「ミヒャエル・エンデの貨幣観」雑感

最近出たばかりの『ミヒャエル・エンデの貨幣観』という本が、だいぶ前から気になっていたのですが、たまたま図書館に入っていたため読みました。それについて、個人的にかなり書きたいことができたので、感想がてらまとめたいと思います。

錬金術

さて、本書の副題に「ゲーテの『メルヒェン』からシュタイナーを経た錬金術思想の系譜」とあります。まず、この副題を最初に見たとき?と思いました。というのは、シュタイナーは錬金術パラケルススに言及することはあっても、シュタイナーの思想が錬金術に基礎づけられているとは考えられないからです。本書を読む限りでは、シュタイナーが自分の思想を薔薇十字の思想だという点を、著者は錬金術と呼んでいるようです。ちなみに、著者も述べていますが、薔薇十字運動自体がその存在自体に疑問符がつくようなものなので、そもそもシュタイナー思想が薔薇十字に基礎づけられていると考えること自体がおかしいのですが。シュタイナーは確かに自分の秘教的立場を薔薇十字的と呼びますが、これはとりわけ神智学協会の東洋秘教偏向に対して、西洋秘教の伝統を汲む秘教的思想としての自分の立場を薔薇十字と呼んでいる面が多分にあるように思います。そもそも、アンドレーエの著作以外に明確な文書がないわけですから。ちなみに、著者はシュタイナーがアンドレーエの冗談*1を真に受けて『化学の結婚』をローゼンクロイツが書いたと信じたのだ、と(幾分嘲笑的に)書いていますが、この点は単に誤読であって、シュタイナーは当然『化学の結婚』を書いたのはアンドレーエであり、ローゼンクロイツが一時的に彼に憑依して書いたのだ、と言っています。シュタイナーは出版年を誤解しているとも書いていますが、シュタイナーはローゼンクロイツが受肉した時点を言っているのであって、出版年を言っているのではありません。その点のオカルト的な見方について信じるかどうかはまた別の問題でありますが。ともあれ、個人的には、そもそも錬金術思想の系譜という点にすでに疑問符がつくわけですが、この点についてはさしあたりよしとして、先に進みましょう。

議論の流れ

本書の議論は、まずゲーテの『メルヒェン』を取り上げ、そこで錬金術のモチーフ、硫黄=凝固・水銀=流動・塩=肉体化というモチーフが使われている点に着目します。そして、『ファウスト』にも同じモチーフが使われている点、ゲーテが一時期錬金術の研究をしていた点から、詩的モチーフとしてゲーテ錬金術の概念を用いていたことを述べます。そして、シュタイナーがゲーテの『メルヒェン』に着目している点から、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、そして後年社会3分節論と『メルヒェン』の3人の王(金・銀・青銅)が内的に深い結び付きがある、と論じている点を取り上げます。そして、ここからエンデが『私の読本』にゲーテの『メルヒェン』を取り上げていること、また取り上げようと考えていた本のリストにシュタイナーの3分節論に関する講演録があったことから、エンデの『メルヒェン』を重要視していたことと、その受容について論じます。この後の議論では、一方でエンデの貨幣観を取り上げ、その源流としてゲゼルの貨幣論の検討、『鏡の中の鏡』と『ハーメルンと死の舞踏』の差異に着目し、エンデの貨幣観の進展を検討し、とりわけピンズヴァンガーの影響を取り上げます。そして、ピンズヴァンガーがゲーテの『ファウスト』を錬金術モチーフから、経済について書いたものであると解釈している点に着目し、そこに錬金術的モチーフに強い影響を受けた二つの思想がエンデの中で合流している、というのが簡単な議論の流れになります。

パースペクティブと視野

さて、僕は経済専門家でもなければ、一般的な知識すら怪しいくらいなので、貨幣論については触れません。一つ言うならば、著者はエンデが神秘思想から経済問題まで幅広い視野を持っていたこと、従来の研究では児童文学論と貨幣論の両極端になってしまっている点を挙げ、広いパースペクティブの中に置くことによってはじめて、児童文学・神秘主義貨幣論といった諸テーマを貫くエンデの思想の核心部分を描き出すことができるはずである。と述べます。なるほど、確かに僕が見る限りでも、エンデの思想研究というのは(少なくとも日本では)ほとんどなされていないように思います。この点について、(錬金術というパースペクティブには前述のとおり疑問符がつきますが)著者の主張は正当といえるでしょう。確かに、取り上げるべき問題は多々あるのです。*2さて、貨幣論というパースペクティブについてはよいとして、本書の射程を考えると貨幣論としては『エンデの遺言』を超えているとは思えませんでした。勿論、本書の方がはるかに詳細に検討されており、また地域通貨のような形ではなく、より普遍的な経済構造問題として取り扱っている点もあるので、より明確であるとは言えるでしょう。しかし、ピンズヴァンガーにせよ、ゲゼルにせよ『遺言』で既に取り上げられています。もっとも、僕が常々批判的に言っている、芸術=文化=精神と経済=貨幣の問題を両方取り上げている点は評価できますが。つまり、パースペクティブにせよ、視野にせよ、それほど拡張されているという風には思えませんでした。何より、著者は3分節論とエンデの関わりを、精神の自由の領域を重視し、経済問題についてはあくまで問題提起にとどまるものと捉えているようですが、ゲゼルを取り上げている部分で触れられている多くのことを、シュタイナーも取り上げている点を考慮に入れる必要があります。例えば、シュタイナー自身は老化する貨幣を提案しています。また、利子や投資を否定もしていません。あるいは、土地の公有化や生産物の定義もゲゼルと同様です。なぜエンデが老化する貨幣ではなく、減価する貨幣を取り上げたのかわかりませんが、むしろここにこそ未開拓の領域があるように思えてなりません。前述したように、この点は深く突っ込みませんが、エンデの貨幣論=ゲゼル理論が下敷きという先入観?を破ることで、より広い視野が獲得できると思うのですが…。*3

最大の疑問点

前置きな長くなりましたが、ここからが本題になります。著者は、ゲーテ-シュタイナー-エンデという系譜をゲーテの『メルヒェン』を手がかりに描こうとしています。そして、エンデが『読本』*4に『メルヒェン』を入れている点、シュタイナーの『メルヒェン』解釈、エンデの蔵書の中の『薔薇十字会の神智学』の熟読のあとと、書き手不明の『メルヒェン』解釈の複写の紙片の存在などから、この系譜の接続点として『メルヒェン』を持ちだしてきます。まず、一番の問題はエンデがシュタイナーの『メルヒェン』解釈をそこまで重要視していたのか?という問題があります。本書では、一次資料としてエンデの未刊行書簡などを挙げていますが、エンデが『読本』に『メルヒェン』を挙げた理由など、直接の繋がりを示すものは一切なく、すべて著者の解釈によるものです(後述しますが、シュタイナーへの無理解や牽強付会な議論とも関係します。)。「いやいや、『メルヒェン』解釈の複写の存在だけで十分な証拠じゃないか!」という反論がありえます。ですが、僕の見る限りシュタイナー自身が述べているように『メルヒェン』解釈は、解釈としてどうかを別として、シュタイナーの思想を非常にコンパクトにまとめたものです。つまり、エンデがそれを『メルヒェン』の解釈として重要視していないことと、この解釈それ自体をよく研究していたこととは両立可能です。『薔薇十字会の神智学』だけをとりわけ取り上げることも恣意的でしょう。そもそも、この本自体がシュタイナー思想の入門的な本の一つなので、それをエンデが重点的に研究していてもおかしくありません。

もう少し踏み込んでみましょう。エンデは常々「芸術作品を解釈して、その結果を著者の思想とみなすこと、芸術を著者の思想をラッピングしたものとみなすことをしてはいけない」と警告しています。本書でも書簡が引用されていますが、エンデ自身、自分の著作の解釈を聞かれてはぐらかしています。では、そんなエンデがシュタイナーの解釈を、芸術作品の解釈として重要視するものでしょうか?まず、これが一つの疑問点です。もう一点、エンデはシュタイナー思想に多くを負っています。『ものがたりの余白』では「生の礎石」とまで言っていますが、一点だけシュタイナーを強く批判していました。それはシュタイナーが芸術作品を霊的なものの顕現としてのみ捉えたことです。芸術観/芸術論についてだけは、エンデは生涯シュタイナーの思想を受け入れませんでした。さて、シュタイナーの『メルヒェン』解釈は、まさにエンデが嫌った霊的なものの顕現として、ゲーテの霊的直観の内容として解釈するものです。ここまで見ると、エンデがシュタイナーの「解釈」をそこまで重要視したというのはおかしいと思うのが自然ではないでしょうか。エンデが様々なところで拒否し、批判していることが、なぜここでだけ「例外」になるのでしょうか?直接的にそれを示唆する文書があるならばともかく、そうでない限りはエンデは「『メルヒェン』の解釈」ではなく「シュタイナー思想の一部」としてシュタイナーの『メルヒェン』論を受容したと考えたほうが、はるかに自然ではないでしょうか。なお、エンデがゲーテの『メルヒェン』を正式名称ではなく、シュタイナーが用いた『緑蛇と百合姫のメルヒェン』という名称を普段用いていたという事実から、主張を補強しようとしていますが、これも強引な議論だと思います。エンデがシュタイナーに馴染んでおり、シュタイナーと同じ名称を使ったことから、『メルヒェン』解釈を重要視していたことを引き出すのは、短絡的だと言わざるをえないでしょう。ちなみに、僕はそれほど『メルヒェン』について思い入れはないですが、どちらかというとシュタイナーの使った名称を使います。どうでもいい話ですがwとにかく、以上の点から、ゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点として『メルヒェン』を用いることに対して疑問符がつきます。この点を、次の節で著者のシュタイナーへの無理解という観点から、更に踏み込んで議論していきます。

余談になりますが、シュタイナーとは無関係にエンデがゲーテの『メルヒェン』を『読本』に入れた理由を推察することは簡単です。ご承知のように、エンデは文学的に自覚的にドイツ・ロマン派の流れを汲んでいます。ロマン派の特徴的なスタイルの一つでもある創作メルヒェンの嚆矢とも言うべき作品が、ゲーテの『メルヒェン』です。その意味では、エンデのメルヒェン・ロマンの文学的源流の一つでもあるわけで、エンデが『読本』で取り上げることに違和感はまったくありません。ロマン派のことを書いたついでなので言及しますが、「作家としてのエンデは「詩的な錬金術」に注目している。だが、こうしたゲーテ錬金術への関心を呼び覚ましたのもまた、シュタイナーだったのである。」とありますが、これについてもむしろノヴァーリスを始めとした初期ロマン派の影響を考慮に入れたほうが通りがいいでしょう。

シュタイナーへの無理解

さて、既に長々と書いてしまいましたが、本稿の一番の目的は(そして僕が非常に腹が立ったのが)この点にあります。とにかく、著者のシュタイナーへの無理解・誤解・誤読がひどい。正直言いまして、シュタイナーを取り上げない方がよいのではないかとさえ思います。

まず、基本知識としてシュタイナーのゲーテ受容について簡単に書きます。本書では、シュタイナーの『メルヒェン』の秘教的解釈の位置づけが、かなり大げさに捉えられています。シュタイナーとゲーテの結節点が(本書の定式を用いれば)薔薇十字=錬金術に求められています。ですが、これは恣意的な取り上げ方だと言わざるをえません。シュタイナーはゲーテ研究者として出発しました。では、シュタイナーはゲーテの何を研究していたのでしょうか?ゲーテの自然科学論です。キルシュナー版ドイツ国民文学叢書及びゾフィーゲーテ全集の「自然科学」の編纂を担当したのがシュタイナーです。シュタイナーはゲーテの自然観察方法に着目し、ここにカント以来の「認識の限界」を踏破する認識論が、ゲーテの観察方法を観念論的な認識論として定式化することで可能になると考えました。『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』はこうした立場から書かれた本です。シュタイナーの認識論は一貫してこの立場を支持します。シュタイナーの初期著作を読みますと、シュタイナーがゲーテの文学作品やエッセイ、書簡でゲーテが表明している立場などより、ゲーテの自然科学の認識法を重視しており、そこにゲーテの本質があると見ていることがわかります。つまり、シュタイナーとゲーテを結んでいるのは、ゲーテの自然科学論であり、そこから導出される認識論なのです。これがシュタイナーのゲーテ受容といえます。

さて、確かにシュタイナーの『メルヒェン』論はシュタイナー自身の秘教思想を投影したものと見ることができます。なので、この解釈の正当性を巡っては、特に議論の余地はありません。また、シュタイナーがゲーテを秘儀参入者としてみている点も、それを文献学的に証明することはできないでしょう。*5この点も議論の余地はありません。しかし、著者はシュタイナーが後年『メルヒェン』と3分節論を結びつけたことを取り上げて、

「こうしたシュタイナーの強引な読み込みは、彼の頑なな宗教的確信に由来するものであると同時に、そのゲーテへの深い傾倒、自らをゲーテの継承者として任じたいという強い欲求に原因があった。」

と断じています。更にシュタイナーが3分節論と結びつけるのは、ゲーテという存在を自らの思想・主張の根拠としたいという心情に由来するものであろう。」とまで述べているのです。そもそも、シュタイナーはどんなところでも、自分の思想を他者の権威によって正当化しようとすることはしませんでした。シュタイナーが述べる霊的認識も、すべて自分の霊学的研究の成果であり、自分が確信を持ったことだけを語っている、ということを強調していました。*6とはいえ、そんなことを言ってもそれだけでは、シュタイナー信者の戯言にすぎません。なので、著者がこう述べるに至った解釈を検討していきたいと思います。

とりわけ問題視されているところを取り上げましょう。それはシュタイナーが1920年11月22日シュトゥットガルトで行った講演の一節に由来します。*7問題の一節を本書から引用するとこうです。「金の王(知恵の王)、銀の王(外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王)、青銅の王(物質的、経済的な生活の王)によってゲーテが描き出したものは、三分化されていると見ることができる。」。この部分について、

「銀の王は見せかけの王であるとされ、政治的な領域と結び付けられるのだが、この銀の王の解釈には問題がある。(中略)シュタイナーは銀の王について、「外面的な見かけの、うわべの生活の、政治的な生活の王」(den König des äußeren Scheins, des Scheinlebens, des politischen Lebens)と述べているが、”des äußeren Scheins”は「外面的な見かけ」を意味している。この解釈は『メルヒェン』本文の”Schein”という語からの連想であろうが、銀の王が表す”Schein”を「見かけ」と解釈することには無理がある。」

と書いています。つまり、シュタイナーは自分の3分節論と結びつけるために、1901年のメルヒェンの解釈を歪曲して新たに強引な解釈をしている、というわけです。さて、これだけ読むと、なるほどもっとも、と思うかもしれません。しかし、よく考えてみましょう。シュタイナーは、政治=法・経済・精神の三領域がそれぞれ独立して機能するという論を打ち立てました(これについては先日アップした記事をご参照ください。)つまり、それぞれが等価値に大切だ、ということです。しかし、だとすると政治生活を「見せかけの」「うわべの」生活と否定的な言い方をするのはおかしくないでしょうか?なぜシュタイナーは政治生活をみかけの生活と等置しているのでしょうか?シュタイナー思想をまったく知らなくても、真面目にテキストを読めばこれは引っかからないでしょうか?結論を先に言いましょう。ここに著者の誤読があるのです!Scheinという語を辞書で引くと光や外観(見かけ)という語に並んで、哲学用語として「仮象」という訳語が載っています。では、こう訳してみましょう。「外的仮象の、仮象的生の、政治的生活の王」。シュタイナーを読んでいる方ならこう訳せばピンと来るに違いありません。シュタイナーは物質的に目に見えるものはマーヤー、仮象に過ぎないといいます。物質的に目に見えるものを霊的なものの仮象としての現れと考えているわけです。つまり、ここでいっているのは、そういうマーヤーに囚われている人間の生のことを言っているのです。こう捉える根拠があります。元の文をよく見てみると、金の王には知恵の王としか言われていません。これは『メルヒェン』のテキストに沿ったものです。一方、青銅の王には「物質的生活」と言われています。これまた、シュタイナーを読んでいる方はピンとくるでしょう。一方には仮象の生、他方に物質的生が対置されているのです。これはシュタイナーがルツィファー的・アーリマン的と呼んだ、デモーニッシュな二つの力を表しているのです。シュタイナーはある講演で、ルツィファー的な力を「幻想、神秘主義、熱狂、眠り込むこと、軟化する力」、アーリマン的な力を「俗物的なこと、唯物論、干からびた悟性、目覚めること、硬化する力」と述べています。つまり、シュタイナーはここで銀の王=ルツィファー的、青銅の王=アーリマン的と言っているわけです。それでは金の王は何か?シュタイナーはこの両極の間にあって、均衡を取る力を「キリスト的」といいます。金の王=キリスト的です。*8また、そもそも3分節論とは社会を有機体と捉え、人間の身体=有機体と同様に3分節される、という考え方なので、ゲーテの『メルヒェン』の解釈とはそれ自体まったく関係ありません。基本的に、シュタイナーの思想は霊・魂・体、アストラル体エーテル体・物質体等々のように3分節=三位一体を基調とするので、社会有機体の3分節もその流れから把握すべきです。つまり、著者がここでScheinを「みせかけ」と解釈したことがそもそもの誤解・誤読であり、誤読を元にしてシュタイナーのものではない考えをシュタイナーに押し付けて批判していたと言わざるをえないのです。*9更に、『メルヒェン』をゲーテ-シュタイナー-エンデの結節点と見ることも、3分節論の正当化としての『メルヒェン』解釈という誤読に基づいた解釈を正せば、既に述べたような事柄から見て、あまりよい視点とは言えないでしょう。実際、正当に見れば、これを結節点とするには繋がりはあまりに弱すぎ、意図に沿うように恣意的に繋げたとすら思えてしまうほどです。

開ける可能性

シュタイナーは、批判するのではなく間違った見解に対して何を付け加えれば正しくなるか考えよ、と言いました。既にさんざん批判してから言うのもなんですが、僕が行った解釈のもとに、本書の見解に新たな可能性が開けるという点を指摘します。本書では、ゲーテの用いた錬金術モチーフ、硫黄・水銀・塩の3つを重視しています。*10ピンズヴァンガーもこのモチーフから『ファウスト』を解釈しているからです。さて、本書では硫黄=凝固、水銀=流動、塩=肉体化という図式を使っています。先ほど、僕が解釈しなおしたシュタイナーの図式を参照してみますと、ルツィファー=軟化=流動化、アーリマン=硬化=凝固と考えることができます。キリストはその両者に均衡をもたらしますが、ここでの塩と類比的に考えられます。*11この図式を前提にして、本書でピンズヴァンガーを取り上げているところを読んでみますと、ピンズヴァンカーは貨幣価値が皇帝によって保証され、固定していたものが流動化するということで、水銀プロセスとして描きます。次に、貨幣=富が一箇所に集中=凝固します。これが硫黄プロセスです。最後に、「大事業」=現実資本への投入によって貨幣が現実化する、というのがピンズヴァンガーの図式です。ここに面白い対応関係を発見できます。まず、ピンズヴァンガーは貨幣価値とは幻想(みんなが価値があると思っているから価値がある)だとみなします。*12おわかりでしょう。ここで水銀原理がルツィファー的原理と面白いほど一致しているのです。しかも、シュタイナーによれば法=政治領域とは人間関係調整の領域です。言い換えれば、3分節論的には貨幣価値は法によって担保されます。*13あるいは、ピンズヴァンガーが皇帝という政治的存在を持ち出していることを考えてもいいかもしれません。先ほどの箇所で、シュタイナーはルツィファー原理と政治生活とを等置していたことを考えると、我々はここで不思議な一致を見ているわけです。更に、硫黄プロセスについて考えてみます。貨幣が資本として集中するのは、経済プロセスの中で投資などによって資本集中が起こるのは当然です。つまり、凝固プロセス=硫黄プロセス=3分節論的経済プロセスと考えるならば、アーリマン的原理=経済生活と硫黄プロセスも対応していることになります。では、塩プロセス=精神の領域と言えるかどうかですが、これは少し強引な解釈になってしまいそうです。塩プロセスは貨幣=抽象的/非実体的なものが実体化するプロセスだ、ということです。生産/消費は経済プロセスの中で行われますが、この中で生まれた実体的なものを使うのは、精神プロセスの中に生きる人間だ、と考えるならば、これも言えそうではあります。しかし、ピンズヴァンガーはそもそも経済について考えているので、ここは少し強引だと言えるでしょうけれど。いずれにしても、驚くべきことに、著者が批判し、退けたシュタイナーの3分節論と『メルヒェン』の結びつきが、きちんと解釈されると、著者が本書で重視している錬金術モチーフと重なるどころか、ピンズヴァンガーの理論との不思議な一致さえ起こるのです!

終わりに

いかがでしょうか。このように考えていくと、本書で取り上げられている事柄がより一貫したまとまりを示します。これらの思想がエンデに合流していることが、よりすっきりとした形で提示できるのです。僕自身、ピンズヴァンがーを取り上げた部分を読んだ時は、とても驚きました。惜しむらくは、既に述べたように著者があまりにシュタイナーに対して無理解であること、誤解・誤読があまりに多く、おそらく真面目にシュタイナーの著作/テクストを読もうとしていないということでしょう。それは例えば、シュタイナーが『神智学』の中でエーテル(体)を取り上げていることを述べているにもかかわらず、エーテルを「高次のより純粋な空気」といってしまう態度にも現れているように思います。*14エンデの思想をたどるには、シュタイナーは確かに必須です。僕自身、最初にシュタイナーを読み始めたのはそういった動機からでした。しかし、エンデが徹底的にシュタイナーを研究していたことを考えれば、エンデ思想を追究しようとするなら、少なくとも、基本的なレベルでのシュタイナー思想の理解は必須のはずです。勿論、エンデが影響を受けたもの全てに細かく目を配ることはできないにせよ、です。実際、本書ではロマン派を完全に視野に入れていません。と、まあ、一読してかなり問題を感じたので、『ファンタジー神話と現代』のときのように一気呵成に書いてしまいました。最後の方は、多少強引な部分もありましたし、すべてを取り上げるというわけにもいきませんが、一番重要な点は指摘できたと思います。

*1:薔薇十字会自体が存在しない団体であり、アンドレーエの捏造であるというのが一般的な見解です。

*2:僕がパッと思いつく限りでも、遊戯の理論があり、芸術論の検討があり、貨幣論も今までより広い視野で見られるはずであり、ロマン派との比較があり、言語論があり、ヴァインレープ思想との比較があり、シュタイナー思想との比較もまだ十分になされているとはいえないと思います。

*3:むしろ、エンデの経済観はかなりの程度シュタイナー経済学(国民経済学)に近いと思いますが、この点については精査したことがないので、示唆にとどめておきます。

*4:『読本』とは、『M・エンデの読んだ本』というタイトルで邦訳もされている本で、エンデが強い影響を受けた本、人生の転換点になったような本の全部または一部を抜粋したアンソロジーのような本で、エンデが何に影響を受けたかを知る手がかりの一つでもあります。

*5:ただし、シュタイナーがライプツィヒ時代の病について、この体験を通じてゲーテに秘儀体験が生じた、と『薔薇十字会の神智学』で述べている点を、著者はこの病の治療からゲーテ錬金術に一時期没頭したことと考えているようですが、これは誤読です。臨死に近い重症という体験を通じて、秘儀を体験したというのがシュタイナーの述べていることであって、外的に錬金術の著作に触れたことを言っているのではありません。また、シュタイナー自身がこのあとのゲーテの「失望」体験については別の講演で触れてもいます。なお、この講演を含めて、この時のゲーテが体験したものは無意識にとどまり、後年になって意識に上ってきたという言い方をしていますので、いずれにしてもゲーテ錬金術実験への失望を取り上げるのは間違いでしょう。

*6ゲーテとの関連で言うと、シュタイナーは『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』ではゲーテと自分の認識論を結びつけていますが、学位論文でもある『真理と科学』では以前、自分の立場をゲーテの世界観と結びつけて叙述したが、自分の立場は必ずしもゲーテの世界観から導きだされる必要はなく、自分の思考の建築物それ自体に基礎を持っていることが読み取れるだろうと書いています。ここでも、ゲーテという権威によって自分の考えを正当化したり、権威付けしたりすることをしていないことに留意してください。

*7:ちなみに、本書では1919年12月22日になっていますが…。正直、調べるのに苦労しました。こんなことでいいの?と思ってしまいます。

*8:不勉強ながら問題となっている講演を全部読んでいないので、ルツィファーを政治に、アーリマンを経済に結びつけている理由は判然としません。例えば、3分節論では精神=四肢-新陳代謝系、経済=頭部-感覚系、政治=胸部-循環器系という対応させられていますが、これですと均衡点が政治であり、硬化するもの=頭部神経系が経済、流動的なもの=新陳代謝系-腺組織が精神になっています。

*9:ちなみに、シュタイナーは講演録、特に人智学協会員向けのものについては慎重に取り扱うことを強調しました。一つにはシュタイナーがすべてをチェックできないので、様々な誤解や誤記が含まれてしまうこと、何よりもシュタイナーが著書などで取り上げている事柄を前提しているので、それらのことをよく知らない人に誤解を招きかねないからです。これはまさにそう言った典型例と言えるでしょう。この図式はシュタイナーをちょっと研究している人間なら当然わかることなのですから。

*10:シュタイナーも、これらをシュタイナー医学との兼ね合いで取り上げていることを付記しておきます。また詳述は避けるものの、シュタイナーが医療やオカルト身体論の観点から述べていることが、ここで僕が取り上げた事柄と見事に一致していることも、僕の解釈の一つの根拠となっています。

*11:オカルト身体論では、流動プロセス=水のプロセスは新陳代謝組織、硬化=土プロセスは神経組織と考えられ、この生の力と死の力が均衡することで、人間は生命を保っていると考えられています。

*12:ところで、最近放送終了したアニメ「C」ではまさに貨幣価値が信用であることが描かれていました。エンデの経済観、貨幣観からすると非常に面白く、共通点のある作品です。余談までに。

*13:ボイスとの対談で、ボイスが貨幣を法のドキュメントだ、としきりにいっているのはこのことです。

*14:この意味でのエーテルは19世紀頃まで物理学でも想定されていた意味での、振動などを媒介する媒質としてのエーテルと読めます。シュタイナーは自分のエーテルという言葉はそういうものではなく、生命力ないし形成力とでも呼ぶべきものであることを強調しています。