エンデを楽しむための副読文献リスト的な何か

以前、エンデの思想を知るのに役立つと思う参考文献をまとめたことがありますが、だいぶ以前に書いた記事なのでかなり不足なところがあり、あれを拡張したいなぁと思っていたので、基本的に前回記事と被らないものを並べて見ました。相変わらず、チョイスはぼくの主観なのでご参考程度で。

  • 『Michael Ende und seine phantastische Welt. Die Suche nach dem Zauberwort』Roman Hocke,Thomas Kraft

エンデの編集者であり友人でもあるロマン・ホッケによるエンデ本です。トーマス・クラフトのテクストとの二部構成になっていて、前半ではクラフトがエンデの思想世界を簡潔にまとめています。分量等を考えると過不足なく、と言えるように思います。一方、ホッケによる後半はエンデの伝記となっていて、前半生についてはボカリウスのものをかなり参照していることもあってボカリウスのものを読めば十分とも思いますが、ボカリウスが触れていない後半生については非常に面白い話が色々と出てきます。エンデの未公開の原稿や書簡などからの引用が豊富になされているところも魅力ですね。

  • 『Michael Ende - Magische Welten』Roman Hocke,Uwe Neumahr

こちらはまるまる一冊エンデの伝記です。ですが、劇作家としてのミヒャエル・エンデという視点をメインに据えていて、上で触れた本とはまた違った味わいがあります(もちろん重複している記述もありますが)。日本人には事情がわかりにくいエンデの戯曲の上演の話ももちろんですが、人形劇場での様々な上演の話や作曲家ヴィンフリート・ヒラーとのエピソードも興味深いです。エンデとブレヒトとの対比も行われていて、あまり光の当たらない部分を見事に描いていると思います。

  • 『夢の時』ハンス・ペーター・デュル

エンデの友人でもあったという人類学者ハンス・ペーター・デュルの著作。ぼく自身は文化人類学とか全くわからないので細かいところはわからないですが、ものすごく大雑把な括りで言えばカスタネダ系だと思っていいような気がします。ただし、デュルは(少なくともこの著作では)フィールドワークではなく文献から起こしているようですが。山口昌男さんとの対談などでも、エンデはデュルに触れています。デュルはこの本で言っているのは、いわば未開の魔術的世界での魔女が空を飛ぶような経験は、それ自体経験として現実なのである(エンデがWirklichkeit(現実)=wirken(作用する)と言った意味で)、といえるように思います。それ以外にも、「人類学者が島に入ると霊が飛び去る」というエピソードに端的に現れている観察の問題などエンデと通底するところが非常に多いと思います。次の引用のところでは、ぼくが頻繁に言及している『鏡の中の鏡』などで表現されている「中心なき中心」について触れられているように思います。
「「夢の話」は、どこにもあって、どこにもない。「夢の時」も同じく、いつでも生じ、一度も生じない。「夢の場」という言葉は、いかなる特定の場とも関係がない。われわれはどこにも到達しないことによって、そこに到達するのだ、といってよいのかもしれない。」(237P)。

  • 『Quellen der Nacht』Werner Zerfluh

本書は、明晰夢(体外離脱)について、著者ツアフルーの経験を基に彼の明晰夢(体外離脱状態)についての考えを書いたものです。エンデはトーライの明晰夢についての本の中に、このツアフル―の著作への示唆を見てこの本を読み始めたといいます。先述のデュルとこの本について語ったあと、デュルからツアフル―の住所を聞き、彼に手紙を送っています。その中でエンデは「ここ十年で、あなたの本のように、一つの本が私を感動させ、あれほど決定的な旅立ちの気分で私を満たしてくれたことはほとんどありませんでした。」と自分がいかにこの本に感銘を受けたかを著者に伝えています。エンデは「あなたの書き方とあなたの経験の説明において、私を特別信頼させたものは、あなたがどの瞬間も”上から下へ”話すことがないという事実です。つまり、聴衆を良かれ悪しかれ―共感の脅しによって―征服するグル的な要求が全くないのです。」と言う仕方で本書を賞賛しています。ツルフルーはもともとは生物学を大学で研究していたのですが、幼少時から持っていた体外離脱体験のことが気になり、ユングインスティテュートで心理学を勉強します。しかし、ユング心理学にも満足できず、自分自身の経験から本書で語られる体験を理論化していこうとします。こういう経歴からでしょうか、ツルフルーには類書の著者には見られないような中立的で平静な判断があります。彼は科学にもスピリチュアルにも偏ることがなく、どちらも彼自身の立場から一定の肯定と批判をしています。ユングのアクティブ・イマジネーションを彼が不十分なものとみなしている点も注目に値します。彼の一貫した立場は、夢(体外離脱状態を含めて)の中で自我意識を保つということです。これは非常にシュタイナーに近い立場だと言えると思います。また、彼は先ほど述べたデュルの立場から一歩進んで、夢の世界とはもうひとつの別の現実、ことによればより現実的な現実なのだという立場をとります。これはエンデの立場とほぼ一致すると言っていいのではないかと思います。個人的には、エンデへの書簡の中で彼がラディカル構成主義に集中的に取り組んでいる(その中にはマトゥラーナ・ヴァレラの名前も挙げられていました)と言っているのが興味深かったです。本書の中でも自己組織化のことが少し述べられています*1

  • 『KABBALA im Traumleben des Menschen』Friedrich Weinreb

カバリストであるヴァインレープのチューリッヒでのセミナーに手を入れたものです。ヴァインレープはより明確に夢の世界は昼の世界と同じくらい、むしろより以上にリアルな高次の現実である、との立場を取ります。そして、トーラー(モーセ五書)を元にこの夢の世界について語っていきます。エンデとの関連で興味深い点のひとつは、ヴァインレープが言語は夢の世界からやってくると言っている点でしょう(もっともこの主張は神秘学的言語論では特別珍しいものでもありませんが)。彼がヘブライの伝承とヘブライ語に依るのも、そういう高次の世界からやってきた(古代のいわば原)言語は真実を語っているという立場をとるからです。また、昼の世界と夢の世界に因果的Kausal/非因果的Akausalという対立項を対応させている点もエンデとの共通性を見いだせます。本書で面白いところのもう一つは、例えば『ミスライムのカタコンベ』のイヴリィiwriについて、旧約の(夢の解釈者)ヨセフに使われた言葉であり、彼方の人を指す言葉であることや、ミツライムMizrajim=ミスライムがエジプトを指す言葉であったことなどエンデ作品に現れるモチーフや、輪廻転生を表すGirgul(ギルグル)やイツァクの原理など、エンデが対談で語っていることが色々出てくることですね。ヴァインレープの解釈も含めて、かなり面白い部分です。ボカリウスの報告によれば、エンデはかなりヴァインレープを研究していたようで、実際にこの本は本当に色々な示唆を与えてくれるのですが、象徴的なところを引用してみます。「すべてが最後まで分析し尽くされれば―我々は今日”コンピューター化する”と言うかもしれない―、もう規範に従って振る舞うことの死ぬほどの退屈しか存在しなくなる。人間は排除される。」このあたりは、本当に『モモ』の「死ぬほど退屈病」を思い出させます。かなり確実に『モモ』を書いた時点ではエンデはヴァインレープのことを知らなかったと推測できる分、余計エンデ自身の考え方との根本的な共通性を感じざるをえないところです。

  • 『金と魔術』ハンス・クリストフ・ビンスヴァンガー

エンデの遺言』でも触れられている著作なのでご存知の方も多いかと思います。ゲーテの『ファウスト』を経済という観点から解釈しようというものです(科学・芸術にも触れられていますが)。錬金術の卑金属から貴金属(金)を作るという課題が、錬金術後に貨幣経済によって継続されているというのが一貫したテーマといえると思います。本書では、肯定、という言葉は強すぎるかもしれませんが、中立的な言い方がなされていますが、このような「貨幣の黒魔術」をエンデは批判していたわけで、そういう意味では少しエンデ自身の発言と対照した上での読み込みが必要かもしれません。個人的な感想ですが、本書で錬金術が扱われているのは、錬金術の基本的な原理と上で述べた金の錬成、それと賢者の石の生成だけで、正直錬金術そのものはちょっとしたスパイスくらいの印象でした。本書でも若干触れられてはいますが、エンデ自身は例えば錬金術師は金の錬成プロセスを内的に体験することで内的に発展することが目的だ、ということを言っていたりするので、錬金術というキーワードでエンデと本書の記述を結びつけるのは難しいのではないかなと思います(ぼく自身、中世の錬金術の思想体系に明るくないので詳しいことが言えないのですが)。むしろ、ぼく自身の感想としては、エンデの貨幣観のより根幹的なエンデの世界観全体に根ざす問題系*2を本書を通じて探ることができる事のほうが重要だと思います。

  • 『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ

禅師重松宗育さんとの対談の中で、エンデは禅に関して特に影響を受けた書物としてヘリゲルの『弓術と禅』と本書を挙げています。とはいえ、禅について解説した本というより、著者の形而上学的思考を巡る旅行記風エッセイと言ったもので、ヘリゲルのものほど禅を強調しているという感じではありません。エンデは禅について鈴木大拙なども読んでいるが、自分にとっては何よりも芸術との関係が重要なのだといったことを言っています。エンデはそこで「ぴったりなときにぴったりなことをすること」を「名人(芸)の原理」ということを言っているのですけれど、この「名人芸の原理」が特にオートバイ修理技術ということと関連して、本書では頻繁に言及されます。本書の形而上学的な思想も面白いです*3が、エンデとの関係ということで言えば、この視点から読むのも面白いのではないでしょうか。

ブレヒトの有名な演劇論。エンデがブレヒトで「苦労」していたことは、エンデファンなら周知のことだと思います。ブレヒトとの対比は上述のロマン・ホッケの本でもやられていますが、ブレヒト自身の言っていることを見るのも参考になるのではないかと思います。ホッケも指摘しているように、エンデとブレヒトは好対照をなしているわけで、そういう反省的な観点から見れば逆にエンデの考え方がはっきりとしてくるのではないでしょうか。

エンデのシュルレアリスムに対する立場は複雑なものだと思います。しかし、エンデ自身がシュルレアリスムを広い意味で解釈するなら自分はシュルレアリストだと言っていることからもわかるように、どちらかと言うと無意識への考え方の問題と言うのが重要なポイントだと思います。シュタイナー(=ツルフルー)=エンデ父子的な立場で言えば、例えば薬物を利用したり自動筆記を行う際のような意識状態はある種の(オカルト的な)キッチュであるわけです。エンデが父の仕事を説明する際に強調するように、瞑想的な意識状態で自我意識を保つことが重要なポイントです*4ブレヒトの『小思考原理』もそうですが、こういう点を考慮して読めばむしろエンデの立ち位置をはっきりさせるのに役立つのではないでしょうか。

  • 『方法への挑戦』ポール・K・ファイヤアーベント

エンデはインタビューの中で新しい思考の流れとしてデュルなんかと並べてファイヤアーベントを挙げています。ロマン・ホッケもエンデにとって重要な著作として本書を挙げていたりします。ファイヤアーベントといえば「anything goes(なんでもアリ)」で有名ですが、占星術を擁護したりしたこともあって、ぼくの知る限り科学哲学的にはイロモノ扱いされているという印象です。エンデの自然科学理解はむしろシュタイナーに近いもので、ファイヤアーベントの思想がそのままエンデと親密な関係があるといえるほどではないようにぼくには思えますし、彼のあまりにラディカルな議論は必ずしも科学哲学の議論の主流とはいえない部分もありますが、そういうところを踏まえて読めば、エンデ的な視座から科学について考えるヒントになるんじゃないかなと思います。

『迷宮としての世界』は美術を論じていますが、こちらはタイトルどおり文学について論じているので、よりエンデとの関係性を考えやすいんじゃないかなぁと思います。とりわけ重要なのはミメーシス/ファンタスティコンの対立項が精神史に一貫して流れているというホッケの見方だと思います。ファンタスティコン=イデア芸術の立場は、エンデにとって完全に自分の文学立場を正当化してくれるものだったのだと思います*5ルネサンス期におけるクリスティアンカバラやネオ・プラトニズムの影響がアルス・コンビナトリアという思想の中にはあるわけで、この流れは初期ドイツ・ロマン派(特にノヴァーリス)にもつながっています。そういう意味で、精神史的な意味でもエンデの棹さす潮流を見ることができるのではないでしょうか。

  • 『Finite and infinite game』James P.Carse

これは前回も取り上げましたがもう一度。この著作の重要な概念はタイトル通り無限のゲーム/有限のゲームという概念対にあります。有限のゲームとは勝つこと=終わることを目的としており、プレイヤーは勝利条件に合意すると言われます。それに対して、無限のゲームはゲームの継続=終わらないことを目的としており、プレイヤーはゲームを継続させることに合意し、そのためならゲームの規則を変えることもすると言われます。言い換えると、無限のゲームにおいてはプロセス/過程/動きが、そしてその継続が重要なわけです。エンデは父エトガーとの関連で父の好きだったブルックナー交響曲を評して「動きが決定的」なのだと言っています。シシュポスが結果より動くことが重要であることを理解すれば彼は既に呪われていないのだ、と*6。実際、「動くこと」はエンデの思想の中でも決定的に重要なファクターだと思います。本書ではこの基本的な概念対から出発して、社会のゲームや芸術のゲームなどを様々に論じています。そのため、本書は単に遊戯論だけにとどまらず、エンデの世界観全体の問題とも関係する…というよりは、むしろ(無限の)遊戯という概念がエンデ思想の中でどれほどの広がりを持って理解できるかを示してくれていると思います。

エンデは明確にホイジンガの名前を出したことはありませんので、確実に読んでいるとは言えませんけれど、かなり高い確率でこれを読んでいたのではないかなぁと思います。『闇の考古学』ではホモ・ルーデンスという言葉を使っていたと思いますが、まあ、この言葉は既によく使われる言葉の一つですので…。「永遠に幼きものについて」なんかを読みますと、エンデの遊戯論の重要な基礎としては、特に美との関連においてやはりシラーの『美的書簡』があるように思えるのですが、一方で、エンデの遊戯についての発言をたどるとシラーに枠には収まりきらないと思わざるをえません。シラーの遊戯は非常に抽象的・観念的な意味で用いられていますので…。本書はやはり近現代遊戯論の古典ということで、他の遊戯論にも多く見られる遊戯の基本的性質がかなり述べられているように思います。また、ホイジンガが人類の文化の発端に遊戯を置いていることもエンデとの関係では注目できる点かもしれません。文化人類学的視点からの遊戯論なので、上記のCarseの議論なんかに比べるとエンデとの関連性という意味では少し弱い部分はありますけれど、遊戯ということについて考えるならやはり読んでおきたい本だと思います。

以上で、簡単ですがエンデが読んでいたと思われる本で、個人的に重要だと思える本のご紹介を終わりにしたいと思います。ちなみに、Roman Hockeはエンデが影響を受けた文献ということでヘルマン・ブロッホの『ユートピアの精神』(と『希望の原理』)を挙げていて、『オリーブの森で語り合う』でも参考文献に上がってはいて、読んではいるのですけどぼくには理解できなかったので(それなりにエンデとの共通性を感じる部分もあるにはあったのですが)載せていません。エンデが読んでいなかったと思われる本にも面白く、また参考になる本もあるにはあるのですがそれだと取り留めがつかなくなるので、(『ホモ・ルーデンス』はちょっと微妙ですが)対談等でエンデが言及してたりして、ある程度確証の取れるものを挙げてみました。ちなみに、シュタイナーは彼自身の著作だけでも膨大な上に、エンデとの関係ではシングルイシューで追ってもあまり意味がなく、ぼく自身もせいぜい4分の1から3分の1程度しか読めていないのこともあるので特に言及しませんでした。あまり数は挙げられませんでしたが、個々の著作自体もとても面白いものですし、ぼく自身とても参考になった文献ですので、何らかのご参考になれば幸いです。

*1:もっとも、本書中で彼が参照しているエリッヒ・ヤンツは全体としては若干ニューエイジ色があり、個人的な感想としては自己組織化の哲学的解釈としては多少偏りがあるように思います。ツルフルーが述べていることも、ぼくの語学力のせいかもしれませんが少し違和感がありました。

*2:大雑把に言えば、価値(見えないもの)を貨幣(見えるもの/数えられるもの)に転換することで起こる黒魔術的作用のこと。非常に抽象化するとエンデの現代批判に通底する形式がこの見えないものを見えるもの(数えられ、測れ、計れるもの)に還元することだと言えます。

*3:もちろん、全体は関連がありますから、この形而上学的な思想も「名人芸の原理」と関係しています。それはエンデについても言えることだと思います。

*4:この点についてはとりわけシュタイナーが強調する点でもあります。また、ツルフルーは体外離脱状態で自己意識を保つことにより、それは新しい自己経験になるという立場を取っています。

*5:グスタフ・ルネ・ホッケとの出会いについて書いたエンデの寄稿文の中では、自分の芸術的な立場だけでなく、自分のアイデンティティに関わる立場すら見出したというようなことも言っています。

*6:余談ですが、シュタイナーは『自由の哲学』の中でエドゥアルト・フォン・ハルトマンの幸福の総量と不幸の総量を比較すれば不幸の総量が上回るので、人類は最終的に滅亡するしかないというペシミスティックで功利主義的な立場を批判して、結果としての幸福と不幸の総量を比較すれば不幸が上回るかもしれないが、努力することそのもののなかに幸福があるのでその議論は成り立たないという反論を行っています。この立場は、エンデが言う「動きが決定的」という考えと、完全に一致しているように思います。少し考えが変わって、この議論が支持できないように思えてきたので削除します。しかし、『自由の哲学』の原細胞「自然と我々の理想」でシュタイナーが我々の創造物が日々無残に破壊されても、常に創造する悦びがあるのだという観点は、「動きが決定的」という観点と全く一致するように思うという点には変わりありません。