『鏡の中の鏡』について

ここ2、3年『鏡の中の鏡』が非常に気になっていたのですが、まだ完全とは言えませんけど、エンデの『鏡の中の鏡』について素描的にですが簡単に書いて見たいと思います。まず、この作品の特色としてミヒャエル・エンデの諸作品の中でも最もオリジナリティの高い作品だと言えると思います。これはエンデ自身も言っていたと思います。この作品は30の短編から成り立っているのですが、連作短編や短篇集とは違い、この30作で一つの作品となっているのが特徴です。読者は30番目に収められた物語で、最初の物語に登場するホルの名前を見つけ、それぞれに連関があることに気づきます。各話の関連は、例えば、2番目の話では「das himmelblaue Zimmer(空色の部屋)」が出てきますが、3番目の話の書き出しは「Die Mansardenkammer ist himmelblau(屋根裏部屋は空色だ)」となっています。このイメージは各話から見ても些細なもので、ライトモチーフでもなんでもありません。しかし、このいわば"夢のような"イメージの連鎖が『鏡の中の鏡』の主要な構造であると言ってよいでしょう。このイメージの連鎖は線形的に現れるわけではなく、ずっと前に現れたイメージが、突如として現れることもあります。その意味では、イメージのネットワークと言っても良いかもしれません。エンデが影響を受けたカバリストであるFriedrich Weinrebは「夢の国でだけ、我々は因果論の強制、あれか-これか、から自由なのです。」(Kabbala im Traumleben des Menschen)といっていますが、『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』にも見られるように、この夢の論理とでも言うべきものを書くことはエンデが好んで取り上げたテーマの一つでもあります。また、この本は表紙を含めエンデの父エトガー・エンデの絵が挿入されており、父エトガーに捧げられています。例えばElena Wagnerが指摘していますけれど、エトガーはエンデに最も影響を与えた人物と言っていいでしょう。エトガーの創作法についてエンデはしばしば言及していますが(Cf.『闇の考古学』)、Weinrebの言う夢の領域やZurfluhの言う夜の生活と同じ領域から独自の瞑想法でモチーフを探り出してきたと言われています。その意味でも、『鏡の中の鏡』と夢は強い関連があるといえると思います。余談ですが、大江健三郎との対談の中で(『芸術家、その内なる声』)、エンデは『はてしない物語』のファンタージエンについて、眠るとき意識を保っていればファンタージエンに行ける、という話をしています。
さて、エンデはWerner Zurfluhの『Quellen der Nacht(夜の源泉)』に非常に感銘を受けてZurfluhに書簡を送っています―この本は夢の経験について論じた本で、明晰夢を通じて意識を保った状態で夢を経験すること、新しい経験の次元を語っている本です。―書簡の中でエンデは『鏡の中の鏡』に触れています。
「”鏡の中の鏡”というタイトルは多くのことに関連しています。勿論、まず有名な”鏡に映った鏡は何を映すか?”という有名ない禅の公案と関連しています。それは既に”はてしない物語”おいても引用されています。他方で、本の設計に関係しています。それぞれの物語はいわば先行する物語の要素を映しており、それを変えます。登場人物とイメージは変化の絶え間ない流れの中にいます。前方と後方は時折取り違えられます。つまり、一本足がすでにはじめに登場するのですが、しかし、本の真ん中ではじめて彼の足を失う等々。人は本を前から後ろへ読むことも、後ろから前へ読むことも出来ます。つまり、最後の物語から始められるのです。というのも、それは円環的に作られており、最後は再び最初と関係しているのです。鏡の反映もまた本全体を横切り、多くの後のあるいは前の物語の中に現れるモチーフを取り上げます。大抵の物語は、想像上の舞台の上のシーンです。奇妙なプロセスが注釈無しに叙述されます。最初と最後はその都度開かれます。プロセスが終わりに至ると、イメージは―あるいはイメージの一部は―新しいイメージに変容します。その新しいイメージの中で再び何かが生じます。全体はいわば上も下もない無重力空間の中で、自己を回避する何かの周りで輪を描くオルビットの中で起こります。
全く首尾一貫して、それは多くの読者に読書に際して、文字通りめまいを起こさせました。彼らは、「落下の感覚を振り払うために、椅子にしがみつ」かねばなりませんでした。私は―既に白状したように―このどこか落ち着かなくさせる構成形式を勿論偶然に選択したのではなく、読者を特別な経験に誘うためにしたのです。(私にとっては常に、読者に教え込むことではなく、読書に際して、何かを経験させることが重要です。)」
また『だれでもない庭』の中では
「読者の注意力をこの謎めいたプロセス(引用者注:合わせ鏡の反射のプロセス)へむけるため、わたしは、読者を読者自身へさしもどす物語を書こうとした。
読者が安心してつかまることができない物語である(その物語を"理解した"ということで。それはただ、すでに慣れ親しんだことをまた見出しただけだ)。どの方向へ向かっても開かれた物語、読者を自然落下の無重力状態に置く物語、同時に、オルビットに似て、(神、人間の自我、現存在の意義のように)存在し、しかも存在しないとしか言いあらわせない中心を巡る周回軌道へ投げ出す物語。語られたどのプロセスも、はっきりと、あるいはひそかに、次の新しいプロセスへのキックオフを秘めていて、それはまた新しいプロセスへというふうに続き、ついに新しい旋回がはじまるまで……。」
と『鏡の中の鏡』の構想を語っています。エンデが頻繁に語っていることですが、エンデは「解釈」を通じて「物語のメッセージ(一義的な意味)」を取り出そうとすることに反対してきました。この点で、ヴォルフガング・イーザーの作用美学(受容美学)との近親性を指摘する人もいます(あるいはエーコの開かれた作品とも通じるかもしれません)。『鏡の中の鏡』は「解釈不可能」な物語を描くエンデ作品中もっともラディカルな構造をもった作品だと言っていいと思います。ところで、この「中心なき中心」というモチーフはエンデ作品の中でしばしば見られるものです。例えば、『はてしない物語』のエルフェンバイン塔は境界のない無限のファンタージエンの中心にあります。つまり、どこにでもありどこにもない中心です。また、『遺産相続ゲーム』では下僕のアントンを除いて―そしてアントンの記憶も物語の進行に連れてどんどん曖昧になっていくのですが―誰もあったことのない主人フィラデルフィアの遺言をめぐる物語です。また晩年のインタビューでは次回作の構想としてナンセンスを巡る物語を書きたいとも言っています。おそらく、その構想の一部は『エンデのメモ箱』に収められた「ニーゼルプリムとナーゼルキュス」なのだと思います。エンデにとってはナンセンスも「中心なき中心」を巡るものであったのだと思います。ルイス・キャロルの『スナーク狩り』をジングシュピールに翻案した戯曲のまえがきでエンデは「キャロルのテキストの闇は、だれもが―もちろん精神分析家も含めて―自分自身を映し出す鏡なのである。」と言っています。
さて、Zurfluhへの書簡の中でエンデは「鏡の中の鏡には何が映るのか?」という問は禅の公案からとってきている、と言っています。『モモも禅を語る』の著者重松創育禅師との対談の中でエンデはこう語ります。
「さすらい山の古老は幼心の君に問いかけます。「鏡の中に映った鏡は何を映すか?」。今純粋に論理的に考えるならば、「無」と答えることができるでしょう。しかし、私の見解によれば、まさにこの「無」の中に人間と世界の本来の力があるのです。我々が自分自身の自我を知覚しようとしても、何も知覚しません。空所を知覚するだけです。そこから今日の心理学者はそこにはなにも無いのだろうと推論します。ですが、本当はそこに人間の本来の創造的な力があるのです。」(MOMO erzählt Zen)
反射するイメージの変容のプロセスの中で初めて現れる力、人間の本来的な力―エンデはそれを別のところではファンタジーだと言っていますが―この中心なき中心であるところのものを巡る物語が、というより、読者をそのプロセスの中に巻き込み、プロセスを立ち上げる、そういうプロセスこそが『鏡の中の鏡』の最も重要なポイントだと言えます。エンデは「比喩」という文章の中で本を次のように例えています。「書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。」この高次の自我こそ、中心なき中心と言っていいでしょう。エンデはよくボルヘスの「Everything or Nothing」を引き合いに出していますが、ボルヘスが言うようにどの登場人物の中にもいて、どこにもいないシェイクスピアのように、エンデは、というよりこの「中心なき中心」は物語のどこにでもいてどこにもいないわけです。「比喩」はシュタイナーのアントロポゾフィー的人間観に沿った形で述べられていますが、この「比喩」に即してアナロジカルに語るならば、30の個々の作品はそれぞれが輪廻転生した物語だと言ってもいいかもしれません。カルマとしてのイメージが各々の物語の前後の中で、その固有の文脈で現れるわけです。
一方で、この『鏡の中の鏡』の構造は優れて初期ロマン派的な構想を反映しているとも言えます。フリードリヒ・シュレーゲルの有名なロマン派文学の定義「普遍的発展文学」とは、「いかなる実在的関心にも観念的関心にもとらわれず、文学的反省の翼に乗って、描写された対象と描写する者との中間に漂い、この反省を次々に相乗して合わせ鏡の中にならぶ無限の像のにように重ねてゆくことができる。それは最も高度にして最も多様な形成を可能ならしめる。しかも単に内部から外へ向かってのみならず、外部から内へむかってもである。すなわちその作品はそれぞれにまったき全体でなければならないのであるが、その一つ一つのあらゆる部分は、同じように組織される。」既に見てきたように、『鏡の中の鏡』は無限のイメージの反射=反省(Reflexion)を通じて、全方向に開かれた作品です。シュレーゲルやノヴァーリスがそうしたような反省(メタ言及)の構造とは異なるやり方で、ロマン派文学を構想したのだ、と言ってもいいように思います。エンデ自身が認めるように、エンデはドイツ・ロマン派の伝統の下にいる作家です。『鏡の中の鏡』はエンデのロマン派的な、そしてグスタフ・ルネ・ホッケの意味でマニエリスム的な部分を最も強力に表現している作品とも言えると思います。ノヴァーリスやシュレーゲルがフラグメントや対話を重視したのも、確定的な閉じた体系ではなく、それぞれの断片のネットワークからなる生成するシステムを描写するためだとも言われます。ノヴァーリスの『花粉』はまさにそのような受粉し、生成するプロセスを表現するタイトルです(これについてはデリダの「散種」概念と対比する人もいます。)。エンデとロマン派の対比というとノヴァーリスやホフマンの1節を簡単になぞるだけのものが多いですが、もっと根本的な理念的な部分での共通性をここに見ることができるのではないでしょうか。余談ながら、『鏡の中の鏡』には「迷宮」というサブタイトルがついています。そして、最初の物語ではあのミノタウロスが閉じ込められているミノス王の迷宮が、2番目の物語ではイカロスをモチーフにした話が語られています。この2つに共通する迷宮の作り手ダイダロスをG・R・ホッケは代表的なマニエリスム的人間だと言っていますし、迷宮はマニエリストが好んだモチーフの一つでもあります。その意味でも、この作品を―シュールレアルなとはよく言われるのですが―マニエリスム的な作品と呼んで良いと思います。
さて、エンデの芸術理解の中で最も重要な概念であり、ロマン派においても重要な概念の一つに「遊び(Spiel)」があります。もちろん、これはシラーの『人間の美的教育に関する書簡』の「遊戯衝動」に端を発するものです。シラーは感性の領域にも道徳の領域にもそれぞれ強制的な法則が存在するといいます。カントの言う我が内なる道徳法則と、我が上なる天空の法則です。その中間にある美の領域にこそ人間の自由があるというのがシラーの大筋の議論になっています。そして、人間は美とだけ遊ぶのだと。最初にWeinrebを引用しましたが、夢の領域、夢の論理とはまさに強制的な因果論的連鎖から逃れて自由に遊ぶことの出来る領域です。となると、『鏡の中の鏡』はエンデの「遊び」の理念をも表現している、ということもできそうです。Tohmas Kraftによれば、エンデはJames・P・Carseの『Finite and Infinite game』に非常に感銘を受けて、色々な人にこの本を贈ったそうですが、Carseはこの本の中でタイトルにあるように有限のゲームと無限のゲームという2つの「遊び」の概念を提出しています。有限のゲームとは勝利条件=ゲームの終了の条件が定まっており、ゲームの参加者その規則に合意することでゲームが成り立つゲームです。一方で、無限のゲームとはゲームの継続そのものが規則であるようなゲームであり、ときに規則それ自体をゲームの継続のために変化させてもゲームを継続させるような、そしてその継続性に参加者が合意するようなゲームのことです。『鏡の中の鏡』の構造はいわば無限のゲームとして構想されているともいえるわけです。
以上、スケッチというかアイデアの断片ていどですが書いてみました。「中心なき中心」や「遊び」を巡る議論については拙論「ミヒャエル・エンデの世界観について」でもう少し詳細な議論を書いているので、ご興味のある方はそちらをご参照頂ければと思います。