エンデと共同体

まず最初に以前の記事でもときおり触れていた、エンデのLebensgebärdeという言葉について、少し考えて見たいと思います。ぼくがこの言葉に興味をもったのは、ヨーゼフ・ボイスとの対談『芸術と政治をめぐる対話』の次のエンデの発言を読んだことがきっかけです。

芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生じるわけです。つまり、多くの人をまとめることのできる共通の大きなライフスタイルが、生じるのです。(エンデ全集16『芸術と政治をめぐる対話』P.43)

ここで「ライフスタイル」と言われていることが、ずっと引っかかっていました。文脈を考えるとライフスタイルというのは、わかるようでわからない言葉です。文脈から判断をすれば、ここでライフスタイルと言われている言葉は、文化の根底に存在する何かであるように思われます。では、原文ではどうなっているでしょうか。

Aus der Kunst, aus den schöpferischen Leistungen solcher Leute wie Shakespeare entsteht die Gesamtheit der Kultur, das heißt, es entsteht daraus die Gemeinsamkeit einer großen Lebensgebärde, in der viele Menschen sich zusammenfinden können.(Kunst und Politik ein Gespräch S.31)
「芸術から、シェイクスピアのような人の創造的な仕事から、文化の全体が生まれるのです。つまり、そこから多くの人間が共同できる大きなLebensgebärdeの共通性が生まれるのです。」(拙訳)

Lebensgebärdeにどのような訳語を当てるのが妥当か、未だに判断できないのでさしあたり原語のままにしておきました。余談ながら、Twitterのエンデボットには「生の身振り」と訳しましたが、ちょっと大仰すぎるという気がしています。他の対談等では生活態度なんて訳語をも使われていますが、文化(Kultur)との密接な関わりの下に使われているこの言葉の訳語としては、日常的なライフスタイルや生活態度という言葉の使われ方からすると、少し物足りないなという印象を否めません。Lebensgebärdeという言葉は、Leben(生活、生命)とGebärde(身振り、手振り)を合わせたものです。辞書的には、生活態度のような言葉は確かに妥当なような気がしますが、エンデがこの言葉に付与している意味を考えると、やはり少し納得しがたいものがあります。ぼく自身がボットで生の身振りというわかるようなわからないような言葉を選んだのは、哲学用語で言う生という抽象的ながら人間の根底にあるものが、自然な形で、あるいは無意識のうちに表出するというイメージだったのですが、これもそれほど妥当という気はしません。なので、ここではさしあたりLebensgebärdeと原語のままで書いていこうと思います。
すでに書きましたように、Lebensgebärdeというのは文化という概念と密接に結びついています。『オリーブの森で語り合う』の中では、エンデは次のように述べています。

ぼくは文化という言葉について、むしろ生活形式の、価値連関の、―こう言ってよければ―、Lebensgebärdeの共通性のことだと理解している。この共通性はそれを再認識し、それ自体を表現する社会や時代が所有するものだ。(Phatasie/Kultur/Politik S.30)

ここでも文化ということが問題になっていることがわかります。個々人のLebensgebärdeの共通性が、文化を、ひいては文化的共同体を形成し、その営みのなかでこの共通性が再認識され、表現されるというように理解してよいでしょう。エンデはあるインタビューのなかで、文化というのは内的な世界の外的な投影だ、ということを言っています。そして、現代においてそれは失われてしまったのだと。これはエンデ文学のなかでもたびたび取り扱われているテーマでもあります(例えば、モモのように)。更にこの共通性について、『ものがたりの余白』の中では次のように語っています。

(…)特に、わたしたちは今日、国別の文化が、すでに支える力を失った時点に達しました。(…)わたしたちは、この(地球という)惑星でみんな一緒に生きてゆくことを学ばなければならず、それに、わたしたち自身を理解することを学ばなければなりません。ということは、つまり、神話を見つけなければならないということです。そして、この神話は次の二つのことを含んでいるのですが、この二つは今まで一緒にならないとされており、どのようにして一つにすればよいのか、わたしたちはまだ知らないのです。一つは、絶対的価値として、人間の個人の有効性であり、他方は、人類全体です。(…)これ(二つを一緒にすることが)が、今、特に詩人や作家、そして画家にとっての課題だと思うのです。(ものがたりの余白 PP64-65)

ここでは神話という言葉が使われています。神話というのはここでは例えばある民族のなかで共通にもつことのできる何かあるものとして考えられています。しかし、こういった民族の神話はすでに不可能だ、とエンデは続けます。そういった民族の神話にかわる神話を、あるいは先ほどの話に戻るとLebensgebärdeの共通性を作り出すことが、芸術家の使命だというわけです。エンデ自身は、個人の神話が必要になるというふうに話を続けます。その理想から98%を引いたものが『はてしない物語』だというのです。『はてしない物語』の終幕部で主人公バスチアンと気難しい古本屋のコレアンダー氏はファンタージエンを旅したということによって、精神的な結びつきを得ます。二人のファンタージエンは全く別物であることが作中でも触れられていますが、まさにファンタージエンを旅した、個人の神話を持ったことによって二人は結びつくわけです。エンデの言う個人の神話というのは、このようなものであると語られているわけです。
『ものがたりの余白』のインタビューを読んでいると、一つの事に気づきます。エンデが特に強い関心を示す事柄、貨幣・遊び・言語/神話はどれも人と人とを結びつける機能をもっています。エンデは貨幣の白魔術ということについてもあるインタビューの中で語っていますが、エンデが批判するような黒魔術的な貨幣ではなく、白魔術的な、ポジティブな貨幣とはどういうものなのか、このイメージを得ることが大事だというのです。「単なる自然科学は決して本当の文化へと導くことはありません。そうすると、ポジティブな、貨幣の白魔術が存在しなければならなのです。」(Zeit-Zauber S.21)とエンデは語っています。こう考えていくと、エンデの思想を理解する上で、貨幣も単に経済の問題というだけでなく、トータルな社会、トータルな文化を構成する一つのファクターとして捉えることもできると言えます。文化を、Lebensgebärdeの共通性を、どのようにエンデが理解し、またそれを新たに作り出していくべきだと考えていたか、この点を問題化することで、以前の記事でも触れたような社会批判者エンデと芸術家エンデという分裂しているようにみえる2つの顔を架橋することもできるように思います。
以上のことを踏まえると、エンデは新しい共同体の可能性を模索していたという視点が可能なように思います。それは、先祖返り的な、民族とか血縁とかを基盤にした共同体ではなく、ある共通の価値(の体系)を、共通のLebensgebärdeをもつということを基盤にした共同体だという風に考えられるように思います。『オリーブの森で語り合う』でエンデはエプラーの構造保守と価値保守という概念対に対して、構造革新と価値革新という概念対が可能なのではないかということを語っています。ぼくの理解では、構造革新とは―ここではおそらく当時の共産主義国家が念頭に置かれていたのだと思いますが―構造を革新すれば全てうまく行く、社会的ユートピアが訪れるというような態度であるように思います。価値革新というのは、価値保守が既存の価値を守っていく―例えそれによって既存の構造を解体したとしても―という立場であるのに対して、新しい価値を作っていくという立場です。そして、エンデは様々なところで繰り返し、この価値の更新こそ芸術家の課題であると言っているわけです。少し脱線しますが、エンデには政治的アンガージュマンとか社会改革に対する行動がないじゃないか、というような批判を時折見かけます。ですが、エンデのこのような考えを踏まえれば、エンデが自身の作品でやって来たことそのものが、エンデの答えなのだというふうに思えます。エンデが繰り返し語ることの一つですが、エンデはゴッホのひまわりによって、当時の意識は全く違うものになったのだというようなことを言っています。芸術というのはそういう力があるんだ、と。いずれにせよ、価値やLebensgebärdeの共通性を新たに作り出し、新たな文化を構築していくこと、それによって新しい文化的・精神的共同体を作り出していくこと、このことが現代社会との関係性でみたとき、エンデの重要な関心事の一つだったのではないか、そのように思います。
最後に、『ミヒャエル・エンデの読んだ本』に収録されているノヴァーリスの「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」について少し触れておきたいと思います。エンデはこの『読本』のなかで、自身の人生において決定的な影響を与えたテクストを選んで収録しています。エンデは自身をドイツ・ロマン派の後継と自認しており、なかでもノヴァーリスを精神的な父とまで呼んでいます。ノヴァーリスの代表的な作品というと『青い花』や『夜の讃歌』が思い浮かびます。思想的なテクストであれば、断章集『花粉』やいわゆる百科全書学のための『一般草稿』が有名なところでしょう。あの有名な白百合と赤薔薇のメールヒェンやクリングゾール・メールヒェンなどではなく、なぜ「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」という小論が選択されたのか、この点はここまで書いてきたことと関係があると考えています。そもそもこの小論自体、イェーナサークルで発表したときにシェリングによって激しく批判され、最後にはゲーテにお伺いを立てて公刊が見送られたという経緯を持ついわくつきのものです。その内容はあたかも中世ヨーロッパを賛美するような内容として捉えられたのです。ここでこの小論の細かい内容に立ち入ることはできないのですが、ぼくの理解ではノヴァーリスは、現代というのは非常に唯物論化している、中世ヨーロッパにおけるようなキリスト教的精神に基づいた精神の共同体を構築する必要があるのだ、と説いていると考えています。しかし、ここで中世と呼ばれているのはもちろんそのまま歴史的な過去としての中世ではなく、理想化された来るべき黄金時代としての中世であり、いわば自乗された中世なのです。『ノヴァーリス作品集3』の解題で訳者の今泉文子先生はこの論考について次のように述べています。

死者たち、虐げられたもの、軽蔑されたもの、災いなどを、活気づけbeleben、格上げしerheben、止揚しaufheben、ジンテーゼにもちきたす―これが「天才」であり、「ロマン化」であると、ノヴァーリスは言いつづけている。この論考も、イエズス会を称揚するなど、一見いかに反動的に見えようとも、その意味で、「俗人のいわゆる宗教は、阿片とおなじ作用をもつだけである」と書いたかれの思考とけっして矛盾するものではなく、その真意において一貫しているものである。

精神なき危機の時代に、未来の、来るべき精神の共同体を説いたノヴァーリスのこの論考をエンデが選んだことは、上で素描してきたエンデの現代に対する視座を踏まえると、理解できるものであるように思えてきます。エンデもノヴァーリスと同様に、精神=文化なき時代にあって、来るべき新たな共同体を夢み、そして芸術の力を通じて世界を「ロマン化」(あるいは「詩化」)することを課題としたのではないでしょうか。