「モモはなぜJ・Rに惚れたか」雑感

ラフィク・シャミの「モモはなぜJ・Rに惚れたか」を読みましたので感想を。この本については、実は随分前から知っていて、書評的なものも読んだことがあるんですが、実物をずっと読まないでいた本です。ご存じない方も多いと思いますが、エンデの『モモ』への批判小説のようなものになっています。ちなみに、著者のラフィク・シャミの作品を読むのはこれが初めてで、著者のことは全く知りません。著者紹介によれば、ドイツではとても有名な作家だそうです。
とりあえず、作品のあらすじから。エンデはあとがき代わりに、あるとき旅の途中で出会った不思議な老人から『モモ』のお話を聞いた、という構成にしています。*1シャミはここから話を始めます。つまり、『モモ』は完結していなかったというわけです。この老人が「(有名作家に)物語を売っている」人物として登場します。ここにも何やら皮肉めいた調子があるのですが、とりあえず先に進みましょう。モモは世界(国)を救った英雄として遇せられるのですが、仕事が無いことを理由に周りから人が離れていきます。そんな折、カシオペイアに導かれてあるホテルでマイスター・ルドルフなる人物に会います(勿論、ルドルフ・シュタイナーのことです。)。モモは、ルドルフから様々な理想を聞かされ、彼に協力することにします。化学物質/有害物質を使わない、機械を使わない工場を経営し、貴族の子弟も労働者も平等に受け入れる学校を経営するのですが、モモは日々時間に追われるようになっていきます。ですが、職を失った人たちを食い止めるほどの働き口を確保することはできず、理想を語るルドルフにモモは愛想が尽きてきます。ある日、ルドルフはJ・Rという人物を連れてきます。J・Rはモモに性的なやり方で求愛し、工場を大量生産するやり方へと変えます。しかし、労働者たちのデモが起こり、モモはそこにベッポ(名前は出ていませんがそうです)の姿を見、彼に投げられた石で傷を負います。暴動の起こった町を離れて、モモとJ・Rは楽園のような島へと移り住みます。モモはそこで瞑想をするようになるのですが、だんだん瞑想修行を求めて多くの人がやってくるようになり、その瞑想修行自体をJ・Rは商業的にパッケージングします。その島の人があまりに多くなり、住みにくくなったため、J・Rはモモの代役(モモそっくりの女優)を立てて、こっそりと違う島へと移り住み、モモはそこで限られた人に愛のダンスを教えて過ごす、というところで物語は終わります。
さて、既に書きましたがこの本は『モモ』批判の書です。おそらく幾度と無く繰り返されたテンプレ的なものではあるのでそれ自体は凡庸なのですが…。しかし、そこに何かねじれのようなものがありそうな気がするので、少し取り上げてみようと思いました。ところで、訳者あとがきによるとJ・Rというのはドイツのドラマに出てくる金と権力の権化のような人物だそうです。同じく、訳者あとがきによると「エンデの現実逃避的文学への批判」だそうで、まあこれ自体が何度となく繰り返された話なので陳腐という感じがします。パロディー的な道具立て自体は、良く言えば気がきいていますが。さておき、まずは一つ一つ見ていきたいと思います。
前提についてはさしあたり受け取っておくとして、マイスター・ルドルフとのことから始めましょう。無論、これはルドルフ・シュタイナーをもじった名前なわけです。ところで、マイスター(Meister)という言葉は師のような意味ですが、この場合グル的な意味合いも含めているのかも知れないですね。マイスター・ホラともかけているのでしょう。*2あとで触れるつもりですが、エンデをアントロポゾフィーの、あるいは秘教的世界観の教導者だとする見方も陳腐な批判ではあります。まあ、シュタイナーについてはそれほど触れる必要はないでしょう、というのは、推測するにシャミはそれほどシュタイナーのことは知らないでしょうから。ここで述べられているのは、こういって良ければ、典型的なお行儀のいいアントロポゾーフだと考えたいと思います。もっとも、それは思想面の話で、アントロポゾーフたちが理想ばかりで中身の伴わない人だといいたいわけではありませんのであしからず。私が言いたいのは、高橋巌さんが化繊はいけない、酒はいけない、テレビはいけない…とないないづくしで、そういう生活規則を守っている人たちをシュタイナー右派とよんでいるのですが、そういった人たちのことです。エンデが映画のことで「背徳のアントロポゾーフ」などと呼ばれたという話は『ファンタジー神話と現代』に出ていますが、実際のところエンデはそういった人たちに必ずしも大歓迎されたわけでもなかったのです。例えば、エンデは子安美知子さんとの対談で、「彼の著作をよむときには、けっして彼を現代の大学教授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。」(『エンデと語る』,P91)「シュタイナーの意味する内容は、「モラーリッシェ・ファンタジー」のアクセントで呼ばれるべきものです。つまり、その反対語は「道徳的不毛(Moralische Sterilität)」です。お題目ばかりで外見上の道徳生活をしているうちに、自分のなかからモラルの創造ができなくなってしまう、という意味で「不毛」なのです。」(同書,P142)と述べています。アントロポゾフィーの文脈なので少しわかりにくいかもしれませんが、言い換えると、シュタイナーが言っているからといってただそれを鵜呑みにして(生活規則にして)はいけない、ということです。エンデも言っているように、これはシュタイナー自身が強調したことでもあります。まして、エンデはシャミが書いたようなことを(ただ彼が何を言いたいのか、わかりにくい部分もあるのですが)主張したこともありませんし、むしろ上のようにただシュタイナーの言っていることを鵜呑みにしてお題目のように唱えることに批判しているわけで、ある意味で批判になっていないわけですね。ただし、シャミの批判の中にも見るべきところはあります。シュタイナー学校のことを取り上げていますが、徐々に労働者の子どもは通わなくなり上流階級だけになった、というところがありますが、私が聞き及んだ範囲で言えば、(少なくとも日本の状況で言えば)これは一面ではシュタイナー学校の実情を捉えているのではないでしょうか。とはいえ、しかし、それはエンデとは無関係だと思いますが。
さて、そこでJ・R―資本主義の権化―が登場するわけです。ところで、J・Rはモモに性愛的なというか性的なアプローチをするのですが、これはシュタイナーが性的な事柄を扱わなかったこと*3と、エンデが性愛的な物語を書かなかったことを引っ掛けているのだと思います。とはいえ、この点は些事だという気もしますが…しかし、まあ、醜い現実(と訳者あとがきにあるのですが)から目をそらす現実逃避文学という文脈なのでしょう。私は性愛が醜い現実だとは思いませんが(生々しい現実ではあるかもしれませんが)。少し余談になりますが、ペーター・ボカリウスの伝記によれば、エンデは若い頃はある恋愛事件の影響もあって、相当なプレイボーイ―ボカリウスはドン・ファン的と形容しています―で女性関係ではかなり派手な交際をしていたそうです(ご興味ある方はボカリウスの著書を読んでください。)。そんなエンデが、仮にロマン派的な女性像であっても滅多に恋愛を描かなかったことは、私にも少し不思議な感じがします。明示的には、『サーカス物語』や『遺産相続ゲーム』などの戯曲くらいでしょうか。それも非常にロマン派的な描き方ではありますが。『鏡の中の鏡』では娼婦の女王なんかも登場したりはしますけれども。このあたりはエンデ研究としてはなかなか興味深い問題点ですが、本題と外れすぎるのでここでは示唆するにとどめて本題へと戻りましょう。
J・Rは資本を投入して、工場を大量生産のものへと変えます。ところで、このところは正直何がいいたのかよく分からない部分がありますね。要するに、マイスター・ルドルフのやり方―ところで、シャミが描いているのはカリカチュアにすぎず、あまりよい想定ではないように思いますが―では、資本主義に太刀打ちできず、しかし、J・Rのやり方では貧富の格差が増大し、暴動が起こる…というようなことになりそうなのですが…。まあ、その点はいいでしょう。このあたりについてのエンデのステートメントを確認してみましょう。例えば、先述の子安対談では「今、三層構造の核心に迫ろうとするなら、国際的規模で考える必要がある。それを思うと、全世界の経済を、あれほどユニークな観点で変えていくのは、もう間に合わないという気もします。」(同書,41P)。あるいは、筑紫哲也さんのインタビューでは、環境問題ディスカッションの番組に出演したときのエピソードとして、学者たちの「車の使用をできるだけ抑えなければいけない」という主張に対して、次のように言っています。「…車を贅沢品として買っている消費者のうち三分の一の人が、来年車を買わなかったらどういうことが起こるでしょう。自動車産業界に多大な産業危機がおこります。…(中略)…自動車産業界は社会に対して仕事を供給し続けてきたわけですから、この七百万人という失業者によって社会の購買力は大幅に低下してしまうということなんです。ドイツの経済は破綻するでしょう。つまり私たちは環境破壊か経済破綻かという二者択一を迫られているわけです。」(『筑紫対論』,134-135P)。エンデはこういった悪循環を当然前提しているわけで、その上でこの悪循環を乗り越えるために、意識の変革/金融システム・貨幣システムにメスを入れる必要がある、ということを言っているわけですね。ちなみに、この悪循環については、『ハーメルンと死の舞踏』などでかなり直接的に表現されています。ということは、文字通りに捉えるならば、むしろシャミの言っていることはエンデの言っていることとじつはそれほど変わりないとさえ言えるわけです。ところで、機械を使わない工場とか電話がない(そういう描写があります)というのはもしかしたら、エンデの自然科学批判をシャミが曲解して、そのことも重ねているのかもしれませんが、エンデは現代的なテクノロジーや科学技術の発展に対してネガティブな意見はもっていません。それはいわば世界観の問題、全てをファクトに解消し、(生の)意味や価値を見いだせなくしてしまう世界観―エンデのマテリアリズムという言葉もこの意味で理解されるべきだと私は思いますが―を批判しているわけです。この論点はエンデの世界観全体の中でかなり核心的な部分に属しますので、これについても示唆するに止めさせてもらいます。
次に、モモはJ・Rと楽園の島へと旅立ちます。そこでいわば瞑想修行のグルになっていき、J・Rはそれも商業的にパッケージングするわけです。既に触れましたが、これはおそらくエンデを秘教的なグルとみなすような形式の批判だと思われます。『エンデのメモ箱』と『だれでもない庭』には読者からの手紙に対するエンデの返事が載せられていますが、そこでもエンデはそういった見方に対して反論していますし、例えば教会からそういった批判を受けてもいたようです。これについては、エンデが非常にクリティカルなことを言っているので、それを見てみましょう。河合隼雄さんとの対談です。*4「いけないのは、それじゃヒマラヤに行って、みんな一緒に何日間メディテーションしてこい(笑)、なんていう招待が、何々国際平和会議とやらから舞い込んでくることです。そんなのには即座に、操っているグル(導師)の匂いを感じて、不信感が生じます。だいたいグルたちの写真を一見するだけで、嫌ですよね。高慢で自己陶酔的なあの顔。彼らはそれなりに自己調和を得ているのかも知れないけれど、私はあのやり方を否定します。」(『三つの鏡』,147-148P)。「座禅を組むとか、さまざまなメディテーションが必要なことは確かです。でも、それで工業化社会の問題を解くことはできない。…(中略)…もろもろの問題を解くときに、私たちが単に善意の人間であるということだけでは不十分だ。単に善意だけであったら、事態は一層破局に向かいます。」(同書,150P)。「…個人的にふらりとアジアの国に行ってメディテーションをする、それで自分だけは救われる、と思い込む人もいるのは危険です。逆にアジアの何らかのグルの宣伝がヨーロッパに入ってくる。…(中略)…大変な商売にすらなってると思いますよ。…(中略)…ミュンヘンには、とにかくお金を出してでもメディテーションを習いたい、と思っているヒステリックな人たちがたくさんいるので、グルは商売ができます。」(同書,150-151P)。おそらく、シャミはこういった風潮のことを指して、それをエンデと重ねているのでしょうが、ご覧のようにエンデ自身がこういった風潮を激しく批判しています。商売化についても触れていますね。ところで、エンデは例えば降霊会のようなやり方を「危険な邪道」「キッチュ」として退けています。ここでシャミが描いているような瞑想修行も、エンデからすればほとんどキッチュのようなものでしょう。エンデはオカルト/エソテリズム/呪術的な先祖帰りについては、激しく批判しています。例えば、「今、この二十世紀の終わりに目指そうとする精神性の回復は、けっして先祖返りであってはならないのです。なんらかの昔の文化形態に帰るということは意味もないし、不可能です。それを試みようとしたら、ナチス・ドイツのようになるか、最近のホメイニのようなケースになります。」(『エンデと語る』,100P)。と、まあこのあたりで十分だと思いますが、シャミの批判的に描いたものは、ほとんどエンデ自身が批判しているものと同一なわけです。
最後に、モモは更に秘密の楽園へと移り住んで、そこでお話は終わります。ここもちょっと良く分からない部分もあるのですが、おそらくJ・R=資本主義の恩恵を受けながら、現実に目を背けてごく限られた人に*5夢のようなことを語っている、というようなことなのではないかと思います。もしかしたら、ジム・ボタンの成功のあと、エンデがイタリアへ移り住んだことにもかけているのかもしれません。『ファンタジー神話と現代』でひっきりなしにかかってくる電話ややってくる訪問客に対して、エンデが対応しなかったという話をしていますが、そういう点も考慮しているのかもしれません。これらの点については、以前『ファンタジー神話と現代』について書いた記事で少し書いていますし、「エンデの文学は現実逃避だ」という批判は、テンプレ的というか陳腐にすぎるので特に何か言おうと思いません。『ファンタジー神話と現代』の解説や『芸術と政治をめぐる対話』でのボイスとの対比でもそうですが、こういうことをいう人はいくらでもいますので。少し脱線しますが、シャミはモモに石を投げつける役をベッポに担わせましたが、これは少しうまくないやり方ですね。子安美知子さんが『モモを読む』で指摘していますが、作中で子どもたちのデモを先導した扇動家はジジなのです。こういった「行動」について消極的だったのがベッポです。おそらく、多くの人がエンデと夢想家ジジを結びつけようとするのでしょうが、ことこの点に関してはむしろ現実的/実際家と見られている人たちの方がジジで、エンデはベッポのように振舞っているのではないでしょうか。とはいえ、この点について展開するのは本題とあまりに外れますので、これもまた示唆だけでありますが…。一つだけ付け加えさせてもらうと、別にジジとベッポどちらが良い/悪いという価値判断の問題ではありません。子安さんの分析にもありますが、どちらも一種の人間類型であり、どちらも一人の人間の中に共存するものでさえあるわけです。例えば、『魔法のカクテル』の二人の主人公なんかがいい例ですね。どちらも補いあうことが重要なわけです。
さて、色々と見てきましたが、私の論点はもうだいぶ明らかになったと思います。要するに、シャミの批判は批判として機能していない、少なくともエンデのステートメントからするとそうなるわけです。なんとなれば、シャミの批判する対象をほとんど同じようにエンデも批判しているのですから。もっとも、こういうことはできるでしょう。なぜミヒャエル・エンデはそのことを作品に書かないのだ?と。最近、クリッヒバウムによるインタビュー『闇の考古学』を再読していたのですが、エンデが自身の魔術的世界観を説明したとき、クリッヒバウムは二度も「なぜそのようなことがあなたの作品にでてこないのですか?」と質問しています。日本ではこの点を論じたものが先述した子安さんの『モモを読む』くらいしかないのですが、あれを読めばわかるように、実際読む人が読めばエンデが言っていることは作品中で描かれているわけです。今まで引用したエンデの話も、仔細に読めばエンデの作品の中できちんと語られています。例えば、「道徳的想像力」については、『魔法のカクテル』や『モモ』に顕著ですが、ある闇への跳躍、全く先のわからない状況に勇気を出して踏み出していく、そういう場面が描かれます。経済や社会については、既に述べたように『ハーメルンと死の舞踏』などに顕著です。エソテリズムについては、例えば『はてしない物語』にそのモチーフを見出すことができます。バスチアンをファンタージエンに止めようとするサイーデ的な力のモチーフですね。あるいは、虚無を通じてファンタージエン人が人間界に行くような邪道、そういうことです。現実逃避についても、エンデがまさに「現実逃避的な」結末に改変してしまった映画に対して裁判を起こし、莫大な損失を被ったことを見れば十分です。あるいは、こういう批判もありえます。エンデは彼自身が批判しているものに無自覚のうちになっているのだ、と。しかし、読者がどのように受容するかは当然コントロールできません(私自身はこの点については、前述した『闇の考古学』を読んで感じたことがありますが、それについては機会があったら。)。作品自体がそういうものになっているかどうかについては、既に述べたことで十分なように思います。いずれにしても、こういった論法はいくらでも続けることができるわけで、一種無敵論法的に感じがします…。
ともあれ、シャミの作品自体をどうこうというつもりはないのですが、感想がてら典型的なエンデ批判と思いましたので、エンデ自身のステートメントからエンデの立場をたどってみようと思い、そして、その手の批判がむしろエンデ自身が批判しているものと同一の対象を批判しているという「ねじれ」を、シャミの作品を読んで感じたので、そのことについて書いてみようと思い、本論となりました。エンデは現実逃避的である、というテンプレじみた批判が、ある種のねじれを持っていて、エンデ自身のステートメントからたどることのできるエンデの実像とあまりにかけ離れている、という点について、少しは示すことができたのではないかと思います。

*1:ところで、このあとがきについてはいろいろな解釈が可能だと思いますが、形式的にはロマン派的な語りの形式に即したものであると思います。ホフマンを初め、ロマン派作家の多くは、又聞きのような形をとって著者自身を作品中に登場させるのが好きです。

*2:ところで、エンデ自身が明言していますが、マイスター・ホラはある種超越的存在、エンデの言い方だと叡智存在に属する存在なので、この引っ掛け方はうまくないですね。もしホラとの結婚のようなモチーフを出すとすれば、それはほとんどサイーデとバスチアンが結婚するようなものでしょう。

*3:ただし、これについては時代的なことを考えるとそれほど不思議でもないような気がします。現代のアントロポゾーフがどうかは知りませんが。

*4:メディテーションというのは瞑想のことです。

*5:この限られた人、というのは秘教ということだと思います。顕教/密教という区別ですね。