社会有機体3分節論について

かなり前から、そのうちまとまった記事を書くとかいいつつ、3分節論のことを全然書いてないので、『社会問題の核心』を再読したついでに少しまとめてみようかと。参考文献は、『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』(イザラ版)、『社会の未来』(春秋社版)、『シュタイナー世直し問答』、『社会改革案』、『シュタイナー経済学講座』、ヴァルター・クグラー『シュタイナー 危機の時代を生きる』など。僕自身はベースとして、それ以外にエンデの対談(特に『オリーブの森で語り合う』『芸術と政治に関する対話』と『エンデの遺言』でしょうか。3分節論(三層化論とも訳されますが、僕の知る限りではDreigliedrungなので3分節論という訳語を採用します。)は、エンデの経済-社会思想、ボイスの社会芸術などに大きく影響を与えた考え方で、最近ではヴェルナーが3分節論の文脈からBIを提唱しています。

背景

最低限のところだけですが、基本なので。シュタイナーはウィーン工科大学に入学するとすぐに「工科大学のドイツ文化図書閲覧室」の会員になり、そこで様々な政治的・文化的問題について議論し、このクラブでの活動を通じて「当時の学問・芸術・文化史・政治の書物を広く知る可能性を得た」(シュタイナー自伝)と述べています。また、20歳前後のこの時期にオーストリア議会を何度も傍聴しました。次に、1888年ドイツ週報という週刊新聞の編集を担当しました。かなり短い期間でしたが、シュタイナーはオーストリアの民族紛争が激化する時期に、こうした仕事を通じて社会問題とかかわり、社会主義者たちともかかわりを持ったといいます。更に、『自由の哲学』を著した前後に、アナーキストのジョン・ヘンリー・マッケイと交流を持ちます。マッケイへの書簡で、シュタイナーはもし問われるならば、自分は個人主義アナーキストである、と(リップサービスもあったかもしれませんが)言っています。ここでシュタイナーの言う個人主義アナーキズムとは、個々の人間が、完全に自由に、その内なる能力や諸力を発展させることだけを望むものを指しています。(細かい点は、以前アップした記事を参照。)なお、自伝にはシュティルナーアナーキズムは、政治領域に拡張すべきではなく個人の内面にとどめておくべきだ、という考えを述べており、3分節論の萌芽が見えるように思います。次は、ベルリン時代、シュタイナーは労働者学校の講師として、労働者たちと直に接しました。誤解を避けるために付記しておくと、シュタイナーが労働者学校の講師になるのに、マルクス主義イデオロギーと無関係に自分のやり方で授業を行うことを条件にしました。最終的には、このシュタイナーの授業のやり方のために講師の仕事をやめざるをえなくなるのですが。また、シュタイナーは人智学協会設立後も、労働者向けの講演を多数行いました。こうして、民族紛争の問題、経済=労働者の問題、人間の内的自由の問題がシュタイナーの社会論の要点と言えると思います。そして、第一次世界大戦を通して、戦時中の1917年初めて社会3分節論の理念へと到達します。1919年には「ドイツ民族と文化世界に訴える」というアピールを発表しました。このアピールには政界・文化界の著名人の署名を集め―例えばヘルマン・ヘッセもその一人―新聞にも掲載されました。そして、この終戦間際から終戦後の期間、精力的に社会問題についての講演を行い、社会論の著書である「現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」を著します。大まかな流れとしては、このような流れになります。詳しい歴史的展開については、ヴァルター・クグラー『シュタイナー 危機の時代を生きる』に詳しいですが絶版ですので、小杉英了『シュタイナー入門』にもこのあたりの展開が書かれています。

理念

まず、3分節論の基本理念について。社会有機体3分節化という言葉からわかるとおり、シュタイナーは社会を有機体として捉え、人体とのアナロジーで考えます。シュタイナーの基本的な人体の3分節に頭部系/胸部系/四肢系というものがありますが、人体がこのように3つの機能のまとまりによって、3つの部分に分節化されており、それらがそれぞれは独立に作用し、それらが相互作用することによって統一した活動を可能にしているように、社会も3つの部分に分節化される必要がある、とシュタイナーはいいます。また、頭部系が思考、胸部系が感情、四肢系が意志を司るように、それぞれの部分には独立した原則が存在します。社会も同様に、3つの独立した領域がそれぞれに適した原則によって支配されなければならないというわけです。さて、シュタイナーは社会有機体は政治=法領域/経済領域/精神=文化領域の三つの部分に分節化されねばならず、政治=法領域には平等の原則、経済領域には友愛の原則、精神=文化領域には自由の原則が支配しなければならないと考えます。ご周知のとおり、この三つはフランス革命の三つの理想なわけですが、シュタイナーは自由・平等・友愛の3つが統一国家の中でごった煮にされていることが問題の根源である、と考えるわけです。余談ですが、某所で機能分化を3分節化の衝動と考えている人を見かけましたが、ヴァルター・クグラーは「分析を、こうした三つの原-機構に向けて方向づけるということの不可欠性が認識されることがますます多くなり、方法として成立し始めている。(例えば、ハバーマス、オフェ、ルーマン、フーレルマン等)。それだけに驚かされることは、社会生活の様々な領域における新しい社会理論や改革戦略は、いまだかつて社会のこうした三層化を構築してはいないということである。」と述べています。要するに、分析概念としては分化していても、現実的にはシュタイナーのいう意味で分節化されていない、というわけです*1
さて、シュタイナーは著書・講演の中で、「自分のいっていることは具体例にすぎない、その時々の状況に応じて具体的な制度は考えられねばならない。」「自分がいっていることは、社会的なユートピアではない、社会的なユートピアは存在しない。社会問題は日々生じる、日々生まれる社会問題をその都度解決できる組織を作ることが必要だ。」といったことを強調しています。この点は、例えば若きシュタイナーが理想主義を称揚した「自然と我々の理想」で「自然が毎日、我々が創りだしたものを破壊するとしても、我々は毎日新たな創造を喜ぶことができるでしょう!」と言うシュタイナーの姿勢に通じるように思います。言い換えると、ゲーテの原現象のように、3分節の理念が個々の具体的な社会にメタモルフォーゼする必要がある、ということだと言えるでしょう。そういったことを前提にして、もう少し3分節論の内容に踏み行ってみたいと思います。まず、法=政治領域における平等とは、みんなが平等に関わることのできる領域でだけ民主主義は機能するという考え方に基づきます。例えば、専門的な知識が必要とされるような事柄については、専門家たちが*2熟議することで決定がなされなければならず、素人の多数決によっては決定されない、というわけです。そして、法=政治領域は基本的に社会生活における人間関係を法的に調整することが仕事だとされています。次に、精神領域の自由ですが、これは人間の精神的、文化的活動は自由の原則に基づかなければならないということです。例えば、学校は他からの強制や校長のような管理者によって教育方針を作るのではなく、現場の教師たち=専門家の自由な話し合いによって教育方針を決定しなければならないとされます。ちなみに、エンデは劇場の補助金について触れていて、劇場が政府からの補助金を受け取ることで、自由な芸術的活動が阻害されていると『オリーブの森で語り合う』で指摘していますが、これらのエンデの主張はここから影響を受けているわけです。さて、最後に経済領域における友愛です。まず、友愛という言葉についてですが、シュタイナーはそもそも分業制というのは決して利己主義になりえないと指摘します。つまり、分業体制がそもそも友愛の制度だというわけです。なぜなら、分業体制の中では個々人は自分の為に働くことができず、個々の人間がなす仕事はすべて他人のためだからだ、というわけです。経済領域とは生産と消費に関わるもの全てです。そして、経済は経済連合体によって管理されなければいけないと言われます。ここでシュタイナーが最も強調したのは労働の問題です。シュタイナーは労働が経済領域に含まれてしまう、つまり労働力が売り買いされることを大変問題視しています。報酬と労働とは分離されなければならない、報酬とは労働の結果得られた生産物に対する対価でなければならないというのがシュタイナーの考えです。そして、労働は本質的に経済領域ではなく法=政治領域、つまり社会的な人間関係の分野に属するのだと考えられます―ちなみに、ヴェルナーのBI論では労働は精神領域に属すると考えています―。また、商品とは自然のものを人間(の精神)によって変化されたものだという考えから、土地の私有の問題、つまりただそこの存在する土地を私有することによってお金を作り出すことは間違いだ、という考えに至ります。シュタイナーは経済については『国民経済学講座』などで特に詳しく論じており―老化する貨幣など―、ここでは僕の力不足もあり一つ一つ取り上げられないのですが、こう言った考えがエンデやボイスの経済観に強く影響を与えていることは指摘しておきたいと思います。とまあ、かなり大雑把なのですが、主な理念はこのようなものとなります。詳しくは、シュタイナー自身の著作などを参照して頂ければと思います。

感想

正直なところ、僕自身、そこまで3分節論について詳しく研究しているわけでもなく(勿論邦訳された3分節論関係の著書・講義録はすべて読んでいますが)、あまりうまいまとめができないのですが、最近3分節論の基本書である『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』を読み返して感じたことを書いてみたいと思います。これまで、僕自身3分節論については、個々の事柄や基本理念については一定程度理解していたのですが、ぼんやりしたイメージしかもっていませんでした。しかし、『社会問題の核心』を読み返して感じたのは、要するに3分節論というのは自治の思想だ、ということです。言い換えると、社会に対して自発的・能動的に働きかけていく―ボイスのいう社会芸術を創造する事への参加―、そしてその働きかけがうまく機能するように社会を組織する、そういう考え方なのだと思います。最近、宮台真司さんが「脱システム依存」という言い方で共同体自治について語っていますが、基本的な理念の上では3分節論も脱システム依存、つまり他人にお任せするのではなくて、自分たちで社会を創り上げていく、ということに尽きるのではないか。この点を別の側面から言いますと、最近Twitterでてらまっとさん、ワクテカさんに刺激を受けて坂口恭平さんの『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』を読んだのですが、そこでこんなことが書かれています。「ゼロから「自分が生きるために、何がどれくらい必要なのか?」を考えてみよう。…(中略)…僕たちは明細を見ないまま小切手にサインするセレブのようなものだったのだ。…(中略)…水道代も、電気代も、家の建築費も、税金も、「なぜその金額なのか?」という理由は聞かずに、ただ黙ってお金を払い続けてくれるのだから。」。つまり、経済活動について、多くのことが実はお任せだ、というわけです。例えば、シュタイナーは賃金というのは、あるものをつくるのに必要な期間、その人が生活するのに必要なだけのお金が払われるべきだ、と言います。つまり、「自分が生きるために何がどれくらい必要なのか」を把握して、それによって賃金が決定されなければいけない、というわけです。また、人々は経済の流れを各自で見通せなければならない、ということも言っています。つまり、すべての人が商品の金額の決定過程を知る必要がある、というわけです。まあ、シュタイナーはもっと色々なことを言っているのですが、こういった点を経済領域の自治と捉えられるのではないか、という風に感じます。また、このあたりは宮台さんと飯田さんの対談本で語られていた、エネルギーの共同体自治にも繋がるように思います。ついでに、シュタイナーから離れますが、坂口さんが自動車のバッテリーを利用して、路上生活者の方が必要なときに必要なだけ電力を使っているという話を書いているのですが、スマートメーターの議論を見るようでこのあたりの議論の共通性というものを感じます。余談ですが、このあたりはある種の功利主義にも繋がるような感触があって、長期的に見た社会の持続性を鑑みて損して得取れな戦略を決定できるような経済活動への参加(情けは人のためならず!)、ということではないかとも考えています。この点についても、坂口さんの本で「どんなことでもいい、自分が得意なことを周りのみんなのために使ってみよう。ここではギブ&テイクは通用しない。ギブ&ギブ&ギブしたほうがうまくいく。」とあって、非常に友愛の経済に近い考え方という気がしました。ところで、坂口さんは土地私有の問題についても言及していらっしゃいますが、前述したシュタイナーの土地私有の問題とほぼ同じような議論を展開している点も興味深かったです。前述の本からもう一つ引用しますと、「彼ら(路上生活者)は、何一つシステムを変えることなく、すべてを自らで決断するという勇気によって、自分だけの家、自分だけの生活を手に入れているのである。つまり、社会がどんな状況になろうとも、そこから独立した生き方をしているために、常に主導権は自分自身の手を離れることがない。」。この一文には、前述したシュタイナーの「自然と我々の理想」(以前の記事の私訳参照)や『自由の哲学』の理念を思い出さざるをえません。また、ヴァルドルフ教育(シュタイナー教育)の理想も同様です。簡単にいえば、前例や過去や外的な規則にとらわれず、常に創造的に決定し行動することに人間の自由があるというのがその理念です。そして、シュタイナー教育とは一つにはそのような自由な人間を育てることを目標にしているわけです。ヴァルドルフ学校創設に先立つ、教師たちに対する集中講義の講義録(『教育の基礎としての一般人間学』)の序文でもこの点が示唆されています。3分節論の中でも教育の問題は大きく取り上げられています。またボルシェヴィズムの教育改革批判もこの点に要点があります。少々脱線しますが、3分節論とは、社会生活上の人間関係を法領域において調整し、生活に必要なものを経済領域によって獲得し、この二つが土台となって精神の領域の中で自由を、つまりシュティルナー=マッケイの個人主義アナーキズムの意味での、個々の人間の内面的能力の発展が可能になる、ということなのではないかとさえ思っています(前述した自伝での見解から見ても)。そして、それは取りも直さず、人智学の根幹にあり、シュタイナー思想のすべてに通底する『自由の哲学』の理念なのだと思います。この点は、エンデの経済問題を論じる姿勢にも通じていて、エンデの経済思想というと経済のことだけがクローズアップされますが、よく対談などを読むと、エンデは常に芸術や精神の問題と経済の問題をセットで語っているのがわかります。エンデにとって、この二つの問題は相補的な問題なわけです。そして、僕が見るところ、実は前者にこそ重点が置かれているということがエンデと経済の問題が論じられる際に見過ごされているように思います。いずれにしても、論点は色々とあるわけですが、ごく最近読んだ宮台・飯田対談や坂口恭平さんの本に、どこか3分節論に通底する理念を感じたので、それと絡めて僕の個人的な感想を書いてみました。
ところで、エンデは子安美知子さんとの対談『エンデと語る』で、とても印象的なことを言っています。「今、三層構造の核心に迫ろうとするなら、国際的規模で考える必要がある。それを思うと、全世界の経済を、あれほどユニークな観点で変えていくのは、もう間に合わないという気もします。」。まあ、シュタイナー自身は一国だけでも3分節化は可能であると言っていますが、しかし社会状況がまったく異なっていることは事実です。何より、この対談でエンデも指摘しているように、シュタイナーが3分節論を主張したのは、一次大戦の敗戦直後のドイツの政治的経済的混乱の中でであり、ある意味でラディカルに改革が原理的には可能だった時期だということも考慮すべきでしょう。その意味では、エンデの認識はかなり現実的であるような気がします。一方で、3分節論運動ではヴェルナーを受けてBI論と熟議民主主義の議論が盛り上がっているようです。BI論ですと関曠野さんの社会信用論なんかが、シュタイナー経済学に近いような感じがします。一方で、先ほど述べたような観点からすれば、BIが単にシステム依存を引き起こす可能性も考慮すべきではないかと考えています。また、法-政治領域においてなされるのが妥当かどうかも議論の余地があります。シュタイナーは社会福祉は経済領域においてなされるべきだと考えていたようですが…。最も、ヴェルナーの言っている事の要点は、労働力を経済領域から引き離すということであって、その意味では優れてシュタイナー的なのですが*3。まあ、そんなわけで、僕があまり具体的に3分節論について語らないのは、理解が浅いということもありますが、このような事情で3分節論を巡る議論は、かなり現代的な状況に合わせて考慮されなければならないこと、そして僕が知っている範囲では、この水準では日本ではそれほど進んだ議論が見られないということが一番の要因だったりするわけです。これは現状、僕が見る限りでの3分節論の議論の困難といったところですけれども。エンデが経済についてのいくつかの提案を除けば、それほど具体的なことを語らないことも、この困難があるからだという風に思います。

参考文献

3分節論に関するこの記事で参照した僕が読んでる参考文献です。

  • ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,『現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心』,イザラ書房(最近、春秋社から新訳が出ました。『社会の未来』も同様)
  • ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,『社会の未来』,春秋社
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『シュタイナー 世直し問答』,風濤社(社会の未来の後の質疑応答集)
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『社会改革案』,水声社
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『シュタイナー経済学講座』,筑摩書房(最近、ちくま学芸文庫で文庫化されました。)
  • ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,『教育の基礎としての一般人間学』,筑摩書房
  • ルドルフ・シュタイナー,西川隆範訳,『シュタイナー自伝上1861-1894』,アルテ
  • ヴァルター・クグラー,久松重光訳,『シュタイナー 危機の時代を生きる』,晩成書房
  • 今井重孝,『未来を開く教育者たち』所収第二章『シュタイナー教育とシュタイナーの思想』,コスモライブラリー
  • ミヒャエル・エンデ、エアハルト・エプラー、ハンネ・テヒル,丘沢静也訳,『オリーブの森で語り合う』,岩波書店
  • ミヒャエル・エンデ、ヨーゼフ・ボイス,丘沢静也訳,『芸術と政治をめぐる対話』,岩波書店
  • ミヒャエル・エンデ、子安美知子,『エンデと語る 作品・半生・世界観』,朝日選書
  • ミヒャエル・エンデ,『エンデの遺言』,NHK出版
  • 小杉英了,『シュタイナー入門』,ちくま新書

*1:ちなみに、河本英夫さんによるオートポイエーシス論に基づいて考えてみると、これらは分化ではなくカップリングの問題として捉えるべきだと思う。花村誠一さんは河本オートポイエーシスに基づきながら、精神病の様態をカップリングの変化として記述している。人体のアナロジーとして社会有機体を捉えるならば、同様にカップリングの変化として記述可能であるように思える。もっとも、システム論との食い合せはそれほど良くないという印象はある。ただし、シュタイナーが社会問題を論じる際の姿勢は極めて内部観測的であると言えるし、その点でオートポイエーシスとの接合は可能かもしれない。

*2:ただし、シュタイナーが専門家という場合、その分野に精通・熟練した専門的な実務家を考えている

*3:ちなみに、シュタイナーはBI的なことについては述べていません。誤解なきように。ただし、エンデは『オリーブの森で語り合う』の中でBIと同様のことを語っています。