『エンデの遺言』について考える

最近、『エンデの遺言』(以下『遺言』)について考えています。とはいえ、経済の問題(これ自体はとても重要な問題だと思いますが)についてではなく、日本のエンデ受容との関連で考えているわけです。ぼくは『遺言』には功罪あると考えていて、功の一番はやはりエンデの経済や貨幣に対する視点を紹介し、地域通貨のような取り組みへのきっかけとなった点でしょう。また、「ファンタジー児童文学作家ミヒャエル・エンデ」という顔に「現代社会の批判者ミヒャエル・エンデ」という側面を紹介したことも、功と言えるかわかりませんが、エンデ受容という意味では大きいことかもしれません。もっとも、後述しますが、この『遺言』的な言説によって、エンデの芸術家としての顔と社会の批判者としての顔が分裂してしまい、未だに架橋されていないという問題もあるにはありますが…*1
さて、この記事で取り上げたいのは、エンデ受容という観点から見た場合のこの本の問題点についてです*2。以前、モモの時間を貨幣として解釈する仕方に違和感があるといった記事を書きましたが、ぼく自身はかなり以前からこの『遺言』的な眼差しにある程度批判的でした。このかなり最近まで取っていたぼくの理解について、まずは書いて見たいと思います。
まず『遺言』の構成を見てみますと、エンデのインタビューに基づいた問題提起、エンデに影響を与えたり、エンデと共通の問題意識を持っている、オンケン、マルグリット・ケネディ、シュタイナーの思想などの紹介、そしてゲゼルの紹介と続き、地域通貨制度の取り組みの実例についての報告となっています。ここで注目されるのがエンデに多大な影響を与えたシュタイナーが一節を割り当てられているのに対して、ゲゼルを一章分を割いて大きく取り上げている点です。これはシュタイナーの扱いが小さいのけしからん!というような話ではもちろんなくて、エンデの現代社会に対する問題意識のうちどこに焦点を当てるか?という問題と関係する問題だ、ということが注目すべきポイントです。シュタイナーの三分節論は経済を含む社会全体に対するトータルな提案です。一方、経済学者のゲゼルの理論は社会の中の経済という領域にだけ焦点を当てています。そのため、ゲゼルを大きく取り上げてエンデの貨幣観・経済観という論じ方をすると、どうしてもそれ以外の部分が捨象されてしまうわけです。さて、エンデはヨーゼフ・ボイスとの対談で次のようなことを言っています。「経済生活を経済的熟慮だけで救うことはできません。そうではなく、経済生活を救うために、経済生活に由来しない何かがやってこなければなりません。」(芸術と政治をめぐる対話)。このような発言を考慮にいれるとすれば、まさにエンデの経済に対する問題意識について論じるためには、それ以外の社会領域―ここではエンデは三分節論的区分に基づいて発言していますので、精神生活や法生活ということになりますが―に対するエンデの考え方をも参照する必要があるように思えます。では、エンデの社会に対する考えはどのようなものなのでしょうか。先のボイスとの対談では特にエンデは新しい価値観、そしてそれに基づいた新しい社会像を作り出すということを強調しています。美的な領域でこのような価値観のイメージを作り出すことが芸術家の課題である、とまで言っているわけです*3
『オリーブの森で語り合う』という対談の中で、ユートピアという言葉によって議論されてきた問題も、このぼくたちはどのような価値観にしたがって、どのような社会を目指したいか、そのイメージを作り出そうということでした。このユートピアという言葉のために誤解されるかもしれませんが、これは社会的ないわば楽園を目指すということではありません。このことはエンデ自身が『オリーブの森』の中ではっきりと一切の問題がなくなる社会的ユートピアを望むことはできない、どんな社会でも問題が発生するとはっきり語っています。そうではなくて、『オリーブの森』の中で言われているユートピアとは、前提抜きに、つまり○○だからこうせざるをえないとか、○○だから仕方がないと言ったような、因果論的な論理の鎖に縛られない態度の下で、一体どんな社会が目指すべき目標として望ましいか、そんな社会像のことを指しているわけです。
さて、上記のような議論は三分節論的には精神生活に属するものと言えると思いますが、先に引用したボイスとの対談でのエンデの発言に即して言えば、こういった新しい価値を作り出し(あるいは名付け)、目指すべき新しい社会像を作るということから初めて新しい経済―経済も当然そのような社会像の一分肢なわけですが―の形も見えてくると言えるように思います。つまり、エンデの見方に従えば、経済問題の根幹に貨幣問題があるわけですが、そこで貨幣問題だけを取り上げて、何がしかのシステム上の変革を行えば良い、ということではなく、トータルな望ましい社会像にもとづいて、トータルな社会の一つの分肢として貨幣問題への処方箋が与えられる、ということになります。
エンデは遺稿集に収録された「精確なファンタジー」というメモの中で、ゲーテの精確なファンタジーという概念を引いて、現代の問題を解決するために未来から解決案を先取りしてくるようなある種預言者的な能力を精確なファンタジーと呼んでいますし、『メモ箱』に収録された「創造力」というメモでは、非因果論的に原因なしにあるものを作り出す能力として創造力を語っています。価値を作り出すとか、名付けとか、因果論の鎖に縛られないといった形でいくつかのキーワードを述べてきましたが、実は今まで述べて来たような観点から見ていくと、エンデが芸術や人間の精神やファンタジーと言ったことについて語っていることが、社会を語る上でも重要なファクターとなっていることがわかります。既に、ファンタジー児童文学作家としてのエンデと現代社会の批判者としてのエンデが分裂しているということを述べましたが、実は分裂しているように見えるのは―特に『遺言』的なパースペクティブでは―経済などの特定の領域に焦点を絞るせいであって、エンデの発言を一つ一つたどって行くと、実際は根底に同じ思想が見えてくることがわかるのではないでしょうか。
ところで、今までの議論とも関連するのですが、この問題と絡めて最近ふと思いついたことが一つあります。それは端的に言えば、「エンデは実際エイジング・マネーや交換リングと言った発想にそれほど強くコミットしていたのだろうか?」という疑問です。これはまだ全く検証できていない問題なのですが、一つの問題提起として書いてみたいと思います。ぼく自身がそう思っていた(思い込んでいた)ように、『遺言』以降、エンデ=地域通貨という等式が成り立つくらい、エンデの貨幣問題への言及は地域通貨制度とセットで語られていた、という印象があります。『遺言』に影響を受けて地域通貨制度の実践を行っておられ、『パン屋のお金とカジノのお金はどう違う』をお書きになられている廣田裕之氏などが好例ではないかと思いますし、あるいは松岡正剛氏の『遺言』の千夜千冊などを読んでもそういう印象を受けますし、何よりぼく自身もそのように考えていたということもあって、これは必ずしもぼくの勝手な思い込みではないのではないかと思います。しかし、まだ手持ちからさえ全ての資料をチェックしたわけではないのですが、『遺言』のインタビュー部やその他の対談などでのエンデのゲゼルやヴェルグルへの言及を思い返して見ると、実はエンデは必ずしも今の貨幣に代るものとしてエイジング・マネーや交換リングを提唱しているわけではないのではないかと思うのです。例えば、『遺言』のインタビュー部ではヴェルグルでの例を引いたあと「この話はシルビオ・ゲゼル信奉者からよく例に引かれ、いまあるお金のシステムのなかで、二次的に導入できる証拠としてよく論じられています。」(強調は引用者による)(P33)と語っています。この語り方自体が少し距離をとったような印象を受けますが、それ以外にも「二次的に導入できる証拠」という言い方は、現在の貨幣システムの代替としてではないという含意を感じます。
また、ボイスとの対談の中で、エンデは自分は貨幣とは一体何なのかわからないといった発言をしています。つまり、貨幣は法生活に属するものなのか、経済生活に属するものなのかわからないというわけです。ここで重要なポイントは、エンデ自身、貨幣とはなにかという根本的な問いに対して、自分なりの答えを持ちあわせていないということです。なぜかというと、これは『遺言』のインタビュー部でも語っていますが、もし貨幣が法生活に属するならばそれはただの法的な権利証であり、売買してはならない。一方、もし貨幣が経済生活に属するならば、ゲゼルが言うように貨幣は汚い競争相手であって、減価していかなくてはいけない、とエンデは言うわけです。つまり、貨幣とは何か?という問いに答える以前に、エンデ的な立場からあれこれの貨幣制度がオルタナティブとして提唱できるというようなことは言えないのではないか、という問題なのです。
上記のような理由から、エンデの基本的な問題意識は、『ハーメルンと死の舞踏』のモチーフにもなっていますが、金が金を生む錬金術的なシステムをどう手当するかであり、それに対する処方箋の一つの例として交換リングのような貨幣制度をあげているのではないか、というのがぼくの現在の(仮説的な)理解です。もし、こういった考えが正しかったとすれば、エンデと貨幣の問題について、一度切り離した上で再接続する作業が必要になってくるのではないかなぁという気がしています。また最初に書いた狭いテーマの中でという条件付きで、『遺言』自体を再検討する必要もあるのかなぁという気もします。また、これはずっとぼくが抱いている考えですが、善かれ悪しかれ『遺言』以後、エンデの社会問題への眼差しのうち経済にばかり焦点があたって来ましたが、政治や文化を含めたトータルな社会に対する眼差しがもっと論じられて欲しいと思います。そのときにこそ、エンデの2つの顔の架橋作業が進むでしょうし、それが必要かどうかはともかくとしてエンデ作品を別の光の下で見ると言ったことにもつながるかもしれないと思います。

*1:とはいえ、例えばElena Wagnerの論文でもこのような問題意識は語られているので、これが日本独自の状況というよりは、本国ドイツでもこの架橋作業がまだきちんとなされていないのだと思いますし、寡聞ながらぼく自身そのような本や論文を読んだことがありません。その意味では必ずしも『遺言』だけが問題なわけではありませんが。

*2:念のため、誤解のないように申し上げておくと、『遺言』が本質的に取り扱っているテーマ(貨幣の問題、地域通貨の取り組み)については特に批判するつもりはありません。あくまでエンデ受容という限定的なテーマ設定のもとでの話です。

*3:私見では、このあたりの議論はLenbensgebärdeという概念と密接に関係があると思います。生活様式とかライフスタイルと訳されているこの語は、とりわけ社会と芸術に関するエンデの議論の中核的な概念であるように思いますし、ぼく自身適当な訳語が思いつかないのですが、既存の訳語ではまるで表現できていないような深遠な概念であると考えています。ぼくは数年前からこの概念をどう理解するかという問題と関わっているのですが、まだまとまったことが言えませんので、ここでは示唆するに留めさせてもらいます。