モラーリッシェ・ファンタジー―なぜ道徳規則は先取できないか

だいぶ前の記事ですが、『ファンタジー神話と現代』について書いた記事で、シュタイナーの哲学主著『自由の哲学』の中で展開されるモラーリッシェ・ファンタジー(道徳的想像力)について、道徳的の部分にアクセントを置くことの問題について軽く言及しましたが、これについてもう少し詳しく書いてみようと思います。なお、本論ではシュタイナーの主張の妥当性については検討しませんのであしからず。ミヒャエル・エンデはモラーリッシェ・"ファンタジー"というように、ファンタジーにアクセントが置かれるべきであり、(アントロポゾーフにも誤解している人がいるが)モラーリッシェ(道徳的)にアクセントを置くのは間違いだ、モラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)なのだ、と語っています(Cf.エンデと語る)。これはシュタイナーが自由に行為する人とは前例や模範や範例に従って行為するのではなく、創造的に行為する人のことだと言っていることに対応しています。
では、なぜ"道徳的"が強調されるべきではないのかについてもう少し詳しく検討してみたいと思います。シュタイナーの認識論を大雑把に言えば、認識以前に所与(与えられた世界)と概念(思考が作りだすもの)があり、それが合一したものが認識だというものです。ここで所与とか概念とか言うのは、いわば説明概念にすぎないとシュタイナーは言います。つまり、この所与(純粋知覚)と概念は認識に先立っており、通常の意味で所与とか表象とか概念というのは、認識行為の後に行われる判断の結果にすぎず、それ故、これらの概念によって認識行為が基礎づけられるのではなく、認識行為を後から振り返ってみたときに生じている事柄を説明するための概念だというわけです。さて、これが外界の認識に関するシュタイナーの議論のかなり大雑把な図式になります(詳しくは、『真理と科学』と『ゲーテ的世界観の認識論的要綱』を参照)。この議論を内界認識(思考についての思考)に適用して自由を論じているのが『自由の哲学』の1部に当たると言ってほぼ間違いはないと思います。第二部ではシュタイナーは実践哲学=倫理的な問題へと移行します。ここで登場するのがモラーリッシェ・ファンタジーです。シュタイナーは、道徳的行為とは理念界からモラーリッシェ・ファンタジーを用いて行為の動機となる表象を作り出し、それに従って行為することだといいます。先の図式に当てはめれば、外界認識に際して思考が概念を創りだすように、行為においては動機となる表象を作り出し、行為するという流れだと言えると思います。ここで問題になってくるのは、先の議論と同様に、つまり認識に先立って所与や概念といった概念が存在するわけではなく、認識行為の後に判断を下すことでそのような概念を取り出すことができるのと同様に、行為に先立って認識できる道徳法則が存在するのではなく、行為を通して初めて道徳法則が認識できる、という点です。というのも、もし行為に先立って、つまり経験に先立って認識できるような道徳法則が存在し*1、それにしたがって行為するとすれば(汝なすべし)シュタイナーの議論に従えば、それは不自由な行為であるということになるからです。
かなり大雑把ですが、以上がシュタイナーの議論になります。さて、ではなぜ道徳的が強調されるのは間違いか、という点に入って行きたいと思います。まず、モラーリッシェ・ファンタジーが無条件に「道徳的(モラーリッシェ)」であるとすれば、行為の以前に行為が道徳的であるか/非道徳的であるかが判断できなければいけないように見えます。道徳的想像力/非道徳的想像力という対を想定することは、モラーリッシェ・ファンタジーは道徳的でなければならないという主張を含意すると考えざるをえません。そうすると行為以前に道徳的/非道徳的の判断がなされなければならないことになりますが、一体この判断の基準をどこからとってくればいいのでしょうか。もしなにがしかの道徳法則を経験以前に導出可能だとすると、法則は経験以前には手に入れることができないというシュタイナーの議論に抵触します。法則として取り出されるものが認識行為の以前にアプリオリには導出できないというのが、シュタイナーが認識の限界は存在しないと論じるときのポイントの一つになっているため、これは重大な問題だと言えると思います。また、仮にその議論が成り立ったとしても、後から振り返ったときにどのように見えようとも、行為以前に何らかの道徳法則が存在し、それに従って行為することはシュタイナーの議論において不自由を意味します。そうすると、人間が自由な存在になれるという『自由の哲学』のメインテーマに抵触するわけです。唯一ありえそうな議論は、モラーリッシェ・ファンタジーを行使してなされた行為は"必然的に"道徳的である、というものかもしれません。ですが、この場合、道徳的/非道徳的を"いつ"判断するかが問題になってきます。シュタイナーの議論に従えば、これは行為がなされたあとに振り返って見たときに限り、それは道徳法則と呼べるものである、ということになります。となると、モラーリッシェ・ファンタジーが仮に必然的に道徳的であったとしても、それは先に見た所与や概念と同様に説明的な概念としてモラーリッシェなのであって、それが行為に先立って行為の道徳的/非道徳的を判断することはできないように思います。そうすると、ファンタジーを用いて自発的で模範や規則と独立に(つまり自由に)行為の動機となる表象を作り出す、そのようなファンタジーを全てモラーリッシェ・ファンタジーと言わねばならないと言えます。あるファンタジーを道徳的/非道徳的という基準に基づいてモラーリッシェ・ファンタジーとそれ以外と言った区別を行うことはできないわけです。となると、エンデの言うようにモラーリッシェ・ファンタジーの反対はモラーリッシェ・シュテリテート(道徳的不毛)、つまり外的な模範や規則に従わないと行為を成せないことという方が、シュタイナーの議論により適合しているように思います。
と、まあ、かなり大雑把ですが以前軽く触れたことを少し詳しく書いてみました。細かい議論については、『自由の哲学』『ゲーテ的世界観の認識論要綱』『真理と科学』(未邦訳)。また解説・入門として今井重孝『自由の哲学入門』高橋巌『シュタイナー 生命の教育』などをご参照ください。

*1:私見では、道徳法則そのものが存在すること自体は問題ないように思います。(というか、そちらのほうが後年のシュタイナーの議論と整合性が取れます)というのも、仮にそのような法則が存在するとしても、自ら表象を作り出しそれにしたがって行為するという点にシュタイナーの自由論のポイントになるからです。ちなみに、これは前半の議論で議論されている点です。ここでの議論のポイントは、そのような法則が存在するにせよしないにせよ、それを行為の前に認識してそれにしたがって行為するとしたら、それは不自由であるという点であると考えられます。これと同じことが、認識論における概念にも当てはまるように思います。概念―ここでは純粋知覚=所与を関連づけるもの―を作り出し、認識行為が成立したあとで振り返ってみたときはじめて、例えば因果法則のような法則が見いだせる、というのがシュタイナーの議論です。