エンデ「比喩」注解-シュタイナー入門

Twitterで管理?しているエンデボットに、遺稿集「誰でもない庭」の「比喩」という文章の一部を引用しているのですが、少し見なおしてみたら、(一部を引用しているせいもあるけど)かなりハイコンテクストな文章なので、少しつらつらと書いてみることにしました。まずは、ボットに登録している部分を田村都志夫訳から引用。


文字とは遺伝される物質だ。言語はエーテル体であり、本の生命なのだ。物語はアストラル体。よろこびやかなしみをかたり、様々な「人格」をのべる。「わたし」は全体の理念である。この理念は他の文字、別の言語、いや、そればかりか他の物語ででも実現されうる。高次の「主体そのもの(ゼルプスト)」は、これら全ての背後に立つ詩人である。
ちなみに、本文ではこの後に神はこの世界のすべてだ。それがあればこそ、詩人は本が書ける。と書かれて終わっている。さて、僕がボットに登録した文章は、文字数を切り詰める意味も含めて訳し変えているので、そちらも引用してみる。

書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。
文字(Schrift)をあえて「書かれた文字」としたのは、このテキストの文脈では「本は紙や厚紙か皮革、更に糊、糸、麻布、そして印刷インキかインクでできている。それは本の、物としての身体(物質的身体:physischer Leib)」であり、物質的に見れば、紙の上のインクのシミにすぎない文字を「物質主義者(唯物論者:Materialist)はそれらが記号(Zeichen)であることを認めようとはしない。それらが語(Worte)を意味し、読まれなければならず、そのもの自体はからっぽ(Wesenlos)であることをみとめない」という部分を受けている*1
さて、この文章にはシュタイナー思想の用語が使われている。シュタイナーによれば、人間は物質体・エーテル体・アストラル体・自我(体)から成る*2。つまり、エンデの「比喩」というタイトルは、本を人間の比喩として見るということなのである。なお、遺伝される物質(Erbmasse)を物質体としたのはこのためだ。
まず、紙の上のインクのシミに過ぎない文字は物質体だ。例えば、アルファベット一つ一つをとってみても、何の意味も他のアルファベットとの関連も持たない。そこで言語(Sprache)がエーテル体だとされている。かなり大雑把に言えば、エーテル体(生命体)とは物質的身体に有機的関連を与えるもの、無機物を有機物にするものである。つまり、ある文字列が一定の意味を持つのは、特定の言語の言葉として文字列が有機的に関連付けられているからだ、というわけだ。次に、物語がアストラル体だとされる。アストラル体とは一言で言えば感情を司る部分であり、これも大雑把に言ってだが一般的に心と言われるものに相当する。経験的に理解できるように、感情は人間の中でももっとも個的なものである。各々の本の個性を表す物語がアストラル体だと解釈できるだろう。次に、自我(体)(Das Ich)である。ちなみに、田村訳では「私」となっているが、名詞として使われた「Ich」は一般的にも自我と訳されるし、シュタイナーの文脈でも「自我」の方が相応しいのでそうした。自我は一般的な意味で考えられている自我とほぼ同じで、言い換えるなら自己意識と言ってもいい。これが全体を統率する理念(Idee)であるというわけである。また、別の文字や物語や本でも実現されうるというのは、どういうことか。一般的に解釈すれば、いわばペルソナのことと考えられるかもしれないが、シュタイナーの文脈では、これは輪廻転生を意味する。つまり、今私が「私」と感じている肉体や心ではない別の存在に転生したとして、歴史的に制約された別の私(自己)意識においても、理念は実現されうるというわけである。そう捉えて初めて、次の文章が理解できる。理念を生みだすのは、著者たる詩人である(勿論、ここで言う本は詩人が書く本を意味している)。そして、その詩人、つまり歴史的に制約されない転生する主体は、高次の自我、シュタイナーの用語で言えば霊我(Geistselbst)である、というのだ*3。なお、hoehere Selbstは田村訳で「高次の主体そのもの」と訳されているが、シュタイナーの文脈で捉えて霊我の意味で時折用いられる「高次の自我」とした。その後の文章は直訳すれば「神は必要不可欠な全世界だ。それでもって詩人は本を書くことができる」とでもなるだろうか。ポエジーの素材となる全世界に当たるものが、人間にとっての神(神的存在・インテリゲンツィア・ヒエラルキア存在)なのだということだろう。この一文は、エンデの人間に対して神的存在たちからの働きかけている、という考えを示している(この点に関しては、M.エンデ・子安美知子対談『エンデと語る』、田村登志夫インタビュー『ものがたりの余白』などを参照されたい)。つまり、エンデの考えでは、人間が高次の自我の生む理念を達成できるのは、神的存在たちの働きがあってこそなのだ、ということになるだろう。
また、別の側面から見ると、エンデが人生の中で影響を受けた本の一文を紹介した本「M・エンデの読んだ本」(シュタイナーの「自由の哲学」や輪廻転生を論じたレッシングの「人類の教育」なども入っている)で引用されている、ボルヘスの「Everything and Nothing」を参照するのがいいだろう。ボルヘスはこの詩でシェイクスピアについて、シェイクスピアシェイクスピア劇のあらゆる登場人物の中にいた、しかし彼自身はどこにもいなかった、ということを書いている。つまり、エンデの「比喩」の文脈で言えば、詩人=シェイクスピアは全ての人物=自我の中にいるが、それは彼自身=高次の自我ではない、ということである。エンデはこれを好んで引用する。詳述は避けるが、ここにはエンデの物語=文学というのは詩人の思想を美しくラッピングしたものではないという考え方、踏み込んで言えば、エンデの遊戯に関する考え方も含み込まれていると考えられる。余談だが、僕はこの文章で表される、あるいはボルヘスの文章に表されるようなエンデの考え方を、物語の構造にまで昇華した作品が、エンデの晩年の長編作「鏡の中の鏡」であると考えている。
日本のエンデの翻訳は、友人の田村登志夫氏や第二夫人でもある佐藤真理子氏など、かなり充実しているが、やはりエンデの神秘学、とりわけシュタイナーやカバラとの関連で書かれた文章は、個々の思想をあまり理解されていないことと、一般読者向けに一般的な語にしようとして、意味を損なったり、わかりにくくなっている部分があるため、多少訳し変えた上で、シュタイナー思想からの注釈をつけてみた。

*1:なお、エンデが唯物論という言葉を使うとき、シュタイナーが使った意味で、つまり20世紀初頭頃にその言葉が意味したような意味で使われていると思われる。エプラーとの対談でエプラーにも指摘されていたが、現代における唯物論はエンデが言うほど単純なものではないので、そこは注意しておく必要がある。ただし、哲学的、あるいは物理学的にはともかくとして、一般的にはシュタイナーの言う意味での唯物論は根強くあることも確かではあるが。

*2:この分け方以外に、霊・魂・体という分け方があり、そちらの方が詳細である。この三分節では各部分がさらに三つに分かれ、物質体・エーテル体・アストラル体は全て体に属する。魂は感覚魂・悟性魂・意識魂、霊は霊我・生命霊・霊人に分かれる。また、この文章におけるそれぞれの説明は、シュタイナー入門本などで解説されるようなかなり簡略なものであり、シュタイナー思想全体においては、それぞれがかなり複雑に絡まりあっていることは付記しておく。

*3:歴史的制約と書いたが、要するに現世で得た経験・記憶などからなっているという程度の意味で使った。これらは肉体や記憶に密接に関連する。シュタイナーによれば、エーテル体とは記憶を担う部分である、とも言われており、死後、このエーテル体は一部を残して解消する、ちなみにこの一部、エーテル体のエッセンスと呼ばれるものがカルマである。そのため、地上生での記憶は死後生においては保持されないことになる。同様に、アストラル体も死後生においてカマロカにおいて浄化され、地上との関連を失う。そのため、新たに転生した人間は、新しい地上的な経験・記憶・両親の遺伝に影響を受ける身体によって制約される。ちなみに、エンデが文字を遺伝される物質体といったのは、生物学などが明らかにするように、遺伝による身体への影響はアントロポゾフィーでは完全に肯定されていることと関連する。