想の中でどれほどの広がりを持って理解できるかを示してくれていると思います。

エンデは明確にホイジンガの名前を出したことはありませんので、確実に読んでいるとは言えませんけれど、かなり高い確率でこれを読んでいたのではないかなぁと思います。『闇の考古学』ではホモ・ルーデンスという言葉を使っていたと思いますが、まあ、この言葉は既によく使われる言葉の一つですので…。「永遠に幼きものについて」なんかを読みますと、エンデの遊戯論の重要な基礎としては、特に美との関連においてやはりシラーの『美的書簡』があるように思えるのですが、一方で、エンデの遊戯についての発言をたどるとシラーに枠には収まりきらないと思わざるをえません。シラーの遊戯は非常に抽象的・観念的な意味で用いられていますので…。本書はやはり近現代遊戯論の古典ということで、他の遊戯論にも多く見られる遊戯の基本的性質がかなり述べられているように思います。また、ホイジンガが人類の文化の発端に遊戯を置いていることもエンデとの関係では注目できる点かもしれません。文化人類学的視点からの遊戯論なので、上記のCarseの議論なんかに比べるとエンデとの関連性という意味では少し弱い部分はありますけれど、遊戯ということについて考えるならやはり読んでおきたい本だと思います。

以上で、簡単ですがエンデが読んでいたと思われる本で、個人的に重要だと思える本のご紹介を終わりにしたいと思います。ちなみに、Roman Hockeはエンデが影響を受けた文献ということでヘルマン・ブロッホの『ユートピアの精神』(と『希望の原理』)を挙げていて、『オリーブの森で語り合う』でも参考文献に上がってはいて、読んではいるのですけどぼくには理解できなかったので(それなりにエンデとの共通性を感じる部分もあるにはあったのですが)載せていません。エンデが読んでいなかったと思われる本にも面白く、また参考になる本もあるにはあるのですがそれだと取り留めがつかなくなるので、(『ホモ・ルーデンス』はちょっと微妙ですが)対談等でエンデが言及してたりして、ある程度確証の取れるものを挙げてみました。ちなみに、シュタイナーは彼自身の著作だけでも膨大な上に、エンデとの関係ではシングルイシューで追ってもあまり意味がなく、ぼく自身もせいぜい4分の1から3分の1程度しか読めていないのこともあるので特に言及しませんでした。あまり数は挙げられませんでしたが、個々の著作自体もとても面白いものですし、ぼく自身とても参考になった文献ですので、何らかのご参考になれば幸いです。

*1:もっとも、本書中で彼が参照しているエリッヒ・ヤンツは全体としては若干ニューエイジ色があり、個人的な感想としては自己組織化の哲学的解釈としては多少偏りがあるように思います。ツルフルーが述べていることも、ぼくの語学力のせいかもしれませんが少し違和感がありました。

*2:大雑把に言えば、価値(見えないもの)を貨幣(見えるもの/数えられるもの)に転換することで起こる黒魔術的作用のこと。非常に抽象化するとエンデの現代批判に通底する形式がこの見えないものを見えるもの(数えられ、測れ、計れるもの)に還元することだと言えます。

*3:もちろん、全体は関連がありますから、この形而上学的な思想も「名人芸の原理」と関係しています。それはエンデについても言えることだと思います。

*4:この点についてはとりわけシュタイナーが強調する点でもあります。また、ツルフルーは体外離脱状態で自己意識を保つことにより、それは新しい自己経験になるという立場を取っています。

*5:グスタフ・ルネ・ホッケとの出会いについて書いたエンデの寄稿文の中では、自分の芸術的な立場だけでなく、自分のアイデンティティに関わる立場すら見出したというようなことも言っています。

*6:余談ですが、シュタイナーは『自由の哲学』の中でエドゥアルト・フォン・ハルトマンの幸福の総量と不幸の総量を比較すれば不幸の総量が上回るので、人類は最終的に滅亡するしかないというペシミスティックで功利主義的な立場を批判して、結果としての幸福と不幸の総量を比較すれば不幸が上回るかもしれないが、努力することそのもののなかに幸福があるのでその議論は成り立たないという反論を行っています。この立場は、エンデが言う「動きが決定的」という考えと、完全に一致しているように思います。少し考えが変わって、この議論が支持できないように思えてきたので削除します。しかし、『自由の哲学』の原細胞「自然と我々の理想」でシュタイナーが我々の創造物が日々無残に破壊されても、常に創造する悦びがあるのだという観点は、「動きが決定的」という観点と全く一致するように思うという点には変わりありません。

モラーリッシェ・ファンタジー―なぜ道徳規則は先取できないか

だいぶ前の記事ですが、『ファンタジー神話と現代』について書いた記事で、シュタイナーの哲学主著『自由の哲学』の中で展開されるモラーリッシェ・ファンタジー(道徳的想像力)について、道徳的の部分にアクセントを置くことの問題について軽く言及しましたが、これについてもう少し詳しく書いてみようと思います。なお、本論ではシュタイナーの主張の妥当性については検討しませんのであしからず。ミヒャエル・エンデはモラーリッシェ・"ファンタジー"というように、ファンタジーにアクセントが置かれるべきであり、(アントロポゾーフにも誤解している人がいるが)モラーリッシェ(道徳的)にアクセントを置くのは間違いだ、モラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)なのだ、と語っています(Cf.エンデと語る)。これはシュタイナーが自由に行為する人とは前例や模範や範例に従って行為するのではなく、創造的に行為する人のことだと言っていることに対応しています。
では、なぜ"道徳的"が強調されるべきではないのかについてもう少し詳しく検討してみたいと思います。シュタイナーの認識論を大雑把に言えば、認識以前に所与(与えられた世界)と概念(思考が作りだすもの)があり、それが合一したものが認識だというものです。ここで所与とか概念とか言うのは、いわば説明概念にすぎないとシュタイナーは言います。つまり、この所与(純粋知覚)と概念は認識に先立っており、通常の意味で所与とか表象とか概念というのは、認識行為の後に行われる判断の結果にすぎず、それ故、これらの概念によって認識行為が基礎づけられるのではなく、認識行為を後から振り返ってみたときに生じている事柄を説明するための概念だというわけです。さて、これが外界の認識に関するシュタイナーの議論のかなり大雑把な図式になります(詳しくは、『真理と科学』と『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』を参照)。この議論を内界認識(思考についての思考)に適用して自由を論じているのが『自由の哲学』の1部に当たると言ってほぼ間違いはないと思います。第二部ではシュタイナーは実践哲学=倫理的な問題へと移行します。ここで登場するのがモラーリッシェ・ファンタジーです。シュタイナーは、道徳的行為とは理念界からモラーリッシェ・ファンタジーを用いて行為の動機となる表象を作り出し、それに従って行為することだといいます。先の図式に当てはめれば、外界認識に際して思考が概念を創りだすように、行為においては動機となる表象を作り出し、行為するという流れだと言えると思います。ここで問題になってくるのは、先の議論と同様に、つまり認識に先立って所与や概念といった概念が存在するわけではなく、認識行為の後に判断を下すことでそのような概念を取り出すことができるのと同様に、行為に先立って認識できる道徳法則が存在するのではなく、行為を通して初めて道徳法則が認識できる、という点です。というのも、もし行為に先立って、つまり経験に先立って認識できるような道徳法則が存在し*1、それにしたがって行為するとすれば(汝なすべし)シュタイナーの議論に従えば、それは不自由な行為であるということになるからです。
かなり大雑把ですが、以上がシュタイナーの議論になります。さて、ではなぜ道徳的が強調されるのは間違いか、という点に入って行きたいと思います。まず、モラーリッシェ・ファンタジーが無条件に「道徳的(モラーリッシェ)」であるとすれば、行為の以前に行為が道徳的であるか/非道徳的であるかが判断できなければいけないように見えます。道徳的想像力/非道徳的想像力という対を想定することは、モラーリッシェ・ファンタジーは道徳的でなければならないという主張を含意すると考えざるをえません。そうすると行為以前に道徳的/非道徳的の判断がなされなければならないことになりますが、一体この判断の基準をどこからとってくればいいのでしょうか。もしなにがしかの道徳法則を経験以前に導出可能だとすると、法則は経験以前には手に入れることができないというシュタイナーの議論に抵触します。法則として取り出されるものが認識行為の以前にアプリオリには導出できないというのが、シュタイナーが認識の限界は存在しないと論じるときのポイントの一つになっているため、これは重大な問題だと言えると思います。また、仮にその議論が成り立ったとしても、後から振り返ったときにどのように見えようとも、行為以前に何らかの道徳法則が存在し、それに従って行為することはシュタイナーの議論において不自由を意味します。そうすると、人間が自由な存在になれるという『自由の哲学』のメインテーマに抵触するわけです。唯一ありえそうな議論は、モラーリッシェ・ファンタジーを行使してなされた行為は"必然的に"道徳的である、というものかもしれません。ですが、この場合、道徳的/非道徳的を"いつ"判断するかが問題になってきます。シュタイナーの議論に従えば、これは行為がなされたあとに振り返って見たときに限り、それは道徳法則と呼べるものである、ということになります。となると、モラーリッシェ・ファンタジーが仮に必然的に道徳的であったとしても、それは先に見た所与や概念と同様に説明的な概念としてモラーリッシェなのであって、それが行為に先立って行為の道徳的/非道徳的を判断することはできないように思います。そうすると、ファンタジーを用いて自発的で模範や規則と独立に(つまり自由に)行為の動機となる表象を作り出す、そのようなファンタジーを全てモラーリッシェ・ファンタジーと言わねばならないと言えます。あるファンタジーを道徳的/非道徳的という基準に基づいてモラーリッシェ・ファンタジーとそれ以外と言った区別を行うことはできないわけです。となると、エンデの言うようにモラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)、つまり外的な模範や規則に従わないと行為を成せないことという方が、シュタイナーの議論により適合しているように思います。
と、まあ、かなり大雑把ですが以前軽く触れたことを少し詳しく書いてみました。細かい議論については、『自由の哲学』『ゲーテ的世界観の認識論要綱』『真理と科学』(未邦訳)。また解説・入門として今井重孝『自由の哲学入門』高橋巌『シュタイナー 生命の教育』などをご参照ください。

*1:私見では、道徳法則そのものが存在すること自体は問題ないように思います。(というか、そちらのほうが後年のシュタイナーの議論と整合性が取れます)というのも、仮にそのような法則が存在するとしても、自ら表象を作り出しそれにしたがって行為するという点にシュタイナーの自由論のポイントになるからです。ちなみに、これは前半の議論で議論されている点です。ここでの議論のポイントは、そのような法則が存在するにせよしないにせよ、それを行為の前に認識してそれにしたがって行為するとしたら、それは不自由であるという点であると考えられます。これと同じことが、認識論における概念にも当てはまるように思います。概念―ここでは純粋知覚=所与を関連づけるもの―を作り出し、認識行為が成立したあとで振り返ってみたときはじめて、例えば因果法則のような法則が見いだせる、というのがシュタイナーの議論です。

『鏡の中の鏡』について

ここ2、3年『鏡の中の鏡』が非常に気になっていたのですが、まだ完全とは言えませんけど、エンデの『鏡の中の鏡』について素描的にですが簡単に書いて見たいと思います。まず、この作品の特色としてミヒャエル・エンデの諸作品の中でも最もオリジナリティの高い作品だと言えると思います。これはエンデ自身も言っていたと思います。この作品は30の短編から成り立っているのですが、連作短編や短篇集とは違い、この30作で一つの作品となっているのが特徴です。読者は30番目に収められた物語で、最初の物語に登場するホルの名前を見つけ、それぞれに連関があることに気づきます。各話の関連は、例えば、2番目の話では「das himmelblaue Zimmer(空色の部屋)」が出てきますが、3番目の話の書き出しは「Die Mansardenkammer ist himmelblau(屋根裏部屋は空色だ)」となっています。このイメージは各話から見ても些細なもので、ライトモチーフでもなんでもありません。しかし、このいわば"夢のような"イメージの連鎖が『鏡の中の鏡』の主要な構造であると言ってよいでしょう。このイメージの連鎖は線形的に現れるわけではなく、ずっと前に現れたイメージが、突如として現れることもあります。その意味では、イメージのネットワークと言っても良いかもしれません。エンデが影響を受けたカバリストであるFriedrich Weinrebは「夢の国でだけ、我々は因果論の強制、あれか-これか、から自由なのです。」(Kabbala im Traumleben des Menschen)といっていますが、『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』にも見られるように、この夢の論理とでも言うべきものを書くことはエンデが好んで取り上げたテーマの一つでもあります。また、この本は表紙を含めエンデの父エトガー・エンデの絵が挿入されており、父エトガーに捧げられています。例えばElena Wagnerが指摘していますけれど、エトガーはエンデに最も影響を与えた人物と言っていいでしょう。エトガーの創作法についてエンデはしばしば言及していますが(Cf.『闇の考古学』)、Weinrebの言う夢の領域やZurfluhの言う夜の生活と同じ領域から独自の瞑想法でモチーフを探り出してきたと言われています。その意味でも、『鏡の中の鏡』と夢は強い関連があるといえると思います。余談ですが、大江健三郎との対談の中で(『芸術家、その内なる声』)、エンデは『はてしない物語』のファンタージエンについて、眠るとき意識を保っていればファンタージエンに行ける、という話をしています。
さて、エンデはWerner Zurfluhの『Quellen der Nacht(夜の源泉)』に非常に感銘を受けてZurfluhに書簡を送っています―この本は夢の経験について論じた本で、明晰夢を通じて意識を保った状態で夢を経験すること、新しい経験の次元を語っている本です。―書簡の中でエンデは『鏡の中の鏡』に触れています。
「”鏡の中の鏡”というタイトルは多くのことに関連しています。勿論、まず有名な”鏡に映った鏡は何を映すか?”という有名ない禅の公案と関連しています。それは既に”はてしない物語”おいても引用されています。他方で、本の設計に関係しています。それぞれの物語はいわば先行する物語の要素を映しており、それを変えます。登場人物とイメージは変化の絶え間ない流れの中にいます。前方と後方は時折取り違えられます。つまり、一本足がすでにはじめに登場するのですが、しかし、本の真ん中ではじめて彼の足を失う等々。人は本を前から後ろへ読むことも、後ろから前へ読むことも出来ます。つまり、最後の物語から始められるのです。というのも、それは円環的に作られており、最後は再び最初と関係しているのです。鏡の反映もまた本全体を横切り、多くの後のあるいは前の物語の中に現れるモチーフを取り上げます。大抵の物語は、想像上の舞台の上のシーンです。奇妙なプロセスが注釈無しに叙述されます。最初と最後はその都度開かれます。プロセスが終わりに至ると、イメージは―あるいはイメージの一部は―新しいイメージに変容します。その新しいイメージの中で再び何かが生じます。全体はいわば上も下もない無重力空間の中で、自己を回避する何かの周りで輪を描くオルビットの中で起こります。
全く首尾一貫して、それは多くの読者に読書に際して、文字通りめまいを起こさせました。彼らは、「落下の感覚を振り払うために、椅子にしがみつ」かねばなりませんでした。私は―既に白状したように―このどこか落ち着かなくさせる構成形式を勿論偶然に選択したのではなく、読者を特別な経験に誘うためにしたのです。(私にとっては常に、読者に教え込むことではなく、読書に際して、何かを経験させることが重要です。)」
また『だれでもない庭』の中では
「読者の注意力をこの謎めいたプロセス(引用者注:合わせ鏡の反射のプロセス)へむけるため、わたしは、読者を読者自身へさしもどす物語を書こうとした。
読者が安心してつかまることができない物語である(その物語を"理解した"ということで。それはただ、すでに慣れ親しんだことをまた見出しただけだ)。どの方向へ向かっても開かれた物語、読者を自然落下の無重力状態に置く物語、同時に、オルビットに似て、(神、人間の自我、現存在の意義のように)存在し、しかも存在しないとしか言いあらわせない中心を巡る周回軌道へ投げ出す物語。語られたどのプロセスも、はっきりと、あるいはひそかに、次の新しいプロセスへのキックオフを秘めていて、それはまた新しいプロセスへというふうに続き、ついに新しい旋回がはじまるまで……。」
と『鏡の中の鏡』の構想を語っています。エンデが頻繁に語っていることですが、エンデは「解釈」を通じて「物語のメッセージ(一義的な意味)」を取り出そうとすることに反対してきました。この点で、ヴォルフガング・イーザーの作用美学(受容美学)との近親性を指摘する人もいます(あるいはエーコの開かれた作品とも通じるかもしれません)。『鏡の中の鏡』は「解釈不可能」な物語を描くエンデ作品中もっともラディカルな構造をもった作品だと言っていいと思います。ところで、この「中心なき中心」というモチーフはエンデ作品の中でしばしば見られるものです。例えば、『はてしない物語』のエルフェンバイン塔は境界のない無限のファンタージエンの中心にあります。つまり、どこにでもありどこにもない中心です。また、『遺産相続ゲーム』では下僕のアントンを除いて―そしてアントンの記憶も物語の進行に連れてどんどん曖昧になっていくのですが―誰もあったことのない主人フィラデルフィアの遺言をめぐる物語です。また晩年のインタビューでは次回作の構想としてナンセンスを巡る物語を書きたいとも言っています。おそらく、その構想の一部は『エンデのメモ箱』に収められた「ニーゼルプリムとナーゼルキュス」なのだと思います。エンデにとってはナンセンスも「中心なき中心」を巡るものであったのだと思います。ルイス・キャロルの『スナーク狩り』をジングシュピールに翻案した戯曲のまえがきでエンデは「キャロルのテキストの闇は、だれもが―もちろん精神分析家も含めて―自分自身を映し出す鏡なのである。」と言っています。
さて、Zurfluhへの書簡の中でエンデは「鏡の中の鏡には何が映るのか?」という問は禅の公案からとってきている、と言っています。『モモも禅を語る』の著者重松創育禅師との対談の中でエンデはこう語ります。
「さすらい山の古老は幼心の君に問いかけます。「鏡の中に映った鏡は何を映すか?」。今純粋に論理的に考えるならば、「無」と答えることができるでしょう。しかし、私の見解によれば、まさにこの「無」の中に人間と世界の本来の力があるのです。我々が自分自身の自我を知覚しようとしても、何も知覚しません。空所を知覚するだけです。そこから今日の心理学者はそこにはなにも無いのだろうと推論します。ですが、本当はそこに人間の本来の創造的な力があるのです。」(MOMO erzählt Zen)
反射するイメージの変容のプロセスの中で初めて現れる力、人間の本来的な力―エンデはそれを別のところではファンタジーだと言っていますが―この中心なき中心であるところのものを巡る物語が、というより、読者をそのプロセスの中に巻き込み、プロセスを立ち上げる、そういうプロセスこそが『鏡の中の鏡』の最も重要なポイントだと言えます。エンデは「比喩」という文章の中で本を次のように例えています。「書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。」この高次の自我こそ、中心なき中心と言っていいでしょう。エンデはよくボルヘスの「Everything or Nothing」を引き合いに出していますが、ボルヘスが言うようにどの登場人物の中にもいて、どこにもいないシェイクスピアのように、エンデは、というよりこの「中心なき中心」は物語のどこにでもいてどこにもいないわけです。「比喩」はシュタイナーのアントロポゾフィー的人間観に沿った形で述べられていますが、この「比喩」に即してアナロジカルに語るならば、30の個々の作品はそれぞれが輪廻転生した物語だと言ってもいいかもしれません。カルマとしてのイメージが各々の物語の前後の中で、その固有の文脈で現れるわけです。
一方で、この『鏡の中の鏡』の構造は優れて初期ロマン派的な構想を反映しているとも言えます。フリードリヒ・シュレーゲルの有名なロマン派文学の定義「普遍的発展文学」とは、「いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する者との中間に漂い、この反省を次々に相乗して合わせ鏡の中にならぶ無限の像のにように重ねてゆくことができる。それは最も高度にして最も多様な形成を可能ならしめる。しかも単に内部から外へ向かってのみならず、外部から内へむかってもである。すなわちその作品はそれぞれにまったき全体でなければならないのであるが、その一つ一つのあらゆる部分は、同じように組織される。」既に見てきたように、『鏡の中の鏡』は無限のイメージの反射=反省(Reflexion)を通じて、全方向に開かれた作品です。シュレーゲルやノヴァーリスがそうしたような反省(メタ言及)の構造とは異なるやり方で、ロマン派文学を構想したのだ、と言ってもいいように思います。エンデ自身が認めるように、エンデはドイツ・ロマン派の伝統の下にいる作家です。『鏡の中の鏡』はエンデのロマン派的な、そしてグスタフ・ルネ・ホッケの意味でマニエリスム的な部分を最も強力に表現している作品とも言えると思います。ノヴァーリスやシュレーゲルがフラグメントや対話を重視したのも、確定的な閉じた体系ではなく、それぞれの断片のネットワークからなる生成するシステムを描写するためだとも言われます。ノヴァーリスの『花粉』はまさにそのような受粉し、生成するプロセスを表現するタイトルです(これについてはデリダの「散種」概念と対比する人もいます。)。エンデとロマン派の対比というとノヴァーリスやホフマンの1節を簡単になぞるだけのものが多いですが、もっと根本的な理念的な部分での共通性をここに見ることができるのではないでしょうか。余談ながら、『鏡の中の鏡』には「迷宮」というサブタイトルがついています。そして、最初の物語ではあのミノタウロスが閉じ込められているミノス王の迷宮が、2番目の物語ではイカロスをモチーフにした話が語られています。この2つに共通する迷宮の作り手ダイダロスをG・R・ホッケは代表的なマニエリスム的人間だと言っていますし、迷宮はマニエリストが好んだモチーフの一つでもあります。その意味でも、この作品を―シュールレアルなとはよく言われるのですが―マニエリスム的な作品と呼んで良いと思います。
さて、エンデの芸術理解の中で最も重要な概念であり、ロマン派においても重要な概念の一つに「遊び(Spiel)」があります。もちろん、これはシラーの『人間の美的教育に関する書簡』の「遊戯衝動」に端を発するものです。シラーは感性の領域にも道徳の領域にもそれぞれ強制的な法則が存在するといいます。カントの言う我が内なる道徳法則と、我が上なる天空の法則です。その中間にある美の領域にこそ人間の自由があるというのがシラーの大筋の議論になっています。そして、人間は美とだけ遊ぶのだと。最初にWeinrebを引用しましたが、夢の領域、夢の論理とはまさに強制的な因果論的連鎖から逃れて自由に遊ぶことの出来る領域です。となると、『鏡の中の鏡』はエンデの「遊び」の理念をも表現している、ということもできそうです。Tohmas Kraftによれば、エンデはJames・P・Carseの『Finite and Infinite game』に非常に感銘を受けて、色々な人にこの本を贈ったそうですが、Carseはこの本の中でタイトルにあるように有限のゲームと無限のゲームという2つの「遊び」の概念を提出しています。有限のゲームとは勝利条件=ゲームの終了の条件が定まっており、ゲームの参加者その規則に合意することでゲームが成り立つゲームです。一方で、無限のゲームとはゲームの継続そのものが規則であるようなゲームであり、ときに規則それ自体をゲームの継続のために変化させてもゲームを継続させるような、そしてその継続性に参加者が合意するようなゲームのことです。『鏡の中の鏡』の構造はいわば無限のゲームとして構想されているともいえるわけです。
以上、スケッチというかアイデアの断片ていどですが書いてみました。「中心なき中心」や「遊び」を巡る議論については拙論「ミヒャエル・エンデの世界観について」でもう少し詳細な議論を書いているので、ご興味のある方はそちらをご参照頂ければと思います。