モラーリッシェ・ファンタジー―なぜ道徳規則は先取できないか

だいぶ前の記事ですが、『ファンタジー神話と現代』について書いた記事で、シュタイナーの哲学主著『自由の哲学』の中で展開されるモラーリッシェ・ファンタジー(道徳的想像力)について、道徳的の部分にアクセントを置くことの問題について軽く言及しましたが、これについてもう少し詳しく書いてみようと思います。なお、本論ではシュタイナーの主張の妥当性については検討しませんのであしからず。ミヒャエル・エンデはモラーリッシェ・"ファンタジー"というように、ファンタジーにアクセントが置かれるべきであり、(アントロポゾーフにも誤解している人がいるが)モラーリッシェ(道徳的)にアクセントを置くのは間違いだ、モラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)なのだ、と語っています(Cf.エンデと語る)。これはシュタイナーが自由に行為する人とは前例や模範や範例に従って行為するのではなく、創造的に行為する人のことだと言っていることに対応しています。
では、なぜ"道徳的"が強調されるべきではないのかについてもう少し詳しく検討してみたいと思います。シュタイナーの認識論を大雑把に言えば、認識以前に所与(与えられた世界)と概念(思考が作りだすもの)があり、それが合一したものが認識だというものです。ここで所与とか概念とか言うのは、いわば説明概念にすぎないとシュタイナーは言います。つまり、この所与(純粋知覚)と概念は認識に先立っており、通常の意味で所与とか表象とか概念というのは、認識行為の後に行われる判断の結果にすぎず、それ故、これらの概念によって認識行為が基礎づけられるのではなく、認識行為を後から振り返ってみたときに生じている事柄を説明するための概念だというわけです。さて、これが外界の認識に関するシュタイナーの議論のかなり大雑把な図式になります(詳しくは、『真理と科学』と『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』を参照)。この議論を内界認識(思考についての思考)に適用して自由を論じているのが『自由の哲学』の1部に当たると言ってほぼ間違いはないと思います。第二部ではシュタイナーは実践哲学=倫理的な問題へと移行します。ここで登場するのがモラーリッシェ・ファンタジーです。シュタイナーは、道徳的行為とは理念界からモラーリッシェ・ファンタジーを用いて行為の動機となる表象を作り出し、それに従って行為することだといいます。先の図式に当てはめれば、外界認識に際して思考が概念を創りだすように、行為においては動機となる表象を作り出し、行為するという流れだと言えると思います。ここで問題になってくるのは、先の議論と同様に、つまり認識に先立って所与や概念といった概念が存在するわけではなく、認識行為の後に判断を下すことでそのような概念を取り出すことができるのと同様に、行為に先立って認識できる道徳法則が存在するのではなく、行為を通して初めて道徳法則が認識できる、という点です。というのも、もし行為に先立って、つまり経験に先立って認識できるような道徳法則が存在し*1、それにしたがって行為するとすれば(汝なすべし)シュタイナーの議論に従えば、それは不自由な行為であるということになるからです。
かなり大雑把ですが、以上がシュタイナーの議論になります。さて、ではなぜ道徳的が強調されるのは間違いか、という点に入って行きたいと思います。まず、モラーリッシェ・ファンタジーが無条件に「道徳的(モラーリッシェ)」であるとすれば、行為の以前に行為が道徳的であるか/非道徳的であるかが判断できなければいけないように見えます。道徳的想像力/非道徳的想像力という対を想定することは、モラーリッシェ・ファンタジーは道徳的でなければならないという主張を含意すると考えざるをえません。そうすると行為以前に道徳的/非道徳的の判断がなされなければならないことになりますが、一体この判断の基準をどこからとってくればいいのでしょうか。もしなにがしかの道徳法則を経験以前に導出可能だとすると、法則は経験以前には手に入れることができないというシュタイナーの議論に抵触します。法則として取り出されるものが認識行為の以前にアプリオリには導出できないというのが、シュタイナーが認識の限界は存在しないと論じるときのポイントの一つになっているため、これは重大な問題だと言えると思います。また、仮にその議論が成り立ったとしても、後から振り返ったときにどのように見えようとも、行為以前に何らかの道徳法則が存在し、それに従って行為することはシュタイナーの議論において不自由を意味します。そうすると、人間が自由な存在になれるという『自由の哲学』のメインテーマに抵触するわけです。唯一ありえそうな議論は、モラーリッシェ・ファンタジーを行使してなされた行為は"必然的に"道徳的である、というものかもしれません。ですが、この場合、道徳的/非道徳的を"いつ"判断するかが問題になってきます。シュタイナーの議論に従えば、これは行為がなされたあとに振り返って見たときに限り、それは道徳法則と呼べるものである、ということになります。となると、モラーリッシェ・ファンタジーが仮に必然的に道徳的であったとしても、それは先に見た所与や概念と同様に説明的な概念としてモラーリッシェなのであって、それが行為に先立って行為の道徳的/非道徳的を判断することはできないように思います。そうすると、ファンタジーを用いて自発的で模範や規則と独立に(つまり自由に)行為の動機となる表象を作り出す、そのようなファンタジーを全てモラーリッシェ・ファンタジーと言わねばならないと言えます。あるファンタジーを道徳的/非道徳的という基準に基づいてモラーリッシェ・ファンタジーとそれ以外と言った区別を行うことはできないわけです。となると、エンデの言うようにモラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)、つまり外的な模範や規則に従わないと行為を成せないことという方が、シュタイナーの議論により適合しているように思います。
と、まあ、かなり大雑把ですが以前軽く触れたことを少し詳しく書いてみました。細かい議論については、『自由の哲学』『ゲーテ的世界観の認識論要綱』『真理と科学』(未邦訳)。また解説・入門として今井重孝『自由の哲学入門』高橋巌『シュタイナー 生命の教育』などをご参照ください。

*1:私見では、道徳法則そのものが存在すること自体は問題ないように思います。(というか、そちらのほうが後年のシュタイナーの議論と整合性が取れます)というのも、仮にそのような法則が存在するとしても、自ら表象を作り出しそれにしたがって行為するという点にシュタイナーの自由論のポイントになるからです。ちなみに、これは前半の議論で議論されている点です。ここでの議論のポイントは、そのような法則が存在するにせよしないにせよ、それを行為の前に認識してそれにしたがって行為するとしたら、それは不自由であるという点であると考えられます。これと同じことが、認識論における概念にも当てはまるように思います。概念―ここでは純粋知覚=所与を関連づけるもの―を作り出し、認識行為が成立したあとで振り返ってみたときはじめて、例えば因果法則のような法則が見いだせる、というのがシュタイナーの議論です。

『鏡の中の鏡』について

ここ2、3年『鏡の中の鏡』が非常に気になっていたのですが、まだ完全とは言えませんけど、エンデの『鏡の中の鏡』について素描的にですが簡単に書いて見たいと思います。まず、この作品の特色としてミヒャエル・エンデの諸作品の中でも最もオリジナリティの高い作品だと言えると思います。これはエンデ自身も言っていたと思います。この作品は30の短編から成り立っているのですが、連作短編や短篇集とは違い、この30作で一つの作品となっているのが特徴です。読者は30番目に収められた物語で、最初の物語に登場するホルの名前を見つけ、それぞれに連関があることに気づきます。各話の関連は、例えば、2番目の話では「das himmelblaue Zimmer(空色の部屋)」が出てきますが、3番目の話の書き出しは「Die Mansardenkammer ist himmelblau(屋根裏部屋は空色だ)」となっています。このイメージは各話から見ても些細なもので、ライトモチーフでもなんでもありません。しかし、このいわば"夢のような"イメージの連鎖が『鏡の中の鏡』の主要な構造であると言ってよいでしょう。このイメージの連鎖は線形的に現れるわけではなく、ずっと前に現れたイメージが、突如として現れることもあります。その意味では、イメージのネットワークと言っても良いかもしれません。エンデが影響を受けたカバリストであるFriedrich Weinrebは「夢の国でだけ、我々は因果論の強制、あれか-これか、から自由なのです。」(Kabbala im Traumleben des Menschen)といっていますが、『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』にも見られるように、この夢の論理とでも言うべきものを書くことはエンデが好んで取り上げたテーマの一つでもあります。また、この本は表紙を含めエンデの父エトガー・エンデの絵が挿入されており、父エトガーに捧げられています。例えばElena Wagnerが指摘していますけれど、エトガーはエンデに最も影響を与えた人物と言っていいでしょう。エトガーの創作法についてエンデはしばしば言及していますが(Cf.『闇の考古学』)、Weinrebの言う夢の領域やZurfluhの言う夜の生活と同じ領域から独自の瞑想法でモチーフを探り出してきたと言われています。その意味でも、『鏡の中の鏡』と夢は強い関連があるといえると思います。余談ですが、大江健三郎との対談の中で(『芸術家、その内なる声』)、エンデは『はてしない物語』のファンタージエンについて、眠るとき意識を保っていればファンタージエンに行ける、という話をしています。
さて、エンデはWerner Zurfluhの『Quellen der Nacht(夜の源泉)』に非常に感銘を受けてZurfluhに書簡を送っています―この本は夢の経験について論じた本で、明晰夢を通じて意識を保った状態で夢を経験すること、新しい経験の次元を語っている本です。―書簡の中でエンデは『鏡の中の鏡』に触れています。
「”鏡の中の鏡”というタイトルは多くのことに関連しています。勿論、まず有名な”鏡に映った鏡は何を映すか?”という有名ない禅の公案と関連しています。それは既に”はてしない物語”おいても引用されています。他方で、本の設計に関係しています。それぞれの物語はいわば先行する物語の要素を映しており、それを変えます。登場人物とイメージは変化の絶え間ない流れの中にいます。前方と後方は時折取り違えられます。つまり、一本足がすでにはじめに登場するのですが、しかし、本の真ん中ではじめて彼の足を失う等々。人は本を前から後ろへ読むことも、後ろから前へ読むことも出来ます。つまり、最後の物語から始められるのです。というのも、それは円環的に作られており、最後は再び最初と関係しているのです。鏡の反映もまた本全体を横切り、多くの後のあるいは前の物語の中に現れるモチーフを取り上げます。大抵の物語は、想像上の舞台の上のシーンです。奇妙なプロセスが注釈無しに叙述されます。最初と最後はその都度開かれます。プロセスが終わりに至ると、イメージは―あるいはイメージの一部は―新しいイメージに変容します。その新しいイメージの中で再び何かが生じます。全体はいわば上も下もない無重力空間の中で、自己を回避する何かの周りで輪を描くオルビットの中で起こります。
全く首尾一貫して、それは多くの読者に読書に際して、文字通りめまいを起こさせました。彼らは、「落下の感覚を振り払うために、椅子にしがみつ」かねばなりませんでした。私は―既に白状したように―このどこか落ち着かなくさせる構成形式を勿論偶然に選択したのではなく、読者を特別な経験に誘うためにしたのです。(私にとっては常に、読者に教え込むことではなく、読書に際して、何かを経験させることが重要です。)」
また『だれでもない庭』の中では
「読者の注意力をこの謎めいたプロセス(引用者注:合わせ鏡の反射のプロセス)へむけるため、わたしは、読者を読者自身へさしもどす物語を書こうとした。
読者が安心してつかまることができない物語である(その物語を"理解した"ということで。それはただ、すでに慣れ親しんだことをまた見出しただけだ)。どの方向へ向かっても開かれた物語、読者を自然落下の無重力状態に置く物語、同時に、オルビットに似て、(神、人間の自我、現存在の意義のように)存在し、しかも存在しないとしか言いあらわせない中心を巡る周回軌道へ投げ出す物語。語られたどのプロセスも、はっきりと、あるいはひそかに、次の新しいプロセスへのキックオフを秘めていて、それはまた新しいプロセスへというふうに続き、ついに新しい旋回がはじまるまで……。」
と『鏡の中の鏡』の構想を語っています。エンデが頻繁に語っていることですが、エンデは「解釈」を通じて「物語のメッセージ(一義的な意味)」を取り出そうとすることに反対してきました。この点で、ヴォルフガング・イーザーの作用美学(受容美学)との近親性を指摘する人もいます(あるいはエーコの開かれた作品とも通じるかもしれません)。『鏡の中の鏡』は「解釈不可能」な物語を描くエンデ作品中もっともラディカルな構造をもった作品だと言っていいと思います。ところで、この「中心なき中心」というモチーフはエンデ作品の中でしばしば見られるものです。例えば、『はてしない物語』のエルフェンバイン塔は境界のない無限のファンタージエンの中心にあります。つまり、どこにでもありどこにもない中心です。また、『遺産相続ゲーム』では下僕のアントンを除いて―そしてアントンの記憶も物語の進行に連れてどんどん曖昧になっていくのですが―誰もあったことのない主人フィラデルフィアの遺言をめぐる物語です。また晩年のインタビューでは次回作の構想としてナンセンスを巡る物語を書きたいとも言っています。おそらく、その構想の一部は『エンデのメモ箱』に収められた「ニーゼルプリムとナーゼルキュス」なのだと思います。エンデにとってはナンセンスも「中心なき中心」を巡るものであったのだと思います。ルイス・キャロルの『スナーク狩り』をジングシュピールに翻案した戯曲のまえがきでエンデは「キャロルのテキストの闇は、だれもが―もちろん精神分析家も含めて―自分自身を映し出す鏡なのである。」と言っています。
さて、Zurfluhへの書簡の中でエンデは「鏡の中の鏡には何が映るのか?」という問は禅の公案からとってきている、と言っています。『モモも禅を語る』の著者重松創育禅師との対談の中でエンデはこう語ります。
「さすらい山の古老は幼心の君に問いかけます。「鏡の中に映った鏡は何を映すか?」。今純粋に論理的に考えるならば、「無」と答えることができるでしょう。しかし、私の見解によれば、まさにこの「無」の中に人間と世界の本来の力があるのです。我々が自分自身の自我を知覚しようとしても、何も知覚しません。空所を知覚するだけです。そこから今日の心理学者はそこにはなにも無いのだろうと推論します。ですが、本当はそこに人間の本来の創造的な力があるのです。」(MOMO erzählt Zen)
反射するイメージの変容のプロセスの中で初めて現れる力、人間の本来的な力―エンデはそれを別のところではファンタジーだと言っていますが―この中心なき中心であるところのものを巡る物語が、というより、読者をそのプロセスの中に巻き込み、プロセスを立ち上げる、そういうプロセスこそが『鏡の中の鏡』の最も重要なポイントだと言えます。エンデは「比喩」という文章の中で本を次のように例えています。「書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。」この高次の自我こそ、中心なき中心と言っていいでしょう。エンデはよくボルヘスの「Everything or Nothing」を引き合いに出していますが、ボルヘスが言うようにどの登場人物の中にもいて、どこにもいないシェイクスピアのように、エンデは、というよりこの「中心なき中心」は物語のどこにでもいてどこにもいないわけです。「比喩」はシュタイナーのアントロポゾフィー的人間観に沿った形で述べられていますが、この「比喩」に即してアナロジカルに語るならば、30の個々の作品はそれぞれが輪廻転生した物語だと言ってもいいかもしれません。カルマとしてのイメージが各々の物語の前後の中で、その固有の文脈で現れるわけです。
一方で、この『鏡の中の鏡』の構造は優れて初期ロマン派的な構想を反映しているとも言えます。フリードリヒ・シュレーゲルの有名なロマン派文学の定義「普遍的発展文学」とは、「いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する者との中間に漂い、この反省を次々に相乗して合わせ鏡の中にならぶ無限の像のにように重ねてゆくことができる。それは最も高度にして最も多様な形成を可能ならしめる。しかも単に内部から外へ向かってのみならず、外部から内へむかってもである。すなわちその作品はそれぞれにまったき全体でなければならないのであるが、その一つ一つのあらゆる部分は、同じように組織される。」既に見てきたように、『鏡の中の鏡』は無限のイメージの反射=反省(Reflexion)を通じて、全方向に開かれた作品です。シュレーゲルやノヴァーリスがそうしたような反省(メタ言及)の構造とは異なるやり方で、ロマン派文学を構想したのだ、と言ってもいいように思います。エンデ自身が認めるように、エンデはドイツ・ロマン派の伝統の下にいる作家です。『鏡の中の鏡』はエンデのロマン派的な、そしてグスタフ・ルネ・ホッケの意味でマニエリスム的な部分を最も強力に表現している作品とも言えると思います。ノヴァーリスやシュレーゲルがフラグメントや対話を重視したのも、確定的な閉じた体系ではなく、それぞれの断片のネットワークからなる生成するシステムを描写するためだとも言われます。ノヴァーリスの『花粉』はまさにそのような受粉し、生成するプロセスを表現するタイトルです(これについてはデリダの「散種」概念と対比する人もいます。)。エンデとロマン派の対比というとノヴァーリスやホフマンの1節を簡単になぞるだけのものが多いですが、もっと根本的な理念的な部分での共通性をここに見ることができるのではないでしょうか。余談ながら、『鏡の中の鏡』には「迷宮」というサブタイトルがついています。そして、最初の物語ではあのミノタウロスが閉じ込められているミノス王の迷宮が、2番目の物語ではイカロスをモチーフにした話が語られています。この2つに共通する迷宮の作り手ダイダロスをG・R・ホッケは代表的なマニエリスム的人間だと言っていますし、迷宮はマニエリストが好んだモチーフの一つでもあります。その意味でも、この作品を―シュールレアルなとはよく言われるのですが―マニエリスム的な作品と呼んで良いと思います。
さて、エンデの芸術理解の中で最も重要な概念であり、ロマン派においても重要な概念の一つに「遊び(Spiel)」があります。もちろん、これはシラーの『人間の美的教育に関する書簡』の「遊戯衝動」に端を発するものです。シラーは感性の領域にも道徳の領域にもそれぞれ強制的な法則が存在するといいます。カントの言う我が内なる道徳法則と、我が上なる天空の法則です。その中間にある美の領域にこそ人間の自由があるというのがシラーの大筋の議論になっています。そして、人間は美とだけ遊ぶのだと。最初にWeinrebを引用しましたが、夢の領域、夢の論理とはまさに強制的な因果論的連鎖から逃れて自由に遊ぶことの出来る領域です。となると、『鏡の中の鏡』はエンデの「遊び」の理念をも表現している、ということもできそうです。Tohmas Kraftによれば、エンデはJames・P・Carseの『Finite and Infinite game』に非常に感銘を受けて、色々な人にこの本を贈ったそうですが、Carseはこの本の中でタイトルにあるように有限のゲームと無限のゲームという2つの「遊び」の概念を提出しています。有限のゲームとは勝利条件=ゲームの終了の条件が定まっており、ゲームの参加者その規則に合意することでゲームが成り立つゲームです。一方で、無限のゲームとはゲームの継続そのものが規則であるようなゲームであり、ときに規則それ自体をゲームの継続のために変化させてもゲームを継続させるような、そしてその継続性に参加者が合意するようなゲームのことです。『鏡の中の鏡』の構造はいわば無限のゲームとして構想されているともいえるわけです。
以上、スケッチというかアイデアの断片ていどですが書いてみました。「中心なき中心」や「遊び」を巡る議論については拙論「ミヒャエル・エンデの世界観について」でもう少し詳細な議論を書いているので、ご興味のある方はそちらをご参照頂ければと思います。

「魔法使いの弟子の皆さんに警告!」を読む

ミヒャエル・エンデのエッセイ・詩・物語の構想・原稿・断片・書簡等を集めた『エンデのメモ箱』の中から、「魔法使いの弟子の皆さんに警告!(Warnung an alle Zauberlehrlinge)」という短いフラグメントをどう読むか、ということをやって行きたいと思います。まずこの短いテクストを全文引用してみます。
「Einen Prinzen in einen Frosch zu verwandeln ist nichts Besonderes und gelingt verhaeltnismaessig leicht. Jeder uebellaunige Abteilungsleiter bringt es taeglich fertig. Aber einen Frosch in einen Prinzen zu verwandeln, das erfordert grosse Kunst oder Kraft - oder Liebe.」

「王子を蛙に変えるのは大したことではない。比較的簡単だ。ごきげんななめの課長なら、だれでも毎日やってこなす。でも、蛙を王子に変える、これには大いなる芸か力か、それとも、愛が入ります。」(田村都志夫訳)

まず、本文そのものに入る前に、タイトルに注目しますと、ここでは「魔法使いの弟子」が語りかけの対象になっていることがわかります。では、そもそもエンデにとって魔法とは何なのでしょうか。ロマン・ホッケ(エンデの担当編集者)編『Das grosse Michael Ende Lesebuch』に収録されている『はてしない物語』の原稿の中で、エンデは次のように書きます。
「しかし、(魔法の杖や魔術的な器具などの)そのすべては魔法使いが特定の物事に自分の注意と意志を集中することを助ける補助手段に過ぎない。本当はそれらは不必要なのだ。必要なものはある意味でずっと簡単で、同時にずっと難しい。魔法を使おうとする人は自分自身の”真の意志”を発見し、実行しなければならない。」
ご存知のように『はてしない物語』ではバスチアンの真の意志の発見がファンタージエンを巡る旅の本当の目的であるわけですが、この「真の意志」を発見し、実行することが魔法を使うことだ、とエンデはいうわけです。更に同じ物語の中でエンデはこう書いています。
「自分の全存在でもって、霊・魂・体でもって何か特定のことを意思する人は魔法が使える。―そして、それはファンタージエンの中だけではないのだ。」
魔法を使う、と言うことはエンデにとって何か特別な、ファンタージエンの中、ポエジーの世界の中だけの話ではなく、現実的な事柄だというわけです。多くの人は、自分の望みだと誤って信じ込んでいるものを自分が望んでいると考えるので、魔法を使うことができないというわけです。バスチアンの失敗の道を思い出させるところでもあります。
ところで望みとは何かについてエンデは『はてしない物語』の中で、
「しかし、望みは恣意的に呼び出したり、抑圧したりできるものではない。それはあらゆる意図より深いところから我々あの中にやってくる。良いものであろうが、悪いものであろうが。そして、それは気づかぬうちに生まれるのだ。」
と書いています。これは望みが無意識の深みからやってくることを示唆しています。それを(シュタイナー的な意味で)カルマと呼んでも良いかもしれません。というのも、カルマというのは死後生のはじめに、カマロカでの魂の浄化を通じて、次の人生ではこういうふうに生きようと決意する、それがカルマになると言われるからです、もちろんそれはカルマの一側面ではあるのですが。シュタイナー的な意味での無意識は、肉体の中に働く力です。私たちは例えば歩く時の筋肉や骨の動きを意識せずとも動かせますが、そこには意思の力が働いているというのです。この無意識の中からやってくる望み、これを捕らえよとエンデは言っているといえるでしょう。
『鏡の中の鏡』の「息子は父であるマイスターに…」で始まる物語では、エンデはその話のテーマは「自分の課題を捕まえよ」ということだと言っています。その物語の中では、主人公である息子は「自分の課題は不服従である」ことに最後に気づきます。いわば、モラーリッシェ・ファンタジーを行使して、他者や外的な規則に服従するのではなく、創造的に行動することが問題になるわけです。そして、それは自己認識と、あの「汝自身を知れ!」と結びついているのです。それゆえ、エンデはある書簡の中でファンタージエンにおける規則「汝の欲することをなせ!」と結びつけてこう言います。「汝自身を知れ!―そして汝の欲することをなせ!」。つまり、魔法を使うこと、「汝の欲することをなせ!(Tu, was du willst!)は自己認識、正しい意味での自己認識を前提としているのです。では、正しい意味での自己認識とは何でしょうか。エンデは心理学的・精神分析的な探求は迷路に迷いこむだけだ、と言います。なぜなら、自分の中をいくら探してみても、そこには無しか見つからないからだ、というのです。そうではなくて、シュタイナーがいうように、自分の自我を知りたければ外界を探求しなさい、世界を知りたければ自らの自我を探求しなさい、これが重要なのだというわけです。
魔法について、もう一つ重要な点があります。メルヒェン「魔法の学校」では、魔法の規則として以下の3つが挙げられています。ちなみに、先に取り上げた『はてしない物語』の未公開原稿でも同様のことが語られており、このふたつの物語は内容的にかなり似通ったものになっています。
「1.あなたは可能と思うことだけを本当に望むことができる。
2.あなたは自分の物語に属するものだけを可能とみなすことができる。
3.あなたが本当に望むことだけが、あなたの物語に属する。」
自分の物語(Geschichte)とありますが、Geschichteは歴史の意味もありますので、自分史と読むこともできるでしょう。となれば、自分の歴史=物語、つまり繰り返される転生とカルマの連関に属するものだけが本当に望むことができることなのだ、というわけです。この円環的な定義から、まさに自分の物語を知ること、自分の課題を捕まえること、言い換えるならば、「汝自身を知れ」ということがいかに重要であるかがわかるのではないかと思います。
最後に、エンデが「精神の父」といったノヴァーリスの「魔術」とエンデの「魔法」を比較してみましょう。ノヴァーリスの魔術的観念論という名称からもわかるように、「魔術(Magie)」はノヴァーリスの核心的な概念の一つだと言えるでしょう。ノヴァーリスは魔術を「感覚界を意のままに操る術」だと定義しています。なぜそうなるのでしょうか。
「器官を積極的に使用することは、魔術的な、奇跡を呼び起こすような思考、つまり、意のままに物質界をあやつることにほかならない―というのも、意志とは、魔術的な力強い思考能力にほかならないからである。」
「魔術の時代には、身体が魂あるいは霊界に奉仕する。」
高橋巌先生が霊主体従という言葉をよく使っていらっしゃいますが、霊が主になり、身体が従になるために、意のままに感覚を操れるというわけです。更にノヴァーリスもまたそれを意志と結びつけています。これはシュタイナー的には自我による肉体の完全な変容、すなわち霊人に通じる考え方だと言えるかも知れません。更にノヴァーリスはこう言います。
「この二つが魔術的になるのは、もっぱら道徳化によってである。愛が、魔術の可能性の根拠である。愛は、魔術的な作用を及ぼす。」
ここで道徳化と愛(この2つもノヴァーリスの重要なキーワードです。一般にオランダの哲学ヘムステルホイスの影響だと言われています。)が魔術と結び付けられている点も注目に値します。『果てしない物語』に従えば、バスチアンの「真の意志」とは愛することであり、生命の水をのむことによって、愛する力を手にするのですから。そしてそれは『自由の哲学』における自由とも深く関連するところではないでしょうか。
エンデの「魔法」について概観したところで、いよいよテクストの中身へ入って行きたいと思います。このフラグメントの前半で、エンデは王子を蛙に変えることと蛙を王子に変えることとを対比しています。エンデは前者は比較的簡単だが、後者は難しいというのです。蛙と王子が何を象徴するかは度外視するとしても、この2つは明確に低次のものと高次のものを指していると考えられます。この高次のものを低次のものへ、低次のものを高次のものへの変換/演算をノヴァーリスはロマン化と呼びました。ノヴァーリスの有名なロマン化を定義したフラグメントを見てみましょう。
「世界はロマン化されねばならない。そうすれば根源的な意味が再び見出せよう。ロマン化とは質的な累乗にほかならない。この演算を行うと、低次の自己が高次の自己と等値になる。われわれ自身もそのような質的な冪級数なのだ。[…]卑俗なものに高い意味を、ありふれたものには神秘的外見を、既知のものには未知のものの尊厳を、有限なものには無限という見かけを与えるならば、わたしはそれをロマン化したことになる。高次のもの、未知のもの、神秘的なもの、無限なものを対象とすれば、この演算は逆になる。」
エンデはこのノヴァーリスのフラグメントを省略した形で自分のメモに残していたようです。エンデの遺稿では次のように引用されています。
「世界はロマン化されねばならない。私が卑俗なものに高次の意味を、ありふれたものには神秘的外見を、既知のものに未知のものの尊厳を、有限なものに無限の見かけを与えたならば、私はそれをロマン化したことになる。」
ノヴァーリスにおいてはロマン化とは高次→低次/低次→高次の上昇下降運動(累乗/対数)が重要視されていますが、引用からもわかるようにエンデは低次→高次の変換の方を重視しているように見えます。いずれにしても、王子様を蛙に、蛙を王子様にというのはロマン化にほかならないということができるでしょう。また、これはエンデの詩的なコンセプト「詩的錬金術」、つまり内部のものを外部のものに、外部のものを内部のものへと変換する操作に通じます。エンデはある書簡の中でそれはノヴァーリスのPoesierung(詩化)であり、これを通じてのみ世界は住むことができるようになると言っています。
少し脱線しますが、エンデに対する現実逃避文学批判と結びつきますが、エンデは必ずしも、例えば唯物論や自然科学、あるいは資本主義や貨幣そのものを否定していたわけではありません。ただ、これらの世界観が支配的であるがゆえに、その反対を強調したのだと言えるでしょう。実際、テクストの中でも「王子を蛙に変えるのは、比較的簡単だ。不機嫌な課長なら誰でも毎日やってこなす。」と言われています。現代においては心や精神は脳の生理学的プロセスに、価値は貨幣や数字に置き換えられています。エンデはある対談で「貨幣の黒魔術/白魔術」という話をしています。貨幣そのものが悪いものなのではなく、むしろその機能は極めて重要であるがゆえに、現代の貨幣の問題を引き起こす貨幣の黒魔術ではなく、よりよい未来を生み出す事ができる貨幣の白魔術があるのではないか、とエンデはいうのです。その観点から見れば、ここでも黒魔術/白魔術という構図を見ることができるのではないでしょうか。なんといっても、「王子様を蛙に変える」のは悪い魔法使い(魔女)なのですから。また、エンデが『モモ』の冒頭で引用する予定であったと言われ、現代社会に対して「文明砂漠」という表現を用いたエッセイ「ある中央ヨーロッパ先住民の思想」で引用されているノヴァーリスの詩にはこうあります。
「もはや数字と図形が
あらゆる被造物の鍵ではなくなり、
歌い、キスするものが、
学識者より多くを知るなら、
世界が自由な生へ、
世界へと戻るならば、
光と影が交わり、
真の光明へ変じるならば、
メルヒェンと詩の中に、
真の世界史を認識するならば、
一つの神秘的な言葉の前に、
すべての狂ったものは飛び立つ。」
エンデが『私の読本』で取り上げている、「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」でも、ノヴァーリスは唯物化する世界に対し、中世―史実としての中世ではなく、理想の、来るべき黄金時代としての中世―の精神性を賛美しています。この点で、ノヴァーリスはエンデやシュタイナーと同じ方向を向いていたといえるでしょう。
ノヴァーリスはロマン化によって「高次の自己と低次の自己が等価になる」と言っています。エンデのフラグメントでも、蛙=低次のものが王子=高次のものへと変容しています。では、蛙とは何を指すのでしょうか。エプラー、テヒルとの鼎談でエンデはグリム童話の「蛙の王様」のメルヒェンを取り上げています。ここでは主知主義的な「メルヒェン解釈」の問題と「攻撃性」の問題が語られている文脈で取り上げているのですが、エンデはこう言います。
「蛙はまさにあの不快なもの、新陳代謝系から、内臓の深みから意識の中へ押し入る嫌なものなんだ。」
ここで蛙が新陳代謝系に結び付けられている点に注目しましょう。蛙とはまさに無意識のもの、それも精神分析などで言われるような、シュタイナーならば夢意識と呼ぶような、意識の上らない感情のような無意識ではなく、内臓の深みのような無意識からの衝動だというのです。昨日、望みとは無意識の深みからやってくるものだといいましたが、腺や新陳代謝系はシュタイナーにおいてはエーテル体の物質的表現だと言われています。『はてしない物語』では望みは人間界の記憶と引換にして満たされるのですが、シュタイナーによればエーテル体とは記憶をいわば貯蔵している構成部分でもあるのです。また、僕の理解する限りでは、シュタイナーのカルマ論・転生論では死後生において人間はエーテル体のエッセンスを担っていくと言われていますが、これは前世のカルマを指していると思います。
グリム童話では、蛙から逃げ回っていた王女が、この無意識を象徴する蛙を掴んで壁に投げつけることで蛙から王子への変容が起こります。エンデはまさにこの攻撃性について、鼎談の中で語っているのです。攻撃性(Aggressivitaet)とは何でしょうか。エンデは攻撃性について「攻撃性は魂的能力だ。そしてそれはさしあたり善悪とは無関係なんだ。それがどのような関連の中に現れるかが全く問題なんだ。」と言っています。悪とは間違った場所に置かれた善であるとはシュタイナーも言っていますが、『ジム・ボタン』で描かれる悪のように、エンデも同じ考え方をしています。攻撃性ということを考えるとき、まずは自己-他者の区別が必要になる、ということができると思います。それは創世記における原罪であり、シュタイナー的に言えば、ルツィファー的な力の影響ですね。それまで蛙から逃げ回っていた王女が、最後に攻撃性を、魂的な力を行使して、嫌な不快なものと対決することで、換言すれば、意識に上らせることで、初めて変容が生じる、というわけです。エンデのSFストーリーの構想「論理的帰結」では、まさにこのことがテーマになっています。大脳生理学者エーヴァルト教授がつかの間旅する未来の世界では、教授の発見によって人を決して傷つけることができない装置が発明されていました。しかし、その世界では文化も遊びもすべてがグロテスクな攻撃性を示していたのを発見し、エーヴァルト教授は装置の発明につながる自分の発見を発表することをやめた、という筋書きです。シュタイナーが「悪になる可能性の中で生きよ」というように、自分の中の悪を見ないふりするのではなく、対決して変容させねばならないというわけです。そしてそのとき「高次の自己と低次の自己」は等価になるわけです。
さて、エンデはフラグメントの中でこの変容を起こすために「大いなる芸か力か―それとも愛が必要です。」と言っています。まず大いなる芸と訳されていますが、僕はこれを「偉大な芸術grosse Kunst」と取りたいと思います。芸術家についてエンデはボイスとの対談の中で、美の領域で働く手仕事職人なのだと言っています。エンデにとって、芸術は美と結びついています。シラーは美的書簡の中で「人間は美ともっぱら遊ぶべきであり、また美とだけ遊ぶべきである。」「人間は言葉の完全ない見で人間であるときのにのみ遊ぶのであり、遊ぶときにのみ全き人間なのです。」と書いています。それゆえ、エンデにとって芸術とは遊戯の最高の形式なのです。更に、エンデの芸術的・詩的コンセプトを象徴するのは「パガート」です。つまり、道化であり魔術師です。それは遊ぶ人間であり創造的な人間です。エンデは晩年のインタビューでこう言います。
「魔術師とは何なのでしょうか?魔術師とは、実は創造的な人間です。創造的人間は、だれでも、本当は魔術師なのです。」
すでに述べたように、美の領域で創造的であるのが芸術家だ、とエンデは言いますが、エンデは美とは超越的なものであり、
「それは別の世界から私たちの世界へ輝き入るいわば光なのです。それによって、あらゆる事物の意味は変容します。[…]この世界の凡庸さは美の光の中で、私たち誰もがそこからやってきてそこへ帰っていく、私たちがそれを忘れているにもかかわらず、一生涯憧れ続けるもう一つの別の現実を開示します。」
と語っています。まさに、芸術の美的で創造的な行為の中で、卑俗なもの、凡庸なもの、有限なものが高次の、未知の、無限なものへと変容するというわけです。
では、力(Kraft)とは何でしょうか。エンデはエプラー、テヒルとの鼎談で助けの手を差し伸べ、必然的なコンディションを作り上げる別の諸力(andere kraefte und maechte)について語っています。これは霊的な諸存在、エンデの言い方ではIntelligenzenとWesenのことを明確に指していると思われます。ですが、ここではMachtという言葉も使われている上に複数形です。となると、この場合の力(Kraft)とは人間の中の力であると考えた方がよさそうです。エンデにとって、人間の人間らしさを保証するものとは何なのでしょうか。それはとりもなおさず創造力だということになります。エンデにとって、それは「事実の強制」「因果の鎖」から人間を解き放ち、人間を自由にする力です。『サーカス物語』であしたの国(Morgenland)のジョアン王子はこう言います。「僕たちは、自ら創造するものの中でこそ自由なのだ!」。この人間の創造力はどこにあるのでしょうか。重松創育さんとの対談でエンデはこう語ります。
「私たちが自分の自我を知覚しようとしても、何も知覚しません。空っぽなのです。[…]本当はここに人間の本来の創造的な力があるのです。」
自我の、本当の自我の無の中に人間の本来の創造力があるというのです。エンデの遺稿の中に次のような文章があります。
「創造的な力は最高の人間の力である。それは決して基礎づけられたり、習得されたりしないが、私はどんな人間もそれを身につけており、神との真の類似性―あるいは神との同一性でさえ―がその中に含まれていると確信している。」
シュタイナー的に言えば、人間の霊的な部分、高次の自我といえるでしょう。まさにこの力を通して、低次のものは高次のものに変容するのです。
最後に愛です。エンデは人間が自然に付け加えることのできるものが一つだけある、それは愛だと言っています。それは例えば自然霊であるゴッゴローリを愛ゆえに自らを供犠に捧げることで救済するツァイポットのようにです。人間の創造的な力の源泉といえる、生命の水を飲むことでバスチアンは愛するという望みを叶えます。愛とは何でしょうか。エンデは
「この創造的な力の最高の形式は愛です。[…]愛を超える力も意志も状態も存在しません。それはカバラの生命の木の王冠、ケテルなのです。」
と言っています。人間の諸力のうちの最高のものである創造力の最高の形式が愛だというわけですが、なぜ愛が創造的な力と関係するのでしょうか。ある読者への書簡で、エンデはこう語ります。
「人のなかに、その人を愛したいと思うものを見ず、はっきりととらえることができなくては、言うまでもなく、一人の具体的な人間を愛することはできないということです。それには、たしかに少なからぬ努力がいります。もっぱら優越感に浸り、冷たい振りをする人間の仮面のうしろに、途方に暮れたさまや傷つきやすさを見るには、創造的な努力が必要なことだってあります。」
シュタイナーがゲーテの詩の中で、キリストが死んで腐敗した犬の死体を見て「なんと美しい歯!」といったということをよく取り上げますが、愛するということはまさに愛する対象の中に、不快なもの、嫌なものの中にすら、愛すべきものを見出す創造的な能力を必要とされるのです。そのため、愛もまた卑俗なもの、ありふれたものを、高貴で未知なものに変えるのです。『はてしない物語』では「今バスチアンにはわかった。世界には幾千もの悦びの形があるが、根本的にそれらすべてはたった一つ、愛することが出来る悦びなのだ。」と言われています。更に、自分がまさに他の誰でもない自分自身であることと、愛することができること、「2つは一つの同じ事なのだ。」と。
つまり、エンデにとって偉大な芸術、力、愛とは同じ一つのことなのです。それは取りも直さず、人間の最高の力、創造的な力に関わるものなのです。そして、この創造的な力の行使こそが魔法を使うことなのです。それは低次のもの、低次の自己を、高次のもの、高次の自己へと変容させます。となると、「魔法使いの弟子の皆さん」とはとりもなおさず人間を指すといえないでしょうか。エンデのこのフラグメントは、まさに高次のものを低次のものに還元しようとする唯物論的な黒魔術ではなく、低次のものを高次のものに変容させる白魔術を行使するために、人間の最高の力である創造力が要求されることが語られているのです。『サーカス物語』では愛と自由と創造的な遊び、それらはひとつのものなのだ、と語られます。この三つは、芸術・力・愛に対応するといえるでしょう。この三重にして一つの力、これを用いて「真の意志」を実現するとき、人間は魔法を使える、エンデはそういうわけです。
最後は駆け足になりましたが『魔法使いの弟子の皆さんに警告!』の解釈はこれで終わりです。僕がなぜ意味深いテクストといったか、お分かりいただけたかと思います。この短いテクストは、エンデの世界観を凝縮したような高密度なテクストであると僕は思います。
「結局のところ、僕たちは生の中にポエジーを織り込み、生そのものの中にポエジーを見出そうとしているのだ。」(Ende,親友ボカリウス宛の書簡より)

「モモはなぜJ・Rに惚れたか」雑感

ラフィク・シャミの「モモはなぜJ・Rに惚れたか」を読みましたので感想を。この本については、実は随分前から知っていて、書評的なものも読んだことがあるんですが、実物をずっと読まないでいた本です。ご存じない方も多いと思いますが、エンデの『モモ』への批判小説のようなものになっています。ちなみに、著者のラフィク・シャミの作品を読むのはこれが初めてで、著者のことは全く知りません。著者紹介によれば、ドイツではとても有名な作家だそうです。
とりあえず、作品のあらすじから。エンデはあとがき代わりに、あるとき旅の途中で出会った不思議な老人から『モモ』のお話を聞いた、という構成にしています。*1シャミはここから話を始めます。つまり、『モモ』は完結していなかったというわけです。この老人が「(有名作家に)物語を売っている」人物として登場します。ここにも何やら皮肉めいた調子があるのですが、とりあえず先に進みましょう。モモは世界(国)を救った英雄として遇せられるのですが、仕事が無いことを理由に周りから人が離れていきます。そんな折、カシオペイアに導かれてあるホテルでマイスター・ルドルフなる人物に会います(勿論、ルドルフ・シュタイナーのことです。)。モモは、ルドルフから様々な理想を聞かされ、彼に協力することにします。化学物質/有害物質を使わない、機械を使わない工場を経営し、貴族の子弟も労働者も平等に受け入れる学校を経営するのですが、モモは日々時間に追われるようになっていきます。ですが、職を失った人たちを食い止めるほどの働き口を確保することはできず、理想を語るルドルフにモモは愛想が尽きてきます。ある日、ルドルフはJ・Rという人物を連れてきます。J・Rはモモに性的なやり方で求愛し、工場を大量生産するやり方へと変えます。しかし、労働者たちのデモが起こり、モモはそこにベッポ(名前は出ていませんがそうです)の姿を見、彼に投げられた石で傷を負います。暴動の起こった町を離れて、モモとJ・Rは楽園のような島へと移り住みます。モモはそこで瞑想をするようになるのですが、だんだん瞑想修行を求めて多くの人がやってくるようになり、その瞑想修行自体をJ・Rは商業的にパッケージングします。その島の人があまりに多くなり、住みにくくなったため、J・Rはモモの代役(モモそっくりの女優)を立てて、こっそりと違う島へと移り住み、モモはそこで限られた人に愛のダンスを教えて過ごす、というところで物語は終わります。
さて、既に書きましたがこの本は『モモ』批判の書です。おそらく幾度と無く繰り返されたテンプレ的なものではあるのでそれ自体は凡庸なのですが…。しかし、そこに何かねじれのようなものがありそうな気がするので、少し取り上げてみようと思いました。ところで、訳者あとがきによるとJ・Rというのはドイツのドラマに出てくる金と権力の権化のような人物だそうです。同じく、訳者あとがきによると「エンデの現実逃避的文学への批判」だそうで、まあこれ自体が何度となく繰り返された話なので陳腐という感じがします。パロディー的な道具立て自体は、良く言えば気がきいていますが。さておき、まずは一つ一つ見ていきたいと思います。
前提についてはさしあたり受け取っておくとして、マイスター・ルドルフとのことから始めましょう。無論、これはルドルフ・シュタイナーをもじった名前なわけです。ところで、マイスター(Meister)という言葉は師のような意味ですが、この場合グル的な意味合いも含めているのかも知れないですね。マイスター・ホラともかけているのでしょう。*2あとで触れるつもりですが、エンデをアントロポゾフィーの、あるいは秘教的世界観の教導者だとする見方も陳腐な批判ではあります。まあ、シュタイナーについてはそれほど触れる必要はないでしょう、というのは、推測するにシャミはそれほどシュタイナーのことは知らないでしょうから。ここで述べられているのは、こういって良ければ、典型的なお行儀のいいアントロポゾーフだと考えたいと思います。もっとも、それは思想面の話で、アントロポゾーフたちが理想ばかりで中身の伴わない人だといいたいわけではありませんのであしからず。私が言いたいのは、高橋巌さんが化繊はいけない、酒はいけない、テレビはいけない…とないないづくしで、そういう生活規則を守っている人たちをシュタイナー右派とよんでいるのですが、そういった人たちのことです。エンデが映画のことで「背徳のアントロポゾーフ」などと呼ばれたという話は『ファンタジー神話と現代』に出ていますが、実際のところエンデはそういった人たちに必ずしも大歓迎されたわけでもなかったのです。例えば、エンデは子安美知子さんとの対談で、「彼の著作をよむときには、けっして彼を現代の大学教授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。」(『エンデと語る』,P91)「シュタイナーの意味する内容は、「モラーリッシェ・ファンタジー」のアクセントで呼ばれるべきものです。つまり、その反対語は「道徳的不毛(Moralische Sterilität)」です。お題目ばかりで外見上の道徳生活をしているうちに、自分のなかからモラルの創造ができなくなってしまう、という意味で「不毛」なのです。」(同書,P142)と述べています。アントロポゾフィーの文脈なので少しわかりにくいかもしれませんが、言い換えると、シュタイナーが言っているからといってただそれを鵜呑みにして(生活規則にして)はいけない、ということです。エンデも言っているように、これはシュタイナー自身が強調したことでもあります。まして、エンデはシャミが書いたようなことを(ただ彼が何を言いたいのか、わかりにくい部分もあるのですが)主張したこともありませんし、むしろ上のようにただシュタイナーの言っていることを鵜呑みにしてお題目のように唱えることに批判しているわけで、ある意味で批判になっていないわけですね。ただし、シャミの批判の中にも見るべきところはあります。シュタイナー学校のことを取り上げていますが、徐々に労働者の子どもは通わなくなり上流階級だけになった、というところがありますが、私が聞き及んだ範囲で言えば、(少なくとも日本の状況で言えば)これは一面ではシュタイナー学校の実情を捉えているのではないでしょうか。とはいえ、しかし、それはエンデとは無関係だと思いますが。
さて、そこでJ・R―資本主義の権化―が登場するわけです。ところで、J・Rはモモに性愛的なというか性的なアプローチをするのですが、これはシュタイナーが性的な事柄を扱わなかったこと*3と、エンデが性愛的な物語を書かなかったことを引っ掛けているのだと思います。とはいえ、この点は些事だという気もしますが…しかし、まあ、醜い現実(と訳者あとがきにあるのですが)から目をそらす現実逃避文学という文脈なのでしょう。私は性愛が醜い現実だとは思いませんが(生々しい現実ではあるかもしれませんが)。少し余談になりますが、ペーター・ボカリウスの伝記によれば、エンデは若い頃はある恋愛事件の影響もあって、相当なプレイボーイ―ボカリウスはドン・ファン的と形容しています―で女性関係ではかなり派手な交際をしていたそうです(ご興味ある方はボカリウスの著書を読んでください。)。そんなエンデが、仮にロマン派的な女性像であっても滅多に恋愛を描かなかったことは、私にも少し不思議な感じがします。明示的には、『サーカス物語』や『遺産相続ゲーム』などの戯曲くらいでしょうか。それも非常にロマン派的な描き方ではありますが。『鏡の中の鏡』では娼婦の女王なんかも登場したりはしますけれども。このあたりはエンデ研究としてはなかなか興味深い問題点ですが、本題と外れすぎるのでここでは示唆するにとどめて本題へと戻りましょう。
J・Rは資本を投入して、工場を大量生産のものへと変えます。ところで、このところは正直何がいいたのかよく分からない部分がありますね。要するに、マイスター・ルドルフのやり方―ところで、シャミが描いているのはカリカチュアにすぎず、あまりよい想定ではないように思いますが―では、資本主義に太刀打ちできず、しかし、J・Rのやり方では貧富の格差が増大し、暴動が起こる…というようなことになりそうなのですが…。まあ、その点はいいでしょう。このあたりについてのエンデのステートメントを確認してみましょう。例えば、先述の子安対談では「今、三層構造の核心に迫ろうとするなら、国際的規模で考える必要がある。それを思うと、全世界の経済を、あれほどユニークな観点で変えていくのは、もう間に合わないという気もします。」(同書,41P)。あるいは、筑紫哲也さんのインタビューでは、環境問題ディスカッションの番組に出演したときのエピソードとして、学者たちの「車の使用をできるだけ抑えなければいけない」という主張に対して、次のように言っています。「…車を贅沢品として買っている消費者のうち三分の一の人が、来年車を買わなかったらどういうことが起こるでしょう。自動車産業界に多大な産業危機がおこります。…(中略)…自動車産業界は社会に対して仕事を供給し続けてきたわけですから、この七百万人という失業者によって社会の購買力は大幅に低下してしまうということなんです。ドイツの経済は破綻するでしょう。つまり私たちは環境破壊か経済破綻かという二者択一を迫られているわけです。」(『筑紫対論』,134-135P)。エンデはこういった悪循環を当然前提しているわけで、その上でこの悪循環を乗り越えるために、意識の変革/金融システム・貨幣システムにメスを入れる必要がある、ということを言っているわけですね。ちなみに、この悪循環については、『ハーメルンと死の舞踏』などでかなり直接的に表現されています。ということは、文字通りに捉えるならば、むしろシャミの言っていることはエンデの言っていることとじつはそれほど変わりないとさえ言えるわけです。ところで、機械を使わない工場とか電話がない(そういう描写があります)というのはもしかしたら、エンデの自然科学批判をシャミが曲解して、そのことも重ねているのかもしれませんが、エンデは現代的なテクノロジーや科学技術の発展に対してネガティブな意見はもっていません。それはいわば世界観の問題、全てをファクトに解消し、(生の)意味や価値を見いだせなくしてしまう世界観―エンデのマテリアリズムという言葉もこの意味で理解されるべきだと私は思いますが―を批判しているわけです。この論点はエンデの世界観全体の中でかなり核心的な部分に属しますので、これについても示唆するに止めさせてもらいます。
次に、モモはJ・Rと楽園の島へと旅立ちます。そこでいわば瞑想修行のグルになっていき、J・Rはそれも商業的にパッケージングするわけです。既に触れましたが、これはおそらくエンデを秘教的なグルとみなすような形式の批判だと思われます。『エンデのメモ箱』と『だれでもない庭』には読者からの手紙に対するエンデの返事が載せられていますが、そこでもエンデはそういった見方に対して反論していますし、例えば教会からそういった批判を受けてもいたようです。これについては、エンデが非常にクリティカルなことを言っているので、それを見てみましょう。河合隼雄さんとの対談です。*4「いけないのは、それじゃヒマラヤに行って、みんな一緒に何日間メディテーションしてこい(笑)、なんていう招待が、何々国際平和会議とやらから舞い込んでくることです。そんなのには即座に、操っているグル(導師)の匂いを感じて、不信感が生じます。だいたいグルたちの写真を一見するだけで、嫌ですよね。高慢で自己陶酔的なあの顔。彼らはそれなりに自己調和を得ているのかも知れないけれど、私はあのやり方を否定します。」(『三つの鏡』,147-148P)。「座禅を組むとか、さまざまなメディテーションが必要なことは確かです。でも、それで工業化社会の問題を解くことはできない。…(中略)…もろもろの問題を解くときに、私たちが単に善意の人間であるということだけでは不十分だ。単に善意だけであったら、事態は一層破局に向かいます。」(同書,150P)。「…個人的にふらりとアジアの国に行ってメディテーションをする、それで自分だけは救われる、と思い込む人もいるのは危険です。逆にアジアの何らかのグルの宣伝がヨーロッパに入ってくる。…(中略)…大変な商売にすらなってると思いますよ。…(中略)…ミュンヘンには、とにかくお金を出してでもメディテーションを習いたい、と思っているヒステリックな人たちがたくさんいるので、グルは商売ができます。」(同書,150-151P)。おそらく、シャミはこういった風潮のことを指して、それをエンデと重ねているのでしょうが、ご覧のようにエンデ自身がこういった風潮を激しく批判しています。商売化についても触れていますね。ところで、エンデは例えば降霊会のようなやり方を「危険な邪道」「キッチュ」として退けています。ここでシャミが描いているような瞑想修行も、エンデからすればほとんどキッチュのようなものでしょう。エンデはオカルト/エソテリズム/呪術的な先祖帰りについては、激しく批判しています。例えば、「今、この二十世紀の終わりに目指そうとする精神性の回復は、けっして先祖返りであってはならないのです。なんらかの昔の文化形態に帰るということは意味もないし、不可能です。それを試みようとしたら、ナチス・ドイツのようになるか、最近のホメイニのようなケースになります。」(『エンデと語る』,100P)。と、まあこのあたりで十分だと思いますが、シャミの批判的に描いたものは、ほとんどエンデ自身が批判しているものと同一なわけです。
最後に、モモは更に秘密の楽園へと移り住んで、そこでお話は終わります。ここもちょっと良く分からない部分もあるのですが、おそらくJ・R=資本主義の恩恵を受けながら、現実に目を背けてごく限られた人に*5夢のようなことを語っている、というようなことなのではないかと思います。もしかしたら、ジム・ボタンの成功のあと、エンデがイタリアへ移り住んだことにもかけているのかもしれません。『ファンタジー神話と現代』でひっきりなしにかかってくる電話ややってくる訪問客に対して、エンデが対応しなかったという話をしていますが、そういう点も考慮しているのかもしれません。これらの点については、以前『ファンタジー神話と現代』について書いた記事で少し書いていますし、「エンデの文学は現実逃避だ」という批判は、テンプレ的というか陳腐にすぎるので特に何か言おうと思いません。『ファンタジー神話と現代』の解説や『芸術と政治をめぐる対話』でのボイスとの対比でもそうですが、こういうことをいう人はいくらでもいますので。少し脱線しますが、シャミはモモに石を投げつける役をベッポに担わせましたが、これは少しうまくないやり方ですね。子安美知子さんが『モモを読む』で指摘していますが、作中で子どもたちのデモを先導した扇動家はジジなのです。こういった「行動」について消極的だったのがベッポです。おそらく、多くの人がエンデと夢想家ジジを結びつけようとするのでしょうが、ことこの点に関してはむしろ現実的/実際家と見られている人たちの方がジジで、エンデはベッポのように振舞っているのではないでしょうか。とはいえ、この点について展開するのは本題とあまりに外れますので、これもまた示唆だけでありますが…。一つだけ付け加えさせてもらうと、別にジジとベッポどちらが良い/悪いという価値判断の問題ではありません。子安さんの分析にもありますが、どちらも一種の人間類型であり、どちらも一人の人間の中に共存するものでさえあるわけです。例えば、『魔法のカクテル』の二人の主人公なんかがいい例ですね。どちらも補いあうことが重要なわけです。
さて、色々と見てきましたが、私の論点はもうだいぶ明らかになったと思います。要するに、シャミの批判は批判として機能していない、少なくともエンデのステートメントからするとそうなるわけです。なんとなれば、シャミの批判する対象をほとんど同じようにエンデも批判しているのですから。もっとも、こういうことはできるでしょう。なぜミヒャエル・エンデはそのことを作品に書かないのだ?と。最近、クリッヒバウムによるインタビュー『闇の考古学』を再読していたのですが、エンデが自身の魔術的世界観を説明したとき、クリッヒバウムは二度も「なぜそのようなことがあなたの作品にでてこないのですか?」と質問しています。日本ではこの点を論じたものが先述した子安さんの『モモを読む』くらいしかないのですが、あれを読めばわかるように、実際読む人が読めばエンデが言っていることは作品中で描かれているわけです。今まで引用したエンデの話も、仔細に読めばエンデの作品の中できちんと語られています。例えば、「道徳的想像力」については、『魔法のカクテル』や『モモ』に顕著ですが、ある闇への跳躍、全く先のわからない状況に勇気を出して踏み出していく、そういう場面が描かれます。経済や社会については、既に述べたように『ハーメルンと死の舞踏』などに顕著です。エソテリズムについては、例えば『はてしない物語』にそのモチーフを見出すことができます。バスチアンをファンタージエンに止めようとするサイーデ的な力のモチーフですね。あるいは、虚無を通じてファンタージエン人が人間界に行くような邪道、そういうことです。現実逃避についても、エンデがまさに「現実逃避的な」結末に改変してしまった映画に対して裁判を起こし、莫大な損失を被ったことを見れば十分です。あるいは、こういう批判もありえます。エンデは彼自身が批判しているものに無自覚のうちになっているのだ、と。しかし、読者がどのように受容するかは当然コントロールできません(私自身はこの点については、前述した『闇の考古学』を読んで感じたことがありますが、それについては機会があったら。)。作品自体がそういうものになっているかどうかについては、既に述べたことで十分なように思います。いずれにしても、こういった論法はいくらでも続けることができるわけで、一種無敵論法的に感じがします…。
ともあれ、シャミの作品自体をどうこうというつもりはないのですが、感想がてら典型的なエンデ批判と思いましたので、エンデ自身のステートメントからエンデの立場をたどってみようと思い、そして、その手の批判がむしろエンデ自身が批判しているものと同一の対象を批判しているという「ねじれ」を、シャミの作品を読んで感じたので、そのことについて書いてみようと思い、本論となりました。エンデは現実逃避的である、というテンプレじみた批判が、ある種のねじれを持っていて、エンデ自身のステートメントからたどることのできるエンデの実像とあまりにかけ離れている、という点について、少しは示すことができたのではないかと思います。

*1:ところで、このあとがきについてはいろいろな解釈が可能だと思いますが、形式的にはロマン派的な語りの形式に即したものであると思います。ホフマンを初め、ロマン派作家の多くは、又聞きのような形をとって著者自身を作品中に登場させるのが好きです。

*2:ところで、エンデ自身が明言していますが、マイスター・ホラはある種超越的存在、エンデの言い方だと叡智存在に属する存在なので、この引っ掛け方はうまくないですね。もしホラとの結婚のようなモチーフを出すとすれば、それはほとんどサイーデとバスチアンが結婚するようなものでしょう。

*3:ただし、これについては時代的なことを考えるとそれほど不思議でもないような気がします。現代のアントロポゾーフがどうかは知りませんが。

*4:メディテーションというのは瞑想のことです。

*5:この限られた人、というのは秘教ということだと思います。顕教/密教という区別ですね。

エンデとシュタイナー

せっかくなので、少し生産的な議論をしてみようということで、エンデ―シュタイナー―ゲーテというラインを見る一つの見方を概略的に書いてみたいと思います。といいますのも、この点を詳細に述べようと思えば、かなり膨大な前準備と論証が必要になるでしょうが、僕にはその準備がありませんので。エンデ―シュタイナー―ゲーテといったのは、この議論の焦点がエンデであり、エンデの考え方/世界観の中に、シュタイナーやゲーテ的な考え方がどのように影響しているかを示すことが、本論の目的であるからです。無論、一つの見方と言いましたように、これが全てだというわけではありませんけれども。

手がかりとしての「隠れたものの実在」

議論の手がかりとして『エンデのメモ箱』に収録されている「隠れたものの実在」(「Die Wirklichkeit des Verborgenen」直訳すると「隠れたものの現実性」)という文章を取り上げたいと思います。なお遺稿集『誰でもない庭』にはこの文章を縮約した形の「隠れたもの」という文章が収録されており、この問題についてのエンデの関心の高さが伺えます。このテキストを参照する理由はいくつかありますが、少し議論を先取りして言いますと、この文章で書かれたエンデの思索は、シュタイナーの初期の哲学的な仕事―言うまでもなくそれは後のアントロポゾフィー思想に通じるものなのですが―に通じたものであり、同時にシュタイナーのゲーテ理解に通じるものであります。そのため、この流れについて論じる際の有力な手がかりと見ることができると考えられるのです。
少々脱線しますが、補足的な事柄を書いておきたいと思います。エンデの思想的なテキスト―『メモ箱』や対談―を読みますと、シュタイナーに直接言及したものが意外と少ないことに気づきます。比較的多く見られるのは、シュタイナーの芸術観に対する批判や社会3分節論についてのものです。一方で、エンデ自身、シュタイナーからの影響の大きさについては様々な箇所で述べています。ここにエンデとシュタイナーの関係性を描き出すときの困難があります。つまり、エンデはシュタイナー研究の成果をエンデなりに消化し、自分の世界観の中に組み入れていると推測できるわけです。言い換えれば、シュタイナーの影響と呼べるものが、エンデのテキスト全体に遍在しているので、特定の箇所を指摘することが非常に困難になっているのです。子安美知子さんが『モモ』を読んだ時、「これはアントロポゾフィーだ!」と思ったとおっしゃっていますが(エンデと語る)、いわば「読む人が読めばわかる」状態なわけです。そのため、子安さんの『モモを読む』のようにエンデ作品を取り上げて、アントロポゾフィー的観点から読み込むことは、アントロポゾフィーに馴染んだ人間には比較的容易にできますが、エンデのエッセーなどのテキストから取り出すのは難しいわけです。私見ですが、エンデとシュタイナーの関係について、3分節論やメルヘン論が比較的よく取り上げられる理由の一つもここにあるのではないかという気もします。無論、神秘主義的な部分について語りにくいということも大きいのでしょうが…。また、ゲーテについても同じで、エンデがゲーテに直接言及していることはほとんどありません。僕の読む限りでは、ゲーテの文学作品については、おそらくまったくないに等しいのではないかと思います。だからといって、ゲーテの影響がないというわけはなく、例えば、エンデ自身が「自分に決定的な影響を与えたテキスト」を選んだと言っている、『エンデの読本』ではゲーテの『メルヒェン』が取り上げられています。以上のようなことを踏まえてテキスト選択を行ったとき、比較的よくシュタイナーやゲーテの影響が見られるテキストとして、この「隠れたものの実在」を選択しました。

テキストの要約

まず、テキストの内容を要約します。エンデは隠れたものの実在を語るとき、霊界の現実(der Wirklichkeit geistiger Welten)から始める必要はない、と書き出します。これは例えば降霊術やその他様々な霊的現象(と言われているもの)です。そういったものではなく、例えばありふれたタンポポに目を向けて見ると、種―葉―草―花と種々にその現象形式を変えていきます。しかし、この様々に異なる現象形式の背後にある、感覚的に知覚できない非時間的な全体こそ、タンポポの本質ではないのだろうかとエンデは議論をすすめます。しかし、この本当のタンポポは知覚できると思うとエンデは言います。タンポポの生きたプロセスを内的に繰り返しなぞるように試みる、そうすると、ある種の全体性の知覚へと到達するのだというわけです。それは部分の総和を超えたものであり、それどころかそれはあらゆるタンポポに現象する非時間的で非空間的な本当のタンポポだというのです。更に、これはタンポポに限ったことではなく、それどころか「植物性」さえ知覚できるといいます。エンデはこれをゲーテが「原植物」と呼んだ何かと関わるものだと考えます。最後にエンデは、ゲーテの「シラーとの出会い」を引用し、この逸話から、この本質を知覚するために必要な内的態度が示されているとして、この引用で文章を締めくくります。

テキストを読む

元々2Pしかない短い文章ですので、あまり要約になっていないところがありますが、テキスト自体を読んでいきたいと思います。まず、上述のまとめを読んで頂ければ容易にわかると思いますが、エンデはここでタンポポイデアについて語っているわけです。ちなみに、言葉は何でもいいのですが、ここではある理由からさしあたりイデアという言葉を採用したいと思います。最初の議論はそれほど奇抜なものではありません。タンポポの種々の様態は、タンポポの本質=イデアの現象形式に過ぎず、「本物のタンポポ」=タンポポイデアは非時間的で超感覚的なものであり現象の背後にある、というわけです。ここまでは形而上学的には普通の議論と言えるでしょう。さて、問題は後半です。エンデはこのタンポポイデアは知覚可能である、と考えます。それは、タンポポの生きたプロセス(lebendigen Prozess)への内的沈潜によって可能になるのだ、というわけです。ここにシュタイナーの強い影響ないし関連を見出すことができます。シュタイナーは人間を霊(Geist)・魂(Seele)・体(Leib)の3つの構成部分からなる存在と捉えます*1。そのそれぞれの機能について、シュタイナーは『神智学』で次のような例を挙げています。

「私が花の咲いている牧場を通るとしよう。花々は私の目を通して、その色彩を私に伝える。このことは所与として私が受け入れる事実である。私はその華やかな彩りを楽しむ。このことによって、この事実は私の要件となる。私は自分の感情によって、花々を私自身のあり方と結びつけたのだ。…(中略)…去年私が花々について認識し、今年も再び認識するもの、それは、このような花々が生えている限りは存続するだろう。それは、私に開示されたものではあるが、私の喜びとは異なり、私の存在に依存していない。私の喜びの感情は私の中にある。花々の法則と本質は私の外に、世界の中にある。」(シュタイナー,神智学)

簡略にまとめると、人間が五官によって知覚するものが体に、知覚と私(自我/主観)を結びつける快/不快の感情が魂に、時間や空間を超えて自然法則や花の花性(本質)として認識されるものが霊にあたるわけです。ここではエンデのテクストとの関係で、とりわけ霊の部分に着目します。ここまででわかるように、エンデが「隠れたもの」と呼ぶものと、シュタイナーの霊とは極めて緊密な関係にあります。エンデは現象形式=知覚像(ないし知覚表象)として与えられるもの、つまり体に属するものの背後に、タンポポの本質、タンポポが従う自然法則としての隠れたもの=霊が認識可能だ、というわけです。この点について、もう少しシュタイナーの叙述を見てみましょう。シュタイナーは『ゲーテの世界観』で次のように述べます。

「有機的な自然現象の領域で、ゲーテの見解として重要なのは、彼が生命の本質について築き上げた観念である。葉、萼、花冠等々が互いに同一の植物器官であり、共通の基本形態から発展してきたものであるという事実をゲーテが強調したことが重要なのではない。そうではなくて、生きたものとしての植物の本性全体について、ゲーテがどのような観念を持っていたか、そしてこの全体から個々のものがどのようにして生み出されてくると彼が考えたか、ということが重要である。」
「肉体の目が有機体において観察しうるものは、精神の目によってのみ到達可能な、互いに錯綜して作用し合う形成の法則の生きた全体の単なる結果にすぎないとゲーテには思われる。」(シュタイナー,ゲーテの世界観)

シュタイナーのゲーテ解釈によれば、「肉体の目」、すなわち感覚器官によって知覚されたものは、「精神の目」、すなわち霊的に知覚されたもの、言い換えれば思考(あるいは知的直観と言ってもよいと思いますが)によって感覚された形成の法則の「単なる結果に過ぎない」。「共通の基本形態」とは無論「原植物」のことです。原植物そのものではなく、原植物からいかに個々の植物が有機的なものとして発展してくるかがゲーテの見解の重要な部分である、とシュタイナーは考えるわけです。そして、ここで言う個々の植物の発展を、エンデは生きたプロセスと呼ぶわけです。ここに、ゲーテ、あるいはシュタイナーのゲーテ受容とエンデの世界観とを接続する点を見いだせます。
さて、若きシュタイナーの一つの論点は、カント的な意味での「認識の限界」の突破でした。『神智学』の記述に戻りますと、シュタイナーによれば、外的に知覚されるものと霊的な自然法則の認識(いわば知的直観)は共に客観的なものです。人間が独我論的に「私(自我)」の中に閉じこもっているように思われるのは、魂=感情を通して、外的なものの知覚が人間の内的なものと結びつき、私の表象=主観的になることを通してそうなるというわけです。この霊的なものの認識について、エンデは内的に生きたプロセスに繰り返し沈潜することで可能になると思う、といいます。まず、ここで考えたいのは、「隠れたもの」の認識ということについてです。エンデの文章では、この隠れたものを明確に認識できるとは書いていません。「全体性のある種の知覚に至る」という言い方がされています。言い換えるなら、エンデが言っているのは、シュタイナーが霊視(イマギナツィオン認識)と呼ぶような、はっきりした明視的状態まで言っているとは少し考えにくいのです。勿論これは、エンデがシュタイナーの言う高次の認識を否定していた、という意味ではありません。むしろ、エンデが隠れたものを語るとき、霊界の現実から始める必要はない、と言っていることに留意しますと、何か特別な、エンデの言い方で言いますと、「パラサイコロジー」や「グル」や「多かれ少なかれ不気味な聖別式」について語ることがなくても、隠れたものの現実性は認識可能である、という文脈で考えるべきでしょう。ここで重要なのは、現実性(Wirklichkeit)という言葉です。エンデの「愛読者への44の問い」に「現実(Wirklichkeit)が”実際に作用すること”(wirken)と関連があるとすれば、夢はどのような現実を持つのでしょうか?」というものがあります。これに従って、現実性を作用することと関連させるとすれば、「隠れたもの」の作用が重要だということになります。言い換えるならば、帰納的推論によって導きだされる類、つまりタンポポA、B、C…といった個物から帰納的に導きだされた抽象的な類=タンポポが重要なのではなく、現実に作用するところの理念の認識についてエンデは語っているわけです。ここに一つの分岐点が存在します。僕は先にイデアという言葉を使いました。通常、プラトン主義的世界観は二元論、つまりイデアの世界と現象世界の二元的世界観、として捉えられます。そこでは―例えば、ニーチェが批判したように―彼岸/此岸が分割され無関連化されます。しかし、エンデがここでいっているのは、そのイデアタンポポの本質・本当のタンポポは「現実的なるもの=作用するもの」だということです。個々の現象形式が展開し、メタモルフォーゼしていくプロセスをエンデは「生きたプロセス」と言い、この生きたプロセスを「演じる・なぞる(nachzuspielen)」ことで本当のタンポポの知覚に至るといいました。ここでエンデはプラトン主義的二元論的世界観ではなく、シュタイナー的な霊的一元論の世界観に基づいているのです。つまり、何か怪しげな「オカルト」的な手法によらずとも、ゲーテの言い方で言えば「不断に創造する自然」の形成法則、これ自体が「隠れたもの」「オカルト的なもの」「精神的な実在」なのであって、この点にエンデの世界観の一つの重要なポイントがあると考えられます。この点についてはここで論じ尽くすことはできません。またあとで触れるつもりですが、さしあたりエンデの世界観がただの二元論的形而上学的世界観ではない、ということだけ留意していただきたいと思います。
では、もう少し「生きたプロセスへの内的な沈潜」という事柄について掘り下げてみたいと思います。先に述べたような帰納法的推論による抽象化はエンデの言う「生きたプロセス」の外部に観察者を想定しています。これに対して、ゲーテ的/シュタイナー的な観察とはどのようなものでしょうか。ゲーテはハインロートからの自分への賛辞に対し、「私の思考が対象から分離せず、対象の諸要素、つまり直観された事柄が私の思考の中に入り込み、これによって緊密に浸透され、私の直観それ自体が一つの思考、また私の思考が一つの直観である」(ゲーテ,ゲーテ全集14)と自分の観察法を自己分析します。また、シュタイナーは『ゲーテの世界観』でこう言います。

「人間がイデアへと高まり、知覚されうる個々のものをイデアから理解することが実際にうまくいくような場合には、自然が神秘に満ちた全体から被造物を生み出すことによって自然が成し遂げるのと同じ事を人間を成就する。人間がイデアの活動と創造を感じ取ることをしないかぎり、彼の思考は生きた自然からは切り離されたままである。」(シュタイナー,ゲーテの世界観)

シュタイナーは、「生きた自然から切り離された」思考を死んだ思考、「イデアの活動と創造を感じ取る」思考を生きた思考と呼びました。「ゲーテ―精神研究の父」という講演でシュタイナーは、

ゲーテの場合、諸存在の世界の中に沈潜し、生長して絶えず変化するものを追求することが認識でした。追求する際、自分の思考自体が絶えず変化・生成し、あるものから別のものへと絶えず移りゆきます。つまり、普通だったら単なる思考を、ゲーテは内的に運動させるのです。そうすると、それはもはや単なる思考ではありません。…思考は生命的なものになります。もはや思考について思考できなくなり、思考は別のものに変化します。思考についての思考は、思考の精神的観照に変化します。そうすると、普段自分のまえに外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します。」(シュタイナー,ゲーテ 精神世界の先駆者)

つまり、エンデが「内的に沈潜する」というように、外部から観察するのではなく、内部的な植物の生長プロセスに沈潜するわけです。さて、内部/外部という言葉を使いましたが、問題はこれがただの視点の変換ではない、ということです。シュタイナーの引用にもあるように、生きた思考とは思考を通してそれ自体が変容するものです。河本英夫はこの視点の差異を次のように表現しています。

「自分自身を形成する運動では、内的視点そのものを巻き込んで形成運動が起きているため、内的にも何が起きているかがわからないままになる。外的視点を内的視点に変換するという視点の転換だけでは済まない事態が生じている。自己を形成する運動の捉えにくさは、視点の問題とは別のところにある。」(河本英夫,システム現象学

つまり、エンデのいうような「内的な沈潜」とは、既に一つの行為/体験なわけです。ここに対象的思考との違いが存在します。フィヒテが探求したように、あるものを対象化するとき、常に既に自我と非我が分割されます。A=Aたる自我の(定立する)働き=事行に対して、観察は常に一歩遅れます、つまり自我と非我が分割されます。言い換えれば、主観と客観が分裂します。ここに認識の限界が、決して超えられないように思われる裂け目が存在します。しかし、この事行そのものに照準することで、言い換えれば無限の反省的作用のプロセスそのものの体験を通じた、動くものそれ自体の経験/変容、これがエンデのいう「内的なプロセスの沈潜」と言えるでしょう。既に述べたように、この「認識の限界」の突破こそ、シュタイナーの認識論的著作の一つの目的でした。シュタイナーは哲学的主著『自由の哲学』で次のように言います。

「思考の働きを洞察出来る人は、知覚内容の中には現実の一部しか存在せず、別の現実部分はこの知覚内容を思考することによって体験されるものであり、それによってはじめて現実が完全な姿をとって現れる、ということを知っている。その人は意識の中に現れる思考内容が現実の影絵のようなものではなく、自己に基づく精神的本質性であることを理解するであろう。」(シュタイナー,自由の哲学

既に述べたように、シュタイナーにとって思考が捉えるものは、知覚内容と同じように客観的なものです。この客観的なもの=概念が個別化されたものが表象として意識の舞台に現るとシュタイナーは考えます。思考の働きの洞察を通して、この客観的な本質についての洞察が得られる、というのがシュタイナー認識論の一つの論点です。この点について詳しく述べることは、あまりに本題と外れますし、僕の手に余るのでできませんが、シュタイナーは思考だけが思考を思考できる点に着目します。河本英夫「社会システムと心的システムは、もろもろのシステムのなかでも特異である。…(中略)…思考を構成素とする心的システムとコミュニケーションを構成素とする社会システムは、本来どのようにしても観察者の視点を取ることができない。」(河本英夫,オートポイエーシスと思考システムの特殊性について述べています。シュタイナーはこの点に着目して、自らの認識論を打ち立てたわけです。つまり、思考システムの作動を観察する観察システムも思考の作動の結果に過ぎないという再帰的自己言及性に、です。そして、この思考の作動(動き)に照準することによって、感情や意志の作用に影響を受けない「純粋思考」が可能になります。思考とはシュタイナーの定式において霊の領域に属するのですが、この「純粋思考」の経験の中で「精神的本質性」が開示される、というわけです。
それでは、少しまとめてみましょう。エンデは、霊的世界(精神世界)の現実性について、不断に創造する形成作用への沈潜、エンデの言葉で言うならば内的なプロセスへの沈潜によって知覚可能になる、といいます。そして、この考え方はシュタイナーの認識論に基づくものでした。そして、それはシュタイナーのゲーテ受容と大きく関係していました。そのため、エンデはこのエッセーの最後にゲーテの「シラーとの出会い」という文章から―エンデの引用はおそらく記憶に頼って行ったためでしょうが不正確なのですが―引用をします。ゲーテはシラーに自らの原植物を描いて見せました。しかし、ゲーテの話が終わるとシラーは「それは経験ではなく理念です」と答えました。ゲーテは怒りを堪えて「私が自分で気づかずに理念をもっており、しかもそれを目で見ているというのは、たいへん結構なことでございましてね。」と答えました。この逸話に、エンデは隠れたものを知覚するための「内的な姿勢」の必要性が現れている、といいます。そして、その内的な姿勢とは言うまでもなく、既にさんざん述べたように理念を経験すること、言い換えれば有機的なものの全体のプロセス(自然の不断の創造プロセス)へ沈潜する、ということなのです。ここに、エンデがいかにシュタイナーとゲーテの影響を受けているかを見出すことができると思います。

エンデのシュタイナー受容の一側面

さて、ここまでは「隠れたものの実在」というテキストを僕なりの仕方で読んでみたわけですが、上述の読み方からエンデのシュタイナー受容について少し考えてみましょう。勿論、既に述べたようにこれは一側面にすぎないことを強調しておきます。エンデは子安美知子さんとの対談で、シュタイナーについて次のように言っています。

「今私が話したような考え[=主客二元論の克服]を、現代になってからほんとうに初めて言い出したのは、シュタイナーでした。彼はこの本質的問題を鋭く指摘した最初の人間だったのです。…(中略)…シュタイナー自身のたどった非常に論理的かつ哲学的な準備過程を抜きにして、彼の秘教的側面だけをとりあげると、宗教か神秘主義かオカルティズムの奇妙な一派が、また一つできたというだけのことになります。古い形式のオカルト信仰をまねて、そこに先祖返りする動きになる。そのやりかたでは、新しいものは何も得られないし、何の救いにもなりません。」(エンデ,エンデと語る)

ここでエンデがシュタイナーの初期の哲学的な仕事の重要性について強調していることに留意してください。エンデとシュタイナーの関係を考えるとき、このことが非常に重要に思われます。僕の見る限りで、エンデとシュタイナーのことに言及する人は、大抵エンデがシュタイナーの秘教的思想から多大な影響を受けた、と見ているようです。例えば、先日取り上げた「ミヒャエル・エンデの貨幣観」はまさにそうした視点を取っていたように思います。しかし、それではエンデがシュタイナーを重視する理由を洞察することはできません。既に述べてきたような、シュタイナーの認識論的洞察、これにエンデが立脚していることを、本稿では「隠れたものの実在」というテキストを読むことを通してみてきたわけです。エンデはたびたび降霊術などのオカルト的儀式を「オカルト的なキッチュ」として退けます。先の引用で「先祖返り」とよんでいたようなことです。これは「隠れたものの実在」でも、「パラサイコロジー」や「グル」や「不気味な聖別式」に頼らずとも、霊的世界の現実について語ることができる、と述べていることと同型です。この洞察を抜きにすると、エンデを単なる神秘主義者にしてしまいます。同時に、エンデの世界観の中で神秘思想が占める位置を見誤ります。シュタイナーの世界観を、いわば血肉化したエンデの世界観は、既に霊的一元論という言葉で述べましたが、世界をどう見るかという問題と密接に関係するわけです。例えば、『メモ箱』にある「びっくりした女性読者への手紙」 の中でエンデは、

一本の木の外的形姿の背後になんらかの生の本質的なものが存在します、つまり霊的な性質があるのです―自然のあらゆる被造物の背後にも同様に。愛をもたず、唯物的に(非精神的に)世界をイメージすることだけが、これを疑うことができます。この唯物的な解釈が、まさに我々を自然の荒廃へと導いたのです。私が言うことは、汎神論とは完全に無関係です。」(エンデ,エンデのメモ箱)

と述べています。ここに「隠れたものの実在」と同型の議論がなされていることがわかると思います。そして、エンデはその洞察と「自然の荒廃」を接続します。これは言うまでもなく、エンデの自然科学批判に通じています。「アインシュタイン・ロマン」のインタビューでは、エンデはこう言っています。「世界と人間の意識は同一なのです。そこには差異はありません。それを、客観的実在と人間の意識を区別し続けることは無意味です。互いに単独では存在し得ないものだからです。」そして「精神的なものはすべて人間が創りださなければ、創造的に創りださなければ存在しません。ですが、存在するようになれば、それは実在するものとなるのです。それは、生成する理念と言えましょう。真実もまた、生成する理念であり、「存在するもの」ではありません。」というわけです。前者の言及についてよいでしょう、後者の言及には少し注釈が必要かもしれません。シュタイナーは『自由の哲学』の前半では既に概略を示したように認識論的問題を取扱い、後半では自由の問題を扱います。エンデが『読本』で取り上げた『自由の哲学』の「道徳的想像力」の章で、シュタイナーは「道徳的想像力」とは、理念界から直観によって取り出された理念から具体的な表象を作らなければいけない、そのためには道徳的ファンタジーが必要だ、と言っています。認識論的には(理論的にはといってもいいですが)理念の経験であったところの生きた思考―生成する理念―は、実践的にはこのようにイデー(イデア)を具体的に「創造する」働きをする、というわけです。ここにも、エンデとシュタイナーとの関係性を見いだせると同時に、ロマン派的な思考との接続点も見いだせると思います。さて、いずれにしても、現代の唯物論的な文明を「文明砂漠」と呼び、有機的な自然の認識を再び獲得すべし、とするエンデの考えが既に述べたような認識論的基礎とアントロポゾフィー的世界観から導きだされていることがお分かりになるかと思います。同時に、概略的ではありますが、エンデが「創造」とりわけ「価値創造」ということを重視したことも、さきの引用からお分かりになるかと思います。そして、それらの事柄もシュタイナー受容と―勿論それだけではありませんけれども―関係することがみられると思います。

エンデとメタモルフォーゼ

「隠れたものの実在」の一つの論点として、理念のメタモルフォーゼということが言えます。つまり、「本当のタンポポ」と呼ばれるものが、個々の現象形式へとメタモルフォーゼしていくという洞察です。この点について、少しと取り上げてみたいと思います。エンデは『読本』の最初に荘子の「胡蝶の夢」を、最後にボルヘスの「エブリシング アンド ナッシング」を挙げています。エンデはこれを最初と最後に取り上げたのは、この二つが同じ思想を違う表現で述べているからだ、と言っています(エンデと語る)。「胡蝶の夢」については言うまでもないでしょうが、ボルヘスの作品について少し解説しますと。ボルヘスは、この作品でシェークスピアはあらゆる登場人物(ハムレット、デスデモーナ、オセロ等々…)の中にいるが、そのどこにもいない、というわけです。胡蝶の夢と同様に、ここには中心がありません。荘周か蝶か、二つの変容プロセス(とここでは言いたいのですが)だけがある、シェークスピアはいない、だが様々な登場人物への現象、つまり、既に述べたようなメタモルフォーゼプロセスだけが存在する。これはエンデが禅の雲水について、たびたび言及していることとも関連するでしょう。エンデがこのメタモルフォーゼという考え方を、非常に重視していたことが伺えると思います。これに関するエンデ自身の言及を取り上げるとキリがないほどです。なので、一つだけ取り上げます。遺稿集『だれでもない庭』のなかの「鏡に映る鏡には何が映っているのか?―さすらい山の古老」という文章です。この文章自体は、エンデの後期代表作『鏡の中の鏡』についてのものです。と同時に、タイトルにもあるように『はてしない物語』に登場するさすらい山の古老の問いでもあります。エンデは読者と本を共に鏡に例えてこう言います。

「読者と、彼が読む本との間で(人間と世界の間で)おきることは、一体どこで起きているのだろう?ただ本の中だけではない。本は白い紙の上の黒インキでできているだけだ。読者がいなくてはならない。ただ読者のなかだけでもない。本がなければ読むというプロセスそのものができない。…(中略)…読者の注意力をこの謎めいたプロセスへとむけるため、私は、読者を読者自身に差し戻す物語を書こうとした。…(中略)…読者を自然落下の無重力状態に置く物語、同時に、オルビットに似て、(神、人間の自我、現存在の意義のように)存在し、しかも存在しないとしか言い表せない中心を巡る周回軌道へ投げ出す物語。語られたどのプロセスも、はっきりと、あるいはひそかに、次の新しいプロセスへのキックオフを秘めていて、それはまた新しいプロセスへというふうに続き、ついには新しい旋回がはじまるまで…。」(エンデ,だれでもない庭)

『鏡の中の鏡』という本で、エンデはまさに変容のプロセスを取り扱っていたと言えます。そこには、中心というべきテーマのようなものがありません。ただ変容と変容のプロセスだけがあります。そして、読者はまさにその変容のプロセスに巻き込まれ、脱中心化した、あるいは常に中心からズレ続ける無限の反省作用の中で、自分自身の変容を体験する、そういったプロセスだ、というわけです。ここにエンデの芸術観が既に現れていると言えます。『はてしない物語』では、このプロセスの中に(本当の意味で)巻き込まれたバスチアンが、一夜の冒険を通じて自己変容を体験します。一方、『鏡の中の鏡』では脱中心化された中心、常に中心からズレ続ける反復される鏡像としての物語―今風に言えばシミュラークルとしての物語―がその構造を通じて表現されます。素描的ではありますが、エンデがどれほどメタモルフォーゼの理念を重視しており、エンデ思想の根幹の一つにあるということが以上に挙げた事柄からでも推察できると思います。

終わりに―視点について

さて、最初に述べたように素描的/示唆的なものにとどまりましたが、これで本論を終わりにしたいと思います。この文章を書いたのは、前回記事があまりに批判的だったので、少し僕なりのエンデ-シュタイナー-ゲーテというラインについて、どのように見るかを示したいと思ったからです。もっとも、ゲーテにはあまり触れられませんでしたが。ここで僕の視点について、少しだけ補足的な事柄を述べたいと思います。今回、「隠れたものの実在」というテキストを叩き台として使用したわけですが、僕が本当に取り上げたい問題はミヒャエル・エンデの世界観にあります。どういうことかといいますと、前回の記事で著者の前書きを引用して同意を示しましたが、エンデ思想という視点を取るとき、あまりに貨幣論や社会論、あるいは芸術論に偏っているという印象があります。前回取り上げた本も、結局のところ貨幣論を論じていますし、神秘思想(著者の言い方だと錬金術思想)との接続もそれほどうまくいっていると思えませんでした。各論を取り上げることに、この問題の根幹があるように思います。エンデの考え方を本当に洞察するためには、そのような枝の部分ではなく、まず幹の部分をみなければいけないと思います。僕がエンデの世界観というのは、まさにそのことを指しています。かなり大雑把ではありますが、本稿では「隠れたものの実在」にみられるエンデの考え方から、唯物論批判や芸術論への橋がどのようにかけられるかを示唆できたのではないかと思います。無論、貨幣論やその他の考えに対しても、同様の作業ができるでしょう。また、各作品論へも接続可能でしょう。ここで扱った問題はあまりに抽象的に思われるかもしれませんが、本稿の言い方で言えば、ここから個々の問題に対するエンデの具体的な言及がメタモルフォーゼしてくるのです。ここで改めて、本論の考察―理念のメタモルフォーゼ―へと戻ってこれたと思います。エンデが精神的な父というノヴァーリスの断章に「わたしがある著者を理解したと言えるのは、私が彼の精神がおいて振る舞うことができ、彼の個性を縮減せずに翻訳し、多様に変化させることができた場合のみである。」というものがあります。エンデの世界観を知る、というのは、このような試みであるように思います。本論が少しでもこの試みに近づけていればと思います。

*1:ドイツ語のGeistには精神/霊と言った訳語があり、シュタイナー研究ではケースバイケースで訳し分けるのが通例となっています。ここでは基本的に霊という言葉を採用しますが、ドイツ語のGeistに精神の含みがあることは念頭において頂ければと思います。

「ミヒャエル・エンデの貨幣観」雑感

最近出たばかりの『ミヒャエル・エンデの貨幣観』という本が、だいぶ前から気になっていたのですが、たまたま図書館に入っていたため読みました。それについて、個人的にかなり書きたいことができたので、感想がてらまとめたいと思います。

錬金術

さて、本書の副題に「ゲーテの『メルヒェン』からシュタイナーを経た錬金術思想の系譜」とあります。まず、この副題を最初に見たとき?と思いました。というのは、シュタイナーは錬金術パラケルススに言及することはあっても、シュタイナーの思想が錬金術に基礎づけられているとは考えられないからです。本書を読む限りでは、シュタイナーが自分の思想を薔薇十字の思想だという点を、著者は錬金術と呼んでいるようです。ちなみに、著者も述べていますが、薔薇十字運動自体がその存在自体に疑問符がつくようなものなので、そもそもシュタイナー思想が薔薇十字に基礎づけられていると考えること自体がおかしいのですが。シュタイナーは確かに自分の秘教的立場を薔薇十字的と呼びますが、これはとりわけ神智学協会の東洋秘教偏向に対して、西洋秘教の伝統を汲む秘教的思想としての自分の立場を薔薇十字と呼んでいる面が多分にあるように思います。そもそも、アンドレーエの著作以外に明確な文書がないわけですから。ちなみに、著者はシュタイナーがアンドレーエの冗談*1を真に受けて『化学の結婚』をローゼンクロイツが書いたと信じたのだ、と(幾分嘲笑的に)書いていますが、この点は単に誤読であって、シュタイナーは当然『化学の結婚』を書いたのはアンドレーエであり、ローゼンクロイツが一時的に彼に憑依して書いたのだ、と言っています。シュタイナーは出版年を誤解しているとも書いていますが、シュタイナーはローゼンクロイツが受肉した時点を言っているのであって、出版年を言っているのではありません。その点のオカルト的な見方について信じるかどうかはまた別の問題でありますが。ともあれ、個人的には、そもそも錬金術思想の系譜という点にすでに疑問符がつくわけですが、この点についてはさしあたりよしとして、先に進みましょう。

議論の流れ

本書の議論は、まずゲーテの『メルヒェン』を取り上げ、そこで錬金術のモチーフ、硫黄=凝固・水銀=流動・塩=肉体化というモチーフが使われている点に着目します。そして、『ファウスト』にも同じモチーフが使われている点、ゲーテが一時期錬金術の研究をしていた点から、詩的モチーフとしてゲーテ錬金術の概念を用いていたことを述べます。そして、シュタイナーがゲーテの『メルヒェン』に着目している点から、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、そして後年社会3分節論と『メルヒェン』の3人の王(金・銀・青銅)が内的に深い結び付きがある、と論じている点を取り上げます。そして、ここからエンデが『私の読本』にゲーテの『メルヒェン』を取り上げていること、また取り上げようと考えていた本のリストにシュタイナーの3分節論に関する講演録があったことから、エンデの『メルヒェン』を重要視していたことと、その受容について論じます。この後の議論では、一方でエンデの貨幣観を取り上げ、その源流としてゲゼルの貨幣論の検討、『鏡の中の鏡』と『ハーメルンと死の舞踏』の差異に着目し、エンデの貨幣観の進展を検討し、とりわけピンズヴァンガーの影響を取り上げます。そして、ピンズヴァンガーがゲーテの『ファウスト』を錬金術モチーフから、経済について書いたものであると解釈している点に着目し、そこに錬金術的モチーフに強い影響を受けた二つの思想がエンデの中で合流している、というのが簡単な議論の流れになります。

パースペクティブと視野

さて、僕は経済専門家でもなければ、一般的な知識すら怪しいくらいなので、貨幣論については触れません。一つ言うならば、著者はエンデが神秘思想から経済問題まで幅広い視野を持っていたこと、従来の研究では児童文学論と貨幣論の両極端になってしまっている点を挙げ、広いパースペクティブの中に置くことによってはじめて、児童文学・神秘主義貨幣論といった諸テーマを貫くエンデの思想の核心部分を描き出すことができるはずである。と述べます。なるほど、確かに僕が見る限りでも、エンデの思想研究というのは(少なくとも日本では)ほとんどなされていないように思います。この点について、(錬金術というパースペクティブには前述のとおり疑問符がつきますが)著者の主張は正当といえるでしょう。確かに、取り上げるべき問題は多々あるのです。*2さて、貨幣論というパースペクティブについてはよいとして、本書の射程を考えると貨幣論としては『エンデの遺言』を超えているとは思えませんでした。勿論、本書の方がはるかに詳細に検討されており、また地域通貨のような形ではなく、より普遍的な経済構造問題として取り扱っている点もあるので、より明確であるとは言えるでしょう。しかし、ピンズヴァンガーにせよ、ゲゼルにせよ『遺言』で既に取り上げられています。もっとも、僕が常々批判的に言っている、芸術=文化=精神と経済=貨幣の問題を両方取り上げている点は評価できますが。つまり、パースペクティブにせよ、視野にせよ、それほど拡張されているという風には思えませんでした。何より、著者は3分節論とエンデの関わりを、精神の自由の領域を重視し、経済問題についてはあくまで問題提起にとどまるものと捉えているようですが、ゲゼルを取り上げている部分で触れられている多くのことを、シュタイナーも取り上げている点を考慮に入れる必要があります。例えば、シュタイナー自身は老化する貨幣を提案しています。また、利子や投資を否定もしていません。あるいは、土地の公有化や生産物の定義もゲゼルと同様です。なぜエンデが老化する貨幣ではなく、減価する貨幣を取り上げたのかわかりませんが、むしろここにこそ未開拓の領域があるように思えてなりません。前述したように、この点は深く突っ込みませんが、エンデの貨幣論=ゲゼル理論が下敷きという先入観?を破ることで、より広い視野が獲得できると思うのですが…。*3

最大の疑問点

前置きな長くなりましたが、ここからが本題になります。著者は、ゲーテ-シュタイナー-エンデという系譜をゲーテの『メルヒェン』を手がかりに描こうとしています。そして、エンデが『読本』*4に『メルヒェン』を入れている点、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、エンデの蔵書の中の『薔薇十字会の神智学』の熟読のあとと、書き手不明の『メルヒェン』解釈の複写の紙片の存在などから、この系譜の接続点として『メルヒェン』を持ちだしてきます。まず、一番の問題はエンデがシュタイナーの『メルヒェン』解釈をそこまで重要視していたのか?という問題があります。本書では、一次資料としてエンデの未刊行書簡などを挙げていますが、エンデが『読本』に『メルヒェン』を挙げた理由など、直接の繋がりを示すものは一切なく、すべて著者の解釈によるものです(後述しますが、シュタイナーへの無理解や牽強付会な議論とも関係します。)。「いやいや、『メルヒェン』解釈の複写の存在だけで十分な証拠じゃないか!」という反論がありえます。ですが、僕の見る限りシュタイナー自身が述べているように『メルヒェン』解釈は、解釈としてどうかを別として、シュタイナーの思想を非常にコンパクトにまとめたものです。つまり、エンデがそれを『メルヒェン』の解釈として重要視していないことと、この解釈それ自体をよく研究していたこととは両立可能です。『薔薇十字会の神智学』だけをとりわけ取り上げることも恣意的でしょう。そもそも、この本自体がシュタイナー思想の入門的な本の一つなので、それをエンデが重点的に研究していてもおかしくありません。
もう少し踏み込んでみましょう。エンデは常々「芸術作品を解釈して、その結果を著者の思想とみなすこと、芸術を著者の思想をラッピングしたものとみなすことをしてはいけない」と警告しています。本書でも書簡が引用されていますが、エンデ自身、自分の著作の解釈を聞かれてはぐらかしています。では、そんなエンデがシュタイナーの解釈を、芸術作品の解釈として重要視するものでしょうか?まず、これが一つの疑問点です。もう一点、エンデはシュタイナー思想に多くを負っています。『ものがたりの余白』では「生の礎石」とまで言っていますが、一点だけシュタイナーを強く批判していました。それはシュタイナーが芸術作品を霊的なものの顕現としてのみ捉えたことです。芸術観/芸術論についてだけは、エンデは生涯シュタイナーの思想を受け入れませんでした。さて、シュタイナーの『メルヒェン』解釈は、まさにエンデが嫌った霊的なものの顕現として、ゲーテの霊的直観の内容として解釈するものです。ここまで見ると、エンデがシュタイナーの「解釈」をそこまで重要視したというのはおかしいと思うのが自然ではないでしょうか。エンデが様々なところで拒否し、批判していることが、なぜここでだけ「例外」になるのでしょうか?直接的にそれを示唆する文書があるならばともかく、そうでない限りはエンデは「『メルヒェン』の解釈」ではなく「シュタイナー思想の一部」としてシュタイナーの『メルヒェン』論を受容したと考えたほうが、はるかに自然ではないでしょうか。なお、エンデがゲーテの『メルヒェン』を正式名称ではなく、シュタイナーが用いた『緑蛇と百合姫のメルヒェン』という名称を普段用いていたという事実から、主張を補強しようとしていますが、これも強引な議論だと思います。エンデがシュタイナーに馴染んでおり、シュタイナーと同じ名称を使ったことから、『メルヒェン』解釈を重要視していたことを引き出すのは、短絡的だと言わざるをえないでしょう。ちなみに、僕はそれほど『メルヒェン』について思い入れはないですが、どちらかというとシュタイナーの使った名称を使います。どうでもいい話ですがwとにかく、以上の点から、ゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点として『メルヒェン』を用いることに対して疑問符がつきます。この点を、次の節で著者のシュタイナーへの無理解という観点から、更に踏み込んで議論していきます。
余談になりますが、シュタイナーとは無関係にエンデがゲーテの『メルヒェン』を『読本』に入れた理由を推察することは簡単です。ご承知のように、エンデは文学的に自覚的にドイツ・ロマン派の流れを汲んでいます。ロマン派の特徴的なスタイルの一つでもある創作メルヒェンの嚆矢とも言うべき作品が、ゲーテの『メルヒェン』です。その意味では、エンデのメルヒェン・ロマンの文学的源流の一つでもあるわけで、エンデが『読本』で取り上げることに違和感はまったくありません。ロマン派のことを書いたついでなので言及しますが、「作家としてのエンデは「詩的な錬金術」に注目している。だが、こうしたゲーテ錬金術への関心を呼び覚ましたのもまた、シュタイナーだったのである。」とありますが、これについてもむしろノヴァーリスを始めとした初期ロマン派の影響を考慮に入れたほうが通りがいいでしょう。

シュタイナーへの無理解

さて、既に長々と書いてしまいましたが、本稿の一番の目的は(そして僕が非常に腹が立ったのが)この点にあります。とにかく、著者のシュタイナーへの無理解・誤解・誤読がひどい。正直言いまして、シュタイナーを取り上げない方がよいのではないかとさえ思います。
まず、基本知識としてシュタイナーのゲーテ受容について簡単に書きます。本書では、シュタイナーの『メルヒェン』の秘教的解釈の位置づけが、かなり大げさに捉えられています。シュタイナーとゲーテの結節点が(本書の定式を用いれば)薔薇十字=錬金術に求められています。ですが、これは恣意的な取り上げ方だと言わざるをえません。シュタイナーはゲーテ研究者として出発しました。では、シュタイナーはゲーテの何を研究していたのでしょうか?ゲーテの自然科学論です。キルシュナー版ドイツ国民文学叢書及びゾフィーゲーテ全集の「自然科学」の編纂を担当したのがシュタイナーです。シュタイナーはゲーテの自然観察方法に着目し、ここにカント以来の「認識の限界」を踏破する認識論が、ゲーテの観察方法を観念論的な認識論として定式化することで可能になると考えました。『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』はこうした立場から書かれた本です。シュタイナーの認識論は一貫してこの立場を支持します。シュタイナーの初期著作を読みますと、シュタイナーがゲーテの文学作品やエッセイ、書簡でゲーテが表明している立場などより、ゲーテの自然科学の認識法を重視しており、そこにゲーテの本質があると見ていることがわかります。つまり、シュタイナーとゲーテを結んでいるのは、ゲーテの自然科学論であり、そこから導出される認識論なのです。これがシュタイナーのゲーテ受容といえます。
さて、確かにシュタイナーの『メルヒェン』論はシュタイナー自身の秘教思想を投影したものと見ることができます。なので、この解釈の正当性を巡っては、特に議論の余地はありません。また、シュタイナーがゲーテを秘儀参入者としてみている点も、それを文献学的に証明することはできないでしょう。*5この点も議論の余地はありません。しかし、著者はシュタイナーが後年『メルヒェン』と3分節論を結びつけたことを取り上げて、

「こうしたシュタイナーの強引な読み込みは、彼の頑なな宗教的確信に由来するものであると同時に、そのゲーテへの深い傾倒、自らをゲーテの継承者として任じたいという強い欲求に原因があった。」

と断じています。更にシュタイナーが3分節論と結びつけるのは、ゲーテという存在を自らの思想・主張の根拠としたいという心情に由来するものであろう。」とまで述べているのです。そもそも、シュタイナーはどんなところでも、自分の思想を他者の権威によって正当化しようとすることはしませんでした。シュタイナーが述べる霊的認識も、すべて自分の霊学的研究の成果であり、自分が確信を持ったことだけを語っている、ということを強調していました。*6とはいえ、そんなことを言ってもそれだけでは、シュタイナー信者の戯言にすぎません。なので、著者がこう述べるに至った解釈を検討していきたいと思います。
とりわけ問題視されているところを取り上げましょう。それはシュタイナーが1920年11月22日シュトゥットガルトで行った講演の一節に由来します。*7問題の一節を本書から引用するとこうです。「金の王(知恵の王)、銀の王(外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王)、青銅の王(物質的、経済的な生活の王)によってゲーテが描き出したものは、三分化されていると見ることができる。」。この部分について、

「銀の王は見せかけの王であるとされ、政治的な領域と結び付けられるのだが、この銀の王の解釈には問題がある。(中略)シュタイナーは銀の王について、「外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王」(den König des äußeren Scheins, des Scheinlebens, des politischen Lebens)と述べているが、”des äußeren Scheins”は「外面的な見かけ」を意味している。この解釈は『メルヒェン』本文の”Schein”という語からの連想であろうが、銀の王が表す”Schein”を「見かけ」と解釈することには無理がある。」

と書いています。つまり、シュタイナーは自分の3分節論と結びつけるために、1901年のメルヒェンの解釈を歪曲して新たに強引な解釈をしている、というわけです。さて、これだけ読むと、なるほどもっとも、と思うかもしれません。しかし、よく考えてみましょう。シュタイナーは、政治=法・経済・精神の三領域がそれぞれ独立して機能するという論を打ち立てました(これについては先日アップした記事をご参照ください。)つまり、それぞれが等価値に大切だ、ということです。しかし、だとすると政治生活を「見せかけの」「うわべの」生活と否定的な言い方をするのはおかしくないでしょうか?なぜシュタイナーは政治生活をみかけの生活と等置しているのでしょうか?シュタイナー思想をまったく知らなくても、真面目にテキストを読めばこれは引っかからないでしょうか?結論を先に言いましょう。ここに著者の誤読があるのです!Scheinという語を辞書で引くと光や外観(見かけ)という語に並んで、哲学用語として「仮象」という訳語が載っています。では、こう訳してみましょう。「外的仮象の、仮象的生の、政治的生活の王」。シュタイナーを読んでいる方ならこう訳せばピンと来るに違いありません。シュタイナーは物質的に目に見えるものはマーヤー、仮象に過ぎないといいます。物質的に目に見えるものを霊的なものの仮象としての現れと考えているわけです。つまり、ここでいっているのは、そういうマーヤーに囚われている人間の生のことを言っているのです。こう捉える根拠があります。元の文をよく見てみると、金の王には知恵の王としか言われていません。これは『メルヒェン』のテキストに沿ったものです。一方、青銅の王には「物質的生活」と言われています。これまた、シュタイナーを読んでいる方はピンとくるでしょう。一方には仮象の生、他方に物質的生が対置されているのです。これはシュタイナーがルツィファー的・アーリマン的と呼んだ、デモーニッシュな二つの力を表しているのです。シュタイナーはある講演で、ルツィファー的な力を「幻想、神秘主義、熱狂、眠り込むこと、軟化する力」、アーリマン的な力を「俗物的なこと、唯物論、干からびた悟性、目覚めること、硬化する力」と述べています。つまり、シュタイナーはここで銀の王=ルツィファー的、青銅の王=アーリマン的と言っているわけです。それでは金の王は何か?シュタイナーはこの両極の間にあって、均衡を取る力を「キリスト的」といいます。金の王=キリスト的です。*8また、そもそも3分節論とは社会を有機体と捉え、人間の身体=有機体と同様に3分節される、という考え方なので、ゲーテの『メルヒェン』の解釈とはそれ自体まったく関係ありません。基本的に、シュタイナーの思想は霊・魂・体、アストラル体エーテル体・物質体等々のように3分節=三位一体を基調とするので、社会有機体の3分節もその流れから把握すべきです。つまり、著者がここでScheinを「みせかけ」と解釈したことがそもそもの誤解・誤読であり、誤読を元にしてシュタイナーのものではない考えをシュタイナーに押し付けて批判していたと言わざるをえないのです。*9更に、『メルヒェン』をゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点と見ることも、3分節論の正当化としての『メルヒェン』解釈という誤読に基づいた解釈を正せば、既に述べたような事柄から見て、あまりよい視点とは言えないでしょう。実際、正当に見れば、これを結節点とするには繋がりはあまりに弱すぎ、意図に沿うように恣意的に繋げたとすら思えてしまうほどです。

開ける可能性

シュタイナーは、批判するのではなく間違った見解に対して何を付け加えれば正しくなるか考えよ、と言いました。既にさんざん批判してから言うのもなんですが、僕が行った解釈のもとに、本書の見解に新たな可能性が開けるという点を指摘します。本書では、ゲーテの用いた錬金術モチーフ、硫黄・水銀・塩の3つを重視しています。*10ピンズヴァンガーもこのモチーフから『ファウスト』を解釈しているからです。さて、本書では硫黄=凝固、水銀=流動、塩=肉体化という図式を使っています。先ほど、僕が解釈しなおしたシュタイナーの図式を参照してみますと、ルツィファー=軟化=流動化、アーリマン=硬化=凝固と考えることができます。キリストはその両者に均衡をもたらしますが、ここでの塩と類比的に考えられます。*11この図式を前提にして、本書でピンズヴァンガーを取り上げているところを読んでみますと、ピンズヴァンカーは貨幣価値が皇帝によって保証され、固定していたものが流動化するということで、水銀プロセスとして描きます。次に、貨幣=富が一箇所に集中=凝固します。これが硫黄プロセスです。最後に、「大事業」=現実資本への投入によって貨幣が現実化する、というのがピンズヴァンガーの図式です。ここに面白い対応関係を発見できます。まず、ピンズヴァンガーは貨幣価値とは幻想(みんなが価値があると思っているから価値がある)だとみなします。*12おわかりでしょう。ここで水銀原理がルツィファー的原理と面白いほど一致しているのです。しかも、シュタイナーによれば法=政治領域とは人間関係調整の領域です。言い換えれば、3分節論的には貨幣価値は法によって担保されます。*13あるいは、ピンズヴァンガーが皇帝という政治的存在を持ち出していることを考えてもいいかもしれません。先ほどの箇所で、シュタイナーはルツィファー原理と政治生活とを等置していたことを考えると、我々はここで不思議な一致を見ているわけです。更に、硫黄プロセスについて考えてみます。貨幣が資本として集中するのは、経済プロセスの中で投資などによって資本集中が起こるのは当然です。つまり、凝固プロセス=硫黄プロセス=3分節論的経済プロセスと考えるならば、アーリマン的原理=経済生活と硫黄プロセスも対応していることになります。では、塩プロセス=精神の領域と言えるかどうかですが、これは少し強引な解釈になってしまいそうです。塩プロセスは貨幣=抽象的/非実体的なものが実体化するプロセスだ、ということです。生産/消費は経済プロセスの中で行われますが、この中で生まれた実体的なものを使うのは、精神プロセスの中に生きる人間だ、と考えるならば、これも言えそうではあります。しかし、ピンズヴァンガーはそもそも経済について考えているので、ここは少し強引だと言えるでしょうけれど。いずれにしても、驚くべきことに、著者が批判し、退けたシュタイナーの3分節論と『メルヒェン』の結びつきが、きちんと解釈されると、著者が本書で重視している錬金術モチーフと重なるどころか、ピンズヴァンガーの理論との不思議な一致さえ起こるのです!

終わりに

いかがでしょうか。このように考えていくと、本書で取り上げられている事柄がより一貫したまとまりを示します。これらの思想がエンデに合流していることが、よりすっきりとした形で提示できるのです。僕自身、ピンズヴァンがーを取り上げた部分を読んだ時は、とても驚きました。惜しむらくは、既に述べたように著者があまりにシュタイナーに対して無理解であること、誤解・誤読があまりに多く、おそらく真面目にシュタイナーの著作/テクストを読もうとしていないということでしょう。それは例えば、シュタイナーが『神智学』の中でエーテル(体)を取り上げていることを述べているにもかかわらず、エーテルを「高次のより純粋な空気」といってしまう態度にも現れているように思います。*14エンデの思想をたどるには、シュタイナーは確かに必須です。僕自身、最初にシュタイナーを読み始めたのはそういった動機からでした。しかし、エンデが徹底的にシュタイナーを研究していたことを考えれば、エンデ思想を追究しようとするなら、少なくとも、基本的なレベルでのシュタイナー思想の理解は必須のはずです。勿論、エンデが影響を受けたもの全てに細かく目を配ることはできないにせよ、です。実際、本書ではロマン派を完全に視野に入れていません。と、まあ、一読してかなり問題を感じたので、『ファンタジー神話と現代』のときのように一気呵成に書いてしまいました。最後の方は、多少強引な部分もありましたし、すべてを取り上げるというわけにもいきませんが、一番重要な点は指摘できたと思います。

*1:薔薇十字会自体が存在しない団体であり、アンドレーエの捏造であるというのが一般的な見解です。

*2:僕がパッと思いつく限りでも、遊戯の理論があり、芸術論の検討があり、貨幣論も今までより広い視野で見られるはずであり、ロマン派との比較があり、言語論があり、ヴァインレープ思想との比較があり、シュタイナー思想との比較もまだ十分になされているとはいえないと思います。

*3:むしろ、エンデの経済観はかなりの程度シュタイナー経済学(国民経済学)に近いと思いますが、この点については精査したことがないので、示唆にとどめておきます。

*4:『読本』とは、『M・エンデの読んだ本』というタイトルで邦訳もされている本で、エンデが強い影響を受けた本、人生の転換点になったような本の全部または一部を抜粋したアンソロジーのような本で、エンデが何に影響を受けたかを知る手がかりの一つでもあります。

*5:ただし、シュタイナーがライプツィヒ時代の病について、この体験を通じてゲーテに秘儀体験が生じた、と『薔薇十字会の神智学』で述べている点を、著者はこの病の治療からゲーテ錬金術に一時期没頭したことと考えているようですが、これは誤読です。臨死に近い重症という体験を通じて、秘儀を体験したというのがシュタイナーの述べていることであって、外的に錬金術の著作に触れたことを言っているのではありません。また、シュタイナー自身がこのあとのゲーテの「失望」体験については別の講演で触れてもいます。なお、この講演を含めて、この時のゲーテが体験したものは無意識にとどまり、後年になって意識に上ってきたという言い方をしていますので、いずれにしてもゲーテ錬金術実験への失望を取り上げるのは間違いでしょう。

*6:ゲーテとの関連で言うと、シュタイナーは『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』ではゲーテと自分の認識論を結びつけていますが、学位論文でもある『真理と科学』では以前、自分の立場をゲーテの世界観と結びつけて叙述したが、自分の立場は必ずしもゲーテの世界観から導きだされる必要はなく、自分の思考の建築物それ自体に基礎を持っていることが読み取れるだろうと書いています。ここでも、ゲーテという権威によって自分の考えを正当化したり、権威付けしたりすることをしていないことに留意してください。

*7:ちなみに、本書では1919年12月22日になっていますが…。正直、調べるのに苦労しました。こんなことでいいの?と思ってしまいます。

*8:不勉強ながら問題となっている講演を全部読んでいないので、ルツィファーを政治に、アーリマンを経済に結びつけている理由は判然としません。例えば、3分節論では精神=四肢-新陳代謝系、経済=頭部-感覚系、政治=胸部-循環器系という対応させられていますが、これですと均衡点が政治であり、硬化するもの=頭部神経系が経済、流動的なもの=新陳代謝系-腺組織が精神になっています。

*9:ちなみに、シュタイナーは講演録、特に人智学協会員向けのものについては慎重に取り扱うことを強調しました。一つにはシュタイナーがすべてをチェックできないので、様々な誤解や誤記が含まれてしまうこと、何よりもシュタイナーが著書などで取り上げている事柄を前提しているので、それらのことをよく知らない人に誤解を招きかねないからです。これはまさにそう言った典型例と言えるでしょう。この図式はシュタイナーをちょっと研究している人間なら当然わかることなのですから。

*10:シュタイナーも、これらをシュタイナー医学との兼ね合いで取り上げていることを付記しておきます。また詳述は避けるものの、シュタイナーが医療やオカルト身体論の観点から述べていることが、ここで僕が取り上げた事柄と見事に一致していることも、僕の解釈の一つの根拠となっています。

*11:オカルト身体論では、流動プロセス=水のプロセスは新陳代謝組織、硬化=土プロセスは神経組織と考えられ、この生の力と死の力が均衡することで、人間は生命を保っていると考えられています。

*12:ところで、最近放送終了したアニメ「C」ではまさに貨幣価値が信用であることが描かれていました。エンデの経済観、貨幣観からすると非常に面白く、共通点のある作品です。余談までに。

*13:ボイスとの対談で、ボイスが貨幣を法のドキュメントだ、としきりにいっているのはこのことです。

*14:この意味でのエーテルは19世紀頃まで物理学でも想定されていた意味での、振動などを媒介する媒質としてのエーテルと読めます。シュタイナーは自分のエーテルという言葉はそういうものではなく、生命力ないし形成力とでも呼ぶべきものであることを強調しています。

「ミヒャエル・エンデの貨幣観」雑感

最近出たばかりの『ミヒャエル・エンデの貨幣観』という本が、だいぶ前から気になっていたのですが、たまたま図書館に入っていたため読みました。それについて、個人的にかなり書きたいことができたので、感想がてらまとめたいと思います。

錬金術

さて、本書の副題に「ゲーテの『メルヒェン』からシュタイナーを経た錬金術思想の系譜」とあります。まず、この副題を最初に見たとき?と思いました。というのは、シュタイナーは錬金術パラケルススに言及することはあっても、シュタイナーの思想が錬金術に基礎づけられているとは考えられないからです。本書を読む限りでは、シュタイナーが自分の思想を薔薇十字の思想だという点を、著者は錬金術と呼んでいるようです。ちなみに、著者も述べていますが、薔薇十字運動自体がその存在自体に疑問符がつくようなものなので、そもそもシュタイナー思想が薔薇十字に基礎づけられていると考えること自体がおかしいのですが。シュタイナーは確かに自分の秘教的立場を薔薇十字的と呼びますが、これはとりわけ神智学協会の東洋秘教偏向に対して、西洋秘教の伝統を汲む秘教的思想としての自分の立場を薔薇十字と呼んでいる面が多分にあるように思います。そもそも、アンドレーエの著作以外に明確な文書がないわけですから。ちなみに、著者はシュタイナーがアンドレーエの冗談*1を真に受けて『化学の結婚』をローゼンクロイツが書いたと信じたのだ、と(幾分嘲笑的に)書いていますが、この点は単に誤読であって、シュタイナーは当然『化学の結婚』を書いたのはアンドレーエであり、ローゼンクロイツが一時的に彼に憑依して書いたのだ、と言っています。シュタイナーは出版年を誤解しているとも書いていますが、シュタイナーはローゼンクロイツが受肉した時点を言っているのであって、出版年を言っているのではありません。その点のオカルト的な見方について信じるかどうかはまた別の問題でありますが。ともあれ、個人的には、そもそも錬金術思想の系譜という点にすでに疑問符がつくわけですが、この点についてはさしあたりよしとして、先に進みましょう。

議論の流れ

本書の議論は、まずゲーテの『メルヒェン』を取り上げ、そこで錬金術のモチーフ、硫黄=凝固・水銀=流動・塩=肉体化というモチーフが使われている点に着目します。そして、『ファウスト』にも同じモチーフが使われている点、ゲーテが一時期錬金術の研究をしていた点から、詩的モチーフとしてゲーテ錬金術の概念を用いていたことを述べます。そして、シュタイナーがゲーテの『メルヒェン』に着目している点から、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、そして後年社会3分節論と『メルヒェン』の3人の王(金・銀・青銅)が内的に深い結び付きがある、と論じている点を取り上げます。そして、ここからエンデが『私の読本』にゲーテの『メルヒェン』を取り上げていること、また取り上げようと考えていた本のリストにシュタイナーの3分節論に関する講演録があったことから、エンデの『メルヒェン』を重要視していたことと、その受容について論じます。この後の議論では、一方でエンデの貨幣観を取り上げ、その源流としてゲゼルの貨幣論の検討、『鏡の中の鏡』と『ハーメルンと死の舞踏』の差異に着目し、エンデの貨幣観の進展を検討し、とりわけピンズヴァンガーの影響を取り上げます。そして、ピンズヴァンガーがゲーテの『ファウスト』を錬金術モチーフから、経済について書いたものであると解釈している点に着目し、そこに錬金術的モチーフに強い影響を受けた二つの思想がエンデの中で合流している、というのが簡単な議論の流れになります。

パースペクティブと視野

さて、僕は経済専門家でもなければ、一般的な知識すら怪しいくらいなので、貨幣論については触れません。一つ言うならば、著者はエンデが神秘思想から経済問題まで幅広い視野を持っていたこと、従来の研究では児童文学論と貨幣論の両極端になってしまっている点を挙げ、広いパースペクティブの中に置くことによってはじめて、児童文学・神秘主義貨幣論といった諸テーマを貫くエンデの思想の核心部分を描き出すことができるはずである。と述べます。なるほど、確かに僕が見る限りでも、エンデの思想研究というのは(少なくとも日本では)ほとんどなされていないように思います。この点について、(錬金術というパースペクティブには前述のとおり疑問符がつきますが)著者の主張は正当といえるでしょう。確かに、取り上げるべき問題は多々あるのです。*2さて、貨幣論というパースペクティブについてはよいとして、本書の射程を考えると貨幣論としては『エンデの遺言』を超えているとは思えませんでした。勿論、本書の方がはるかに詳細に検討されており、また地域通貨のような形ではなく、より普遍的な経済構造問題として取り扱っている点もあるので、より明確であるとは言えるでしょう。しかし、ピンズヴァンガーにせよ、ゲゼルにせよ『遺言』で既に取り上げられています。もっとも、僕が常々批判的に言っている、芸術=文化=精神と経済=貨幣の問題を両方取り上げている点は評価できますが。つまり、パースペクティブにせよ、視野にせよ、それほど拡張されているという風には思えませんでした。何より、著者は3分節論とエンデの関わりを、精神の自由の領域を重視し、経済問題についてはあくまで問題提起にとどまるものと捉えているようですが、ゲゼルを取り上げている部分で触れられている多くのことを、シュタイナーも取り上げている点を考慮に入れる必要があります。例えば、シュタイナー自身は老化する貨幣を提案しています。また、利子や投資を否定もしていません。あるいは、土地の公有化や生産物の定義もゲゼルと同様です。なぜエンデが老化する貨幣ではなく、減価する貨幣を取り上げたのかわかりませんが、むしろここにこそ未開拓の領域があるように思えてなりません。前述したように、この点は深く突っ込みませんが、エンデの貨幣論=ゲゼル理論が下敷きという先入観?を破ることで、より広い視野が獲得できると思うのですが…。*3

最大の疑問点

前置きな長くなりましたが、ここからが本題になります。著者は、ゲーテ-シュタイナー-エンデという系譜をゲーテの『メルヒェン』を手がかりに描こうとしています。そして、エンデが『読本』*4に『メルヒェン』を入れている点、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、エンデの蔵書の中の『薔薇十字会の神智学』の熟読のあとと、書き手不明の『メルヒェン』解釈の複写の紙片の存在などから、この系譜の接続点として『メルヒェン』を持ちだしてきます。まず、一番の問題はエンデがシュタイナーの『メルヒェン』解釈をそこまで重要視していたのか?という問題があります。本書では、一次資料としてエンデの未刊行書簡などを挙げていますが、エンデが『読本』に『メルヒェン』を挙げた理由など、直接の繋がりを示すものは一切なく、すべて著者の解釈によるものです(後述しますが、シュタイナーへの無理解や牽強付会な議論とも関係します。)。「いやいや、『メルヒェン』解釈の複写の存在だけで十分な証拠じゃないか!」という反論がありえます。ですが、僕の見る限りシュタイナー自身が述べているように『メルヒェン』解釈は、解釈としてどうかを別として、シュタイナーの思想を非常にコンパクトにまとめたものです。つまり、エンデがそれを『メルヒェン』の解釈として重要視していないことと、この解釈それ自体をよく研究していたこととは両立可能です。『薔薇十字会の神智学』だけをとりわけ取り上げることも恣意的でしょう。そもそも、この本自体がシュタイナー思想の入門的な本の一つなので、それをエンデが重点的に研究していてもおかしくありません。

もう少し踏み込んでみましょう。エンデは常々「芸術作品を解釈して、その結果を著者の思想とみなすこと、芸術を著者の思想をラッピングしたものとみなすことをしてはいけない」と警告しています。本書でも書簡が引用されていますが、エンデ自身、自分の著作の解釈を聞かれてはぐらかしています。では、そんなエンデがシュタイナーの解釈を、芸術作品の解釈として重要視するものでしょうか?まず、これが一つの疑問点です。もう一点、エンデはシュタイナー思想に多くを負っています。『ものがたりの余白』では「生の礎石」とまで言っていますが、一点だけシュタイナーを強く批判していました。それはシュタイナーが芸術作品を霊的なものの顕現としてのみ捉えたことです。芸術観/芸術論についてだけは、エンデは生涯シュタイナーの思想を受け入れませんでした。さて、シュタイナーの『メルヒェン』解釈は、まさにエンデが嫌った霊的なものの顕現として、ゲーテの霊的直観の内容として解釈するものです。ここまで見ると、エンデがシュタイナーの「解釈」をそこまで重要視したというのはおかしいと思うのが自然ではないでしょうか。エンデが様々なところで拒否し、批判していることが、なぜここでだけ「例外」になるのでしょうか?直接的にそれを示唆する文書があるならばともかく、そうでない限りはエンデは「『メルヒェン』の解釈」ではなく「シュタイナー思想の一部」としてシュタイナーの『メルヒェン』論を受容したと考えたほうが、はるかに自然ではないでしょうか。なお、エンデがゲーテの『メルヒェン』を正式名称ではなく、シュタイナーが用いた『緑蛇と百合姫のメルヒェン』という名称を普段用いていたという事実から、主張を補強しようとしていますが、これも強引な議論だと思います。エンデがシュタイナーに馴染んでおり、シュタイナーと同じ名称を使ったことから、『メルヒェン』解釈を重要視していたことを引き出すのは、短絡的だと言わざるをえないでしょう。ちなみに、僕はそれほど『メルヒェン』について思い入れはないですが、どちらかというとシュタイナーの使った名称を使います。どうでもいい話ですがwとにかく、以上の点から、ゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点として『メルヒェン』を用いることに対して疑問符がつきます。この点を、次の節で著者のシュタイナーへの無理解という観点から、更に踏み込んで議論していきます。

余談になりますが、シュタイナーとは無関係にエンデがゲーテの『メルヒェン』を『読本』に入れた理由を推察することは簡単です。ご承知のように、エンデは文学的に自覚的にドイツ・ロマン派の流れを汲んでいます。ロマン派の特徴的なスタイルの一つでもある創作メルヒェンの嚆矢とも言うべき作品が、ゲーテの『メルヒェン』です。その意味では、エンデのメルヒェン・ロマンの文学的源流の一つでもあるわけで、エンデが『読本』で取り上げることに違和感はまったくありません。ロマン派のことを書いたついでなので言及しますが、「作家としてのエンデは「詩的な錬金術」に注目している。だが、こうしたゲーテ錬金術への関心を呼び覚ましたのもまた、シュタイナーだったのである。」とありますが、これについてもむしろノヴァーリスを始めとした初期ロマン派の影響を考慮に入れたほうが通りがいいでしょう。

シュタイナーへの無理解

さて、既に長々と書いてしまいましたが、本稿の一番の目的は(そして僕が非常に腹が立ったのが)この点にあります。とにかく、著者のシュタイナーへの無理解・誤解・誤読がひどい。正直言いまして、シュタイナーを取り上げない方がよいのではないかとさえ思います。

まず、基本知識としてシュタイナーのゲーテ受容について簡単に書きます。本書では、シュタイナーの『メルヒェン』の秘教的解釈の位置づけが、かなり大げさに捉えられています。シュタイナーとゲーテの結節点が(本書の定式を用いれば)薔薇十字=錬金術に求められています。ですが、これは恣意的な取り上げ方だと言わざるをえません。シュタイナーはゲーテ研究者として出発しました。では、シュタイナーはゲーテの何を研究していたのでしょうか?ゲーテの自然科学論です。キルシュナー版ドイツ国民文学叢書及びゾフィーゲーテ全集の「自然科学」の編纂を担当したのがシュタイナーです。シュタイナーはゲーテの自然観察方法に着目し、ここにカント以来の「認識の限界」を踏破する認識論が、ゲーテの観察方法を観念論的な認識論として定式化することで可能になると考えました。『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』はこうした立場から書かれた本です。シュタイナーの認識論は一貫してこの立場を支持します。シュタイナーの初期著作を読みますと、シュタイナーがゲーテの文学作品やエッセイ、書簡でゲーテが表明している立場などより、ゲーテの自然科学の認識法を重視しており、そこにゲーテの本質があると見ていることがわかります。つまり、シュタイナーとゲーテを結んでいるのは、ゲーテの自然科学論であり、そこから導出される認識論なのです。これがシュタイナーのゲーテ受容といえます。

さて、確かにシュタイナーの『メルヒェン』論はシュタイナー自身の秘教思想を投影したものと見ることができます。なので、この解釈の正当性を巡っては、特に議論の余地はありません。また、シュタイナーがゲーテを秘儀参入者としてみている点も、それを文献学的に証明することはできないでしょう。*5この点も議論の余地はありません。しかし、著者はシュタイナーが後年『メルヒェン』と3分節論を結びつけたことを取り上げて、

「こうしたシュタイナーの強引な読み込みは、彼の頑なな宗教的確信に由来するものであると同時に、そのゲーテへの深い傾倒、自らをゲーテの継承者として任じたいという強い欲求に原因があった。」

と断じています。更にシュタイナーが3分節論と結びつけるのは、ゲーテという存在を自らの思想・主張の根拠としたいという心情に由来するものであろう。」とまで述べているのです。そもそも、シュタイナーはどんなところでも、自分の思想を他者の権威によって正当化しようとすることはしませんでした。シュタイナーが述べる霊的認識も、すべて自分の霊学的研究の成果であり、自分が確信を持ったことだけを語っている、ということを強調していました。*6とはいえ、そんなことを言ってもそれだけでは、シュタイナー信者の戯言にすぎません。なので、著者がこう述べるに至った解釈を検討していきたいと思います。

とりわけ問題視されているところを取り上げましょう。それはシュタイナーが1920年11月22日シュトゥットガルトで行った講演の一節に由来します。*7問題の一節を本書から引用するとこうです。「金の王(知恵の王)、銀の王(外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王)、青銅の王(物質的、経済的な生活の王)によってゲーテが描き出したものは、三分化されていると見ることができる。」。この部分について、

「銀の王は見せかけの王であるとされ、政治的な領域と結び付けられるのだが、この銀の王の解釈には問題がある。(中略)シュタイナーは銀の王について、「外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王」(den König des äußeren Scheins, des Scheinlebens, des politischen Lebens)と述べているが、”des äußeren Scheins”は「外面的な見かけ」を意味している。この解釈は『メルヒェン』本文の”Schein”という語からの連想であろうが、銀の王が表す”Schein”を「見かけ」と解釈することには無理がある。」

と書いています。つまり、シュタイナーは自分の3分節論と結びつけるために、1901年のメルヒェンの解釈を歪曲して新たに強引な解釈をしている、というわけです。さて、これだけ読むと、なるほどもっとも、と思うかもしれません。しかし、よく考えてみましょう。シュタイナーは、政治=法・経済・精神の三領域がそれぞれ独立して機能するという論を打ち立てました(これについては先日アップした記事をご参照ください。)つまり、それぞれが等価値に大切だ、ということです。しかし、だとすると政治生活を「見せかけの」「うわべの」生活と否定的な言い方をするのはおかしくないでしょうか?なぜシュタイナーは政治生活をみかけの生活と等置しているのでしょうか?シュタイナー思想をまったく知らなくても、真面目にテキストを読めばこれは引っかからないでしょうか?結論を先に言いましょう。ここに著者の誤読があるのです!Scheinという語を辞書で引くと光や外観(見かけ)という語に並んで、哲学用語として「仮象」という訳語が載っています。では、こう訳してみましょう。「外的仮象の、仮象的生の、政治的生活の王」。シュタイナーを読んでいる方ならこう訳せばピンと来るに違いありません。シュタイナーは物質的に目に見えるものはマーヤー、仮象に過ぎないといいます。物質的に目に見えるものを霊的なものの仮象としての現れと考えているわけです。つまり、ここでいっているのは、そういうマーヤーに囚われている人間の生のことを言っているのです。こう捉える根拠があります。元の文をよく見てみると、金の王には知恵の王としか言われていません。これは『メルヒェン』のテキストに沿ったものです。一方、青銅の王には「物質的生活」と言われています。これまた、シュタイナーを読んでいる方はピンとくるでしょう。一方には仮象の生、他方に物質的生が対置されているのです。これはシュタイナーがルツィファー的・アーリマン的と呼んだ、デモーニッシュな二つの力を表しているのです。シュタイナーはある講演で、ルツィファー的な力を「幻想、神秘主義、熱狂、眠り込むこと、軟化する力」、アーリマン的な力を「俗物的なこと、唯物論、干からびた悟性、目覚めること、硬化する力」と述べています。つまり、シュタイナーはここで銀の王=ルツィファー的、青銅の王=アーリマン的と言っているわけです。それでは金の王は何か?シュタイナーはこの両極の間にあって、均衡を取る力を「キリスト的」といいます。金の王=キリスト的です。*8また、そもそも3分節論とは社会を有機体と捉え、人間の身体=有機体と同様に3分節される、という考え方なので、ゲーテの『メルヒェン』の解釈とはそれ自体まったく関係ありません。基本的に、シュタイナーの思想は霊・魂・体、アストラル体エーテル体・物質体等々のように3分節=三位一体を基調とするので、社会有機体の3分節もその流れから把握すべきです。つまり、著者がここでScheinを「みせかけ」と解釈したことがそもそもの誤解・誤読であり、誤読を元にしてシュタイナーのものではない考えをシュタイナーに押し付けて批判していたと言わざるをえないのです。*9更に、『メルヒェン』をゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点と見ることも、3分節論の正当化としての『メルヒェン』解釈という誤読に基づいた解釈を正せば、既に述べたような事柄から見て、あまりよい視点とは言えないでしょう。実際、正当に見れば、これを結節点とするには繋がりはあまりに弱すぎ、意図に沿うように恣意的に繋げたとすら思えてしまうほどです。

開ける可能性

シュタイナーは、批判するのではなく間違った見解に対して何を付け加えれば正しくなるか考えよ、と言いました。既にさんざん批判してから言うのもなんですが、僕が行った解釈のもとに、本書の見解に新たな可能性が開けるという点を指摘します。本書では、ゲーテの用いた錬金術モチーフ、硫黄・水銀・塩の3つを重視しています。*10ピンズヴァンガーもこのモチーフから『ファウスト』を解釈しているからです。さて、本書では硫黄=凝固、水銀=流動、塩=肉体化という図式を使っています。先ほど、僕が解釈しなおしたシュタイナーの図式を参照してみますと、ルツィファー=軟化=流動化、アーリマン=硬化=凝固と考えることができます。キリストはその両者に均衡をもたらしますが、ここでの塩と類比的に考えられます。*11この図式を前提にして、本書でピンズヴァンガーを取り上げているところを読んでみますと、ピンズヴァンカーは貨幣価値が皇帝によって保証され、固定していたものが流動化するということで、水銀プロセスとして描きます。次に、貨幣=富が一箇所に集中=凝固します。これが硫黄プロセスです。最後に、「大事業」=現実資本への投入によって貨幣が現実化する、というのがピンズヴァンガーの図式です。ここに面白い対応関係を発見できます。まず、ピンズヴァンガーは貨幣価値とは幻想(みんなが価値があると思っているから価値がある)だとみなします。*12おわかりでしょう。ここで水銀原理がルツィファー的原理と面白いほど一致しているのです。しかも、シュタイナーによれば法=政治領域とは人間関係調整の領域です。言い換えれば、3分節論的には貨幣価値は法によって担保されます。*13あるいは、ピンズヴァンガーが皇帝という政治的存在を持ち出していることを考えてもいいかもしれません。先ほどの箇所で、シュタイナーはルツィファー原理と政治生活とを等置していたことを考えると、我々はここで不思議な一致を見ているわけです。更に、硫黄プロセスについて考えてみます。貨幣が資本として集中するのは、経済プロセスの中で投資などによって資本集中が起こるのは当然です。つまり、凝固プロセス=硫黄プロセス=3分節論的経済プロセスと考えるならば、アーリマン的原理=経済生活と硫黄プロセスも対応していることになります。では、塩プロセス=精神の領域と言えるかどうかですが、これは少し強引な解釈になってしまいそうです。塩プロセスは貨幣=抽象的/非実体的なものが実体化するプロセスだ、ということです。生産/消費は経済プロセスの中で行われますが、この中で生まれた実体的なものを使うのは、精神プロセスの中に生きる人間だ、と考えるならば、これも言えそうではあります。しかし、ピンズヴァンガーはそもそも経済について考えているので、ここは少し強引だと言えるでしょうけれど。いずれにしても、驚くべきことに、著者が批判し、退けたシュタイナーの3分節論と『メルヒェン』の結びつきが、きちんと解釈されると、著者が本書で重視している錬金術モチーフと重なるどころか、ピンズヴァンガーの理論との不思議な一致さえ起こるのです!

終わりに

いかがでしょうか。このように考えていくと、本書で取り上げられている事柄がより一貫したまとまりを示します。これらの思想がエンデに合流していることが、よりすっきりとした形で提示できるのです。僕自身、ピンズヴァンがーを取り上げた部分を読んだ時は、とても驚きました。惜しむらくは、既に述べたように著者があまりにシュタイナーに対して無理解であること、誤解・誤読があまりに多く、おそらく真面目にシュタイナーの著作/テクストを読もうとしていないということでしょう。それは例えば、シュタイナーが『神智学』の中でエーテル(体)を取り上げていることを述べているにもかかわらず、エーテルを「高次のより純粋な空気」といってしまう態度にも現れているように思います。*14エンデの思想をたどるには、シュタイナーは確かに必須です。僕自身、最初にシュタイナーを読み始めたのはそういった動機からでした。しかし、エンデが徹底的にシュタイナーを研究していたことを考えれば、エンデ思想を追究しようとするなら、少なくとも、基本的なレベルでのシュタイナー思想の理解は必須のはずです。勿論、エンデが影響を受けたもの全てに細かく目を配ることはできないにせよ、です。実際、本書ではロマン派を完全に視野に入れていません。と、まあ、一読してかなり問題を感じたので、『ファンタジー神話と現代』のときのように一気呵成に書いてしまいました。最後の方は、多少強引な部分もありましたし、すべてを取り上げるというわけにもいきませんが、一番重要な点は指摘できたと思います。

*1:薔薇十字会自体が存在しない団体であり、アンドレーエの捏造であるというのが一般的な見解です。

*2:僕がパッと思いつく限りでも、遊戯の理論があり、芸術論の検討があり、貨幣論も今までより広い視野で見られるはずであり、ロマン派との比較があり、言語論があり、ヴァインレープ思想との比較があり、シュタイナー思想との比較もまだ十分になされているとはいえないと思います。

*3:むしろ、エンデの経済観はかなりの程度シュタイナー経済学(国民経済学)に近いと思いますが、この点については精査したことがないので、示唆にとどめておきます。

*4:『読本』とは、『M・エンデの読んだ本』というタイトルで邦訳もされている本で、エンデが強い影響を受けた本、人生の転換点になったような本の全部または一部を抜粋したアンソロジーのような本で、エンデが何に影響を受けたかを知る手がかりの一つでもあります。

*5:ただし、シュタイナーがライプツィヒ時代の病について、この体験を通じてゲーテに秘儀体験が生じた、と『薔薇十字会の神智学』で述べている点を、著者はこの病の治療からゲーテ錬金術に一時期没頭したことと考えているようですが、これは誤読です。臨死に近い重症という体験を通じて、秘儀を体験したというのがシュタイナーの述べていることであって、外的に錬金術の著作に触れたことを言っているのではありません。また、シュタイナー自身がこのあとのゲーテの「失望」体験については別の講演で触れてもいます。なお、この講演を含めて、この時のゲーテが体験したものは無意識にとどまり、後年になって意識に上ってきたという言い方をしていますので、いずれにしてもゲーテ錬金術実験への失望を取り上げるのは間違いでしょう。

*6ゲーテとの関連で言うと、シュタイナーは『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』ではゲーテと自分の認識論を結びつけていますが、学位論文でもある『真理と科学』では以前、自分の立場をゲーテの世界観と結びつけて叙述したが、自分の立場は必ずしもゲーテの世界観から導きだされる必要はなく、自分の思考の建築物それ自体に基礎を持っていることが読み取れるだろうと書いています。ここでも、ゲーテという権威によって自分の考えを正当化したり、権威付けしたりすることをしていないことに留意してください。

*7:ちなみに、本書では1919年12月22日になっていますが…。正直、調べるのに苦労しました。こんなことでいいの?と思ってしまいます。

*8:不勉強ながら問題となっている講演を全部読んでいないので、ルツィファーを政治に、アーリマンを経済に結びつけている理由は判然としません。例えば、3分節論では精神=四肢-新陳代謝系、経済=頭部-感覚系、政治=胸部-循環器系という対応させられていますが、これですと均衡点が政治であり、硬化するもの=頭部神経系が経済、流動的なもの=新陳代謝系-腺組織が精神になっています。

*9:ちなみに、シュタイナーは講演録、特に人智学協会員向けのものについては慎重に取り扱うことを強調しました。一つにはシュタイナーがすべてをチェックできないので、様々な誤解や誤記が含まれてしまうこと、何よりもシュタイナーが著書などで取り上げている事柄を前提しているので、それらのことをよく知らない人に誤解を招きかねないからです。これはまさにそう言った典型例と言えるでしょう。この図式はシュタイナーをちょっと研究している人間なら当然わかることなのですから。

*10:シュタイナーも、これらをシュタイナー医学との兼ね合いで取り上げていることを付記しておきます。また詳述は避けるものの、シュタイナーが医療やオカルト身体論の観点から述べていることが、ここで僕が取り上げた事柄と見事に一致していることも、僕の解釈の一つの根拠となっています。

*11:オカルト身体論では、流動プロセス=水のプロセスは新陳代謝組織、硬化=土プロセスは神経組織と考えられ、この生の力と死の力が均衡することで、人間は生命を保っていると考えられています。

*12:ところで、最近放送終了したアニメ「C」ではまさに貨幣価値が信用であることが描かれていました。エンデの経済観、貨幣観からすると非常に面白く、共通点のある作品です。余談までに。

*13:ボイスとの対談で、ボイスが貨幣を法のドキュメントだ、としきりにいっているのはこのことです。

*14:この意味でのエーテルは19世紀頃まで物理学でも想定されていた意味での、振動などを媒介する媒質としてのエーテルと読めます。シュタイナーは自分のエーテルという言葉はそういうものではなく、生命力ないし形成力とでも呼ぶべきものであることを強調しています。