「"わたし"の持続性」を読む

『エンデのメモ箱』に「"わたし"の持続性」というタイトルのメモが収録されています。このテキストについて、ぼくは長いことエンデはなぜこんなことを言っているのだろうと思っていました。この理由は、ぼくのテキスト理解が間違っていたからなのですけど、この記事ではそのことについて書いてみたいと思います。
このテキストではまずエンデ自身の小学校時代の登校風景が描かれます。そのあと、エンデは「これからの人生で、わたしはどうなるのか、十年後や五十年後も今ここにいるおなじ私であり続けるのか、それとも別人なのかと」と自問します。この問題に対し、エンデはその後の人生の中で、その光景を繰り返し思い出そうと決意します。なぜそうするのか、エンデは次のように考えます。

この思い出す行為は、ただ思いついたときにするべきだった。強制されるのではなく、あくまでも、気が向いたからするのだ。そうすることで、わたしがまだ"わたし"であることの保証を得たかった。もしわたしが別人になっていたら、(外からの助けなしでは)むろんこの決心をもう知らないはずだからである。

ぼくがこのテキスト理解を間違えた理由は、上に引用した部分にあります。というのは、この「私の決心」を「思い出す」ことに力点が置かれていると読んでしまい、"わたし"の持続性は「記憶」によって担保されると理解してしまった点にありました。そのため、他のエンデの発言等からしても、なぜこういうテキストを書いたのか疑問だったわけです。ですが、今ぼく自身が理解する限りでは、このテキストはいわば記憶によって「わたし(自我)」(私/自我意識)が構成されているといったことを言っているわけではないと考えています。
この思い出すという行為を行うのは、恣意的で、自発的で、自分が決めたという理由でだけなされるべきであるとエンデはいいます。邦訳ではカッコ書きのなかは、外からの助けなしではとわかりやすく訳されていますが、直訳すると「外的原因なしに」となります。例えば、かつての登校風景のなかにあったお店や機械やショーウィンドー等々に似たものをどこかで見て、そこからふとかつての登校風景をありありと思い出すというようなことではなく、ただ"わたし"が思い出そうと決めた、何か他の原因によらずにただ思い出そうと決めたという理由でだけ思い出すということが、"わたし"の持続性を"わたし"に保証してくれるというわけです。単に記憶が問題になっているだけであれば、自発性や恣意性といったことは問題にならないはずです。ここでは因果論的な事柄と非因果論的な事柄とが問題になっているように見えます。この「思い出す」ことが非因果論的に(外的な原因なしに)わたしによって決定されているがゆえに、わたしの持続性が担保されているというように見えるのです。この非因果性はエンデにとって、いわゆるもう一つの別の世界、隠れた側と関係しています。また、エンデにとってこの因果論的関係にとらわれない行為は、人間の創造性、そして自由と大きく関係しているといえます。同じく『メモ箱』の中のテキスト「創造力」の中では、エンデは「世界の隠れた側からくるものがすべてそうであるように、人間の創造力も、測ったり、数えたり、重さをはかることができ」ない、「創造力の問題は人間の自由の問題と切っても切りはなせない。その存在の前提条件において、人間はけっして自由ではないのだから。」と言っています。因果論的なものと計算・計量・計測可能性は、エンデにとってマテリアリスムスを代表する考え方ですが、創造力や自由や愛や遊びはこのような因果論的で計算・計量・計測可能なものに回収されない、この世界の隠れた側と関係する人間的なものとして考えられています。そうすると、わたしがわたしの決意に従って行為することができるということも、非因果的な行為であり、ある意味では(外的な原因に左右されないという意味で)創造的な行為であり、世界の隠れた側に関係していると言えそうに思えます。こう考えるならば、"わたし"=自我*1もまた、世界の隠れた側にあると言えそうです。重松禅師との対談の中でエンデは自我についてこのように言っています。

我々が自分自身の自我を知覚しようとしても、何一つ知覚することはありません。空虚を知覚するのです。そこから今日の心理学者はそこにはなにもないのだろうと結論づけます。ですが、本当はそこに人間の本来の創造的な力があるのです。

やはりここでも自我と創造的な力*2関係付けられています。以上の点から、"わたし"の持続性を問うということは、同時に非因果的で自発的に行為できる"わたし"=自我の存在への問いとして読めるということ、人間の自我がマテリアリスム的な思考に回収されることのない、隠れた側と関係した何かであるということが、この「"わたし"の持続性」というテキストから読み取れるのではないかと思います。

*1:ここで"わたし"と訳されている言葉はドイツ語では一人称代名詞「Ich」であり、名詞として使われている場合、特に哲学等では多くの場合、自我と訳される。

*2:先述のメモ「創造力」では創造力という言葉にKreativitätが使われており、対談ではschöpferische Kraftが使われています。この語の使い分けについて、エンデがどのように考えていたのかは今後の課題にしたいと思います。