「ミヒャエル・エンデの貨幣観」雑感

最近出たばかりの『ミヒャエル・エンデの貨幣観』という本が、だいぶ前から気になっていたのですが、たまたま図書館に入っていたため読みました。それについて、個人的にかなり書きたいことができたので、感想がてらまとめたいと思います。

錬金術

さて、本書の副題に「ゲーテの『メルヒェン』からシュタイナーを経た錬金術思想の系譜」とあります。まず、この副題を最初に見たとき?と思いました。というのは、シュタイナーは錬金術パラケルススに言及することはあっても、シュタイナーの思想が錬金術に基礎づけられているとは考えられないからです。本書を読む限りでは、シュタイナーが自分の思想を薔薇十字の思想だという点を、著者は錬金術と呼んでいるようです。ちなみに、著者も述べていますが、薔薇十字運動自体がその存在自体に疑問符がつくようなものなので、そもそもシュタイナー思想が薔薇十字に基礎づけられていると考えること自体がおかしいのですが。シュタイナーは確かに自分の秘教的立場を薔薇十字的と呼びますが、これはとりわけ神智学協会の東洋秘教偏向に対して、西洋秘教の伝統を汲む秘教的思想としての自分の立場を薔薇十字と呼んでいる面が多分にあるように思います。そもそも、アンドレーエの著作以外に明確な文書がないわけですから。ちなみに、著者はシュタイナーがアンドレーエの冗談*1を真に受けて『化学の結婚』をローゼンクロイツが書いたと信じたのだ、と(幾分嘲笑的に)書いていますが、この点は単に誤読であって、シュタイナーは当然『化学の結婚』を書いたのはアンドレーエであり、ローゼンクロイツが一時的に彼に憑依して書いたのだ、と言っています。シュタイナーは出版年を誤解しているとも書いていますが、シュタイナーはローゼンクロイツが受肉した時点を言っているのであって、出版年を言っているのではありません。その点のオカルト的な見方について信じるかどうかはまた別の問題でありますが。ともあれ、個人的には、そもそも錬金術思想の系譜という点にすでに疑問符がつくわけですが、この点についてはさしあたりよしとして、先に進みましょう。

議論の流れ

本書の議論は、まずゲーテの『メルヒェン』を取り上げ、そこで錬金術のモチーフ、硫黄=凝固・水銀=流動・塩=肉体化というモチーフが使われている点に着目します。そして、『ファウスト』にも同じモチーフが使われている点、ゲーテが一時期錬金術の研究をしていた点から、詩的モチーフとしてゲーテ錬金術の概念を用いていたことを述べます。そして、シュタイナーがゲーテの『メルヒェン』に着目している点から、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、そして後年社会3分節論と『メルヒェン』の3人の王(金・銀・青銅)が内的に深い結び付きがある、と論じている点を取り上げます。そして、ここからエンデが『私の読本』にゲーテの『メルヒェン』を取り上げていること、また取り上げようと考えていた本のリストにシュタイナーの3分節論に関する講演録があったことから、エンデの『メルヒェン』を重要視していたことと、その受容について論じます。この後の議論では、一方でエンデの貨幣観を取り上げ、その源流としてゲゼルの貨幣論の検討、『鏡の中の鏡』と『ハーメルンと死の舞踏』の差異に着目し、エンデの貨幣観の進展を検討し、とりわけピンズヴァンガーの影響を取り上げます。そして、ピンズヴァンガーがゲーテの『ファウスト』を錬金術モチーフから、経済について書いたものであると解釈している点に着目し、そこに錬金術的モチーフに強い影響を受けた二つの思想がエンデの中で合流している、というのが簡単な議論の流れになります。

パースペクティブと視野

さて、僕は経済専門家でもなければ、一般的な知識すら怪しいくらいなので、貨幣論については触れません。一つ言うならば、著者はエンデが神秘思想から経済問題まで幅広い視野を持っていたこと、従来の研究では児童文学論と貨幣論の両極端になってしまっている点を挙げ、広いパースペクティブの中に置くことによってはじめて、児童文学・神秘主義貨幣論といった諸テーマを貫くエンデの思想の核心部分を描き出すことができるはずである。と述べます。なるほど、確かに僕が見る限りでも、エンデの思想研究というのは(少なくとも日本では)ほとんどなされていないように思います。この点について、(錬金術というパースペクティブには前述のとおり疑問符がつきますが)著者の主張は正当といえるでしょう。確かに、取り上げるべき問題は多々あるのです。*2さて、貨幣論というパースペクティブについてはよいとして、本書の射程を考えると貨幣論としては『エンデの遺言』を超えているとは思えませんでした。勿論、本書の方がはるかに詳細に検討されており、また地域通貨のような形ではなく、より普遍的な経済構造問題として取り扱っている点もあるので、より明確であるとは言えるでしょう。しかし、ピンズヴァンガーにせよ、ゲゼルにせよ『遺言』で既に取り上げられています。もっとも、僕が常々批判的に言っている、芸術=文化=精神と経済=貨幣の問題を両方取り上げている点は評価できますが。つまり、パースペクティブにせよ、視野にせよ、それほど拡張されているという風には思えませんでした。何より、著者は3分節論とエンデの関わりを、精神の自由の領域を重視し、経済問題についてはあくまで問題提起にとどまるものと捉えているようですが、ゲゼルを取り上げている部分で触れられている多くのことを、シュタイナーも取り上げている点を考慮に入れる必要があります。例えば、シュタイナー自身は老化する貨幣を提案しています。また、利子や投資を否定もしていません。あるいは、土地の公有化や生産物の定義もゲゼルと同様です。なぜエンデが老化する貨幣ではなく、減価する貨幣を取り上げたのかわかりませんが、むしろここにこそ未開拓の領域があるように思えてなりません。前述したように、この点は深く突っ込みませんが、エンデの貨幣論=ゲゼル理論が下敷きという先入観?を破ることで、より広い視野が獲得できると思うのですが…。*3

最大の疑問点

前置きな長くなりましたが、ここからが本題になります。著者は、ゲーテ-シュタイナー-エンデという系譜をゲーテの『メルヒェン』を手がかりに描こうとしています。そして、エンデが『読本』*4に『メルヒェン』を入れている点、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、エンデの蔵書の中の『薔薇十字会の神智学』の熟読のあとと、書き手不明の『メルヒェン』解釈の複写の紙片の存在などから、この系譜の接続点として『メルヒェン』を持ちだしてきます。まず、一番の問題はエンデがシュタイナーの『メルヒェン』解釈をそこまで重要視していたのか?という問題があります。本書では、一次資料としてエンデの未刊行書簡などを挙げていますが、エンデが『読本』に『メルヒェン』を挙げた理由など、直接の繋がりを示すものは一切なく、すべて著者の解釈によるものです(後述しますが、シュタイナーへの無理解や牽強付会な議論とも関係します。)。「いやいや、『メルヒェン』解釈の複写の存在だけで十分な証拠じゃないか!」という反論がありえます。ですが、僕の見る限りシュタイナー自身が述べているように『メルヒェン』解釈は、解釈としてどうかを別として、シュタイナーの思想を非常にコンパクトにまとめたものです。つまり、エンデがそれを『メルヒェン』の解釈として重要視していないことと、この解釈それ自体をよく研究していたこととは両立可能です。『薔薇十字会の神智学』だけをとりわけ取り上げることも恣意的でしょう。そもそも、この本自体がシュタイナー思想の入門的な本の一つなので、それをエンデが重点的に研究していてもおかしくありません。
もう少し踏み込んでみましょう。エンデは常々「芸術作品を解釈して、その結果を著者の思想とみなすこと、芸術を著者の思想をラッピングしたものとみなすことをしてはいけない」と警告しています。本書でも書簡が引用されていますが、エンデ自身、自分の著作の解釈を聞かれてはぐらかしています。では、そんなエンデがシュタイナーの解釈を、芸術作品の解釈として重要視するものでしょうか?まず、これが一つの疑問点です。もう一点、エンデはシュタイナー思想に多くを負っています。『ものがたりの余白』では「生の礎石」とまで言っていますが、一点だけシュタイナーを強く批判していました。それはシュタイナーが芸術作品を霊的なものの顕現としてのみ捉えたことです。芸術観/芸術論についてだけは、エンデは生涯シュタイナーの思想を受け入れませんでした。さて、シュタイナーの『メルヒェン』解釈は、まさにエンデが嫌った霊的なものの顕現として、ゲーテの霊的直観の内容として解釈するものです。ここまで見ると、エンデがシュタイナーの「解釈」をそこまで重要視したというのはおかしいと思うのが自然ではないでしょうか。エンデが様々なところで拒否し、批判していることが、なぜここでだけ「例外」になるのでしょうか?直接的にそれを示唆する文書があるならばともかく、そうでない限りはエンデは「『メルヒェン』の解釈」ではなく「シュタイナー思想の一部」としてシュタイナーの『メルヒェン』論を受容したと考えたほうが、はるかに自然ではないでしょうか。なお、エンデがゲーテの『メルヒェン』を正式名称ではなく、シュタイナーが用いた『緑蛇と百合姫のメルヒェン』という名称を普段用いていたという事実から、主張を補強しようとしていますが、これも強引な議論だと思います。エンデがシュタイナーに馴染んでおり、シュタイナーと同じ名称を使ったことから、『メルヒェン』解釈を重要視していたことを引き出すのは、短絡的だと言わざるをえないでしょう。ちなみに、僕はそれほど『メルヒェン』について思い入れはないですが、どちらかというとシュタイナーの使った名称を使います。どうでもいい話ですがwとにかく、以上の点から、ゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点として『メルヒェン』を用いることに対して疑問符がつきます。この点を、次の節で著者のシュタイナーへの無理解という観点から、更に踏み込んで議論していきます。
余談になりますが、シュタイナーとは無関係にエンデがゲーテの『メルヒェン』を『読本』に入れた理由を推察することは簡単です。ご承知のように、エンデは文学的に自覚的にドイツ・ロマン派の流れを汲んでいます。ロマン派の特徴的なスタイルの一つでもある創作メルヒェンの嚆矢とも言うべき作品が、ゲーテの『メルヒェン』です。その意味では、エンデのメルヒェン・ロマンの文学的源流の一つでもあるわけで、エンデが『読本』で取り上げることに違和感はまったくありません。ロマン派のことを書いたついでなので言及しますが、「作家としてのエンデは「詩的な錬金術」に注目している。だが、こうしたゲーテ錬金術への関心を呼び覚ましたのもまた、シュタイナーだったのである。」とありますが、これについてもむしろノヴァーリスを始めとした初期ロマン派の影響を考慮に入れたほうが通りがいいでしょう。

シュタイナーへの無理解

さて、既に長々と書いてしまいましたが、本稿の一番の目的は(そして僕が非常に腹が立ったのが)この点にあります。とにかく、著者のシュタイナーへの無理解・誤解・誤読がひどい。正直言いまして、シュタイナーを取り上げない方がよいのではないかとさえ思います。
まず、基本知識としてシュタイナーのゲーテ受容について簡単に書きます。本書では、シュタイナーの『メルヒェン』の秘教的解釈の位置づけが、かなり大げさに捉えられています。シュタイナーとゲーテの結節点が(本書の定式を用いれば)薔薇十字=錬金術に求められています。ですが、これは恣意的な取り上げ方だと言わざるをえません。シュタイナーはゲーテ研究者として出発しました。では、シュタイナーはゲーテの何を研究していたのでしょうか?ゲーテの自然科学論です。キルシュナー版ドイツ国民文学叢書及びゾフィーゲーテ全集の「自然科学」の編纂を担当したのがシュタイナーです。シュタイナーはゲーテの自然観察方法に着目し、ここにカント以来の「認識の限界」を踏破する認識論が、ゲーテの観察方法を観念論的な認識論として定式化することで可能になると考えました。『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』はこうした立場から書かれた本です。シュタイナーの認識論は一貫してこの立場を支持します。シュタイナーの初期著作を読みますと、シュタイナーがゲーテの文学作品やエッセイ、書簡でゲーテが表明している立場などより、ゲーテの自然科学の認識法を重視しており、そこにゲーテの本質があると見ていることがわかります。つまり、シュタイナーとゲーテを結んでいるのは、ゲーテの自然科学論であり、そこから導出される認識論なのです。これがシュタイナーのゲーテ受容といえます。
さて、確かにシュタイナーの『メルヒェン』論はシュタイナー自身の秘教思想を投影したものと見ることができます。なので、この解釈の正当性を巡っては、特に議論の余地はありません。また、シュタイナーがゲーテを秘儀参入者としてみている点も、それを文献学的に証明することはできないでしょう。*5この点も議論の余地はありません。しかし、著者はシュタイナーが後年『メルヒェン』と3分節論を結びつけたことを取り上げて、

「こうしたシュタイナーの強引な読み込みは、彼の頑なな宗教的確信に由来するものであると同時に、そのゲーテへの深い傾倒、自らをゲーテの継承者として任じたいという強い欲求に原因があった。」

と断じています。更にシュタイナーが3分節論と結びつけるのは、ゲーテという存在を自らの思想・主張の根拠としたいという心情に由来するものであろう。」とまで述べているのです。そもそも、シュタイナーはどんなところでも、自分の思想を他者の権威によって正当化しようとすることはしませんでした。シュタイナーが述べる霊的認識も、すべて自分の霊学的研究の成果であり、自分が確信を持ったことだけを語っている、ということを強調していました。*6とはいえ、そんなことを言ってもそれだけでは、シュタイナー信者の戯言にすぎません。なので、著者がこう述べるに至った解釈を検討していきたいと思います。
とりわけ問題視されているところを取り上げましょう。それはシュタイナーが1920年11月22日シュトゥットガルトで行った講演の一節に由来します。*7問題の一節を本書から引用するとこうです。「金の王(知恵の王)、銀の王(外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王)、青銅の王(物質的、経済的な生活の王)によってゲーテが描き出したものは、三分化されていると見ることができる。」。この部分について、

「銀の王は見せかけの王であるとされ、政治的な領域と結び付けられるのだが、この銀の王の解釈には問題がある。(中略)シュタイナーは銀の王について、「外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王」(den König des äußeren Scheins, des Scheinlebens, des politischen Lebens)と述べているが、”des äußeren Scheins”は「外面的な見かけ」を意味している。この解釈は『メルヒェン』本文の”Schein”という語からの連想であろうが、銀の王が表す”Schein”を「見かけ」と解釈することには無理がある。」

と書いています。つまり、シュタイナーは自分の3分節論と結びつけるために、1901年のメルヒェンの解釈を歪曲して新たに強引な解釈をしている、というわけです。さて、これだけ読むと、なるほどもっとも、と思うかもしれません。しかし、よく考えてみましょう。シュタイナーは、政治=法・経済・精神の三領域がそれぞれ独立して機能するという論を打ち立てました(これについては先日アップした記事をご参照ください。)つまり、それぞれが等価値に大切だ、ということです。しかし、だとすると政治生活を「見せかけの」「うわべの」生活と否定的な言い方をするのはおかしくないでしょうか?なぜシュタイナーは政治生活をみかけの生活と等置しているのでしょうか?シュタイナー思想をまったく知らなくても、真面目にテキストを読めばこれは引っかからないでしょうか?結論を先に言いましょう。ここに著者の誤読があるのです!Scheinという語を辞書で引くと光や外観(見かけ)という語に並んで、哲学用語として「仮象」という訳語が載っています。では、こう訳してみましょう。「外的仮象の、仮象的生の、政治的生活の王」。シュタイナーを読んでいる方ならこう訳せばピンと来るに違いありません。シュタイナーは物質的に目に見えるものはマーヤー、仮象に過ぎないといいます。物質的に目に見えるものを霊的なものの仮象としての現れと考えているわけです。つまり、ここでいっているのは、そういうマーヤーに囚われている人間の生のことを言っているのです。こう捉える根拠があります。元の文をよく見てみると、金の王には知恵の王としか言われていません。これは『メルヒェン』のテキストに沿ったものです。一方、青銅の王には「物質的生活」と言われています。これまた、シュタイナーを読んでいる方はピンとくるでしょう。一方には仮象の生、他方に物質的生が対置されているのです。これはシュタイナーがルツィファー的・アーリマン的と呼んだ、デモーニッシュな二つの力を表しているのです。シュタイナーはある講演で、ルツィファー的な力を「幻想、神秘主義、熱狂、眠り込むこと、軟化する力」、アーリマン的な力を「俗物的なこと、唯物論、干からびた悟性、目覚めること、硬化する力」と述べています。つまり、シュタイナーはここで銀の王=ルツィファー的、青銅の王=アーリマン的と言っているわけです。それでは金の王は何か?シュタイナーはこの両極の間にあって、均衡を取る力を「キリスト的」といいます。金の王=キリスト的です。*8また、そもそも3分節論とは社会を有機体と捉え、人間の身体=有機体と同様に3分節される、という考え方なので、ゲーテの『メルヒェン』の解釈とはそれ自体まったく関係ありません。基本的に、シュタイナーの思想は霊・魂・体、アストラル体エーテル体・物質体等々のように3分節=三位一体を基調とするので、社会有機体の3分節もその流れから把握すべきです。つまり、著者がここでScheinを「みせかけ」と解釈したことがそもそもの誤解・誤読であり、誤読を元にしてシュタイナーのものではない考えをシュタイナーに押し付けて批判していたと言わざるをえないのです。*9更に、『メルヒェン』をゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点と見ることも、3分節論の正当化としての『メルヒェン』解釈という誤読に基づいた解釈を正せば、既に述べたような事柄から見て、あまりよい視点とは言えないでしょう。実際、正当に見れば、これを結節点とするには繋がりはあまりに弱すぎ、意図に沿うように恣意的に繋げたとすら思えてしまうほどです。

開ける可能性

シュタイナーは、批判するのではなく間違った見解に対して何を付け加えれば正しくなるか考えよ、と言いました。既にさんざん批判してから言うのもなんですが、僕が行った解釈のもとに、本書の見解に新たな可能性が開けるという点を指摘します。本書では、ゲーテの用いた錬金術モチーフ、硫黄・水銀・塩の3つを重視しています。*10ピンズヴァンガーもこのモチーフから『ファウスト』を解釈しているからです。さて、本書では硫黄=凝固、水銀=流動、塩=肉体化という図式を使っています。先ほど、僕が解釈しなおしたシュタイナーの図式を参照してみますと、ルツィファー=軟化=流動化、アーリマン=硬化=凝固と考えることができます。キリストはその両者に均衡をもたらしますが、ここでの塩と類比的に考えられます。*11この図式を前提にして、本書でピンズヴァンガーを取り上げているところを読んでみますと、ピンズヴァンカーは貨幣価値が皇帝によって保証され、固定していたものが流動化するということで、水銀プロセスとして描きます。次に、貨幣=富が一箇所に集中=凝固します。これが硫黄プロセスです。最後に、「大事業」=現実資本への投入によって貨幣が現実化する、というのがピンズヴァンガーの図式です。ここに面白い対応関係を発見できます。まず、ピンズヴァンガーは貨幣価値とは幻想(みんなが価値があると思っているから価値がある)だとみなします。*12おわかりでしょう。ここで水銀原理がルツィファー的原理と面白いほど一致しているのです。しかも、シュタイナーによれば法=政治領域とは人間関係調整の領域です。言い換えれば、3分節論的には貨幣価値は法によって担保されます。*13あるいは、ピンズヴァンガーが皇帝という政治的存在を持ち出していることを考えてもいいかもしれません。先ほどの箇所で、シュタイナーはルツィファー原理と政治生活とを等置していたことを考えると、我々はここで不思議な一致を見ているわけです。更に、硫黄プロセスについて考えてみます。貨幣が資本として集中するのは、経済プロセスの中で投資などによって資本集中が起こるのは当然です。つまり、凝固プロセス=硫黄プロセス=3分節論的経済プロセスと考えるならば、アーリマン的原理=経済生活と硫黄プロセスも対応していることになります。では、塩プロセス=精神の領域と言えるかどうかですが、これは少し強引な解釈になってしまいそうです。塩プロセスは貨幣=抽象的/非実体的なものが実体化するプロセスだ、ということです。生産/消費は経済プロセスの中で行われますが、この中で生まれた実体的なものを使うのは、精神プロセスの中に生きる人間だ、と考えるならば、これも言えそうではあります。しかし、ピンズヴァンガーはそもそも経済について考えているので、ここは少し強引だと言えるでしょうけれど。いずれにしても、驚くべきことに、著者が批判し、退けたシュタイナーの3分節論と『メルヒェン』の結びつきが、きちんと解釈されると、著者が本書で重視している錬金術モチーフと重なるどころか、ピンズヴァンガーの理論との不思議な一致さえ起こるのです!

終わりに

いかがでしょうか。このように考えていくと、本書で取り上げられている事柄がより一貫したまとまりを示します。これらの思想がエンデに合流していることが、よりすっきりとした形で提示できるのです。僕自身、ピンズヴァンがーを取り上げた部分を読んだ時は、とても驚きました。惜しむらくは、既に述べたように著者があまりにシュタイナーに対して無理解であること、誤解・誤読があまりに多く、おそらく真面目にシュタイナーの著作/テクストを読もうとしていないということでしょう。それは例えば、シュタイナーが『神智学』の中でエーテル(体)を取り上げていることを述べているにもかかわらず、エーテルを「高次のより純粋な空気」といってしまう態度にも現れているように思います。*14エンデの思想をたどるには、シュタイナーは確かに必須です。僕自身、最初にシュタイナーを読み始めたのはそういった動機からでした。しかし、エンデが徹底的にシュタイナーを研究していたことを考えれば、エンデ思想を追究しようとするなら、少なくとも、基本的なレベルでのシュタイナー思想の理解は必須のはずです。勿論、エンデが影響を受けたもの全てに細かく目を配ることはできないにせよ、です。実際、本書ではロマン派を完全に視野に入れていません。と、まあ、一読してかなり問題を感じたので、『ファンタジー神話と現代』のときのように一気呵成に書いてしまいました。最後の方は、多少強引な部分もありましたし、すべてを取り上げるというわけにもいきませんが、一番重要な点は指摘できたと思います。

*1:薔薇十字会自体が存在しない団体であり、アンドレーエの捏造であるというのが一般的な見解です。

*2:僕がパッと思いつく限りでも、遊戯の理論があり、芸術論の検討があり、貨幣論も今までより広い視野で見られるはずであり、ロマン派との比較があり、言語論があり、ヴァインレープ思想との比較があり、シュタイナー思想との比較もまだ十分になされているとはいえないと思います。

*3:むしろ、エンデの経済観はかなりの程度シュタイナー経済学(国民経済学)に近いと思いますが、この点については精査したことがないので、示唆にとどめておきます。

*4:『読本』とは、『M・エンデの読んだ本』というタイトルで邦訳もされている本で、エンデが強い影響を受けた本、人生の転換点になったような本の全部または一部を抜粋したアンソロジーのような本で、エンデが何に影響を受けたかを知る手がかりの一つでもあります。

*5:ただし、シュタイナーがライプツィヒ時代の病について、この体験を通じてゲーテに秘儀体験が生じた、と『薔薇十字会の神智学』で述べている点を、著者はこの病の治療からゲーテ錬金術に一時期没頭したことと考えているようですが、これは誤読です。臨死に近い重症という体験を通じて、秘儀を体験したというのがシュタイナーの述べていることであって、外的に錬金術の著作に触れたことを言っているのではありません。また、シュタイナー自身がこのあとのゲーテの「失望」体験については別の講演で触れてもいます。なお、この講演を含めて、この時のゲーテが体験したものは無意識にとどまり、後年になって意識に上ってきたという言い方をしていますので、いずれにしてもゲーテ錬金術実験への失望を取り上げるのは間違いでしょう。

*6:ゲーテとの関連で言うと、シュタイナーは『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』ではゲーテと自分の認識論を結びつけていますが、学位論文でもある『真理と科学』では以前、自分の立場をゲーテの世界観と結びつけて叙述したが、自分の立場は必ずしもゲーテの世界観から導きだされる必要はなく、自分の思考の建築物それ自体に基礎を持っていることが読み取れるだろうと書いています。ここでも、ゲーテという権威によって自分の考えを正当化したり、権威付けしたりすることをしていないことに留意してください。

*7:ちなみに、本書では1919年12月22日になっていますが…。正直、調べるのに苦労しました。こんなことでいいの?と思ってしまいます。

*8:不勉強ながら問題となっている講演を全部読んでいないので、ルツィファーを政治に、アーリマンを経済に結びつけている理由は判然としません。例えば、3分節論では精神=四肢-新陳代謝系、経済=頭部-感覚系、政治=胸部-循環器系という対応させられていますが、これですと均衡点が政治であり、硬化するもの=頭部神経系が経済、流動的なもの=新陳代謝系-腺組織が精神になっています。

*9:ちなみに、シュタイナーは講演録、特に人智学協会員向けのものについては慎重に取り扱うことを強調しました。一つにはシュタイナーがすべてをチェックできないので、様々な誤解や誤記が含まれてしまうこと、何よりもシュタイナーが著書などで取り上げている事柄を前提しているので、それらのことをよく知らない人に誤解を招きかねないからです。これはまさにそう言った典型例と言えるでしょう。この図式はシュタイナーをちょっと研究している人間なら当然わかることなのですから。

*10:シュタイナーも、これらをシュタイナー医学との兼ね合いで取り上げていることを付記しておきます。また詳述は避けるものの、シュタイナーが医療やオカルト身体論の観点から述べていることが、ここで僕が取り上げた事柄と見事に一致していることも、僕の解釈の一つの根拠となっています。

*11:オカルト身体論では、流動プロセス=水のプロセスは新陳代謝組織、硬化=土プロセスは神経組織と考えられ、この生の力と死の力が均衡することで、人間は生命を保っていると考えられています。

*12:ところで、最近放送終了したアニメ「C」ではまさに貨幣価値が信用であることが描かれていました。エンデの経済観、貨幣観からすると非常に面白く、共通点のある作品です。余談までに。

*13:ボイスとの対談で、ボイスが貨幣を法のドキュメントだ、としきりにいっているのはこのことです。

*14:この意味でのエーテルは19世紀頃まで物理学でも想定されていた意味での、振動などを媒介する媒質としてのエーテルと読めます。シュタイナーは自分のエーテルという言葉はそういうものではなく、生命力ないし形成力とでも呼ぶべきものであることを強調しています。

「ミヒャエル・エンデの貨幣観」雑感

最近出たばかりの『ミヒャエル・エンデの貨幣観』という本が、だいぶ前から気になっていたのですが、たまたま図書館に入っていたため読みました。それについて、個人的にかなり書きたいことができたので、感想がてらまとめたいと思います。

錬金術

さて、本書の副題に「ゲーテの『メルヒェン』からシュタイナーを経た錬金術思想の系譜」とあります。まず、この副題を最初に見たとき?と思いました。というのは、シュタイナーは錬金術パラケルススに言及することはあっても、シュタイナーの思想が錬金術に基礎づけられているとは考えられないからです。本書を読む限りでは、シュタイナーが自分の思想を薔薇十字の思想だという点を、著者は錬金術と呼んでいるようです。ちなみに、著者も述べていますが、薔薇十字運動自体がその存在自体に疑問符がつくようなものなので、そもそもシュタイナー思想が薔薇十字に基礎づけられていると考えること自体がおかしいのですが。シュタイナーは確かに自分の秘教的立場を薔薇十字的と呼びますが、これはとりわけ神智学協会の東洋秘教偏向に対して、西洋秘教の伝統を汲む秘教的思想としての自分の立場を薔薇十字と呼んでいる面が多分にあるように思います。そもそも、アンドレーエの著作以外に明確な文書がないわけですから。ちなみに、著者はシュタイナーがアンドレーエの冗談*1を真に受けて『化学の結婚』をローゼンクロイツが書いたと信じたのだ、と(幾分嘲笑的に)書いていますが、この点は単に誤読であって、シュタイナーは当然『化学の結婚』を書いたのはアンドレーエであり、ローゼンクロイツが一時的に彼に憑依して書いたのだ、と言っています。シュタイナーは出版年を誤解しているとも書いていますが、シュタイナーはローゼンクロイツが受肉した時点を言っているのであって、出版年を言っているのではありません。その点のオカルト的な見方について信じるかどうかはまた別の問題でありますが。ともあれ、個人的には、そもそも錬金術思想の系譜という点にすでに疑問符がつくわけですが、この点についてはさしあたりよしとして、先に進みましょう。

議論の流れ

本書の議論は、まずゲーテの『メルヒェン』を取り上げ、そこで錬金術のモチーフ、硫黄=凝固・水銀=流動・塩=肉体化というモチーフが使われている点に着目します。そして、『ファウスト』にも同じモチーフが使われている点、ゲーテが一時期錬金術の研究をしていた点から、詩的モチーフとしてゲーテ錬金術の概念を用いていたことを述べます。そして、シュタイナーがゲーテの『メルヒェン』に着目している点から、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、そして後年社会3分節論と『メルヒェン』の3人の王(金・銀・青銅)が内的に深い結び付きがある、と論じている点を取り上げます。そして、ここからエンデが『私の読本』にゲーテの『メルヒェン』を取り上げていること、また取り上げようと考えていた本のリストにシュタイナーの3分節論に関する講演録があったことから、エンデの『メルヒェン』を重要視していたことと、その受容について論じます。この後の議論では、一方でエンデの貨幣観を取り上げ、その源流としてゲゼルの貨幣論の検討、『鏡の中の鏡』と『ハーメルンと死の舞踏』の差異に着目し、エンデの貨幣観の進展を検討し、とりわけピンズヴァンガーの影響を取り上げます。そして、ピンズヴァンガーがゲーテの『ファウスト』を錬金術モチーフから、経済について書いたものであると解釈している点に着目し、そこに錬金術的モチーフに強い影響を受けた二つの思想がエンデの中で合流している、というのが簡単な議論の流れになります。

パースペクティブと視野

さて、僕は経済専門家でもなければ、一般的な知識すら怪しいくらいなので、貨幣論については触れません。一つ言うならば、著者はエンデが神秘思想から経済問題まで幅広い視野を持っていたこと、従来の研究では児童文学論と貨幣論の両極端になってしまっている点を挙げ、広いパースペクティブの中に置くことによってはじめて、児童文学・神秘主義貨幣論といった諸テーマを貫くエンデの思想の核心部分を描き出すことができるはずである。と述べます。なるほど、確かに僕が見る限りでも、エンデの思想研究というのは(少なくとも日本では)ほとんどなされていないように思います。この点について、(錬金術というパースペクティブには前述のとおり疑問符がつきますが)著者の主張は正当といえるでしょう。確かに、取り上げるべき問題は多々あるのです。*2さて、貨幣論というパースペクティブについてはよいとして、本書の射程を考えると貨幣論としては『エンデの遺言』を超えているとは思えませんでした。勿論、本書の方がはるかに詳細に検討されており、また地域通貨のような形ではなく、より普遍的な経済構造問題として取り扱っている点もあるので、より明確であるとは言えるでしょう。しかし、ピンズヴァンガーにせよ、ゲゼルにせよ『遺言』で既に取り上げられています。もっとも、僕が常々批判的に言っている、芸術=文化=精神と経済=貨幣の問題を両方取り上げている点は評価できますが。つまり、パースペクティブにせよ、視野にせよ、それほど拡張されているという風には思えませんでした。何より、著者は3分節論とエンデの関わりを、精神の自由の領域を重視し、経済問題についてはあくまで問題提起にとどまるものと捉えているようですが、ゲゼルを取り上げている部分で触れられている多くのことを、シュタイナーも取り上げている点を考慮に入れる必要があります。例えば、シュタイナー自身は老化する貨幣を提案しています。また、利子や投資を否定もしていません。あるいは、土地の公有化や生産物の定義もゲゼルと同様です。なぜエンデが老化する貨幣ではなく、減価する貨幣を取り上げたのかわかりませんが、むしろここにこそ未開拓の領域があるように思えてなりません。前述したように、この点は深く突っ込みませんが、エンデの貨幣論=ゲゼル理論が下敷きという先入観?を破ることで、より広い視野が獲得できると思うのですが…。*3

最大の疑問点

前置きな長くなりましたが、ここからが本題になります。著者は、ゲーテ-シュタイナー-エンデという系譜をゲーテの『メルヒェン』を手がかりに描こうとしています。そして、エンデが『読本』*4に『メルヒェン』を入れている点、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、エンデの蔵書の中の『薔薇十字会の神智学』の熟読のあとと、書き手不明の『メルヒェン』解釈の複写の紙片の存在などから、この系譜の接続点として『メルヒェン』を持ちだしてきます。まず、一番の問題はエンデがシュタイナーの『メルヒェン』解釈をそこまで重要視していたのか?という問題があります。本書では、一次資料としてエンデの未刊行書簡などを挙げていますが、エンデが『読本』に『メルヒェン』を挙げた理由など、直接の繋がりを示すものは一切なく、すべて著者の解釈によるものです(後述しますが、シュタイナーへの無理解や牽強付会な議論とも関係します。)。「いやいや、『メルヒェン』解釈の複写の存在だけで十分な証拠じゃないか!」という反論がありえます。ですが、僕の見る限りシュタイナー自身が述べているように『メルヒェン』解釈は、解釈としてどうかを別として、シュタイナーの思想を非常にコンパクトにまとめたものです。つまり、エンデがそれを『メルヒェン』の解釈として重要視していないことと、この解釈それ自体をよく研究していたこととは両立可能です。『薔薇十字会の神智学』だけをとりわけ取り上げることも恣意的でしょう。そもそも、この本自体がシュタイナー思想の入門的な本の一つなので、それをエンデが重点的に研究していてもおかしくありません。

もう少し踏み込んでみましょう。エンデは常々「芸術作品を解釈して、その結果を著者の思想とみなすこと、芸術を著者の思想をラッピングしたものとみなすことをしてはいけない」と警告しています。本書でも書簡が引用されていますが、エンデ自身、自分の著作の解釈を聞かれてはぐらかしています。では、そんなエンデがシュタイナーの解釈を、芸術作品の解釈として重要視するものでしょうか?まず、これが一つの疑問点です。もう一点、エンデはシュタイナー思想に多くを負っています。『ものがたりの余白』では「生の礎石」とまで言っていますが、一点だけシュタイナーを強く批判していました。それはシュタイナーが芸術作品を霊的なものの顕現としてのみ捉えたことです。芸術観/芸術論についてだけは、エンデは生涯シュタイナーの思想を受け入れませんでした。さて、シュタイナーの『メルヒェン』解釈は、まさにエンデが嫌った霊的なものの顕現として、ゲーテの霊的直観の内容として解釈するものです。ここまで見ると、エンデがシュタイナーの「解釈」をそこまで重要視したというのはおかしいと思うのが自然ではないでしょうか。エンデが様々なところで拒否し、批判していることが、なぜここでだけ「例外」になるのでしょうか?直接的にそれを示唆する文書があるならばともかく、そうでない限りはエンデは「『メルヒェン』の解釈」ではなく「シュタイナー思想の一部」としてシュタイナーの『メルヒェン』論を受容したと考えたほうが、はるかに自然ではないでしょうか。なお、エンデがゲーテの『メルヒェン』を正式名称ではなく、シュタイナーが用いた『緑蛇と百合姫のメルヒェン』という名称を普段用いていたという事実から、主張を補強しようとしていますが、これも強引な議論だと思います。エンデがシュタイナーに馴染んでおり、シュタイナーと同じ名称を使ったことから、『メルヒェン』解釈を重要視していたことを引き出すのは、短絡的だと言わざるをえないでしょう。ちなみに、僕はそれほど『メルヒェン』について思い入れはないですが、どちらかというとシュタイナーの使った名称を使います。どうでもいい話ですがwとにかく、以上の点から、ゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点として『メルヒェン』を用いることに対して疑問符がつきます。この点を、次の節で著者のシュタイナーへの無理解という観点から、更に踏み込んで議論していきます。

余談になりますが、シュタイナーとは無関係にエンデがゲーテの『メルヒェン』を『読本』に入れた理由を推察することは簡単です。ご承知のように、エンデは文学的に自覚的にドイツ・ロマン派の流れを汲んでいます。ロマン派の特徴的なスタイルの一つでもある創作メルヒェンの嚆矢とも言うべき作品が、ゲーテの『メルヒェン』です。その意味では、エンデのメルヒェン・ロマンの文学的源流の一つでもあるわけで、エンデが『読本』で取り上げることに違和感はまったくありません。ロマン派のことを書いたついでなので言及しますが、「作家としてのエンデは「詩的な錬金術」に注目している。だが、こうしたゲーテ錬金術への関心を呼び覚ましたのもまた、シュタイナーだったのである。」とありますが、これについてもむしろノヴァーリスを始めとした初期ロマン派の影響を考慮に入れたほうが通りがいいでしょう。

シュタイナーへの無理解

さて、既に長々と書いてしまいましたが、本稿の一番の目的は(そして僕が非常に腹が立ったのが)この点にあります。とにかく、著者のシュタイナーへの無理解・誤解・誤読がひどい。正直言いまして、シュタイナーを取り上げない方がよいのではないかとさえ思います。

まず、基本知識としてシュタイナーのゲーテ受容について簡単に書きます。本書では、シュタイナーの『メルヒェン』の秘教的解釈の位置づけが、かなり大げさに捉えられています。シュタイナーとゲーテの結節点が(本書の定式を用いれば)薔薇十字=錬金術に求められています。ですが、これは恣意的な取り上げ方だと言わざるをえません。シュタイナーはゲーテ研究者として出発しました。では、シュタイナーはゲーテの何を研究していたのでしょうか?ゲーテの自然科学論です。キルシュナー版ドイツ国民文学叢書及びゾフィーゲーテ全集の「自然科学」の編纂を担当したのがシュタイナーです。シュタイナーはゲーテの自然観察方法に着目し、ここにカント以来の「認識の限界」を踏破する認識論が、ゲーテの観察方法を観念論的な認識論として定式化することで可能になると考えました。『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』はこうした立場から書かれた本です。シュタイナーの認識論は一貫してこの立場を支持します。シュタイナーの初期著作を読みますと、シュタイナーがゲーテの文学作品やエッセイ、書簡でゲーテが表明している立場などより、ゲーテの自然科学の認識法を重視しており、そこにゲーテの本質があると見ていることがわかります。つまり、シュタイナーとゲーテを結んでいるのは、ゲーテの自然科学論であり、そこから導出される認識論なのです。これがシュタイナーのゲーテ受容といえます。

さて、確かにシュタイナーの『メルヒェン』論はシュタイナー自身の秘教思想を投影したものと見ることができます。なので、この解釈の正当性を巡っては、特に議論の余地はありません。また、シュタイナーがゲーテを秘儀参入者としてみている点も、それを文献学的に証明することはできないでしょう。*5この点も議論の余地はありません。しかし、著者はシュタイナーが後年『メルヒェン』と3分節論を結びつけたことを取り上げて、

「こうしたシュタイナーの強引な読み込みは、彼の頑なな宗教的確信に由来するものであると同時に、そのゲーテへの深い傾倒、自らをゲーテの継承者として任じたいという強い欲求に原因があった。」

と断じています。更にシュタイナーが3分節論と結びつけるのは、ゲーテという存在を自らの思想・主張の根拠としたいという心情に由来するものであろう。」とまで述べているのです。そもそも、シュタイナーはどんなところでも、自分の思想を他者の権威によって正当化しようとすることはしませんでした。シュタイナーが述べる霊的認識も、すべて自分の霊学的研究の成果であり、自分が確信を持ったことだけを語っている、ということを強調していました。*6とはいえ、そんなことを言ってもそれだけでは、シュタイナー信者の戯言にすぎません。なので、著者がこう述べるに至った解釈を検討していきたいと思います。

とりわけ問題視されているところを取り上げましょう。それはシュタイナーが1920年11月22日シュトゥットガルトで行った講演の一節に由来します。*7問題の一節を本書から引用するとこうです。「金の王(知恵の王)、銀の王(外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王)、青銅の王(物質的、経済的な生活の王)によってゲーテが描き出したものは、三分化されていると見ることができる。」。この部分について、

「銀の王は見せかけの王であるとされ、政治的な領域と結び付けられるのだが、この銀の王の解釈には問題がある。(中略)シュタイナーは銀の王について、「外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王」(den König des äußeren Scheins, des Scheinlebens, des politischen Lebens)と述べているが、”des äußeren Scheins”は「外面的な見かけ」を意味している。この解釈は『メルヒェン』本文の”Schein”という語からの連想であろうが、銀の王が表す”Schein”を「見かけ」と解釈することには無理がある。」

と書いています。つまり、シュタイナーは自分の3分節論と結びつけるために、1901年のメルヒェンの解釈を歪曲して新たに強引な解釈をしている、というわけです。さて、これだけ読むと、なるほどもっとも、と思うかもしれません。しかし、よく考えてみましょう。シュタイナーは、政治=法・経済・精神の三領域がそれぞれ独立して機能するという論を打ち立てました(これについては先日アップした記事をご参照ください。)つまり、それぞれが等価値に大切だ、ということです。しかし、だとすると政治生活を「見せかけの」「うわべの」生活と否定的な言い方をするのはおかしくないでしょうか?なぜシュタイナーは政治生活をみかけの生活と等置しているのでしょうか?シュタイナー思想をまったく知らなくても、真面目にテキストを読めばこれは引っかからないでしょうか?結論を先に言いましょう。ここに著者の誤読があるのです!Scheinという語を辞書で引くと光や外観(見かけ)という語に並んで、哲学用語として「仮象」という訳語が載っています。では、こう訳してみましょう。「外的仮象の、仮象的生の、政治的生活の王」。シュタイナーを読んでいる方ならこう訳せばピンと来るに違いありません。シュタイナーは物質的に目に見えるものはマーヤー、仮象に過ぎないといいます。物質的に目に見えるものを霊的なものの仮象としての現れと考えているわけです。つまり、ここでいっているのは、そういうマーヤーに囚われている人間の生のことを言っているのです。こう捉える根拠があります。元の文をよく見てみると、金の王には知恵の王としか言われていません。これは『メルヒェン』のテキストに沿ったものです。一方、青銅の王には「物質的生活」と言われています。これまた、シュタイナーを読んでいる方はピンとくるでしょう。一方には仮象の生、他方に物質的生が対置されているのです。これはシュタイナーがルツィファー的・アーリマン的と呼んだ、デモーニッシュな二つの力を表しているのです。シュタイナーはある講演で、ルツィファー的な力を「幻想、神秘主義、熱狂、眠り込むこと、軟化する力」、アーリマン的な力を「俗物的なこと、唯物論、干からびた悟性、目覚めること、硬化する力」と述べています。つまり、シュタイナーはここで銀の王=ルツィファー的、青銅の王=アーリマン的と言っているわけです。それでは金の王は何か?シュタイナーはこの両極の間にあって、均衡を取る力を「キリスト的」といいます。金の王=キリスト的です。*8また、そもそも3分節論とは社会を有機体と捉え、人間の身体=有機体と同様に3分節される、という考え方なので、ゲーテの『メルヒェン』の解釈とはそれ自体まったく関係ありません。基本的に、シュタイナーの思想は霊・魂・体、アストラル体エーテル体・物質体等々のように3分節=三位一体を基調とするので、社会有機体の3分節もその流れから把握すべきです。つまり、著者がここでScheinを「みせかけ」と解釈したことがそもそもの誤解・誤読であり、誤読を元にしてシュタイナーのものではない考えをシュタイナーに押し付けて批判していたと言わざるをえないのです。*9更に、『メルヒェン』をゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点と見ることも、3分節論の正当化としての『メルヒェン』解釈という誤読に基づいた解釈を正せば、既に述べたような事柄から見て、あまりよい視点とは言えないでしょう。実際、正当に見れば、これを結節点とするには繋がりはあまりに弱すぎ、意図に沿うように恣意的に繋げたとすら思えてしまうほどです。

開ける可能性

シュタイナーは、批判するのではなく間違った見解に対して何を付け加えれば正しくなるか考えよ、と言いました。既にさんざん批判してから言うのもなんですが、僕が行った解釈のもとに、本書の見解に新たな可能性が開けるという点を指摘します。本書では、ゲーテの用いた錬金術モチーフ、硫黄・水銀・塩の3つを重視しています。*10ピンズヴァンガーもこのモチーフから『ファウスト』を解釈しているからです。さて、本書では硫黄=凝固、水銀=流動、塩=肉体化という図式を使っています。先ほど、僕が解釈しなおしたシュタイナーの図式を参照してみますと、ルツィファー=軟化=流動化、アーリマン=硬化=凝固と考えることができます。キリストはその両者に均衡をもたらしますが、ここでの塩と類比的に考えられます。*11この図式を前提にして、本書でピンズヴァンガーを取り上げているところを読んでみますと、ピンズヴァンカーは貨幣価値が皇帝によって保証され、固定していたものが流動化するということで、水銀プロセスとして描きます。次に、貨幣=富が一箇所に集中=凝固します。これが硫黄プロセスです。最後に、「大事業」=現実資本への投入によって貨幣が現実化する、というのがピンズヴァンガーの図式です。ここに面白い対応関係を発見できます。まず、ピンズヴァンガーは貨幣価値とは幻想(みんなが価値があると思っているから価値がある)だとみなします。*12おわかりでしょう。ここで水銀原理がルツィファー的原理と面白いほど一致しているのです。しかも、シュタイナーによれば法=政治領域とは人間関係調整の領域です。言い換えれば、3分節論的には貨幣価値は法によって担保されます。*13あるいは、ピンズヴァンガーが皇帝という政治的存在を持ち出していることを考えてもいいかもしれません。先ほどの箇所で、シュタイナーはルツィファー原理と政治生活とを等置していたことを考えると、我々はここで不思議な一致を見ているわけです。更に、硫黄プロセスについて考えてみます。貨幣が資本として集中するのは、経済プロセスの中で投資などによって資本集中が起こるのは当然です。つまり、凝固プロセス=硫黄プロセス=3分節論的経済プロセスと考えるならば、アーリマン的原理=経済生活と硫黄プロセスも対応していることになります。では、塩プロセス=精神の領域と言えるかどうかですが、これは少し強引な解釈になってしまいそうです。塩プロセスは貨幣=抽象的/非実体的なものが実体化するプロセスだ、ということです。生産/消費は経済プロセスの中で行われますが、この中で生まれた実体的なものを使うのは、精神プロセスの中に生きる人間だ、と考えるならば、これも言えそうではあります。しかし、ピンズヴァンガーはそもそも経済について考えているので、ここは少し強引だと言えるでしょうけれど。いずれにしても、驚くべきことに、著者が批判し、退けたシュタイナーの3分節論と『メルヒェン』の結びつきが、きちんと解釈されると、著者が本書で重視している錬金術モチーフと重なるどころか、ピンズヴァンガーの理論との不思議な一致さえ起こるのです!

終わりに

いかがでしょうか。このように考えていくと、本書で取り上げられている事柄がより一貫したまとまりを示します。これらの思想がエンデに合流していることが、よりすっきりとした形で提示できるのです。僕自身、ピンズヴァンがーを取り上げた部分を読んだ時は、とても驚きました。惜しむらくは、既に述べたように著者があまりにシュタイナーに対して無理解であること、誤解・誤読があまりに多く、おそらく真面目にシュタイナーの著作/テクストを読もうとしていないということでしょう。それは例えば、シュタイナーが『神智学』の中でエーテル(体)を取り上げていることを述べているにもかかわらず、エーテルを「高次のより純粋な空気」といってしまう態度にも現れているように思います。*14エンデの思想をたどるには、シュタイナーは確かに必須です。僕自身、最初にシュタイナーを読み始めたのはそういった動機からでした。しかし、エンデが徹底的にシュタイナーを研究していたことを考えれば、エンデ思想を追究しようとするなら、少なくとも、基本的なレベルでのシュタイナー思想の理解は必須のはずです。勿論、エンデが影響を受けたもの全てに細かく目を配ることはできないにせよ、です。実際、本書ではロマン派を完全に視野に入れていません。と、まあ、一読してかなり問題を感じたので、『ファンタジー神話と現代』のときのように一気呵成に書いてしまいました。最後の方は、多少強引な部分もありましたし、すべてを取り上げるというわけにもいきませんが、一番重要な点は指摘できたと思います。

*1:薔薇十字会自体が存在しない団体であり、アンドレーエの捏造であるというのが一般的な見解です。

*2:僕がパッと思いつく限りでも、遊戯の理論があり、芸術論の検討があり、貨幣論も今までより広い視野で見られるはずであり、ロマン派との比較があり、言語論があり、ヴァインレープ思想との比較があり、シュタイナー思想との比較もまだ十分になされているとはいえないと思います。

*3:むしろ、エンデの経済観はかなりの程度シュタイナー経済学(国民経済学)に近いと思いますが、この点については精査したことがないので、示唆にとどめておきます。

*4:『読本』とは、『M・エンデの読んだ本』というタイトルで邦訳もされている本で、エンデが強い影響を受けた本、人生の転換点になったような本の全部または一部を抜粋したアンソロジーのような本で、エンデが何に影響を受けたかを知る手がかりの一つでもあります。

*5:ただし、シュタイナーがライプツィヒ時代の病について、この体験を通じてゲーテに秘儀体験が生じた、と『薔薇十字会の神智学』で述べている点を、著者はこの病の治療からゲーテ錬金術に一時期没頭したことと考えているようですが、これは誤読です。臨死に近い重症という体験を通じて、秘儀を体験したというのがシュタイナーの述べていることであって、外的に錬金術の著作に触れたことを言っているのではありません。また、シュタイナー自身がこのあとのゲーテの「失望」体験については別の講演で触れてもいます。なお、この講演を含めて、この時のゲーテが体験したものは無意識にとどまり、後年になって意識に上ってきたという言い方をしていますので、いずれにしてもゲーテ錬金術実験への失望を取り上げるのは間違いでしょう。

*6ゲーテとの関連で言うと、シュタイナーは『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』ではゲーテと自分の認識論を結びつけていますが、学位論文でもある『真理と科学』では以前、自分の立場をゲーテの世界観と結びつけて叙述したが、自分の立場は必ずしもゲーテの世界観から導きだされる必要はなく、自分の思考の建築物それ自体に基礎を持っていることが読み取れるだろうと書いています。ここでも、ゲーテという権威によって自分の考えを正当化したり、権威付けしたりすることをしていないことに留意してください。

*7:ちなみに、本書では1919年12月22日になっていますが…。正直、調べるのに苦労しました。こんなことでいいの?と思ってしまいます。

*8:不勉強ながら問題となっている講演を全部読んでいないので、ルツィファーを政治に、アーリマンを経済に結びつけている理由は判然としません。例えば、3分節論では精神=四肢-新陳代謝系、経済=頭部-感覚系、政治=胸部-循環器系という対応させられていますが、これですと均衡点が政治であり、硬化するもの=頭部神経系が経済、流動的なもの=新陳代謝系-腺組織が精神になっています。

*9:ちなみに、シュタイナーは講演録、特に人智学協会員向けのものについては慎重に取り扱うことを強調しました。一つにはシュタイナーがすべてをチェックできないので、様々な誤解や誤記が含まれてしまうこと、何よりもシュタイナーが著書などで取り上げている事柄を前提しているので、それらのことをよく知らない人に誤解を招きかねないからです。これはまさにそう言った典型例と言えるでしょう。この図式はシュタイナーをちょっと研究している人間なら当然わかることなのですから。

*10:シュタイナーも、これらをシュタイナー医学との兼ね合いで取り上げていることを付記しておきます。また詳述は避けるものの、シュタイナーが医療やオカルト身体論の観点から述べていることが、ここで僕が取り上げた事柄と見事に一致していることも、僕の解釈の一つの根拠となっています。

*11:オカルト身体論では、流動プロセス=水のプロセスは新陳代謝組織、硬化=土プロセスは神経組織と考えられ、この生の力と死の力が均衡することで、人間は生命を保っていると考えられています。

*12:ところで、最近放送終了したアニメ「C」ではまさに貨幣価値が信用であることが描かれていました。エンデの経済観、貨幣観からすると非常に面白く、共通点のある作品です。余談までに。

*13:ボイスとの対談で、ボイスが貨幣を法のドキュメントだ、としきりにいっているのはこのことです。

*14:この意味でのエーテルは19世紀頃まで物理学でも想定されていた意味での、振動などを媒介する媒質としてのエーテルと読めます。シュタイナーは自分のエーテルという言葉はそういうものではなく、生命力ないし形成力とでも呼ぶべきものであることを強調しています。

追記:訂正と補論

今日読みなおして、改めて色々と考えていたんですが、ルツィファー的・アーリマン的・キリスト的の適用が短絡的であるという結論に達しました。お読み頂いた方には申し訳ありませんでした。そこで、金の王・銀の王・青銅の王をどう捉えたらよいか、という点をもう少し丁寧に見ていきたいと思います。

ルツィファー的・キリスト的・アーリマン的*1

では、Scheinの問題から改めて始めたいと思います。実は、この講演でシュタイナーはゲーテの『メルヒェン』とシラーの『人類の美的教育に関する書簡』を対称させながら話を進めています。つまり、Scheinというのは、シラーのいう美的仮象のことを指す、と考えられます。ちなみに、本書でも美的仮象の話は出ているのですが、著者はäußeren(外的な、外面的な)という言葉から見かけ、うわべと判断したわけですが、これは既に述べたように外的仮象のことと考えるのが自然です。これは既に述べたように、物質的に現象しているものと考えてよいと思います。また、「des äußeren Scheins, des Scheinlebens」と並置してあるところを見ると、前者を外的な仮象、後者を美的仮象と考えることも可能かもしれません(他の箇所と比較しても、あえてここで同じ言葉を繰り返す必要性がありません)。では、シラーの『美的教育』で、シラーは何を言っているのでしょうか?シラーは、カントの図式に従って、感性的なものと理性的なものとを分けます。そして、感性的なものは自然法則の必然性に、理性的なものは道徳法則(定言命法)の必然性に従うので、この両者の下では人間は不自由である、と考えます。そして、その中間に美的なものを置きます。この美的なもののところでだけ、人間は自由だ、というのがシラーの考えです。つまり、理性-美的仮象-感性というわけです。ここでシュタイナーに戻りますと、シュタイナーは金の王・銀の王・青銅の王をそれぞれ思考・感情・意志に対応させています。*2すなわち、思考=理性・感情=美的仮象・意志=感性という対応関係を見いだせます。更に進めましょう。シュタイナーは人体を頭部-感覚-神経系・胸部-律動系・四肢-新陳代謝系という形で3つに分けます。これもそれぞれ思考・感情・意志と対応しています。*3神経系とは常に死に向かう傾向を持ちます、新陳代謝系は常に生み出すもの、つまり生に向かう傾向があります。さらに、シュタイナーの四肢という言い方には下腹部が含まれ、栄養系や腺組織もこの中に入ります。つまり、四肢-新陳代謝系とは流動するものであり、ルツィファー的です。神経系は硬化するものであり、アーリマン的です。胸部はこの二つの極―上部人間と下部人間―を調停する役割があります。胸部系はキリスト的です。これで、ルツィファー的・キリスト的・アーリマン的という図式を改めて位置づけることができました。まとめますと、金の王=思考=霊我=理性=頭部-神経系=アーリマン的、銀の王=感情=生命霊=美的仮象=胸部-律動系=キリスト的、青銅の王=意志=霊人=感性=四肢-新陳代謝系=ルツィファー的となります。本書で取り上げられている、錬金術のモチーフ、硫黄・塩・水銀と比較すると、硫黄=金の王=アーリマン的、塩=銀の王=キリスト的、水銀=青銅の王=ルツィファー的と対応付けられます。ピンズヴァンガーの論考との関連付けは、先述したような形ではできませんが、本書で一貫して取り上げられている錬金術のモチーフとシュタイナーの『メルヒェン』解釈とは完全に一致を見ることができます。なお、ピンズヴァンガーは水銀を想像力や感情と結びつけているので、ここから水銀を同じように銀の王に結びつけ、硫黄が意志と結び付けられているので、同じように青銅の王と結びつけることは可能です。この点では、シュタイナーの図式と幾つかの齟齬が見られます。

3分節論との対応関係の謎

さて、実はここでずっと引っかかっており、未だに解決していないのですが、シュタイナーは金の王=精神、銀の王=政治、青銅の王=経済を表していると解釈しています。銀の王=政治については、精神領域と経済領域の両者を調停するものと考えられているので問題ありません。つまり、なぜScheinな生活が政治的生活なのかは、シュタイナーの文脈ではまったく明らかです。ですが、問題はシュタイナーは社会有機体3分節論について、精神領域は四肢系と経済領域は頭部系と対応する形で分節できると考えています。つまり、金の王と青銅の王が逆なわけです。これについては、当該講演では政治生活の中で生命霊が生きるのと同様に、経済生活の中で霊人が生きるというようなことが言われているので、思考・感情・意志ではなくて、霊我・生命霊・霊人と関係があるようなのですが、はっきりしたことがわかりませんでした。ただ、シュタイナーは思考・感情・意志の対応よりも、金の王・銀の王・青銅の王を霊我・生命霊・霊人との対応関係があると解釈しており、『メルヒェン』の中ではこの人間の霊的な最高の部分が3人の王によって授けられると言っているので、この霊的な3つの部位と関連しているのは有り得そうな話ではあります。そもそも、シュタイナーによれば、体と魂は既に3つの部分に分節しており、霊だけがまだ曖昧な一体の状態にある、と考えられているので、金・銀・銅を混ぜあわせた4人目の王が現在の人間を表すと言われていることからも、霊我・生命霊・霊人との対応と考えた方がすっきりします。いずれにせよ、なぜこういった対応になるのかがよくわからなかったのですが、著者がそう主張しているように、シュタイナーが1901年の『メルヒェン』解釈を自分の都合に合わせて曲げたわけではないのは、以上のことからも明らかだと思います。齟齬があるとはいえ、これは仮に対応関係を変えれば、解釈と関係なく既に述べた図式と結び付くわけですから、解釈の恣意的変更とは言えないでしょう。

再度終わりに

自分自身が解釈を誤ってしまってお恥ずかしい限りなのですが、一度アップしてしまったものですので、取り下げずに訂正文を書くことにしました。Twitterで何人かの方に好意的な評価を頂いた部分が不意になってしまい残念ではありますが、見過ごせない程度に論理的に間違っていると思いましたので、訂正させて頂きました。お読み頂いた方には、大変な失礼を致しました。心からお詫び申し上げます。

*1:キリストと二つの悪存在については、かなり輻輳的な概念で、ここでは二つの極端な原理とその均衡をとる原理という程度の意味で用いています。

*2:別のところでは、霊我・生命霊・霊人と対応させています。これも思考・感情・意志の対応関係と同じ対応関係を見出す事ができます。

*3:頭部が思考、胸部に感情というのは直感的にわかりやすいと思います。四肢系は意志=行為の実現に主に関わるので四肢は意志の座だとされます。胸部が感情の座であるのは、例えば感情と呼吸の関係を考えていただけるとわかりやすいかと思います。なお、律動系とはリズミカルに動くもの、心臓の鼓動や呼吸を指しています。

社会有機体3分節論について

かなり前から、そのうちまとまった記事を書くとかいいつつ、3分節論のことを全然書いてないので、『社会問題の核心』を再読したついでに少しまとめてみようかと。参考文献は、『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』(イザラ版)、『社会の未来』(春秋社版)、『シュタイナー世直し問答』、『社会改革案』、『シュタイナー経済学講座』、ヴァルター・クグラー『シュタイナー 危機の時代を生きる』など。僕自身はベースとして、それ以外にエンデの対談(特に『オリーブの森で語り合う』『芸術と政治に関する対話』と『エンデの遺言』でしょうか。3分節論(三層化論とも訳されますが、僕の知る限りではDreigliedrungなので3分節論という訳語を採用します。)は、エンデの経済-社会思想、ボイスの社会芸術などに大きく影響を与えた考え方で、最近ではヴェルナーが3分節論の文脈からBIを提唱しています。

背景

最低限のところだけですが、基本なので。シュタイナーはウィーン工科大学に入学するとすぐに「工科大学のドイツ文化図書閲覧室」の会員になり、そこで様々な政治的・文化的問題について議論し、このクラブでの活動を通じて「当時の学問・芸術・文化史・政治の書物を広く知る可能性を得た」(シュタイナー自伝)と述べています。また、20歳前後のこの時期にオーストリア議会を何度も傍聴しました。次に、1888年ドイツ週報という週刊新聞の編集を担当しました。かなり短い期間でしたが、シュタイナーはオーストリアの民族紛争が激化する時期に、こうした仕事を通じて社会問題とかかわり、社会主義者たちともかかわりを持ったといいます。更に、『自由の哲学』を著した前後に、アナーキストのジョン・ヘンリー・マッケイと交流を持ちます。マッケイへの書簡で、シュタイナーはもし問われるならば、自分は個人主義アナーキストである、と(リップサービスもあったかもしれませんが)言っています。ここでシュタイナーの言う個人主義アナーキズムとは、個々の人間が、完全に自由に、その内なる能力や諸力を発展させることだけを望むものを指しています。(細かい点は、以前アップした記事を参照。)なお、自伝にはシュティルナーアナーキズムは、政治領域に拡張すべきではなく個人の内面にとどめておくべきだ、という考えを述べており、3分節論の萌芽が見えるように思います。次は、ベルリン時代、シュタイナーは労働者学校の講師として、労働者たちと直に接しました。誤解を避けるために付記しておくと、シュタイナーが労働者学校の講師になるのに、マルクス主義イデオロギーと無関係に自分のやり方で授業を行うことを条件にしました。最終的には、このシュタイナーの授業のやり方のために講師の仕事をやめざるをえなくなるのですが。また、シュタイナーは人智学協会設立後も、労働者向けの講演を多数行いました。こうして、民族紛争の問題、経済=労働者の問題、人間の内的自由の問題がシュタイナーの社会論の要点と言えると思います。そして、第一次世界大戦を通して、戦時中の1917年初めて社会3分節論の理念へと到達します。1919年には「ドイツ民族と文化世界に訴える」というアピールを発表しました。このアピールには政界・文化界の著名人の署名を集め―例えばヘルマン・ヘッセもその一人―新聞にも掲載されました。そして、この終戦間際から終戦後の期間、精力的に社会問題についての講演を行い、社会論の著書である「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」を著します。大まかな流れとしては、このような流れになります。詳しい歴史的展開については、ヴァルター・クグラー『シュタイナー 危機の時代を生きる』に詳しいですが絶版ですので、小杉英了『シュタイナー入門』にもこのあたりの展開が書かれています。

理念

まず、3分節論の基本理念について。社会有機体3分節化という言葉からわかるとおり、シュタイナーは社会を有機体として捉え、人体とのアナロジーで考えます。シュタイナーの基本的な人体の3分節に頭部系/胸部系/四肢系というものがありますが、人体がこのように3つの機能のまとまりによって、3つの部分に分節化されており、それらがそれぞれは独立に作用し、それらが相互作用することによって統一した活動を可能にしているように、社会も3つの部分に分節化される必要がある、とシュタイナーはいいます。また、頭部系が思考、胸部系が感情、四肢系が意志を司るように、それぞれの部分には独立した原則が存在します。社会も同様に、3つの独立した領域がそれぞれに適した原則によって支配されなければならないというわけです。さて、シュタイナーは社会有機体は政治=法領域/経済領域/精神=文化領域の三つの部分に分節化されねばならず、政治=法領域には平等の原則、経済領域には友愛の原則、精神=文化領域には自由の原則が支配しなければならないと考えます。ご周知のとおり、この三つはフランス革命の三つの理想なわけですが、シュタイナーは自由・平等・友愛の3つが統一国家の中でごった煮にされていることが問題の根源である、と考えるわけです。余談ですが、某所で機能分化を3分節化の衝動と考えている人を見かけましたが、ヴァルター・クグラーは「分析を、こうした三つの原-機構に向けて方向づけるということの不可欠性が認識されることがますます多くなり、方法として成立し始めている。(例えば、ハバーマス、オフェ、ルーマン、フーレルマン等)。それだけに驚かされることは、社会生活の様々な領域における新しい社会理論や改革戦略は、いまだかつて社会のこうした三層化を構築してはいないということである。」と述べています。要するに、分析概念としては分化していても、現実的にはシュタイナーのいう意味で分節化されていない、というわけです*1
さて、シュタイナーは著書・講演の中で、「自分のいっていることは具体例にすぎない、その時々の状況に応じて具体的な制度は考えられねばならない。」「自分がいっていることは、社会的なユートピアではない、社会的なユートピアは存在しない。社会問題は日々生じる、日々生まれる社会問題をその都度解決できる組織を作ることが必要だ。」といったことを強調しています。この点は、例えば若きシュタイナーが理想主義を称揚した「自然と我々の理想」で「自然が毎日、我々が創りだしたものを破壊するとしても、我々は毎日新たな創造を喜ぶことができるでしょう!」と言うシュタイナーの姿勢に通じるように思います。言い換えると、ゲーテの原現象のように、3分節の理念が個々の具体的な社会にメタモルフォーゼする必要がある、ということだと言えるでしょう。そういったことを前提にして、もう少し3分節論の内容に踏み行ってみたいと思います。まず、法=政治領域における平等とは、みんなが平等に関わることのできる領域でだけ民主主義は機能するという考え方に基づきます。例えば、専門的な知識が必要とされるような事柄については、専門家たちが*2熟議することで決定がなされなければならず、素人の多数決によっては決定されない、というわけです。そして、法=政治領域は基本的に社会生活における人間関係を法的に調整することが仕事だとされています。次に、精神領域の自由ですが、これは人間の精神的、文化的活動は自由の原則に基づかなければならないということです。例えば、学校は他からの強制や校長のような管理者によって教育方針を作るのではなく、現場の教師たち=専門家の自由な話し合いによって教育方針を決定しなければならないとされます。ちなみに、エンデは劇場の補助金について触れていて、劇場が政府からの補助金を受け取ることで、自由な芸術的活動が阻害されていると『オリーブの森で語り合う』で指摘していますが、これらのエンデの主張はここから影響を受けているわけです。さて、最後に経済領域における友愛です。まず、友愛という言葉についてですが、シュタイナーはそもそも分業制というのは決して利己主義になりえないと指摘します。つまり、分業体制がそもそも友愛の制度だというわけです。なぜなら、分業体制の中では個々人は自分の為に働くことができず、個々の人間がなす仕事はすべて他人のためだからだ、というわけです。経済領域とは生産と消費に関わるもの全てです。そして、経済は経済連合体によって管理されなければいけないと言われます。ここでシュタイナーが最も強調したのは労働の問題です。シュタイナーは労働が経済領域に含まれてしまう、つまり労働力が売り買いされることを大変問題視しています。報酬と労働とは分離されなければならない、報酬とは労働の結果得られた生産物に対する対価でなければならないというのがシュタイナーの考えです。そして、労働は本質的に経済領域ではなく法=政治領域、つまり社会的な人間関係の分野に属するのだと考えられます―ちなみに、ヴェルナーのBI論では労働は精神領域に属すると考えています―。また、商品とは自然のものを人間(の精神)によって変化されたものだという考えから、土地の私有の問題、つまりただそこの存在する土地を私有することによってお金を作り出すことは間違いだ、という考えに至ります。シュタイナーは経済については『国民経済学講座』などで特に詳しく論じており―老化する貨幣など―、ここでは僕の力不足もあり一つ一つ取り上げられないのですが、こう言った考えがエンデやボイスの経済観に強く影響を与えていることは指摘しておきたいと思います。とまあ、かなり大雑把なのですが、主な理念はこのようなものとなります。詳しくは、シュタイナー自身の著作などを参照して頂ければと思います。

感想

正直なところ、僕自身、そこまで3分節論について詳しく研究しているわけでもなく(勿論邦訳された3分節論関係の著書・講義録はすべて読んでいますが)、あまりうまいまとめができないのですが、最近3分節論の基本書である『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』を読み返して感じたことを書いてみたいと思います。これまで、僕自身3分節論については、個々の事柄や基本理念については一定程度理解していたのですが、ぼんやりしたイメージしかもっていませんでした。しかし、『社会問題の核心』を読み返して感じたのは、要するに3分節論というのは自治の思想だ、ということです。言い換えると、社会に対して自発的・能動的に働きかけていく―ボイスのいう社会芸術を創造する事への参加―、そしてその働きかけがうまく機能するように社会を組織する、そういう考え方なのだと思います。最近、宮台真司さんが「脱システム依存」という言い方で共同体自治について語っていますが、基本的な理念の上では3分節論も脱システム依存、つまり他人にお任せするのではなくて、自分たちで社会を創り上げていく、ということに尽きるのではないか。この点を別の側面から言いますと、最近Twitterでてらまっとさん、ワクテカさんに刺激を受けて坂口恭平さんの『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』を読んだのですが、そこでこんなことが書かれています。「ゼロから「自分が生きるために、何がどれくらい必要なのか?」を考えてみよう。…(中略)…僕たちは明細を見ないまま小切手にサインするセレブのようなものだったのだ。…(中略)…水道代も、電気代も、家の建築費も、税金も、「なぜその金額なのか?」という理由は聞かずに、ただ黙ってお金を払い続けてくれるのだから。」。つまり、経済活動について、多くのことが実はお任せだ、というわけです。例えば、シュタイナーは賃金というのは、あるものをつくるのに必要な期間、その人が生活するのに必要なだけのお金が払われるべきだ、と言います。つまり、「自分が生きるために何がどれくらい必要なのか」を把握して、それによって賃金が決定されなければいけない、というわけです。また、人々は経済の流れを各自で見通せなければならない、ということも言っています。つまり、すべての人が商品の金額の決定過程を知る必要がある、というわけです。まあ、シュタイナーはもっと色々なことを言っているのですが、こういった点を経済領域の自治と捉えられるのではないか、という風に感じます。また、このあたりは宮台さんと飯田さんの対談本で語られていた、エネルギーの共同体自治にも繋がるように思います。ついでに、シュタイナーから離れますが、坂口さんが自動車のバッテリーを利用して、路上生活者の方が必要なときに必要なだけ電力を使っているという話を書いているのですが、スマートメーターの議論を見るようでこのあたりの議論の共通性というものを感じます。余談ですが、このあたりはある種の功利主義にも繋がるような感触があって、長期的に見た社会の持続性を鑑みて損して得取れな戦略を決定できるような経済活動への参加(情けは人のためならず!)、ということではないかとも考えています。この点についても、坂口さんの本で「どんなことでもいい、自分が得意なことを周りのみんなのために使ってみよう。ここではギブ&テイクは通用しない。ギブ&ギブ&ギブしたほうがうまくいく。」とあって、非常に友愛の経済に近い考え方という気がしました。ところで、坂口さんは土地私有の問題についても言及していらっしゃいますが、前述したシュタイナーの土地私有の問題とほぼ同じような議論を展開している点も興味深かったです。前述の本からもう一つ引用しますと、「彼ら(路上生活者)は、何一つシステムを変えることなく、すべてを自らで決断するという勇気によって、自分だけの家、自分だけの生活を手に入れているのである。つまり、社会がどんな状況になろうとも、そこから独立した生き方をしているために、常に主導権は自分自身の手を離れることがない。」。この一文には、前述したシュタイナーの「自然と我々の理想」(以前の記事の私訳参照)や『自由の哲学』の理念を思い出さざるをえません。また、ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)の理想も同様です。簡単にいえば、前例や過去や外的な規則にとらわれず、常に創造的に決定し行動することに人間の自由があるというのがその理念です。そして、シュタイナー教育とは一つにはそのような自由な人間を育てることを目標にしているわけです。ヴァルドルフ学校創設に先立つ、教師たちに対する集中講義の講義録(『教育の基礎としての一般人間学』)の序文でもこの点が示唆されています。3分節論の中でも教育の問題は大きく取り上げられています。またボルシェヴィズムの教育改革批判もこの点に要点があります。少々脱線しますが、3分節論とは、社会生活上の人間関係を法領域において調整し、生活に必要なものを経済領域によって獲得し、この二つが土台となって精神の領域の中で自由を、つまりシュティルナー=マッケイの個人主義アナーキズムの意味での、個々の人間の内面的能力の発展が可能になる、ということなのではないかとさえ思っています(前述した自伝での見解から見ても)。そして、それは取りも直さず、人智学の根幹にあり、シュタイナー思想のすべてに通底する『自由の哲学』の理念なのだと思います。この点は、エンデの経済問題を論じる姿勢にも通じていて、エンデの経済思想というと経済のことだけがクローズアップされますが、よく対談などを読むと、エンデは常に芸術や精神の問題と経済の問題をセットで語っているのがわかります。エンデにとって、この二つの問題は相補的な問題なわけです。そして、僕が見るところ、実は前者にこそ重点が置かれているということがエンデと経済の問題が論じられる際に見過ごされているように思います。いずれにしても、論点は色々とあるわけですが、ごく最近読んだ宮台・飯田対談や坂口恭平さんの本に、どこか3分節論に通底する理念を感じたので、それと絡めて僕の個人的な感想を書いてみました。
ところで、エンデは子安美知子さんとの対談『エンデと語る』で、とても印象的なことを言っています。「今、三層構造の核心に迫ろうとするなら、国際的規模で考える必要がある。それを思うと、全世界の経済を、あれほどユニークな観点で変えていくのは、もう間に合わないという気もします。」。まあ、シュタイナー自身は一国だけでも3分節化は可能であると言っていますが、しかし社会状況がまったく異なっていることは事実です。何より、この対談でエンデも指摘しているように、シュタイナーが3分節論を主張したのは、一次大戦の敗戦直後のドイツの政治的経済的混乱の中でであり、ある意味でラディカルに改革が原理的には可能だった時期だということも考慮すべきでしょう。その意味では、エンデの認識はかなり現実的であるような気がします。一方で、3分節論運動ではヴェルナーを受けてBI論と熟議民主主義の議論が盛り上がっているようです。BI論ですと関曠野さんの社会信用論なんかが、シュタイナー経済学に近いような感じがします。一方で、先ほど述べたような観点からすれば、BIが単にシステム依存を引き起こす可能性も考慮すべきではないかと考えています。また、法-政治領域においてなされるのが妥当かどうかも議論の余地があります。シュタイナーは社会福祉は経済領域においてなされるべきだと考えていたようですが…。最も、ヴェルナーの言っている事の要点は、労働力を経済領域から引き離すということであって、その意味では優れてシュタイナー的なのですが*3。まあ、そんなわけで、僕があまり具体的に3分節論について語らないのは、理解が浅いということもありますが、このような事情で3分節論を巡る議論は、かなり現代的な状況に合わせて考慮されなければならないこと、そして僕が知っている範囲では、この水準では日本ではそれほど進んだ議論が見られないということが一番の要因だったりするわけです。これは現状、僕が見る限りでの3分節論の議論の困難といったところですけれども。エンデが経済についてのいくつかの提案を除けば、それほど具体的なことを語らないことも、この困難があるからだという風に思います。

参考文献

3分節論に関するこの記事で参照した僕が読んでる参考文献です。

  • ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』,イザラ書房(最近、春秋社から新訳が出ました。『社会の未来』も同様)
  • ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,『社会の未来』,春秋社
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『シュタイナー 世直し問答』,風濤社(社会の未来の後の質疑応答集)
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『社会改革案』,水声社
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『シュタイナー経済学講座』,筑摩書房(最近、ちくま学芸文庫で文庫化されました。)
  • ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,『教育の基礎としての一般人間学』,筑摩書房
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『シュタイナー自伝上1861-1894』,アルテ
  • ヴァルター・クグラー,久松重光訳,『シュタイナー 危機の時代を生きる』,晩成書房
  • 今井重孝,『未来を開く教育者たち』所収第二章『シュタイナー教育とシュタイナーの思想』,コスモライブラリー
  • ミヒャエル・エンデ、エアハルト・エプラー、ハンネ・テヒル,丘沢静也訳,『オリーブの森で語り合う』,岩波書店
  • ミヒャエル・エンデ、ヨーゼフ・ボイス,丘沢静也訳,『芸術と政治をめぐる対話』,岩波書店
  • ミヒャエル・エンデ、子安美知子,『エンデと語る 作品・半生・世界観』,朝日選書
  • ミヒャエル・エンデ,『エンデの遺言』,NHK出版
  • 小杉英了,『シュタイナー入門』,ちくま新書

*1:ちなみに、河本英夫さんによるオートポイエーシス論に基づいて考えてみると、これらは分化ではなくカップリングの問題として捉えるべきだと思う。花村誠一さんは河本オートポイエーシスに基づきながら、精神病の様態をカップリングの変化として記述している。人体のアナロジーとして社会有機体を捉えるならば、同様にカップリングの変化として記述可能であるように思える。もっとも、システム論との食い合せはそれほど良くないという印象はある。ただし、シュタイナーが社会問題を論じる際の姿勢は極めて内部観測的であると言えるし、その点でオートポイエーシスとの接合は可能かもしれない。

*2:ただし、シュタイナーが専門家という場合、その分野に精通・熟練した専門的な実務家を考えている

*3:ちなみに、シュタイナーはBI的なことについては述べていません。誤解なきように。ただし、エンデは『オリーブの森で語り合う』の中でBIと同様のことを語っています。

「永遠に幼きものについて」読書会レジュメ

テキスト選択の目的

ミヒャエル・エンデの読書会を行うにあたり、せっかくなのでミヒャエル・エンデの世界観について考えたいと思い、僕がエンデの世界観/芸術観が最もコンパクトにまとまっていると思う「永遠に幼きものについて(Über Ewig-Kindliche)」を選びました。この講演で展開される遊戯/美/超越性/フモール(Spiel/Schöheit/transzendent/Humor)をエンデは自分の詩的風景の4方位(vier Himmelsrichtungen)として位置づけています。言い換えれば、これはエンデの芸術観あるいは世界観の4つの主要な柱といえると思います。なお、「ある中央ヨーロッパ先住民の思い」では文明砂漠の4方位をマルクスフロイトダーウィンアインシュタインといっており、この対比も面白いです。このテキストの核心の一つは、芸術とは価値を生み出し、その経験を通じて人間が治癒される、という点だと思います。これらは特に『はてしない物語』にも通じると思います。詳しいことは、読書会の際に参加者の方々とお話出来ればと思っています。

要約

なぜ自分は子どものために書くのか

この問いからエンデは出発します。エンデは、子どものためではなく、自分の内なる子どものために書く、と語ります。内なる子どもとは、人間の創造性・未来・人間が人間であるもの、つまり人間性であるような内なるものです。エンデはこれをゲーテの「永遠に女性的なもの(Ewig-Weiblichen)」と並置して「永遠に幼きもの(Ewig-Kindliche)」と呼びます*1。ファンタジー形式とは、この内なる永遠に幼きものが捉える彼岸的なもの、超越的なものの実在を語る芸術の形式なのです。

なぜ詩人は書くのか

エンデはこの問いに一般的に言われる神秘的な答え/理性的な答えの二つの答えを検討します。神秘的なものは、詩人は実存的な理由で書かざるをえないのだ、ということ。理性的なものは、詩人は啓蒙的な教師である、というものです。しかし、この正反対に見えるどちらもが共通するものがある。それは、意味に満ちたこと=有意義性(Sinnvoll)と役に立つこと=有用性(Nützlichen)とを同一視している、ということです。エンデはこのどちらでもない第三の立場を取ります。それは詩人は価値(Wert)を創りだし、新しくするものである、ということです。

遊戯(Spiel)

エンデは自分を創作に駆り立てるのは、ファンタジー(想像力)の自由で意図のない遊びの楽しみ(Lust am freien und absichtlosen Spiel der Phantasie)である、といいます。遊戯の本質とは何か。道徳的な説教をしないこと、モラルの外にあるということです。遊戯の最中に要求されることは、ルールを守ることだけです。ルールを守る限りにおいて、参加者は自由に振舞うことができます。そして、芸術の遊戯の体験を通して、人間は頭と心と感覚の統一(Ganzheit von Kopf,Herz und Sinnnen)を回復する、この治癒こそが芸術の課題なのだ、というのがエンデの考えです。

美(Schönheit)と美の超越性(transzendent)

意図のない遊戯を通して人間の統一性を取り戻すもの、これが美です。美だけが、自由な遊びの価値、ポエジーや芸術の価値を決定します。しかし、美は自由な遊戯と関連しているときにのみ、その有効性を保つことができます。美の尺度を現実に適用すれば、すぐに非人間的なことになってしまいます。(cf.誘惑者の日記)さて、美はその本質において超越的なもの(transzendent)です。*2美とはもうひとつの現実から射し込む光であり、その光の中で此岸の世界のありふれたものが、彼岸の世界、超越的な世界、もうひとつの別の現実を開示します。エンデは、唯物論的世界観に対して、価値や意味に溢れた世界観を対置し、生に意味や価値を与えることが詩人の仕事であるとします。

フモール*3(Humor)

遊戯・美・超越性だけでは、詩人は再びスピリチュアルなもの、神秘的なものを教示するグルになってしまいます。そこにフモールが導入されます。フモールは、超越的/内在的、神秘的/世俗的、理想的/現実的といった二値的なものを、同時に肯定します。いわば、フモールはあるがままを受け入れ、あるがままで愛されることを教えてくれる、そういったものです。そして、同時に、フモールには意図がなく自由であり、ここで遊戯へと返っていき、遊戯/美/超越性/フモールは回帰的な円環を作るわけです。

引用

本文から重要と思われる文章をいくつか引用します。僕の解釈上、訳を変更している部分もあります。底本は、Michael Ende,1994,Michael Endes Zettelkasten: Skizzen & Notizen,Weitbrecht(エンデのメモ箱,田村都志夫訳,岩波書店,1996)。

これまでの生涯を通じて、今日、ほんとうの大人と称されるものになることを、私は拒み続けてきました。つまり、脱魔術化され、凡庸で、啓蒙された、いわゆる事実の世界に存在する、あの脱魔術化され、凡庸で、啓蒙された不具の存在に、です。その際、私は偉大なフランス詩人の言葉を思い出します。「我々が全く子どもでなくなったとき、我々はすでに死んでいる。」

まだ凡庸になりきらず、創造性が少しでも残る人間なら、だれのなかにもこの子どもは生きていると、私は思います。偉大な哲学者、思想家たちは、太古からの子どもの問いを新しく立てたにほかならないのです。私はどこから来たのか?私はなぜこの世にいるのか?私はどこへ行くのか?生きる意義とは何なのか?偉大な詩人や芸術家や音楽家の作品は、かれらのなかにひそむ、永遠の神聖な子どものあそびから生まれたのだと思います。9歳でも90歳でも、外的な年齢とは無関係に、私たちのなかに生きるこの子ども、いつまでも驚くことができ、問い、感激できるこの私たちの中の子ども。あまりに傷つきやすく、無防備で、苦しみ、慰めを求め、望みを捨てないこの私たちのなかの子ども。それは人生の最期の日まで、私たちの未来を意味するのです。

永遠に幼きものは―あらゆる外的な利口さの彼方で―(シャガールが描くような不思議なものの)すべてが存在することを知っています。それどころか、それが此岸の現実にすぎないものすべてより現実的であることさえ知っています。

(詩人が書く理由の)二つの答えは俗物的な思考、つまり、意味のあるものを役に立つものとして以外に考えられない思考の帰結です。

価値は自ずからそこにある、いわば生得的な、自明のものではありません。そうではなく、価値は創造され、常に更新されねばなりません。そのことによって、価値は現存する(現前する)のです。あらゆる社会批判は共通の価値を前提にしています、つまり人間の価値です。この価値を常に新しく作り出すこと、それが詩人の課題です。

遊戯はそれが本物の遊戯にとどまるならば、一度として道徳を教えることが出来ません。それはその本質に従えば道徳を超越しているのです。つまり、それはあらゆる道徳的なカテゴリーの外に存在します。

真のポエジー、真の芸術は常に頭とこころと感覚の統一体から生まれ、この統一体を感じとる人間に、再びこの統一体を創りだします。つまり、それは人間を回復させ、癒すのです。

美は、他の世界から我々の世界の中に輝き入るいわば光であり、それによってあらゆる事物の意味を変容させます。美の本質は秘密に満ちた、奇跡的なものです。この世界のありふれたものがその光のなかで別の現実を開示します。我々の誰もがそこからきて、そこへ帰っていき、我々がそれを忘れているにもかかわらず、全人生を通じて憧れ続ける、あの別の現実をです。

このような(唯物論的な)世界像からは、もはや倫理的、宗教的、美的価値を導き出すことはできません。すべては、一番どうでもよい生の機能(nebensächlichste Lebensfunktion)ですら、このような見方のなかでは無意味だし、茶番にすぎないのです。このような世界観に対して、別な世界観を打ち立てねばなりません。世界にはその聖なる秘密を、人間にはその意義を取り戻してくれる世界観です。

フモールは狂信的でもドグマ的でもない。それはいつも人間的だし、優しい。フモールとは、自分の不完全さを苦渋に陥ることなくみとめ、気持ちを楽にしてくれる、あの意識の姿勢です。そしてまた、他人の不完全さも微笑んでうなずける。

おまけ

エンデの他文献から補足になりそうなものを一部。それとエンデとの関係の有無に関わらず、なんとなく僕が気になった思想家の文章を載せておきます。

本当の芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、ほんとうに耐え難いものです。でも、それが舞台という魔術的な次元に移し替えられることによって、ホメオパティー的方法で観客の中に逆方向の力を呼び覚まします。観客をかえって健康にしてくれる力です。それが芸術の秘密です。(ミヒャエル・エンデ/子安美智子,エンデと語る)

エンデ:芝居を見るときの私たちは、舞台上の出来事に対してモラーリッシェ・ファンタジー(道徳的想像力)を実行する必要がありません。オセロがデスデモーナを殺している場に、あなたは制止しに飛んでいく必要はない。が、日常空間のなかでは、だれかがだれかを殴っているのを見たら、あなたはその瞬間モラルの決断をせまられます。
子安:するとその舞台空間と日常空間とは別の世界であること、そして舞台空間でモラルの意識から解放され、犯罪的な行為をもエンジョイすることによってホメオパティーの作用が生じ、私たちはかえって健康になって、日常世界でのモラーリッシェ・ファンタジーも強められる、ということでしょうか…(ミヒャエル・エンデ/子安美知子,エンデと語る)

週の平日には教壇から学生にむかい、人間の意識とは脳と神経組織における電気化学的プロセスの総和にすぎないと宣告する大学教授が、日曜日になると善良な市民、よきキリスト者として教会のミサに出席し、人間の持つ不滅の魂についての説教に耳をかたむけている。この大学教授は一方を信仰し、他方を知る事をうまくやりおおせるのだ。(Michael Ende,Michael Endes Zettelkasten,Gedanken eines zentraleuropäischen Eingeborenenある中央ヨーロッパ先住民の思い)

もちろん、私は―思慮深い人たちの大半が常にそうしており、今もまたそうするように―天使と悪魔、そして叡智存在たちと様々な性質の存在たちによってヒエラルキー的に秩序付けられた霊的宇宙を信じている。(Michael Ende,Michael Endes Zettelkasten,Auch ein Grundこれもまた根拠です)

一本の木の外的形姿の背後になんらかの生の本質的なものが存在します、つまり霊的な性質があるのです―自然のあらゆる被造物の背後にも同様に。愛をもたず、唯物的に(非精神的に)世界をイメージすることだけが、これを疑うことができます。この唯物的な解釈が、まさに我々を自然の荒廃へと導いたのです。私が言うことは、汎神論とは完全に無関係です。(Michael Ende,Michael Endes Zettelkasten,Brief an eine erschrockene Leserinびっくりした女性読者への手紙)

明るいことや軽やかなことも、いやこれらこそ、死を背景にしてはじめて価値がある、特別な価値があるのです。死について知っているということです。これはしかし、語ることではないし、語るべきでもない。おのずから経験として生まれることです。それを私は船の難破と言いました。…(中略)…東京での講演(本テキスト)で、わたしはこのことを少し示唆しようとしました。ユーモアとはおふざけではないし、おふざけや陽気さの一種でもない、ユーモアとはひとつの世界観なのだということをしめそうとしたのです。この世界観は、実は挫折が避けえないと知っていることから生まれるのです。(ミヒャエル・エンデ,田村都志夫編訳,ものがたりの余白)

劇場の観客席からの本当に大きいな笑いは、反省されたものではまるでありません。それは純粋に無意識から、本当にお腹から出る笑いです。「他人の不幸を喜ぶこと」とはまったく関係ない。わたしはこういったことがあります。「精神は語り、心は泣き、知覚は笑う」(ミヒャエル・エンデ,田村都志夫編訳,ものがたりの余白)

エンデの芸術の作用とモラルの関係という論点は非常に逆説的です。分かりにくい部分があると思ったので、子安さんとの対談でかなり明確になっているところを引用しました。また、本文からの引用は少なかったので、唯物論に関連する部分を同メモ箱から少し。訳は変えてあります。メモ箱からですと、書簡二つ、創造力、ファンタジーとアナーキー、ある中央ヨーロッパ先住民の思いなどが参考になると思います。追記:フモールについて、晩年のエンデのインタビューから追加しました。

人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力をもった人だけが道徳的に生産的であると言える。(ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,自由の哲学)

シュタイナー自身は、ディオニュソス的精神の作り出す思想なら、みんな自分で創った思想なのだから、重すぎることはない、というのです。だから楽々と、軽々と、世の中を舞踏家のように踊りながら、笑いながら、思想を担って歩いていけるのだ、と。シュタイナーは、ディオニュソス的精神に由来するユーモラスで明るい生き方をとても大事にしていたのです。…(中略)…ディオニュソスは、もともと苦悩の神と言われていました。苦しみもがいている神様です。苦しみを嫌というほど知っている神様なのです。けれども明るい笑いを好み、軽い生き方を通して、新しい精神を打ちたてようとしているのです。(高橋巌,シュタイナー 生命の教育)

先ほどの引用の道徳的想像力の章から。エンデが芸術体験は道徳的想像力を必要としないと言っている点に注意。エンデの思想とアントロポゾフィーの関連は常に重要だと思いますが、永遠に幼きものについてでは主に芸術論を扱っているため、あまり親和性は高くないように思います。もちろん、世界観に関わる部分ではまた別なのですが。後者は日本のシュタイナー研究の第一人者、高橋巌先生の著作から。エンデがフモールについて述べているところと、高橋先生の言う「軽い神秘学」にとても共通点があると思い引用しました。

幼子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、我が兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていたものは自分の世界を獲得する。(フリードリヒ・ニーチェ,氷川英廣訳,ツァラトゥストラはこう言った)

真の男性ならば、彼の中には子どもが隠れている。それは遊戯をしたがる。(フリードリヒ・ニーチェ,氷川英廣訳,ツァラトゥストラはこう言った)

ニーチェも創造・遊戯・子どもを関連付けているところは興味深いです。後者はエンデが講演中で引用している部分です。前も書きましたが、ボカリウスの伝記によると、エンデは高校生くらいの頃にツァラトゥストラ老子を熟読したそうです。(ボカリウス,ミヒャエル・エンデ 物語の始まり)もっとも、ここで引用した箇所のように興味深い関連もなくはないですが、僕の見る所ではニーチェの影響はそれほど見られません。

詩は、先験的健康を構築するための大いなる術である。ゆえに詩人は先験的な医者である。(ノヴァーリス,今泉文子訳,ノヴァーリス作品集1)

卑俗なものに高い意味を、ありふれたものには神秘的外見を、既知のものには未知のものの尊厳を、有限なものには無限という見かけを与えるならば、私はそれをロマン化したことになる。(ノヴァーリス,今泉文子訳,ノヴァーリス作品集1)

「詩(ポエジー)に特別の名前がかむせられ、詩人に特別なギルドがあるかにみられている」とクリングゾールが言った。「そんな特別なものがあるわけではなく、詩は人間の精神に固有の働きに過ぎないのだがね。」(ノヴァーリス,青山隆夫訳,青い花)

癒しの芸術、ロマン化、普遍的原理としてのポエジー、ノヴァーリスにはエンデに共通したところが多々見受けられます。エンデ自身、ロマン派の中でもノヴァーリスを精神的な父と呼んでいます。

フモールにはまじめで純粋な美が不可欠である。フモールは哲学や文学の、軽やかに澄んで流れる狂想詩の上を漂うことをもっとも好み、鈍重なかたまりや脈絡のない切れ端を避ける。(フリードリヒ・シュレーゲル,山本定祐訳,アテネーウム断章)

初期ロマン派の支柱とも言えるフリードリヒ・シュレーゲルの断章から。ポエジー・ロマン化・イロニーなどはロマン派の中核的概念だと言えるでしょう。それらの概念ほど頻出してはいないと思いますが、フモールや遊びも非常に特徴的なロマン派的概念でもあると思います。

内部的な限界に同意することはゲームのプレイに関するルールを作ることである。ルールは各々の有限ゲームによって異なるであろう。実際、我々がどんなゲームかを知るということは、どんなルールかを知ることによるのである。(James P.Carse,Finite and Infinite game)

ルールは、ゲームのプレイに先立ってつくられねばならない、そしてプレイヤーたちはプレイが始まる前にそれに合意しなければならない。(James P.Carse,Finite and Infinite game)

エンデは『物語の余白』で本書を自分が遊戯について考えていたことを、とても良く表現している、と言っています。ルールとゲームの関係は非常に興味深い問題です。ここから、システム論や言語ゲームとの接続点を見いだせると思っています。未邦訳ですので私訳になりますが、誤訳があったらすいません…。

美というものは単なる生命でも、単なる形態でもあってはならない、それは生命ある形態、すなわち人間に絶対的な形式性と絶対的な現実性との二重の法則を伝授してくれる美でなければならない―と。したがって理性はまたこうも発言しています。―人間は美と一緒にただ遊んでいればよい、ただ美とだけ遊んでいればよい―と。ようするに、これを率直に一言でいってしまえば、人間は全く文字通り人間であるときだけ遊んでいるので、彼が遊んでいるところでだけ彼は真の人間なのです。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

感性的衝動は変化のあること、時間が一つの内容を持つことを欲し、―形式的衝動は、時間が廃棄されること、変化のないことを欲しています。それゆえに自分の中で二つのものが組み合わされて作用しているこの衝動(これに適当な名前が付けられるまで、これを遊戯衝動と呼ばせてもらいますが)、この遊戯衝動は、時間を時間の中で廃棄すること、生成を絶対的な存在と協定させ、変化を同一性と協定させることに向けられているものと言えましょう。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

遊戯衝動の対象は、一般的な一つの式であらわせば、まず生命ある形態とでもいえましょう、すなわち現象のすべての美的な性状、一言で言えば、最も広い意味においてびと言えるものの表示となる一概念です。…中略…ただ単に考えている限り、形態は生命のないものであり、ただ抽象にしかすぎません。ただ、その形式が私たちの感覚の中で生き、その生命が私たちの理性の中で形となってこそ、人間は生命ある形態であり、そしていかなる時でも常に私たちが、美と評価するところのものです。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

美はただひとつの真理をも見つけず、何一つ私たちが義務を履行するのを助けてくれず、そして一言で言えば、性格を築くにも、頭脳を啓発するにも共に不適当なものです。それゆえ、美的教養によっては、人間の個人的な価値とか、ただその価値如何によるところの人間の威厳などは、全然規定されず、さらにその他何一つとして得るものはないのです。要するにただ彼には、自分自身の欲するものに自分自身を作るということ―自分がありたいと思うものである自由を、完全に自分に取り戻すことが、自然に生まれつき可能にされたというだけのことです。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

シラーの美的書簡は、この講演中でも参照されていますが、とても重要だと思います。相違点を挙げれば、シラーが美学的判断をそれ以外の領域にも適用している点だと思います。一方、シラーの遊戯美学は同時代の初期ロマン派に大きな影響を与えました。またシュタイナーもシラーの美的書簡を高く評価しています。いわば、ロマン派、シュタイナー、エンデの接合点としても重要だと思います。

6・42 倫理が言い表しえぬものであることは明らかである。倫理は超越論的である。(倫理と美は一つである。)(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,野矢茂樹訳,論理哲学論考)

6.41 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。―かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,野矢茂樹訳,論理哲学論考)

幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。記述可能なメルクマールなど存在し得ないことも、また明らかである。このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。倫理学は超越的である。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,奥雅博訳,草稿1914-1916)

芸術作品は永遠の相の下にみられた対象である。そしてよい生とは永遠の相の下にみられた世界である。ここに芸術と倫理の連関がある。(ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン,奥雅博訳,草稿1914-1916)

前期ヴィトゲンシュタインから。論考は内在的な観点から言語の限界を引いたといえると思いますが、価値や倫理や美と事実との問題を考える上で参考になると思います。すでに触れたように言語ゲームとの関連も面白いですね。

子どもたちはそれまでは理解を超えていた意味を把握するに至るまで、言葉を弄び、それをつなぎあわせ、それで遊ぶのである。そして最初の遊戯的活動は理解という最終的な行為のために本質的に必要なものなのである。このような機構が成人にあっては機能することをやめねばならぬという、どんな理由もない。…中略…事物の創造と、事物の正確な観念の創造プラスその完全な理解とは、極めてしばしば、同一不可分な過程の部分をなしているのであり、これを分ければその過程は停止せざるをえない。(ポール・K・ファイヤアーベント,村上陽一郎訳,方法への挑戦)

我々は科学と非=科学との分離は人工的であるのみならず、知識の進歩のために有害であるという結論に達する。もし我々が自然を理解したく思うのであれば、もし我々が物理的環境を支配したく思うのであれば、我々はすべての観念、すべての方法を用いなければならず、単にその中からの小規模な抜粋を用いてはならないのである。(ポール・K・ファイヤアーベント,村上陽一郎訳,方法への挑戦)

『ファンタジー神話と現代』のインタビューの中で、因果論的思考のオルタナティブが出てきているという文脈で、ちょうど『方法の挑戦』を挙げています。もっとも、『オリーブの森で語り合う』ではファイヤアーベントの物理主義を批判していましたが。しかし、同『メモ箱』の「創造力」などを読んでいただければわかりますが、創造力への言及では重なるところがあります。

個別の実験について、もはや因果性を論じることはできない。統計的な因果性についてだけ論じることができる。このことは、実は、量子力学の出現以来ずっとそうであったが、古典力学や化学においてさえ乱雑性と確率とが本質的役割を演じることがわかった最近の進歩によって、大きく増幅された。(I・プリゴジン/I・スタンジェール,伏見康治/伏見譲/松枝秀明訳,混沌からの秩序)

散逸構造論で有名なプリゴジンの一般向け科学書から。エンデはハイゼンベルクをよく引用しますが、その意味でなら散逸構造論もかなり興味深いですね。本書でも量子力学相対性理論なども色々と論じられています。

唯物論者は、同じ事実の二つの異なった現われという考えを導入するよう強いられる。しかしこの現れという考え自体が、脳の事実と同一とされないあらわれという事実があることに立脚している。水の現れがH2Oに還元されないのとまさに同じように、痛みの現れはC-神経線維の発火には還元されない。だから、心は脳に還元されないのだ。(コリン・マッギン,石川幹人/五十嵐靖博訳,意識の<神秘>は解明できるか)

エンデは大脳生理学という言い方をよくしますが、エンデが指しているような領域だと脳神経科学の方が一般的だと思います。広義に認知科学と言ってもいいですが。マッギンはエンデとは立場は全然違いますが、反唯物論の論点を参照するのは面白いと思います。

*1:直訳すると永遠に子ども的なるものです。Kinliche Kaiserin幼ごころの君に引っ掛けた訳かと思います。

*2:超越的とは言っても、別の現実、などの言葉からわかるように、内在的な超越性であることに注意。メモ箱ですと「隠れたものの実在」や「これもまた根拠です」などを参照。

*3:邦訳ではユーモアになっていますが、一般的にフモールとドイツ語発音で使うのでここではフモールとしています。

エンデのファンタジーは空想的か?エンデの擁護とSpiel概念

さて、今日『ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と現代』を借りてきて読みました。内容的には、エンデのインタビュー、映画について、ボイスとの対談についてで、僕個人としてはアントロポゾーフ*1がインタビュアーのため、エンデが普通の対談ではなかなか直接は言及しないアントロポゾフィーについて、かなり突っ込んだ話をしていて新鮮で面白かったです。が、解説がエンデ本のはずなのに、むしろ(正統派?)アントロポゾーフ的な観点(と僕は言いたくなるのですが)から書かれており、かなり批判的な内容だったので、少しそのことについて書いてみようと思い、久々のブログ更新と相成りました。一応、参考文献名は逐一挙げていきたいと思いますが、僕の記憶によっているのでご承知おきください。また、それほど長々と書くわけにもいかず、かなり素描的なものにとどまること、僕自身理論構成について構想中のものも含まれること、僕が用いる個々の概念道具についていちいち詳しい説明を省いている点はご了承ください。

問題点

この本の解説では、ゲーテ的想像力を想像力、エンデ的想像力を空想力と呼んでいる。僕はゲーテにそれほど詳しくないので、そちらについての言及はしないが、解説では「人間には、空想とは別にもう一つ、たとえば<夏>という言葉から、冷たい水を引っ掛けあう川遊びや、セミを思って木立の間を駆け回ることをイメージするような、自然や生命に沿ったファンタジーもある。これを筆者<想像力>と呼ぶことにする。」とある。一方「エンデが、ファンタジーを強調せんとするあまりに相対的に過小評価する論理性も、それがすっかり取り払われてしまったら、悟性とともに人間理性までもが失われる可能性のあることを忘れてはなるまい。…ロマン的な空想力が、自由な人間精神の働きの一要素として、大きな創造力となっていることも一つの事実である。それは文学世界では、現実とは隔絶した虚構世界を司る<遊びのルール>を構想する力でもある。」とある。ある意味、アントロポゾーフらしい言い方である。*2本題に入る前に、僕自身の立場を予め表明しておくと、エンデがロマン的(正確にはドイツ・ロマン派的)であることは確かであり、エンデ自身がロマン派の継承者であると自認している。もっとも、エンデ自身がクリッヒバウムのインタビューの際答えているように、エンデはロマン派を空想的な(いわゆるロマンチックな)ものではなく、その根底には明晰な思考がある、と考えている。(cf.闇の考古学)いずれにしても、ファンタジーに偏る傾向性がエンデにあるというのは当たっていると思う。言い換えると、ステートメントなどにおいても、哲学的な形で表現することを好まないということだが。エンデ自身、自分には問われたことに対してパッと答えがでるような哲学体系は持ち合わせていない、と言っている。(cf.だれでもない庭)また、エンデのシュタイナー解釈がいわゆる正統派ではなく、自己流に解釈されたものであることも確かだろうし、すでに僕は何度も言及してるけれど、例えばフリードリヒ・ヴァインレープなどの影響や他の神秘主義からの影響が強いことも確かだろう。(cf.ミヒャエル・エンデ 物語の始まり)それと最後に、僕自身がいわばエンデ「信者」であって、かなりエンデ寄りであること、僕は僕自身のエンデ解釈に従っているということだけは言っておきたいと思います。ただし、僕はエンデの考え方をエンデの対談やメモ箱など、小説などの作品からではなく直接語られたものから解釈しているということは付言しておきます。

エンデは空想的か

第一に、エンデは本当に空想的なのか、まずはこの点について考えていきたい。まず、重要なのはエンデのSpielの概念である。通常、遊び/遊戯と訳されるが、ゲームとか演劇のような意味もある。エンデは、美的な領域にある事柄を倫理的な領域に適用することに、様々な対談等で繰り返し注意を促している。例えば、観劇の最中ならば、劇中で誰かが殺人を犯しても、観客はそれを阻止しようとはしない。演劇の中では善も悪も等価なのである。しかし、これが現実世界で起こった場合はその限りではない。さて、この違い=区別は何によって成り立つのだろうか?それこそが、Spielであり、Spielのルールなのである。エンデは遊戯にはルールがある、ということを再三強調している。そして、参加者はそのルールに従わなければいけない、と。この本のインタビューでは自身の創作法についての言及のように読めるが、エンデのSpiel概念はそこだけにとどまらずもっと広い範囲を持っている。(cf.ものがたりの余白・エンデのメモ箱「永遠に幼きものについて」)ルール=制度はゲームの境界を生成し、ゲームの領域を確定する。言ってみれば、システム/環境の差異を生み出すものがゲームのルールなのである。ゲーム内での行為連鎖はルールの範疇にあるときにのみ、そしてそのゲーム内の文脈に従うときにのみ意味がある。仮に、このゲーム内での行為を他のゲームに持ち込むとしたら、それは異なるゲームのルールに違背する大きな間違いになるだろう。そう、先程の劇の例のように。エンデはこのことを例えばキルケゴールの『誘惑者の日記』を引いたりして、何度も説明しているのである。エンデはルールが明文化されたものかどうかを言明していないと思うが、おそらくこれについて完全に明文化することも、言及することも不可能である。これは例えば、ウィトゲンシュタインパラドックスを見れば十分だろう。*3また、このことは参加者がルールに従うということと矛盾するわけではない。原理的にルール自体は完全に明文化され、知ることができなくても、参加者たちはルールへの合意が可能である。例えば、数列1・3・5…の規則はウィトゲンシュタインパラドックスから確定不可能である。しかし、これがゲームとして行われるならば、プレイヤーは奇数数列のゲーム規則として合意できるし、プレイヤー間の合意がある限りにおいて、この数列の規則は奇数の数列であるとしてゲームを展開可能である。そして、この規則は同時に変更可能でもある。参加者が異なる規則に従う数列のルールとして合意すれば、これは異なる規則のゲームとして展開可能なのである。さて、ここから帰結するのは、ゲームのルールを作り出すのが空想力(あえてこの用語を使うが)ではない、ということである。ルールはルールとして、ゲームが始まる(システムが作動する)時にそれとしてあるのであり、そのゲームの成り立ちそれ自体がゲームとそれ以外とを分けるのである。つまり、プレイヤー間の行為連鎖そのものが規則として遊戯空間を分出するわけである。*4だからこそ、エンデは例えば『モモ』の創作の際、どうやったら時間泥棒はモモからだけ時間を盗めないのか、あるいは、バスチアンはどうやったらファンタージエンから戻ってくるのかという問題について、ゲームのルールに従って答えを導き出すのに多大な時間をかけたといえるだろう。それどころか、ゲームのルールに従う、ということは空想力の暴走を防ぎ、一定の領域(ゲームの中)に収めるのである。ゲームの中では、すべてが自由であり恣意的であるがゲームのルールに従う限りにおいて、なのである。これは例えば、映画版『ネバーエンディングストーリー』でバスチアンがファンタージエンの力を使って、現実世界のいじめっ子に仕返ししようとしたというシナリオ改変に、エンデが激怒したことからもわかるだろう。あまり作品を例として挙げたくないが、以上のことを、『はてしない物語』の内容に沿って少し分かりやすく言ってみると、バスチアンはファンタージエンではなんでもできる。それは「汝が欲することをなせ!」という一つのルールである。しかし、例えば、彼は幼ごころの君には二度は会えない、またファンタージエンのものを人間界に持ち帰ることもできない。このルールを破るものはゲームから除外される。そう、元帝王たちの都の住人のように、である。この観点から『はてしない物語』論を展開することも可能だが、このあたりにしておこう。まとめるとこういうことだ、たしかにエンデはファンタジーの自由な遊びを重視する、ただし遊びが遊びとして成り立つ限りにおいて、つまり遊びのルールに従う限りにおいて。そして、その遊戯空間においては、現実から遊離していること、虚構にいることが一つのルールですらあるのである。そのため、エンデが遊びを強調する限りにおいて、それは空想的なファンタジーの領域と、現実世界とを画然と分けることなのである。

エンデは論理を軽視しているのか?

次の論点に移りたい。これはエンデが様々な対談で、唯物論的思考、因果論的思考を(特にこの解説で取り上げられているのは因果論的思考)批判している点、そして因果論的思考の軛を脱するにはファンタジーが必要であり、それによって人間の自由が得られる、と言っていることに由来していると思われる。この点、最初に最も象徴的で僕が一番好きなエンデの作品中の言葉を引用しておこう。『サーカス物語』の一節、「お前は、自分の認識しないものは価値がないというのか?そして、ファンタジーは現実ではないというのか?しかし、未来の世界はファンタジーからしか生まれない。我々は自ら創造するものの中でこそ、自由なのだ。」つまり、エンデが批判するいわゆる論理的思考というのは、因果論的思考であり、スピノザ的決定論、あるいはアインシュタインの有名な「神はサイコロを振りたまわず!」という決定論的な思考様式なのである。*5まず一つ指摘できるのは、現代的に言って自然科学的認識に沿った意味での思考が、すでに素朴な因果論的には捉えられない、ということは例えば複雑系の議論などを見れば自明ではないだろうか。つまり、こう言った点を見てみれば、エンデ自身はむしろ新しいパラダイムを見据えていると言えるし、エンデが論理を軽視しているとはとても言えないのではないだろうか。エンデがいっているのは、こういうことである。因果論的思考はファクトのことしか扱えない。それだけでは人間は生の意味や価値、倫理などといったことを獲得できない。それが可能になるのは、因果思考のゲームではなく芸術や宗教のゲームだ、ということだ。そして、そのなかで芸術、特にエンデ自身の創作活動の範囲においては、狭義の文学ジャンルとしてではなく広い意味でファンタジーの自由な遊びを実現することで、このようないわば「語りえぬもの」*6を体験するような物語をつくろうとしたし、その意味でファンタジーを擁護するのである。*7つまり、論理的思考とファンタジーのゲームは完全に分離されているのであって、どちらかを軽視するとか重視するというわけではない。あえて言うなら、エンデ自身の立場からファンタジーへの言及が多くなるということはあるかもしれないが。ただし、純粋に論理的な思考の領域においては、物事は全く正反対のものが同程度に確からしくありうるのである。この点は、シュタイナーも事あるごとに指摘している。つまり、抽象的に思考する限り、人はある立場を論証することも、同じくらい確かな仕方で反証することもできる、というのである。つまり、判断の基準は基本的に価値の領域にしか存在せず、そのためにファンタジーの領域が必要になるというわけだ。
さらにこの解説ではエンデは、シュタイナーのモラーリッシェファンタジー(道徳的想像力)*8のファンタジーを空想的想像力へと翻案してしまっている、と言っている。そこで、エンデの考えにできるだけ沿う形で、自由とモラーリッシュファンタジーについてひとつだけ書いておきたい。解説では、モラーリッシュファンタジーの想像力とは、倫理的なものである限りの想像力である、と語られているが、エンデは子安美知子との対談で、アントロポゾーフはモラーリッシュファンタジーというとき、モラーリッシュ(道徳的)ということにアクセントを置くが、これはファンタジー(想像力)にアクセントを置くべきだと語っている。そして、道徳的想像力の反対は非道徳的想像力ではなく、道徳的不毛である、と述べている。*9一歩踏み込んで、エンデの想像力(空想力)とシュタイナーの道徳的想像力と違っているとは必ずしも指摘できないということを、ここで展開したSpielの考えに従って『自由の哲学』の一部を見てみることで例示してみたい。ただし、これは多分に僕の解釈が入り込んでいるので、エンデのそれではなく、あくまで遊戯=空想的=非論理的であり、道徳的想像力とは別ものである、という考えに対する一つのアンチテーゼとして考えていただきたい。シュタイナーは『自由の哲学』で「道徳的想像力と道徳的理念能力は、それらが個人によって生み出されたあとにならなければ、知識の対象には成り得ない。しかしそうなったあとでは、もはや生活を規定しない。すでにそれを規定している。それらは他の一切の諸原因と同じような作用する原因として理解されねばならない。(それらの原因を目的として捉えるのは、もっぱら主観だけである。)」と言っている。つまり、個人の行動があり、それが事後的に観察されることで倫理規則が得られるが、それは予め行動を規定するのではなく、事後的に見出されるに過ぎない、と言っているわけである。このことを本論の観点から述べるとこうなる。ゲームの参加者は、ゲームの内部/外部の区別をつけない(付けられない)参加者として自由に振舞う。その参加者たちの行為連鎖を一定の規則=ルールのもとに見る観察者が事後的に遊戯空間を分出するものとして=システム/環境(構成素/環境)の差異として見出すのである。この時、注で述べた倫理的/非倫理的の区別の先取は問題にならない。なぜなら、自由な行為それ自体が倫理的遊戯の空間を分出し、事後的に見出される固有の倫理規則によって区別するからである。
いずれにしても、ここで言われている、「論理的」ということが何のことをいっているのかはっきりしていないので(当然だがそれは自明なことではない)、少々曖昧になってしまったが、エンデが少なくとも論理的なるものを軽視したりしていないということは、はっきり言えるのではないか。もっとも、ファイヤアーベントやヴィトゲンシュタインを非論理的であるというならば別だけれども。もちろん、エンデはシュタイナーを完全に踏襲しているとは言いがたい部分はある。とりわけ、シュタイナーの哲学的認識論の議論に関わるようなことは基本的にはそれほど言及していないし、自分の立場を一貫した形で示すこともそれほど多くはない。しかし、そもそもエンデ自身、何かの思想の布教者やグル、活動家を目指していたわけではないのであって、これは当然のことと言えるだろうし、そこからエンデが論理的でない、などというのはただの短絡である。なお、この解説では、思考ということも言われているが、僕の考えではこれは完全にシュタイナーの解釈問題なので、本論では触れないことにする。というのは、エンデはその点にそれほど詳しく触れているわけではなく、それはあくまで「僕の」シュタイナー解釈になるということだからだ。*10ひとつだけ指摘するならば、空想的だろうとなんだろうと、イメージする力それ自体が思考の領域に含まれるはずだ、ということである。無論、夢のイメージのようなものは別だけれども。しかし、思考システムが自己言及的に作動し、オートポイエーティックな作動を通して本質的に外界と独立にイメージを生み出すことができ、かつ思考システム(とコミュニケーションシステム)だけが再帰的自己言及作動(思考の思考)を行える(河本)点こそ思考の特殊性である、とは言える。つまり、思考という言葉でイメージされる領域があまりに狭すぎると思う。さて、まとめの意味で、作品から少し見てみると、『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』では、因果論的に辿ってきた旅の終りに、さらに旅を続けるための(つまりゲームを続ける為の)新しいルールに従った、新しい非因果論的ゲームを続けるという話になっている。これは、先ほど指摘した意味で、因果論的思考が支配するゲームから、非因果論的なゲームへの転換だと言えるだろう。注目すべきは、因果論ゲームを突き詰めた上での転換という点であって、この点についてもエンデは色々と言及している。特に、ゼロ点突破の繰り返しということは繰り返し強調していて、ある焦点を過ぎると以前と同じように見えるが本質的に全く別物の(あるいは進化した)ものが現れるという考えである。(cf.芸術と政治をめぐる対話)そう考えれば、因果論的思考を突き詰めることは、エンデにとっても前提になっており、思考や論理を軽視しているとはとてもいえない。また、余談だが、思考とゲームということでドゥルーズは『意味と論理学』でこんなことを言っている。「理念的なゲームは、思考されるしかないし、しかも無‐意味として思考されるしかない。まさしく、理念的なゲームは、思考そのもののリアリティである。理念的なゲームは、純粋思考の無意識である。」「このゲームを思考の中以外でやろうとしてもなにも到来しないし、芸術作品以外の成果を生産しようとしても何も生産されない。したがって、理念的なゲームは、思考と芸術のために確保されたゲームである。」ドゥルーズの言うゲームとエンデのSpielを同一視できるかどうかは疑問だが、しかしエンデのいう芸術における無意図的で自由な遊戯(Spiel)を思い起こさせないだろうか。
ところで、この論理的か否かという問題について、少し脇道にそれた話をしたい。とはいえ、次の節へのつなぎにもなるかもしれないけれど。エンデの思想*11に言及されるとき、一般には貨幣論、あるいは経済問題への言及が取り沙汰される。一方で、エンデがファンタジーを重視すること、あるいは彼のアントロポゾフィー的、あるいは神秘主義的世界観については、言及されないことがほとんどである。あるいは、作家の個人的な空想に過ぎない、というような受け取り方。これは個人的なことであまり重要じゃない、という態度である。これについては、僕は何度か言及しているが、エンデは貨幣や経済の問題を語るとき、必ずといっていいほどセットで内面の荒廃について語っているのである。つまり、この二つ、内面の問題と外面の問題は双生児的であり、相補的な関係にあるのであって、どちらかが重視され、どちらかが軽視されていいものではない、というのがエンデの基本的な立場である。(cf.物語とはなにか)この内面と外面とは、ファンタジーと論理、と言い換えてもいいだろう。つまり、通常ファンタジーの問題、内面の問題が軽視されるか、よく理解されていないというのが僕の印象なのだが、ここではむしろエンデが内面を重視しすぎるということに力点が置かれているわけであり、先程いったように、内と外の相補性は全く無視されているといわざるをえないのである。

エンデは社会問題に対して空想的か

無論、ここで言われているのは社会3分節論の空想性とは全く関係ない。率直に、普通の視点からいえば、3分節論自体が空想的と取られても仕方がないと思うが…。ここでは、ボイスとの対談が挙げられており、アクティビストのボイスに対して、エンデは所詮書斎派であり、社会問題の改革に対してすらファンタジーを持ち出してきて、それゆえにあまりに現実に対して無力である、そして、空想的であるがゆえにエンデが3分節論を語るときは具体性に欠ける、といった論調で書かれている。さて、僕も3分節論の基本文献くらいは抑えているが、そこまで集中的に研究したわけではないので、エンデとシュタイナーの異同やエンデとボイス、どちらがシュタイナーに近いかのような議論は行わない。また、二人の芸術観の違いにも基本的には立ち入らない。問題は、エンデが社会問題に対して空想的かどうかという点で、エンデを擁護することだ。まず、エンデが作品だけでなく、個人的なレベルでも政治的コミットメントを(普通以上には)していないことは確かである。また、芸術による意識変革こそ芸術が真に政治的なものに作用することができるということも繰り返している。*12エンデはゴッホのひまわりは当時のあらゆる政治的活動より人々の意識を変えた、という例をよく挙げる。エンデの3分節論への指摘でもっとも重要視すべきなのは、おそらくエンデが子安との対談で現代ではシュタイナーが考えたような形で大改革を行うことは不可能だろう、と述べていることだ。(cf.エンデと語る)これには一定の説得力がある。なんといっても、シュタイナーが3分節論を唱えたのは一次大戦後のワイマールで、なのだ。つまり、その時は抜本的に立て直すことが可能であった。しかし、現代においては、すでに一国の経済システムをラディカルに変えることは不可能に近いだろう。シュタイナーの時代ならば、せいぜいヨーロッパの範囲に収まったかもしれないが、すでに経済活動はグローバルな範囲の活動なのだから。つまり、シュタイナーが3分節論を唱えたときと時代状況が全く違うのである。それは例えば直接民主制についても言える。東浩紀が指摘するように、情報環境の変化は直接政治に関われる範囲を劇的に広げたといえる。この時点で、シュタイナーが構想したものとは異なる民主制を構想可能であるはずだ。もっとも、誤解のないように言えば、東自身は直接民主制を支持していないが。シュタイナー自身、自分が語っている制度は、あくまでありうるモデルの一つであって、3分節論の理念に従って現実に即した制度を考えるべきだ、というようなことを述べている。つまり、3分節論的な制度は、3分節論の理念に従う限りにおいて、その都度その都度、創造的に考えられなければならないのである。こういった点から察するに、エンデは現在の時代状況に即した3分節論的制度をどうすべきか、その点についてのビジョンを構築しえなかったのだろう。実際、これを現実的なものに練りあげるのは極めて難しい。*13そのため、エンデの3分節論が具体性を欠くのは当然だし、このことについて少なくとも対談を読む限り、ボイス自身明確で現実的な案を出していたとは僕には思えない。
もう一点、意識の改革の話に移ろう。すでに述べたように、意識か制度かはエンデにとって相補的な問題であり、鶏が先か卵が先か問題なのである。ただ、エンデは芸術家として自分の領域で意識の改革の必要性を主張したということだ。そうでなければ、例えば、貨幣論にあれほど繰り返し言及したり、あれほど熱心に貨幣について研究しなかっただろう。(cf.エンデの遺言)つまり、エンデは制度も意識もどちらの改革にも取り組まなければいけない、そして、制度をラディカルに変えることは現実的に不可能に近く、自分の領域でもないので、芸術を通して意識の改革に取り組むことが自分の出来ることである、と考えていたのではないか。いずれにせよ、エンデはかなり現実的に3分節化を思考しており、決して空想的とはいえない。むしろ、僕からすれば、シュタイナーの言うとおりの3分節化が可能であると考えたりする方が、はるかに空想的、いや妄想的とさえ言える考え方のように思える。エンデの意識改革の試みがうまくいったかどうかはわからない。しかし、ボイスの活動もそれほど大きな成果を産まなかったであろうことも言えるのではないか。とはいえ、僕自身はボイスの活動について詳しいことを知らないので、この点を批判したり論じたりするつもりはないのだけれども。エンデとボイスの違いについては、また機会があったら述べたいと思う。意識の変容の話に戻るならば、宮台真司がよく例に挙げるが、スローフード運動などを見ればこれこそ意識の変革の成果だ、といわざるをえないのではないか。意識の変容は、たしかに直接観察できるわけではない。そのため、実際、どういう影響関係にあるのかはわかりにくい。しかし、デモ行進にエンデの本を掲げた人たちは、やはり何がしかの影響を受けたのだと考えるのはそれほどおかしいことだろうか。また、制度と意識の点について言えば、例えばシュタイナー教育の奇異な方法論(形式)だけ模倣して、子どもに対する意識を変えない人たちをアントロポゾーフたちはシュタイナー教育と言わないのではないか。つまり、制度を変えれば意識は変わる、と考えるのは無意味だし、意識が変われば制度が変わるというのも無意味であって、それらは相補的であり両方を変革する必要があるのである。*14その意味で、エンデは極めて現実的に考えていたと言えるだろう。
補足的に、エンデがシュタイナーの<精神>の領域における自由を、空想的自由に置き換えている、と言われているが、これはエンデのファンタジーの問題を論じたときと同じことが言える。<精神>の領域にも様々なゲームが存在するのであり、それぞれにルールが異なる。言ってみれば、自由を原則とすべきゲームの集合が<精神>の領域に属するのである。例えば、教育のゲームを考えてみよう。エンデは教師は創造的に生徒とかかわり、常に創造的な方法でことに当たらねばならず、その意味で教育とは一つの芸術だ、と言っている。この時の、教師の創造性とは恣意的想像力=空想力による創造性だと言えるか。当然だが、教師の働きかけは生徒を前提にする。つまり、生徒に対してよい教育を行うことを目的にするならば、その自由は当然制限される。この点について詳述するのは、目的とそれるので簡潔に述べたが、すでに述べたようにゲームを行うこと(あるいはシステムが作動すること)それ自体が、空想的恣意性をルールに従う限りにおいて制限するのであり、社会的なレベルに適用しようとも、決して空想的とはいえないのである。また、実存哲学との比較が行われていたが、エンデと比較するならサルトルではなく、キルケゴールヤスパースにすべきだろう。エンデに実存哲学的なところがあるのは確かだが、それはエンデの言い方ではヤスパースの挫折の哲学などに代表される、船の難破や失敗の神秘に関わるものである。つまり、実存的危機の経験とそこからの飛躍、あるいは変容といった問題であって、自由の問題とは原則的に無関係である。

終わりに

さて、正直、あの解説を一度に読むことができず、何度も何度も中断しなければいけなかった。それくらい、僕の気に入らないもので、無理解、もしくは誤解に満ちているように思ったので、その思いのたけをぶつけてみた。ここまで読んでいただいたならご理解いただけたかと思うが、僕の考えでは、何よりもエンデのSpielの概念と射程を、全く見誤っていることが最大の原因である。つまり、通常の意味での<お遊び>とみなしてしまったわけである。しかし、僕はエンデのSpiel概念はエンデの思想の中核であり、最も奥深いものであり、かつ言語ゲームやシステム論と接続することによって、十分現代的で論理的な考えとしてまとめることができると考えている。いずれにしても、このSpielの奥深さ、論理性、射程を掬いきれなかった時点で、僕には誤解しか見いだせないのである。エンデが言うように、ロマン派とはそのファンタジーの戯れの素地に、煌めくような論理を秘めているのである。(ノヴァーリスを見よ!)この記事を書くに当たって、エンデの様々なステートメントを参照しているが、これについてはエンデボットに使った文献として、別記事として後日コメントをつけてまとめたいと思っている。それ以外には、何度か言及したがヴィトゲンシュタイン言語ゲームと『論考』の思想、河本英夫オートポイエーシスシステム論、宮台真司のシステム論などを参照にしている。さて、自分で考えていたより随分と長くなってしまったが、ここで終わりにしたい。いくつかの点では、様々な理由で不十分であると思われるがその点はご勘弁願いたい。

*1:ルドルフ・シュタイナーが創始したアントロポゾフィー(人智学)にコミットする人たち。明確な定義はなく、広義にはシュタイナーの思想に共感して活動する人たち一般を指す。エンデ自身は自分がアントロポゾーフかどうかは当のアントロポゾーフたちが決めること、と一定の距離を置いている。

*2:アントロポゾフィーには、ルシファーとアーリマンという二つの悪魔的力の概念がある。そのうちルシファーは、空想に熱狂する力、利己主義的な力として考えられている。つまり、アントロポゾフィー用語で言えば、エンデはルシファー的だ、と言っているのである。

*3:ここまでの内容でご周知のことと思うが、僕はエンデのゲーム概念について、ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論との類似性について考えており、接続可能であると構想している。

*4:エンデは遊戯空間と現実とを明確に区別することも強調している。(cf.オリーブの森で語り合う)そこでは、テヒルの演劇論に対してフィクションをフィクションとして知らしめる舞台装置の必要性が語られている。また、エンデが嘘とフィクションの区別を時にピカソステートメントを引用して(cf.エンデの読んだ本)繰り返し強調していることも考慮するべきである。

*5:一方で、エンデは必ずしも自然科学的認識や成果や探求を否定しているわけではないのでその点は注意されたい。エンデは人間の生の価値に関する領域においては、因果論的思考だけでは人間の生は干からびてしまう、と言っているに過ぎない。

*6:無論、前期ヴィトゲンシュタインの「論考」の7である。本論の文脈で言えば、必ずしも全部が一致するとは言えないにせよ、前期ヴィトゲンシュタインはまさに論理的にファクトの世界の外に意味や倫理や美はあることを導き出したといっていいだろう。

*7:エンデが自分の芸術の課題を癒しだというのもこの意味においてである。人間の全一性、あるいは価値や意味などを再び見いだせるような体験を行える芸術である(cf.エンデと語る)。

*8:シュタイナーの哲学的主著『自由の哲学』で提唱された概念。自由な人間は過去の前例などにとらわれず、理念界から自ら取り出した理念に従って、常に新しく創造的に行為をする、そのために必要な能力がモラーリッシュファンタジーだと言われている。

*9:僕には僕なりの見解があるけれど、それについては本論では詳しく言及しないことにしたい。というのは、それはすでに僕のシュタイナー解釈問題だからである。しかし、ひとつだけエンデに援護射撃を行うならば、もし道徳的想像力による行為が、予め道徳的なものとして想定されているとしたら、そこに自由はあるのだろうか?というのは、その場合、倫理的なるものと非倫理的なるものの境界が予め設定され、何が倫理的かについての基準が先取されていないといけないのではないだろうか。しかし、そうだとすれば、それはシュタイナーが批判したカントの定言命令とどんな違いがあるのか僕には理解出来ない。

*10:とはいえ少しだけ示唆しておくと、私見ではシュタイナーが『自由の哲学』で思考という言葉を使うとき、明らかに僕らが通常使う意味とは違う意味でも使われている。とりわけ、後半はそうである。僕自身の解釈では、シュタイナーが「生きた思考」と呼ぶ思考のモードは、普通僕らが思考と思いなすものとは全く別ものであり、論理性という範疇では捉えられないものである。

*11:ところで、僕はエンデ思想なる言い方が好きではない。エンデは思想家ではないし、思想というには体系化されているわけでもなく、断片的なステートメントを集積してなんとか輪郭が見えるという体のものだからだ。もちろん、これはエンデが考えていたことの内容を軽視しているわけではないが、それは本論を読んでいただいている方には十分理解してもらえると思う。

*12:これは芸術作品が直接に政治的な思想やイデオロギーといったものを表すべきではない、という批判の文脈で語られる事が多いことは注意。

*13:私見では、日本のアントロポゾーフがヴェルナー経由のBI理論に殺到するのも、このことと関係があるように思う。BIそれ自体が3分節論的かどうかについては僕自身は懐疑的だが(とは僕はBI肯定派だけれども)、BI自体はそれなりにありうる(それでも人によっては空想的とみなすだろうが)議論だからだ。

*14:ちなみに、制度と意識、どちらを変えるかを問うのは馬鹿げたことだ、その両方が必要なのだ、とはシュタイナー自身も言及している(cf.社会改革案)。

若きシュタイナーと個人主義的アナーキズム

とある本を購入しようかどうか迷っていて、ちょっと検索かけてみたら、シュタイナーのジョン・ヘンリー・マッケイ宛の書簡が面白そうだということが判明し、それを原文で読んでみたものの、今日届いた当該の本(『シュタイナー危機の時代を生きる』)に全訳が載っていて絶望している僕です。まあ、しかし、せっかくなので僕訳を載せてみようと思います。なお、シュタイナー読みならば当然知っていてしかるべき人物ですが、マッケイについて簡単に述べれば、ドイツのアナーキストであり、ヘーゲル左派の思想家マックス・シュティルナーをドイツに逆輸入したアメリカの社会思想家です。彼自身、シュティルナー思想に傾倒したアナーキストであったようです。ついでに言うと、シュティルナーはシュタイナーが影響を受けた思想家で、とりわけニーチェとの対比で若い頃のシュタイナーはよく言及しています。シュタイナーとニーチェという関係については、よく言及されますが、僕は同じ思想のラインとして、シュティルナーとシュタイナーにも注目すべきだと思っています。もっとも、シュティルナーは著書も少ないので仕方がない部分もありますが…。あと、書簡に出てくる「暴力」と「権力」はどちらもGewaltです。
さて、件の書簡はそこそこの長さの上に、相変わらず僕の低いドイツ語力で訳したものなので、読みづらいと思います。なので、忙しい人のための要約を書いておくとこんな感じです。シュタイナーは、マッケイと自分の立場は同じであることを述べ、自分がもし「個人主義アナーキスト」かどうかと聞かれたら、無条件にそうだと答えねばならない、という。そして、そのために「個人主義アナーキスト」と「プロパガンダ行為」を区別する必要があるとし、この二つの差異を述べる。シュタイナーは、「個人主義アナーキスト」は個々の人間が、完全に自由に、その内なる能力や諸力を発展させることだけを望むものだとする。そして、そのために「個人主義アナーキスト」は権力・暴力によるあらゆる自由に対する抑圧に対する闘争者である。それは国家であると同時に、ルケーニ*1やカゼリオ*2のような暴力行為に訴えるアナーキストの行動(プロパガンダ行為)に対しても同様である、とする。
これがシュタイナーが述べる、「個人主義アナーキスト」と「プロパガンダ行為」の差異。この場合、ルケーニやカゼリオのような一般的な意味でのアナーキストが、後者に分類されていることに注意が必要だろう。本文を読めばわかるように、シュタイナーの言う「個人主義アナーキズム」とは、ほとんどシュタイナーの「倫理的個体主義」に近い考え方だ。というより、この場合、個人主義アナーキズムとはシュティルナー主義と同義と見たほうがよく、同じくマッケイへの別の書簡でシュタイナーが示唆しているように、ここで言う「個人主義アナーキズム」に対して哲学的基礎付けを行ない、またそこからいかにして倫理的になりうるか、換言すれば、人間が無条件に自由でありながら、同時に倫理的であることがいかにして可能かを哲学的に述べたのが、『自由の哲学』であるといっていいだろう。シュタイナーは自伝で、シュティルナー個人主義アナーキズムは人間の内面に留めるべきであって、政治にまで拡張すべきではないといったことを書いています。それだと、この書簡の内容と矛盾するのではないか、と思われるかもしれませんが、僕はこう解釈したいと思います。この書簡では、「<個人主義アナーキズム>は、彼の中にある能力と力を発揮することができることを、何物によっても妨げられないことを望みます。」と述べられています。つまり、内面的な能力を妨げられることなく発揮することなのであり、これはあくまで内面的なものなのです。そして、国家はその領域、つまり後年のシュタイナーの三分節論の用語を用いるならば、精神の領域については国家はGewaltによって干渉してはならない、というわけです。僕は以前からシュタイナーの三分節論における自由の原則に支配された精神の領域とは、シュティルナーの無政府主義が可能になるような限定を加えたものであると考えてきましたが、その観点からすれば、むしろ、この書簡の内容はシュタイナーの後の社会有機体三分節構造に通じる精神を表していると感じます。
GA39書簡集 通し番号529 ジョン・ヘンリー・マッケイへの書簡 1898年9月 ベルリン
親愛なるマッケイ氏へ!
私の『自由の哲学』が出版された四年前、貴方は私の理念の方向性に対して、賛同を表明してくれました。このことが私を心から喜ばせたということを、お伝えしておりませんでした。というのは、私は、私たちが私たちの意見に関して、二つの互いに全く無関係な性質が一致するように、一致することを確信しているからです。私たちは、完全に異なったやりかたで、自分の思考世界へ苦労して突き進んでいるにも関わらず、同じ目標を持っているのです。貴方も、このように感じておられるでしょう。前の手紙を貴方が私あてに送ってくださったという、まさにその行為こそが証拠です。私は、貴方から同志として呼びかけられることを、重要視しています。
私は今まで常に、私の世界観に対して<個人主義的>あるいは<理論的アナーキズム>という言葉さえ用いることを避けてきました。というのは、私はそのようなレッテルを、全く重要だとは思えないからです。ある人が、自分の著作において、はっきりと肯定的に自分の観点を表明するならば、流行の言葉でこの観点をレッテル付けることが、なお必要でしょうか?そのような言葉を、すべての人が特定の伝統的なイメージと結びつけます。そのイメージは、個々の人格が表現しなければならないことを、ただ不十分に再現するだけなのです。私が自分の思考内容を表明するとは、すなわち、私が自分の目的を説明するということなのです。私自身は、自分の考え方を通常用いられる言葉で呼びたいとは思いません。
しかしながら、私はそのようなことに賛成しうるという意味で、<個人主義アナーキスト>という言葉が、私に適用できるかどうかをいわねばならないとしたら、無条件の<ヤー>でもって答えねばならないでしょう。私が自分に対してこの名称を要求するがゆえに、私もまさにこの瞬間、どうやって<我々>、すなわち<個人主義アナーキスト>が、いわゆる<プロパガンダ行為>に熱狂する人々と、自分たちを区別するかを、手短いに述べたいと思います。私は確かに思慮のある人間にとっては、何も新しいことを言っていないことをしっています。しかし、私は貴方のように楽観的にはなれません、親愛なるマッケイ氏。貴方は単にこう言います。「政府は、その著作によってただ一人で、しかも、状況を血を流す事無く変えようとする、公的な活動に関与する人間に対して、盲目的で愚かな措置をとることはない。」私の唯一の異論を悪く受け取らないでください、貴方は世界がどれほど僅かな理性でもって統治されているかを、あまりよくお考えになっていないのです。
私は、一度はっきりと話したいと思います。<個人主義アナーキズム>は、彼の中にある能力と力を発揮することができることを、何物によっても妨げられないことを望みます。個人は、完全に自由な競争において力を発揮するべきです。現在の国家は、この競争に対して関心をもちません。国家は至る所で、個人の能力の発展を妨げます。国家は個人を憎んでいます。国家はこういいます。私はあれかこれかに振舞う人間だけを必要とする。そうでないものに、私は彼が、私が望むようになることを強制する。今や、国家は、人間が国家に、国家はそのようにあらねばならない、というときだけ、人間と折り合う事ができると信じている。もし国家がそうでないならば、そうならねばならない。しかし、現にそうなのです。個人主義アナーキストは、これに対して、最良の状態は、人間を自由な軌道に乗せるときに現れるだろうと言います。個人主義アナーキストは、人間が己を正しい状態に置くことを信用しています。もちろん、明日、国家が廃止されるならば、明後日、すりがもはや存在しなくなる、などと信じてはいません。しかし、権威と権力によって、人間を自由へと教育できないことを知っています。すべての権威と権力を廃止するというやり方で、独立不羈の人間を自由にするということを知っています。
しかし、現在の国家はまさに権力と権威に基礎づけられています。個人主義アナーキストは、権力と権威に対して、敵意を持って相対します。というのも、それらは自由を抑圧するからです。彼は、自由で妨げられることのなく諸力を発展させること以外のことを望みません。彼は自由な発展を抑えつける権力を取り除こうと望みます。社会民主主義がその結果を引き出すとき、最後の瞬間に国家は大砲を発射することを知っています。個人主義アナーキストは、権威の代表者たちが常に最後には、暴力による秩序付けに訴えることを知っています。しかし、彼はあらゆる強制手段は自由を抑圧すると信じています。それゆえ、彼は暴力に基づく国家と戦います、そしてそれ故、彼は同じくらいエネルギッシュに、同様に暴力的秩序付けに基づくプロパガンダ行為と戦うのです。国家が、一人の人間をその信念のために打首にしたり、監禁したりさせるならば−それを思うように呼ぶことができます−それは、個人主義アナーキストにとって、非難すべきことのように思われます。彼にとって、ルケーニが、偶然、オーストリの皇女である一人の女性を刺殺するとき、それは同様に非難すべきことと思われます。同様の事柄と戦うことは、個人主義アナーキストの第一の根本原理に属します。もし彼がそのようなことと同じことを承認しようとすれば、なぜ国家と戦うのかを知らないということを、白状しなければならないでしょう。彼は、自由を抑圧するう暴力と戦います、そして彼は、国家が自由の理念をもつ理想主義者を国家に従わせるとき、国家と戦うのと同様に、血気盛んな愚かな若者が、オーストリア皇位にある共感的な女性夢想家を暗殺するときも、これと戦うのです。
私たちの敵対者に対して、<個人主義アナーキスト>がいわゆる<プロパガンダ行為>とエネルギッシュに戦うことを十分明確に伝えることはできません。このアナーキストが、カゼリオとルケーニのように、吐き気をもよおすようなものは、国家の暴力的秩序以外にはひょっとしたら存在しないのかもしれません。しかしながら、私は貴方のように楽観的ではいられません。親愛なるマッケイ氏。というのも、私は、<個人主義アナーキスト>と<プロパガンダ行為>のあいだのような粗野な区別を行うちっぽな理性すら、私がどこを探しても、たいてい見つからないのです。
友愛を捧げながら
あなたのルドルフ・シュタイナー

*1:オーストリア皇女エリザベートを暗殺したアナーキスト

*2:フランスのカルノー大統領を暗殺したアナーキスト