私訳『自然と我々の理想』

昨日、Twitter上で、高橋巌先生の『若きシュタイナーとその時代』で一部が取り上げられている(自伝の7章にもあります。自伝は邦訳では西川訳と伊藤訳が出ています。)、シュタイナーのマリー・オイゲーニエ・デレ・グラツィエへの書簡、GA30所収『自然と我々の理想(Die Natur und unsere Ideale)』が話題になり、原文を調べてみました(原文リンク)。短い書簡ですので、僕自身が読むついでにメモがわりに訳を取ってみました。Twitter上でもかなり関心が高かったので、ついでに公開してみようと思います。ただし、僕のドイツ語能力は極めて低いので、訳文については何一つ保証できません。あくまで参考程度だと思ってください。要するに、自分で原文にあたってくださいw斜線部は原文強調ママです。あと、手紙の中の慣用表現とかはよくわからないので、適当に訳しましたwまあ、内容には関係ないのでご容赦下さい…。
ちなみに、この非常に短い文章ですが、高橋先生が「『自由の哲学』の原細胞」と書いておられるように、『自由の哲学』のエッセンスが凝縮されたようなものだと感じました。19世紀末にシュタイナーが抱いた問題意識は、現代においてますますアクチュアルであるように思います。関心を持たれた方は、ちくま学芸文庫で手軽に入手できますので、是非『自由の哲学』をお読み頂ければと思います。

自然と我々の理想

「ヘルマン」の女性詩人M・E・デレ・グラツィエへの書簡

敬愛する詩人へ!
貴女は、その思索に富んだ哲学的な詩『自然』の中で、現代人に支配的な根本的なムードを表現しています。現代人は自然と精神の現代的な理解を心に刻みつけられ、その際、その理解と我々の精神と心の中の理想との間にある不協和音を認識させられるという深い感情をもっています。そうです、あの時代、我々の神への子どもっぽい信仰において成り立つ、軽薄で皮相な楽観主義が、自然と精神の分裂を人間に超越させる時代は過ぎ去りました。人間があまりに表面的で、世界の至る所で血を流している幾千もの傷口を無視する軽薄な心の時代は終りました。我々の理想は、このしばしば退屈で空虚な現実に満足するためには、もはやそれほどまでには皮相ではありません。
それにも拘わらず、私にはこの認識から生まれる深いペシミズムからの克服が存在しないとは信じることができません。この克服は私にとって、我々の内的世界を見るとき、我々の理想世界の本質に近づくときに生じます。それは外的な事物によっては何も付け加えることも、引くこともできない、隔絶した完全な世界です。我々の理想は、もしそれらが現実にいきいきとした個的なものであるならば、自然の寵愛があるかないかに拘わらず、本質的なものではないでしょうか?たとえ美しいバラの花が無慈悲な突風によって散らされたとしても、バラの使命は満たされています。というのは、バラは何百もの人間の目を喜ばせたのですから。星空を破壊することが、無慈悲な自然の気にいるとしても、数百年を通して、人間は畏敬の念を込めて夜空を見上げました、そしてそれで十分なのです。無常な存在ではなく、事物の内的な本質がそれらを完全にするのです。我々の精神の理想は、自ずから現れねばならず、親切な自然の協力によっては獲得できない、独立した一つの世界なのです。
人間は、自分自身の理想世界の中で満足するのではなく、初めに自然の協力を必要とする憐れむべき被造物なのでしょうか?自然が、自立してない子どもと同様に、我々を引きひもをつけて、面倒をみるならば、崇高な自由はどこに残るのでしょうか?それどころか、そのことが我々にとって幸福であったとしても、我々の自由な自己が作り出すもの全てを断念しなければならないでしょう!自然が毎日、我々が創りだしたものを破壊するとしても、我々は毎日新たな創造をを喜ぶことができるでしょう!我々は自然ではなく、自己自身の全てに基礎を打ち立てるように望むのです!
しかし、この自由はただの夢にすぎないと、人は言いうるかもしれない。我々が自分を自由であるとうぬぼれることで、我々は自然の強固な必然性に属している。我々が把握するもっとも高次の思考内容は、我々の内で盲目的に作用する自然の成果にすぎない、と。
おお!ですが、我々は最終的に、自己自身を認識する存在が不自由ではありえないことを認めるに違いありません!我々が、自然の永遠の法則性を探求する限り、我々は自然の外面を基礎付けている諸物質を、自然から引き離します。我々は事物を支配する法則の織物を見ます。そして、その法則は必然的なものを生じさせます。我々は自分の認識の内に、自然の事物の法則性を自然から引き離す力を所有しています。それにも拘わらず、この法則の意志無き奴隷であるべきなのでしょうか?自然の事物は不自由です、というのは、それらは法則を認識することなく、自分自身について知ることなしに、法則によって支配されているからです。我々が精神的に自然を貫いているのに、一体どうして自然が我々を強制するというのでしょうか?認識する存在は不自由ではありえません。この存在は最初に理想の中でその法則を作り変え、自己自身を法則にするのです。我々は、老衰した人類が夢想する神が、自分の心の中、精神の中に住んでいることを認めなければなりません。神は、完全な自己放棄において、すべてを人類に注ぎ出しました。かれは自分のために何一つ残しておこうとしませんでした、というのは、自分自身に自由に働きかける種族を望んでいたからです。神は世界のうちに消えました。人類の意志は神の意志であり、人類の目的は神の目的です。神は人間に自分の全ての本質を植えつける限り、自分自身の実在を断念します。<歴史の中の神>は存在しません、神は人間の自由の代わり、世界の神性の代わりに、存在することをやめました。我々は自分自身の中に存在の最高の能力を受け入れます。それゆえ、外的な力は我々に満足を与えることはできません、我々自身が創造するものだけが、満足を与えることができるのです。我々を満足させない存在への、この冷たい世界への全ての悲嘆の声は、我々が世界に、その力によって世界が我々を上昇させ、喜ばせる、自己自身の魔法の力を貸し与えなければ、世界の力は我々を満足させえないという思考内容に対して、沈黙しなければなりません。もし世界の外にいる神が我々にあらゆる至福を与え、我々がそれを自分と関係なく準備されたもののように甘受しなければならないならば、我々はその至福を拒絶するに違いありません。というのは、そのような至福は不自由の喜びなのですから。
我々は、自分の外にある諸力によって満足を得るよう要求しません。信仰は、我々に、世界の外にいる神がもたらさねばならないような、この世界の災厄との和解を約束します。この信仰は、神がもはや存在しないために、消え去ります。人類がもはや外的なものによる救済を望まない時代が到来するでしょう。なぜなら、深い傷に自ら鞭打つように、自己自身で浄福を準備しなければならないということが認識されるからです。人類は、己の運命の御者なのです。この認識から現代の自然科学の成果を取り除くことはできないでしょう、なぜなら、それらは我々が事物の外面を理解することによって達成した認識だからです。一方で、我々の理想世界の認識は、事物の内的な深みへと突き入ることと関係しているのです。
敬愛する詩人である貴女、貴女はその詩でもって、哲学のサークルを激しく追い詰めました。あなたはきっと、この返答をお聞きになることを嫌とはお思いにならないでしょう。そのことで、私は最大の敬意と従順を示します。
ルドルフ・シュタイナー