ニーチェ読書会のあとに…

Twitterの有志で不定期的にSkype読書会を行っているのですが、先日行ったニーチェの『道徳の系譜』読書会後、参加者の方々が独自にまとめや考察を行ってらっしゃるので、僕も真似してやってみよっかな☆的な軽い気持ちで。あんまり本格的なことは書けませんけれども。
ニーチェのとりわけ後期の主要概念である「(権)力への意志」を、僕はあまりよくわからないと思っていたのだけれど、その理由というのはそもそもニーチェ力への意志を肯定的にも、否定的にも捉えていないように見える、ということに起因するのだと最近考えている。ちなみに、僕は権力への意志という訳はすきじゃないので、力への意志という訳語を採用させてもらう。読書会では、力への意志には二つの種類がある、という意見がでて、なるほどと思った。それに合わせて僕の解釈を書くと、力への意志自体はある種人間に普遍的なものであって、ニーチェ的な言い方をすれば「本能」に近く、その顕現の仕方が問題なのだと思う。簡単にいえば、力への意志を抑圧する人間が弱者であり、力への意志に従って生きる人間が強者である、といえる。これは換言すれば、自らの生を抑制するか、強めるか、という違いになり、ニーチェは後者を賞賛する。この観点は、マックス・シュティルナーと極めて近似すると僕には思われる。そしてそれは、シュタイナーの指摘でもあるのである。以下は、シュタイナーの小論『マックス・シュティルナー』(未邦訳のため私訳より)とシュティルナーの主著『唯一者とその所有』からの引用。


「私が奉仕するために私の上に据える、ある別のエゴイストの代わりに、私はむしろエゴイストそのものでありたい。私は、人間が、彼らのへりくだった妄想的信仰において、奉仕するよう矯正されるまさにその人が生きるように生きたい。」シュティルナーは言う。「私を支配するものが行うまさにそのことを私が行うとき、なぜそれが悪であるのだろうか?」(シュタイナー:Max Stirner)
「神が、人類が、諸氏の確信するように、自らすべてにおけるすべてであるための内容をそれ自身のうちに余すところ無く有しているのであるとするならば、ましていわんや私に欠けるところはなく、自らの「空虚」を嘆くべきではない、と私は感じるのだ。私は空虚の意味において無ではなく、創造的な無なのであり、私自身が創造者としてすべてそこから創りなすところの無であるのだ。」(マックス・シュティルナー:唯一者とその所有)
「おそらく、ニーチェシュティルナーを一行も読んだことが無かっただろう。私の見解によれば、ニーチェシュティルナーの思考世界の中で、彼の精神的器官を悦ばしい、新鮮な生へともたらす、自分に適した活動領域の中のように感じただろう。そのかわりに、彼はショーペンハウアーの観点によって動かされねばならなかった。その観点は、最初に苦い幻滅によって、彼だけが生きることができる理念へと到達させた。そのことは、彼が青年時代を過ごした時代の精神にとっての負債である。その精神は、ショーペンハウアーの生への意志の抑制についての品位の欠けた教義を貪欲に吸収し、生への歓喜を教える誇らしい思想家について何一つ予感しなかった。なぜなら、<唯一者>の生は世界でもっとも価値があること、人間が自分自身のためではなく、誰か他人のために生きようと欲するなら、それは空虚な偏見であることに、彼は気づいたからである。しかしながら、この百年間のうちに、人間は供犠に捧げようと欲するそのような別の本質をどれほど多く持っていたことか!神のため、民族のため、全人類のため、個々人を<犠牲に>し、最高の道徳的的完全性を、<自己喪失>してあらゆる自分の意志を抑制し、犠牲心に燃えて自分の生を、超越存在や全体的なもの、一つの理念の奴隷にすることの中に見る。」(シュタイナー:Max Stirner)
シュティルナーニーチェ同様に、神や彼岸の絶対精神、あるいは国家などによって、個々の人間、唯一的な<私>が抑圧されることを否定した。そして、ニーチェの超人の如く、私を<私>の創造的な無の上に据える存在を唯一者と呼んだのである。そこでニーチェ=シュティルナーに重要なことは、外的な制約にとらわれない、創造的な行為をするものこそが正しい、という観点である。一面では、シュタイナーはこの観点を敷衍し、人間の外的な制約に囚われない自由で創造的な行為がいかに道徳的な行為になりうるかを、『自由の哲学』に書いたのである。
余談だが、読書会でニーチェの観点と政治思想の観点が話題に上ったが、僕の観点から言うと、ニーチェ=シュティルナーの観点を政治的に捉えるなら、個人主義的なアナーキズムにならざるを得ない。そして、そこには決定的に合意や道徳が抜け落ちている。シュティルナーの著作を読むと、僕の印象ではシュティルナーはかなりナイーブに、外的な制約がなければ、人間はそこそこ道徳的に振舞うと考えているようだが、これにはリバタリアニズムへのお決まりの批判である、そんな性善説に立てるのか、ということが問題になる。そのため、シュタイナーはシュティルナーの思想は、人間の内面的な事柄に限定すべきであり、政治的に敷衍すべきではないと考えた。(シュタイナーの自伝参照。これは後年のシュタイナーの社会有機体三分節論における精神の自由にも通じると考えられる。)
ところで、読書会ではニーチェの境遇やニーチェ自身のルサンチマンの話も話題に上った。そこで思い出したのもシュティルナーだった。以下、同様にシュタイナーの記述から引用。

マックス・シュティルナーは、個人の独立の告知者が、あらゆる制度が彼のものと正反対の見解に基づく時代に従って生きねばならないように生きた。彼の同時代人の活動から離れて、彼は自分の道を歩んだ。彼は、自分の労働力と精神を、何か公的な地位において、利用することを断念することによってのみ、自分の独立を選択できた。正真正銘の文化的自由人として彼は生きた。もし彼が自分の能力を時代の奴隷にしたならば、豊富に獲得できたかもしれないものなしで過ごすことによってのみ、彼は自由を獲得できた。彼は、全体に組み入れられることができなかった。
ニーチェの境遇がニーチェにどの程度影響を与えたか、ニーチェシュティルナーの境遇や生き方の違いをどう見るか、僕は判断できるほどの材料がないけれども、ニーチェがなんだかんだと言って、当時のドイツの知識人階層にいて、大学教授という高い地位を持っていたことも確かではある。この点は、(あえてニーチェ風に言うが)一つの疑問符として書いておきたい。
とまあ、そんなわけで、ニーチェシュティルナー・シュタイナーのような形になったけれど、僕は思想的には常にシュタイナーを基準点にしてニーチェを見ているので、こう言った形になってしまった。だけど、僕にとって本質的な問題は、創造的で自由な人間なのであって、実際のところ、結構ニーチェキリスト教道徳批判とか、貴族階級/奴隷階級って話はある種の例示として捉えている。その意味で言えば、ニーチェより遥かにシュティルナーの方がスパっと直截的に書いているのだけれど。そういえば、シュタイナーもニーチェに比べるとシュティルナーは水晶のように透徹した思考がある、ニーチェには何か口ごもりのような響きがある、みたいなことを言っていたっけ。というところで、ニーチェシュティルナーを巡りながら、結局シュタイナーへと通じている僕なのであった。