追記:訂正と補論

今日読みなおして、改めて色々と考えていたんですが、ルツィファー的・アーリマン的・キリスト的の適用が短絡的であるという結論に達しました。お読み頂いた方には申し訳ありませんでした。そこで、金の王・銀の王・青銅の王をどう捉えたらよいか、という点をもう少し丁寧に見ていきたいと思います。

ルツィファー的・キリスト的・アーリマン的*1

では、Scheinの問題から改めて始めたいと思います。実は、この講演でシュタイナーはゲーテの『メルヒェン』とシラーの『人類の美的教育に関する書簡』を対称させながら話を進めています。つまり、Scheinというのは、シラーのいう美的仮象のことを指す、と考えられます。ちなみに、本書でも美的仮象の話は出ているのですが、著者はäußeren(外的な、外面的な)という言葉から見かけ、うわべと判断したわけですが、これは既に述べたように外的仮象のことと考えるのが自然です。これは既に述べたように、物質的に現象しているものと考えてよいと思います。また、「des äußeren Scheins, des Scheinlebens」と並置してあるところを見ると、前者を外的な仮象、後者を美的仮象と考えることも可能かもしれません(他の箇所と比較しても、あえてここで同じ言葉を繰り返す必要性がありません)。では、シラーの『美的教育』で、シラーは何を言っているのでしょうか?シラーは、カントの図式に従って、感性的なものと理性的なものとを分けます。そして、感性的なものは自然法則の必然性に、理性的なものは道徳法則(定言命法)の必然性に従うので、この両者の下では人間は不自由である、と考えます。そして、その中間に美的なものを置きます。この美的なもののところでだけ、人間は自由だ、というのがシラーの考えです。つまり、理性-美的仮象-感性というわけです。ここでシュタイナーに戻りますと、シュタイナーは金の王・銀の王・青銅の王をそれぞれ思考・感情・意志に対応させています。*2すなわち、思考=理性・感情=美的仮象・意志=感性という対応関係を見いだせます。更に進めましょう。シュタイナーは人体を頭部-感覚-神経系・胸部-律動系・四肢-新陳代謝系という形で3つに分けます。これもそれぞれ思考・感情・意志と対応しています。*3神経系とは常に死に向かう傾向を持ちます、新陳代謝系は常に生み出すもの、つまり生に向かう傾向があります。さらに、シュタイナーの四肢という言い方には下腹部が含まれ、栄養系や腺組織もこの中に入ります。つまり、四肢-新陳代謝系とは流動するものであり、ルツィファー的です。神経系は硬化するものであり、アーリマン的です。胸部はこの二つの極―上部人間と下部人間―を調停する役割があります。胸部系はキリスト的です。これで、ルツィファー的・キリスト的・アーリマン的という図式を改めて位置づけることができました。まとめますと、金の王=思考=霊我=理性=頭部-神経系=アーリマン的、銀の王=感情=生命霊=美的仮象=胸部-律動系=キリスト的、青銅の王=意志=霊人=感性=四肢-新陳代謝系=ルツィファー的となります。本書で取り上げられている、錬金術のモチーフ、硫黄・塩・水銀と比較すると、硫黄=金の王=アーリマン的、塩=銀の王=キリスト的、水銀=青銅の王=ルツィファー的と対応付けられます。ピンズヴァンガーの論考との関連付けは、先述したような形ではできませんが、本書で一貫して取り上げられている錬金術のモチーフとシュタイナーの『メルヒェン』解釈とは完全に一致を見ることができます。なお、ピンズヴァンガーは水銀を想像力や感情と結びつけているので、ここから水銀を同じように銀の王に結びつけ、硫黄が意志と結び付けられているので、同じように青銅の王と結びつけることは可能です。この点では、シュタイナーの図式と幾つかの齟齬が見られます。

3分節論との対応関係の謎

さて、実はここでずっと引っかかっており、未だに解決していないのですが、シュタイナーは金の王=精神、銀の王=政治、青銅の王=経済を表していると解釈しています。銀の王=政治については、精神領域と経済領域の両者を調停するものと考えられているので問題ありません。つまり、なぜScheinな生活が政治的生活なのかは、シュタイナーの文脈ではまったく明らかです。ですが、問題はシュタイナーは社会有機体3分節論について、精神領域は四肢系と経済領域は頭部系と対応する形で分節できると考えています。つまり、金の王と青銅の王が逆なわけです。これについては、当該講演では政治生活の中で生命霊が生きるのと同様に、経済生活の中で霊人が生きるというようなことが言われているので、思考・感情・意志ではなくて、霊我・生命霊・霊人と関係があるようなのですが、はっきりしたことがわかりませんでした。ただ、シュタイナーは思考・感情・意志の対応よりも、金の王・銀の王・青銅の王を霊我・生命霊・霊人との対応関係があると解釈しており、『メルヒェン』の中ではこの人間の霊的な最高の部分が3人の王によって授けられると言っているので、この霊的な3つの部位と関連しているのは有り得そうな話ではあります。そもそも、シュタイナーによれば、体と魂は既に3つの部分に分節しており、霊だけがまだ曖昧な一体の状態にある、と考えられているので、金・銀・銅を混ぜあわせた4人目の王が現在の人間を表すと言われていることからも、霊我・生命霊・霊人との対応と考えた方がすっきりします。いずれにせよ、なぜこういった対応になるのかがよくわからなかったのですが、著者がそう主張しているように、シュタイナーが1901年の『メルヒェン』解釈を自分の都合に合わせて曲げたわけではないのは、以上のことからも明らかだと思います。齟齬があるとはいえ、これは仮に対応関係を変えれば、解釈と関係なく既に述べた図式と結び付くわけですから、解釈の恣意的変更とは言えないでしょう。

再度終わりに

自分自身が解釈を誤ってしまってお恥ずかしい限りなのですが、一度アップしてしまったものですので、取り下げずに訂正文を書くことにしました。Twitterで何人かの方に好意的な評価を頂いた部分が不意になってしまい残念ではありますが、見過ごせない程度に論理的に間違っていると思いましたので、訂正させて頂きました。お読み頂いた方には、大変な失礼を致しました。心からお詫び申し上げます。

*1:キリストと二つの悪存在については、かなり輻輳的な概念で、ここでは二つの極端な原理とその均衡をとる原理という程度の意味で用いています。

*2:別のところでは、霊我・生命霊・霊人と対応させています。これも思考・感情・意志の対応関係と同じ対応関係を見出す事ができます。

*3:頭部が思考、胸部に感情というのは直感的にわかりやすいと思います。四肢系は意志=行為の実現に主に関わるので四肢は意志の座だとされます。胸部が感情の座であるのは、例えば感情と呼吸の関係を考えていただけるとわかりやすいかと思います。なお、律動系とはリズミカルに動くもの、心臓の鼓動や呼吸を指しています。