エンデカフェ告知と遊戯論

エンデカフェ告知

エンデカフェ第三回目になります。今回は『はてしない物語』を取り上げる予定です。映画『ネバーエンディング・ストーリー』に対するエンデの批判を通じて、『はてしない物語』においてエンデが特に何を重要視していたのか、といった論点を逆に浮き彫りにしていければと考えています。また、なぜ映画があのような形になったのか、『はてしない物語』の解釈問題として捉えることで別の論点を提出できればと思っています。
日時:2019年1月26日(土) 17:00~
場所:町田三丁目会館
参加費:1000円
主催  風の会まちだ
協力 エンデカフェ
協力  社会の未来を考えるホリステイック教育研究所
申し込み・お問い合わせ niemandsgarten@gmail.com

『有限ゲームと無限ゲーム』

告知ばかりでなんなので、James.P.Carseの『Finite and Infinite Game(有限のゲームと無限のゲーム)』について、エンデとの関連で少し述べてみたいと思います。エンデがとりわけ遊戯(Spiel)をその芸術観の基礎においていたことは争いがないと思いますが、エンデにおいて遊びとはどういったものだったのかについて知ろうと思うとき、エンデの発言自体がかなり雑多な視点を含んでいるためー特にエンデ自身の創作論と芸術の受容論など、それぞれに異なった論点が截然と区別されないままに議論されているのでー、全体の見通しを得ることが難しくなっているといえます。一方、エンデはCarseの本について、『ものがたりの余白』では「すくなくとも、わたしが理解したところでは、この本はまさに、わたしが遊びについて言わんとすることを、語っています。人生の原理としての遊びです。」と述べています。また1988年のロマン・ホッケ宛の手紙では「ぼくはこの関連で最近見つけた本を君に勧めたい、James.P.Carseの『有限ゲームと無限ゲーム 人生のチャンス』という本だ。それは本当にパガト(Pagad)のはじめての哲学的定式化と言えるようなものなんだ。」(『Michael Ende und seine phantastische Welt』)と書き送っています。以上の発言からもわかるように、Carseの議論がエンデの遊戯論を理解するための補助線として有用だと言えるでしょう。個人的には、エンデの遊戯論を語る上での必読文献であろうと思います。
Carseはゲームには二種類のゲームが存在するといいます。タイトルにもなっている、有限ゲームと無限ゲームの二種類です。この二種類のゲームの最も根本的な違いは、ゲームの目的である、と言えます。簡略化していうと、有限ゲームはゲームに勝つこと(=ゲームを終わらせること)を目的とするのに対し、無限ゲームはゲームを続けることを目的としています。Carseは他の多くの遊戯論同様、ルールをゲームを特定するものであると規定します(「実際、我々がどんなゲームかをするのは、どんなルールなのかを知ることによるのである。」)。有限ゲームにおいて、プレイヤーは勝利条件ーこれはルールの一部でもあるわけですがーに合意します。一方、無限ゲームではプレイヤーはゲームを続けるという合意のもとにゲームをプレイします。場合によっては、無限のゲームのプレイヤーはゲームの継続のためにゲームのルールを変えることもできます(=終わることがない=無限)。また、無限ゲームは外的な成約を一切受けないため、例えばプレイヤーが死亡したとしてもゲームは継続します。他にも様々な概念対として無限ゲームと有限ゲームは表されます-例えば、庭と機械、文化と社会、ドラマ的と劇場的等々-が、基本的には上に述べたように、有限ゲームは終わることを、無限ゲームは続けることを目的としたゲームであるというのが基本にあります。
さて、Carseの議論とエンデの思想的関連を巡っては様々な論点がありえると思いますが、ここでは簡潔に示唆だけをしておきたいと思います。一つは、『はてしない物語』や『鏡の中の鏡』に見られるように作品自体が開かれて、無限に続けられることが目指されている点です。『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』では、ムトが今まで他者からの強制によって続けて来た旅が、ルールを変えることによって継続されるところで物語は幕をおろします。ムトが旅を続ける理由はムトが旅が好きだからというものでした。つまり、ゲームを楽しむためにルールを変えるということが、ここでは作品の主要なモチーフになっているわけです。こうして、作品を受容することがそのまま読者・鑑賞者にとっての一つの遊びであり、作品がある種遊びへの招待になるという観点から捉える事ができ、またその遊びが続くような作品の開かれた構造が、エンデ作品の-少なくとも一部の作品の-特徴となっていると言えるでしょう。もう一つは、文化との関連です。先に引用したホッケ宛書簡では、文脈として文化の問題、(文化の)創造的な原理としての遊びが問題として語られています。つまり、ホイジンガが明らかにしたような文化の原点としての遊びであり、ホモ・ルーデンスとしての人間です。Carseは社会は有限ゲームであり、それを含む形で文化としての無限ゲームが存在するといいます。この文化を根底におく態度は、エンデと共通する点でもあるように思います。また、Carseにおいてもエンデにおいても、文化と芸術(カルチャーとアート)と創造性は強く結びついています。特に、Carseは無限ゲームのプレイヤーは驚きに対して開かれているといいます。これはエンデの永遠に幼きものの概念と共通した特徴を持っています。なぜなら、この私たちのなかの永遠の子どもと呼ばれるものは、驚きに対して開かれており、創造性を失っていない者だからです。この子どもの遊びから文化が生じるのであるとすれば、エンデの永遠に幼きものとは無限ゲームのプレイヤーでもあると言えるかもしれません。また、先の引用でエンデが「パガトの哲学的定式化」といっています。エンデにとってパガトとは魔術師であり奇術師、つまり創造的で技芸/業(マニエラ!)のあるものだからです。そして、「自己紹介」にもあるようにパガトと子ども(Kind)こそが、エンデの芸術を象徴する2つのモチーフであり、それを媒介するのが遊びなのだとすれば、やはりエンでの芸術理解を知るためには、エンデの遊戯論をこそ取り上げる必要があるのと言えそうです。

告知「第二回エンデカフェ」

告知ばかりで申し訳ありませんが、前回行わせて頂いたエンデカフェの第二回を開催します。今回は、続けて『モモ』を扱います。内容的には、『遺言』以来の『モモ』の貨幣論的解釈を概観したあと、お金と時間の共通点を足がかりに、「時間の花」のシーンを中心に読んでいこうと思っています。特に、「心Herz」と「言葉Wort」を巡る議論になる予定です。ヴァインレープの議論を参照して、既存の解釈とは違う方向の議論にできればなぁと思っています。ちなみに、余談ですがエンデカフェで『モモ』を扱っていることもあったり、先日黒姫童話館でモモプロジェクトのイベントに参加してきたりしたこともあって、『モモ』について多少考えたので(道化としてのモモとか無としてのモモとか)、エンデカフェのネタにはならなそうですし、そのうち記事にしたいと思ってます。

日時:11月17日(土) 17:00~
場所:町田文学館ことばらんど
(https://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/cul/cul08Literature/)
参加費:1000円
主催  エンデカフェ
協力  社会の未来を考えるホリステイック教育研究所
申し込み・お問い合わせ niemandsgarten@gmail.com

告知「エンデカフェ」

ひょんなことから、私が講師役としてエンデについてお話させていただくことになりました。まずは初回ということで、9月22日(土)に町田にて『モモ』についてお話させていただく予定です(詳しい日時等は下記参照)。今のところ、エンデの演劇学校時代~モモ出版時期くらいまでの伝記的お話をメインに、可能であれば『モモ』のロマン派的形式について少し触れてみたいと思っています。もしご興味のある方がいらしたら、ぜひお越しください。なお、お申込みは原則下記メールアドレスで受け付けております。

9/15追記:場所が変更になりました。お間違いのないようお気をつけください。

日時   2018年9月22日(土)18:00~19:30
場所   町田生涯学習センター 8階 学習室7

参加費  一人1000円
主催  エンデカフェ
協力  社会の未来を考えるホリステイック教育研究所
申し込み・お問い合わせ niemandsgarten@gmail.com

魔法の学校の組み合わせ術

エンデのメルヒェン集『魔法の学校』の表題作「魔法の学校」の中で描かれている、魔法を使う訓練の一つを取り上げてみたいと思います。その訓練とは次のようなものです。

ジルバー先生はつぎの練習へと授業をすすめていました。それは、ある物をべつな物に変えるという練習です。ムークとマーリの話では、練習はそのたびに「魔法の橋」とでもいうようなものを必要とするということでした。つまり、ある物とべつな物とに共通している点、つまり両方が似ているところをさがしだすことらしいのです。この「魔法の橋」をつうじて、望む力で、べつな物に変えるわけです。

あるものを別な物に変えるという時点で、以前取り上げたカエルを王子様に変えることというエンデのメモが想起されます。それはそれとして、単に二つの物の類似点を見つけるだけならば簡単なものに思えます。しかし、エンデは次のような例を挙げています。

フォークをリンゴに変えようとすると、たいへんです。この場合は、つぎのようにかんがえるのです。形が大きくても小さくても、フォークはフォークです。形が大きいとすると、つぎにフォークが鉄でできていても木でできていても、やっぱりフォークにかわりはありません。さて、木のフォークは、大きくても小さくてもそれぞれ形は木の枝ににています。だから、木とは、大きくて、先がたくさんわかれているフォークだということもできます。もちろん、リンゴの木も、そのなかにはいります。リンゴは、リンゴの木の一部分ですが、それぞれのリンゴのタネには、リンゴの木ぜんぶがおさまっています。ということは、リンゴはフォークである、ということができるのです。とすれば、反対のこともいえます。つまり、フォークはリンゴである、と。

エンデはこれでもまだ魔法の橋は短いほうだと述べています。さて、ここで行われているのは、合理的言語においては異質なもの同士を結びつけるという操作であるように思えます。エンデが強く影響を受けたグスタフ・ルネ・ホッケは、その著書『文学におけるマニエリスム』で文学的マニエリスムにおける組み合わせ術(アルス・コンビナトリア)について述べています。「文学的マニエリスムはこれ(筆者注:組み合わせ術)を美学的異論理学、つまり幻想についても用立てる、という意味は、演繹の連鎖を、合理的な語の結合ならぬ非合理な語の結合、〈奇妙な〉〈異常な〉隠喩や〈鬼面人を驚かす〉象徴を獲得するために用いる、ということである。」また、このような結合を可能にする能力は機智(インゲニウム)と明察(アクテッツァ)と呼ばれます。ホッケはジャン・パウルを取り上げて、「明察は、ジャン・パウルにしたがえば、〈相違を発見するため〉に存在する。機智はむしろ〈通約可能な量における相似の状態〉を発見する。」といいます。この綺想主義の議論に従えば、「魔法の学校」におけるこの授業は綺想主義的な綺想の発見と極めて近いものであると同時に、類似点の発見という作業は機智という能力に依拠していると言えそうです。また、エンデが文学的マニエリスムの潮流に棹さしていることを表していると推測させもします。
ところで、エンデは引用した箇所の続きで、あらゆるものが魔法の橋でつながると述べています。それゆえに、あらゆるものは一つである(全は一である)というのです。組み合わせ術の伝統には、もう一つそのような全てを記述し尽くす方法が存在します。文字の順列組み合わせによって作られる、いわばバベルの図書館、万象図書館です。ジョン・ノイバウアーは組み合わせ術の伝統をライムンドゥス・ルルスから始めて、アタナシウス・キルヒャーライプニッツを経由し、ドイツロマン派、そして現代の記号論理学にまで伸ばしています。このような合理的で盲目的な文字の順列組み合わせがエンデ作品の中でも存在します。『はてしない物語』の中の元帝王たちの都におけるサイコロ遊びです。そこでは猿が書いたシェークスピアと似たことが行われています。つまり、サイコロを振って出た文字の組み合わせを書き留めていけば、いつか何らかの詩、何らかの文学作品も生まれうる、というわけです。そこではこの遊びの結果として記述された文字列が記されていますが、その一部はキーボードのQWERTY配列から取られています。エンデが使っていたのは当然タイプライターで、私たちが現在使っているようなパソコンは当時はまだ存在していませんが、ここに奇妙な一致を感じさせます。ともかくも、このような盲目的な順列組み合わせによる組み合わせ術が元帝王たちの都に帰されていることは示唆的であるように思います。元帝王たちの都の描写自体が、おおよそグロテスクと言えるような様相を呈しています。「町といっても、これまで見たこともない奇妙きてれつなものだったが、とにかく建物がたくさんあるのだから町というのに近いものではあった。その建物は、まるで大きな袋からさいころを無造作にぶちまけたように、計画も意味もなく、ごちゃごちゃになっていた。通りもなければ広場もなく、秩序らしいものは何もなかった。」「玄関が屋根についていたり、階段が登れるはずもないところにあったり、頭を下にして降りなければならなかったり、しかも降りたところは空中でなんにもないというぐあいだった。塔は斜めに立ち、バルコニーは壁から垂直にぶらさがり、ドアのあるべきところに窓があり、壁のはずが床になっていた。(中略)この町は、狂気そのものに見えた。」。元帝王たちの都の描写の中では、確かに異質なものの組み合わせがあるにもかかわらず、それは「狂気そのもの」なのです。このような組み合わせ術がネガティブなものと捉えられていることは明らかです。この二つの間には、どんな違いがあるのでしょうか。それは結合に際する機智であり、一つの法則、ルールであるように思えます。それは合理的な法則ではありませんが、一つの法則であり、ホッケの言葉で言えば異論理学ということになるかもしれません。夢の論理とも言えるかもしれません。これらは物語における、あるいはファンタジーにおけるルール、遊びのルールとの関係を推測させます。エンデにとって、物語の内的法則に従うことがその作劇上、非常に重要なことでした。例えば、アッハライがシュラムッフェンになるのは、彼らが芋虫なので蛹になり孵化して蛾になるわけです。元帝王たちの都の住人が、もはやファンタージエンで先に進めない、望むことができないのは、過去を持たないからです。過去とは歴史であり物語(Geschichte)です。『魔法の学校』で語られる望む力の規則に「自分の物語に属しているのは、本当に望んでいることだけ」というものがあります。望むことと物語を持つことは関連付けられているわけです。物語を持たないので、望みも持たず、物語の内的規則にも縛られないので、そこには純粋に狂気と言えるものが現れるのだと言えそうです。余談ですが、ロマン・ホッケ編の「偉大なるミヒャエル・エンデ読本」のなかで、『はてしない物語』の未公開原稿と言われる一章が収められています。それは『魔法の学校』の原型といえるような物語であり、バスチアンはアイゥォーラおばさまから魔法を教わります。上述の、あるものを別のものに変える魔法の訓練もそこにはあります。つまり、『はてしない物語』と『魔法の学校』が連関しているのは偶然ではないとかんがえられるわけです。
いずれにしても、こうして内的法則に従う詩的錬金術としての組み合わせ術と盲目的で順列組み合わせ的な組み合わせ術とを対比させてみますと、『魔法の学校』のこの訓練そのものが合理的言語に対する、換言すれば唯物論的思考に対する、形象言語の詩的錬金術の試み、世界のもう一つの別の語りだと考えさせるものになります。ヴィーコデカルト的クリティカに対して、トピカを称揚しました。その際、重視されたのがインゲニウムという能力であり、上村忠男氏はヴィーコのこのインゲニウムの重視を同時代の綺想主義と関連付けています。つまり、この綺想主義的詩的錬金術はそれ自体、デカルト主義的、科学主義的なものへのアンチテーゼであり、合理的言語に対する形象言語の力なのだ、そういえるように思います。

『ミスライムのカタコンベ』について-IwriとMisraim

エンデの短篇集『自由の牢獄』に『ミスライムのカタコンべ』という作品があります。エンデ作品の中でもぼくが好きな作品のベスト5には入る作品なのですけど、この記事ではこの作品について少しだけ書いてみたいと思います。とはいえ、全体的な作品解釈というわけではなく、フリードリヒ・ヴァインレープ*1の観点からイヴリィとミスライムについて興味深いと思える点を書いて見たいと思います。もちろん、これは解釈の一つのバリエーションにすぎないので、これが正しいとかそういうことではないことは最初に書いておきたいと思います。
さて、まずは本作の主人公の話をしないといけません。本作の主人公の名前はイヴリィと言い、原文ではIwriと書かれています。実はこのIwriというのはヘブライ語由来の言葉で、旧約聖書のヨセフに使われている言葉でもあります。ヴァインレープはIwriという言葉について、次のように説明します。

ヨセフはIwri、ヘブライ人、「彼岸から」―ヘブライ語からはそう訳せる―である。彼はここに現れている人間であるが、しかし、彼岸から来た。彼の現れの中で、彼は二つの側、二つの現実を一つにしている。(Kabbala im Traumleben des Menschn S.73)

つまり、Iwriとは「彼岸の人(向こう側から来た人)」だというのです。エンデが隠れたもの、もう一つの別の現実というのと同様に、ヴァインレープにとっても世界はこちらとあちら、此岸と彼岸、現れる側と隠れた側とにわかれています。また、ここもエンデと共通するところですが、何かどこか彼方に隠れた側がある、というのではなく、現れたものと同時に隠れたものはそこにある、しかし人間にとって隠されているという立場をとっています。もう一つ付け加えるなら、ヴァインレープは聖書の出来事はかつて起こったことではなく、今、ここで、人間の中で起こっていることだといいます。子安美知子先生が『「モモ」を読む』でモモの作品全体を人間の内面の反映として解釈されていたように、エンデにとっても作品の世界は同時に人間の内面のイメージでもあるわけです。そう考えていくと、カタコンベ・システムのなかにおけるイヴリィとは、人間の内面における隠れたものであるという風に考えることもできそうな気がしてきます。さて、ヨセフにはもうひとつ興味深い点があります。ヨセフは夢の解釈者なのです。ヴァインレープは、

ヘブライ語で書かれた「夢解釈」というタイトルの本がある。それはこう始まる。「この本はヨセフが我々に残した夢解釈に従って書かれている」。あらゆる夢解釈はヨセフ-側から人間の中へやってくる。だから、「残した」はここでは歴史的な意味でいわれているのではない。そこで言わんとされていることは、夢解釈に関する我々の全ての知は、現れているものの世界のなかで、我々の中で「目に見えることなしに」生きることができるヨセフに由来するということである。(ibid S.194)

と書いています。作中でイヴリィは夢を見るというところが重要なポイントになってきます。イヴリィが自分たちがカタコンベに囚われている囚人であることに気づくきっかけは、夢に由来するからです。ここでも、イヴリィとヨセフは何か響きあうところがあるように思います。
ところで、タイトルにもあるミスライムとは一体なんのことなのでしょうか。実はミスライムもヨセフと関係している言葉です。ちなみに、エンデはMisraimと書いていますが、ヴァインレープではmizrajimです。ヴァインレープは次のように語ります。

病気であることは、ヘブライ語でエジプトに対応するミツライムmizrajimに属している。この言葉はすでに自身のうちに2性、分裂を含んでいる。ミツライムで人間は常にあれか-これかに苦しむ。人は結びつくことのない二つの現実を生きている。そうして、混乱し、1性が存在することを信じず、聖なるものと俗なるものを区別し、交互に攻撃的であったり抑圧的であったりする。あらゆる人間は多かれ少なかれミツライムにいる。(ibid S.142)

ミスライムはエジプトだというのです。そして、旧約のヨセフはエジプトに売られていきます。そして、ミスライムは2性であり分裂であるといいます。つまり、現れたものの側です。「カタコンベ」ではどうでしょうか。イヴリィたち地下の住人はカタコンベに逃げて来ます。そして、彼らはGULを食べることでかつて来た場所を忘れます。GULについて、訳者の田村先生は物質を意味する言葉であると解説されています*2。物質とは、現れたものの側です。GULを食べることによって、彼らは一種の病気になるのです。1性の世界から2性の世界へと逃げてくることで、一つであったもの・1性(Einheit)が、現れたものと隠れたものとに分裂するわけです。ヴァインレープは旧約聖書の洪水やバベルの塔建設における混乱*3によって、人間は半分になった、半分は隠されたと語りますが、地下の民もミスライムに逃げ込むことによって半分になるのです。イヴリィがこのことに気づくのは、夢を通じてです。夢世界とは1性の側、隠れた側です。夢を見るとは、1性の世界に触れるということなのです。隠れた側を思い出すからこそ、イヴリィは自分の来し方を思い出すわけです。ちなみに、ヴァインレープにおいては、覚醒の世界、昼の世界は因果的(Kausal)であり、夢世界は非因果的(akausal)であると言われます。因果論的/非因果論的という、特に合理性と創造性に関するエンデの観点からも、このことを見ることができるかもしれません。
最後に、ヨセフとイヴリィの物語はかなり異なったものになっていきます。ヨセフは夢の解釈を通じてエジプトを支配したとヴァインレープはいいます。一方で、イヴリィは危険な扇動者に仕立てあげられ、ミスライム・システムの外部へと追いだされます。イヴリィがどうなったのか、エンデは書いていませんし、作中からそれを確実に推測させる描写もありません。これはまさに読者の解釈に委ねられているのであって、エンデ作品の多くに見られる作品の開かれでもあるように思います。そこをどう捉えるかは、まさに読者次第だというように思います。

*1:エンデがシュタイナーと並んで集中的に取り組んだと言われている人物でカバリスト。ロマン・ホッケの報告によれば、1981年4月、ヴァインレープはエンデ夫妻を訪れ、そこから彼らの交流は始まったという。エンデはその後ヴァインレープが当時開催していたチューリッヒのセミナーに足を運んだといわれている。

*2:ぼく自身はまだヴァインレープの著作中では出会っていません。とはいえ、エンデの知識はヴァインレープだけに基づくものではないので、他のところから得ている可能性も否定できません。

*3:ヴァインレープによれば、洪水(Sintflut)はヘブライ語で混乱を意味するといいます。

「"わたし"の持続性」を読む

『エンデのメモ箱』に「"わたし"の持続性」というタイトルのメモが収録されています。このテキストについて、ぼくは長いことエンデはなぜこんなことを言っているのだろうと思っていました。この理由は、ぼくのテキスト理解が間違っていたからなのですけど、この記事ではそのことについて書いてみたいと思います。
このテキストではまずエンデ自身の小学校時代の登校風景が描かれます。そのあと、エンデは「これからの人生で、わたしはどうなるのか、十年後や五十年後も今ここにいるおなじ私であり続けるのか、それとも別人なのかと」と自問します。この問題に対し、エンデはその後の人生の中で、その光景を繰り返し思い出そうと決意します。なぜそうするのか、エンデは次のように考えます。

この思い出す行為は、ただ思いついたときにするべきだった。強制されるのではなく、あくまでも、気が向いたからするのだ。そうすることで、わたしがまだ"わたし"であることの保証を得たかった。もしわたしが別人になっていたら、(外からの助けなしでは)むろんこの決心をもう知らないはずだからである。

ぼくがこのテキスト理解を間違えた理由は、上に引用した部分にあります。というのは、この「私の決心」を「思い出す」ことに力点が置かれていると読んでしまい、"わたし"の持続性は「記憶」によって担保されると理解してしまった点にありました。そのため、他のエンデの発言等からしても、なぜこういうテキストを書いたのか疑問だったわけです。ですが、今ぼく自身が理解する限りでは、このテキストはいわば記憶によって「わたし(自我)」(私/自我意識)が構成されているといったことを言っているわけではないと考えています。
この思い出すという行為を行うのは、恣意的で、自発的で、自分が決めたという理由でだけなされるべきであるとエンデはいいます。邦訳ではカッコ書きのなかは、外からの助けなしではとわかりやすく訳されていますが、直訳すると「外的原因なしに」となります。例えば、かつての登校風景のなかにあったお店や機械やショーウィンドー等々に似たものをどこかで見て、そこからふとかつての登校風景をありありと思い出すというようなことではなく、ただ"わたし"が思い出そうと決めた、何か他の原因によらずにただ思い出そうと決めたという理由でだけ思い出すということが、"わたし"の持続性を"わたし"に保証してくれるというわけです。単に記憶が問題になっているだけであれば、自発性や恣意性といったことは問題にならないはずです。ここでは因果論的な事柄と非因果論的な事柄とが問題になっているように見えます。この「思い出す」ことが非因果論的に(外的な原因なしに)わたしによって決定されているがゆえに、わたしの持続性が担保されているというように見えるのです。この非因果性はエンデにとって、いわゆるもう一つの別の世界、隠れた側と関係しています。また、エンデにとってこの因果論的関係にとらわれない行為は、人間の創造性、そして自由と大きく関係しているといえます。同じく『メモ箱』の中のテキスト「創造力」の中では、エンデは「世界の隠れた側からくるものがすべてそうであるように、人間の創造力も、測ったり、数えたり、重さをはかることができ」ない、「創造力の問題は人間の自由の問題と切っても切りはなせない。その存在の前提条件において、人間はけっして自由ではないのだから。」と言っています。因果論的なものと計算・計量・計測可能性は、エンデにとってマテリアリスムスを代表する考え方ですが、創造力や自由や愛や遊びはこのような因果論的で計算・計量・計測可能なものに回収されない、この世界の隠れた側と関係する人間的なものとして考えられています。そうすると、わたしがわたしの決意に従って行為することができるということも、非因果的な行為であり、ある意味では(外的な原因に左右されないという意味で)創造的な行為であり、世界の隠れた側に関係していると言えそうに思えます。こう考えるならば、"わたし"=自我*1もまた、世界の隠れた側にあると言えそうです。重松禅師との対談の中でエンデは自我についてこのように言っています。

我々が自分自身の自我を知覚しようとしても、何一つ知覚することはありません。空虚を知覚するのです。そこから今日の心理学者はそこにはなにもないのだろうと結論づけます。ですが、本当はそこに人間の本来の創造的な力があるのです。

やはりここでも自我と創造的な力*2関係付けられています。以上の点から、"わたし"の持続性を問うということは、同時に非因果的で自発的に行為できる"わたし"=自我の存在への問いとして読めるということ、人間の自我がマテリアリスム的な思考に回収されることのない、隠れた側と関係した何かであるということが、この「"わたし"の持続性」というテキストから読み取れるのではないかと思います。

*1:ここで"わたし"と訳されている言葉はドイツ語では一人称代名詞「Ich」であり、名詞として使われている場合、特に哲学等では多くの場合、自我と訳される。

*2:先述のメモ「創造力」では創造力という言葉にKreativitätが使われており、対談ではschöpferische Kraftが使われています。この語の使い分けについて、エンデがどのように考えていたのかは今後の課題にしたいと思います。

エンデと共同体

まず最初に以前の記事でもときおり触れていた、エンデのLebensgebärdeという言葉について、少し考えて見たいと思います。ぼくがこの言葉に興味をもったのは、ヨーゼフ・ボイスとの対談『芸術と政治をめぐる対話』の次のエンデの発言を読んだことがきっかけです。

芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生じるわけです。つまり、多くの人をまとめることのできる共通の大きなライフスタイルが、生じるのです。(エンデ全集16『芸術と政治をめぐる対話』P.43)

ここで「ライフスタイル」と言われていることが、ずっと引っかかっていました。文脈を考えるとライフスタイルというのは、わかるようでわからない言葉です。文脈から判断をすれば、ここでライフスタイルと言われている言葉は、文化の根底に存在する何かであるように思われます。では、原文ではどうなっているでしょうか。

Aus der Kunst, aus den schöpferischen Leistungen solcher Leute wie Shakespeare entsteht die Gesamtheit der Kultur, das heißt, es entsteht daraus die Gemeinsamkeit einer großen Lebensgebärde, in der viele Menschen sich zusammenfinden können.(Kunst und Politik ein Gespräch S.31)
「芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生まれるのです。つまり、そこから多くの人間が共同できる大きなLebensgebärdeの共通性が生まれるのです。」(拙訳)

Lebensgebärdeにどのような訳語を当てるのが妥当か、未だに判断できないのでさしあたり原語のままにしておきました。余談ながら、Twitterのエンデボットには「生の身振り」と訳しましたが、ちょっと大仰すぎるという気がしています。他の対談等では生活態度なんて訳語をも使われていますが、文化(Kultur)との密接な関わりの下に使われているこの言葉の訳語としては、日常的なライフスタイルや生活態度という言葉の使われ方からすると、少し物足りないなという印象を否めません。Lebensgebärdeという言葉は、Leben(生活、生命)とGebärde(身振り、手振り)を合わせたものです。辞書的には、生活態度のような言葉は確かに妥当なような気がしますが、エンデがこの言葉に付与している意味を考えると、やはり少し納得しがたいものがあります。ぼく自身がボットで生の身振りというわかるようなわからないような言葉を選んだのは、哲学用語で言う生という抽象的ながら人間の根底にあるものが、自然な形で、あるいは無意識のうちに表出するというイメージだったのですが、これもそれほど妥当という気はしません。なので、ここではさしあたりLebensgebärdeと原語のままで書いていこうと思います。
すでに書きましたように、Lebensgebärdeというのは文化という概念と密接に結びついています。『オリーブの森で語り合う』の中では、エンデは次のように述べています。

ぼくは文化という言葉について、むしろ生活形式の、価値連関の、―こう言ってよければ―、Lebensgebärdeの共通性のことだと理解している。この共通性はそれを再認識し、それ自体を表現する社会や時代が所有するものだ。(Phatasie/Kultur/Politik S.30)

ここでも文化ということが問題になっていることがわかります。個々人のLebensgebärdeの共通性が、文化を、ひいては文化的共同体を形成し、その営みのなかでこの共通性が再認識され、表現されるというように理解してよいでしょう。エンデはあるインタビューのなかで、文化というのは内的な世界の外的な投影だ、ということを言っています。そして、現代においてそれは失われてしまったのだと。これはエンデ文学のなかでもたびたび取り扱われているテーマでもあります(例えば、モモのように)。更にこの共通性について、『ものがたりの余白』の中では次のように語っています。

(…)特に、わたしたちは今日、国別の文化が、すでに支える力を失った時点に達しました。(…)わたしたちは、この(地球という)惑星でみんな一緒に生きてゆくことを学ばなければならず、それに、わたしたち自身を理解することを学ばなければなりません。ということは、つまり、神話を見つけなければならないということです。そして、この神話は次の二つのことを含んでいるのですが、この二つは今まで一緒にならないとされており、どのようにして一つにすればよいのか、わたしたちはまだ知らないのです。一つは、絶対的価値として、人間の個人の有効性であり、他方は、人類全体です。(…)これ(二つを一緒にすることが)が、今、特に詩人や作家、そして画家にとっての課題だと思うのです。(ものがたりの余白 PP64-65)

ここでは神話という言葉が使われています。神話というのはここでは例えばある民族のなかで共通にもつことのできる何かあるものとして考えられています。しかし、こういった民族の神話はすでに不可能だ、とエンデは続けます。そういった民族の神話にかわる神話を、あるいは先ほどの話に戻るとLebensgebärdeの共通性を作り出すことが、芸術家の使命だというわけです。エンデ自身は、個人の神話が必要になるというふうに話を続けます。その理想から98%を引いたものが『はてしない物語』だというのです。『はてしない物語』の終幕部で主人公バスチアンと気難しい古本屋のコレアンダー氏はファンタージエンを旅したということによって、精神的な結びつきを得ます。二人のファンタージエンは全く別物であることが作中でも触れられていますが、まさにファンタージエンを旅した、個人の神話を持ったことによって二人は結びつくわけです。エンデの言う個人の神話というのは、このようなものであると語られているわけです。
『ものがたりの余白』のインタビューを読んでいると、一つの事に気づきます。エンデが特に強い関心を示す事柄、貨幣・遊び・言語/神話はどれも人と人とを結びつける機能をもっています。エンデは貨幣の白魔術ということについてもあるインタビューの中で語っていますが、エンデが批判するような黒魔術的な貨幣ではなく、白魔術的な、ポジティブな貨幣とはどういうものなのか、このイメージを得ることが大事だというのです。「単なる自然科学は決して本当の文化へと導くことはありません。そうすると、ポジティブな、貨幣の白魔術が存在しなければならなのです。」(Zeit-Zauber S.21)とエンデは語っています。こう考えていくと、エンデの思想を理解する上で、貨幣も単に経済の問題というだけでなく、トータルな社会、トータルな文化を構成する一つのファクターとして捉えることもできると言えます。文化を、Lebensgebärdeの共通性を、どのようにエンデが理解し、またそれを新たに作り出していくべきだと考えていたか、この点を問題化することで、以前の記事でも触れたような社会批判者エンデと芸術家エンデという分裂しているようにみえる2つの顔を架橋することもできるように思います。
以上のことを踏まえると、エンデは新しい共同体の可能性を模索していたという視点が可能なように思います。それは、先祖返り的な、民族とか血縁とかを基盤にした共同体ではなく、ある共通の価値(の体系)を、共通のLebensgebärdeをもつということを基盤にした共同体だという風に考えられるように思います。『オリーブの森で語り合う』でエンデはエプラーの構造保守と価値保守という概念対に対して、構造革新と価値革新という概念対が可能なのではないかということを語っています。ぼくの理解では、構造革新とは―ここではおそらく当時の共産主義国家が念頭に置かれていたのだと思いますが―構造を革新すれば全てうまく行く、社会的ユートピアが訪れるというような態度であるように思います。価値革新というのは、価値保守が既存の価値を守っていく―例えそれによって既存の構造を解体したとしても―という立場であるのに対して、新しい価値を作っていくという立場です。そして、エンデは様々なところで繰り返し、この価値の更新こそ芸術家の課題であると言っているわけです。少し脱線しますが、エンデには政治的アンガージュマンとか社会改革に対する行動がないじゃないか、というような批判を時折見かけます。ですが、エンデのこのような考えを踏まえれば、エンデが自身の作品でやって来たことそのものが、エンデの答えなのだというふうに思えます。エンデが繰り返し語ることの一つですが、エンデはゴッホのひまわりによって、当時の意識は全く違うものになったのだというようなことを言っています。芸術というのはそういう力があるんだ、と。いずれにせよ、価値やLebensgebärdeの共通性を新たに作り出し、新たな文化を構築していくこと、それによって新しい文化的・精神的共同体を作り出していくこと、このことが現代社会との関係性でみたとき、エンデの重要な関心事の一つだったのではないか、そのように思います。
最後に、『ミヒャエル・エンデの読んだ本』に収録されているノヴァーリスの「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」について少し触れておきたいと思います。エンデはこの『読本』のなかで、自身の人生において決定的な影響を与えたテクストを選んで収録しています。エンデは自身をドイツ・ロマン派の後継と自認しており、なかでもノヴァーリスを精神的な父とまで呼んでいます。ノヴァーリスの代表的な作品というと『青い花』や『夜の讃歌』が思い浮かびます。思想的なテクストであれば、断章集『花粉』やいわゆる百科全書学のための『一般草稿』が有名なところでしょう。あの有名な白百合と赤薔薇のメールヒェンやクリングゾール・メールヒェンなどではなく、なぜ「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」という小論が選択されたのか、この点はここまで書いてきたことと関係があると考えています。そもそもこの小論自体、イェーナサークルで発表したときにシェリングによって激しく批判され、最後にはゲーテにお伺いを立てて公刊が見送られたという経緯を持ついわくつきのものです。その内容はあたかも中世ヨーロッパを賛美するような内容として捉えられたのです。ここでこの小論の細かい内容に立ち入ることはできないのですが、ぼくの理解ではノヴァーリスは、現代というのは非常に唯物論化している、中世ヨーロッパにおけるようなキリスト教的精神に基づいた精神の共同体を構築する必要があるのだ、と説いていると考えています。しかし、ここで中世と呼ばれているのはもちろんそのまま歴史的な過去としての中世ではなく、理想化された来るべき黄金時代としての中世であり、いわば自乗された中世なのです。『ノヴァーリス作品集3』の解題で訳者の今泉文子先生はこの論考について次のように述べています。

死者たち、虐げられたもの、軽蔑されたもの、災いなどを、活気づけbeleben、格上げしerheben、止揚しaufheben、ジンテーゼにもちきたす―これが「天才」であり、「ロマン化」であると、ノヴァーリスは言いつづけている。この論考も、イエズス会を称揚するなど、一見いかに反動的に見えようとも、その意味で、「俗人のいわゆる宗教は、阿片とおなじ作用をもつだけである」と書いたかれの思考とけっして矛盾するものではなく、その真意において一貫しているものである。

精神なき危機の時代に、未来の、来るべき精神の共同体を説いたノヴァーリスのこの論考をエンデが選んだことは、上で素描してきたエンデの現代に対する視座を踏まえると、理解できるものであるように思えてきます。エンデもノヴァーリスと同様に、精神=文化なき時代にあって、来るべき新たな共同体を夢み、そして芸術の力を通じて世界を「ロマン化」(あるいは「詩化」)することを課題としたのではないでしょうか。