技としての芸術

芸術家の創造性を巡って

ここ何年か中心的な関心なのですが、平たくいえばエンデにとって理想的な芸術家像とはどういうものか?というものがあります。今回の記事は、このテーマの中心的な問題の一つについてざっくりと書いてみたいと思います。本記事の大まかな見通しを得るということも含めて、エンデとボイスの対談『芸術と政治に関する対話』(ページ数などは岩波全集版による)の中のエンデの一つの発言を最初の手がかりにしてみたいと思います。それは次のような発言です。

ラップマン 芸術家は職業なわけですか?
エンデ ええ、手仕事職人であるとさえ思っています。前世紀では芸術家についてさまざまなイメージがありましたが、そのどれよりも、はるかに手仕事職人に近いものではないでしょうか。私に言わせれば、芸術家というのは、指物師からはじまったわけです。使うことができる戸棚だけでなく、美しい戸棚をつくることのできる指物師からね。美の領域で創造的であるというのが、芸術家の特性なのです。(『芸術と政治に関する対話』22P)

このあたりの議論は、ボイスのだれでも芸術家というコンセプトを巡る議論の一環なのですが、エンデはこの前段で、近代的な、特別な人間、創造的な人間としての芸術家像を否定しています、つまりシュトゥルム・ウント・ドランクやロマン派における天才=創造的精神のような芸術家像と言えると思います。私自身はボイスのコンセプトをきちんと知らず、正当な評価を下せないため、ボイスとエンデの比較についてここで言及することはしません。ですが、この芸術家や芸術を巡る論点こそ、シュタイナー思想を軸にして基本的な世界観を共有できているように見えるエンデとボイスの最も鮮烈なコントラストを描いている点であり、私見ではエンデがシュタイナーを芸術に関して批判する、その相容れなさの核心であるように思えます。
話が先走りすぎましたが、引用について少し考えて見たいと思います。少し触れたように、エンデは芸術家の創造性について特別視することを否定しているように見えます。初めて読んだときびっくりしたことがあるのですが、安野光雅氏との対談の中でエンデは現代においてオリジナルなものというのは非常に稀で、常に何らかの引用であり、その引用の仕方がこそが問題なのだというようなことを言っていました。エンデ自身、自分の作品のオリジナリティのようなものについて言及することは稀で、ぼくの記憶の限りでは、『鏡の中の鏡』について自分の最もオリジナルな作品だということをどこかで言っていたと思いますが、全体的にオリジナリティということにあまり重きをおいていないところがあると感じます。エンデは先の引用の前段部分で次のようなことを言っています。

創造が芸術家だけに特有のことだなんて、原則として言えっこないわけです。どんな人間も、どんな職業においても、創造はできるんですから。(中略)
私に言わせれば、創造的であるというのは、要するに、人間的であるということにほかならない。それが、つまり、創造的でありうるということが、人間を動物から区別するものなんです。(18-19P)

創造的であるとは人間の条件であり、それによって芸術家を規定することはできないというわけです。芸術家は芸術の領域、美的な領域において創造的ではありますが、それは他の職業において人が創造的であるのと同程度の意味でしかない、特別なことではないとエンデは主張しています。これをぼくなりにパラフレーズしてみます。芸術家の創造性といえば、ある種の着想、場合によっては神がかり的なものとしてイメージされるようなインスピレーションがイメージされるのではないでしょうか。この話が自分の中で明確になる切っ掛けとなった会話の中で、ある方が降りてくると表現していましたが、まさに何かが降りてくる、巫女的・霊媒的ですらある特別な人間としての芸術家像というのが一つありうるのだと思います。厳密な議論をするとなると、シュタイナー的世界観を基礎に据えた概念実在論的考えに基づく概念やイデーの問題が絡んできますが(この場合、「降りてくる」ものが実在すると考えるかどうかは重要な問題のように思えます)、本論ではこの手の細かい議論は割愛させていただきます。いずれにしても重要なのは、私たちは日常生活や日々の仕事のなかで実際にはそのようなインスピレーションを得ているのではないかといことです。仕事上、生活上の難問や問題等々に対して、名案や解決策を突如として思いつく、こういうことは誰にでも起こりうることではないでしょうか。このようなインスピレーションや着想を問題にする限り、エンデの言うように芸術家だけが特別だとは言えなくなりそうです。

技=芸としての芸術

さて、最初の引用に戻りますと、エンデは少し驚くようなことを言っています。つまり、芸術家というのは手仕事職人(Handwerker)に近いのだというのです。上述のように、着想のオリジナリティによって芸術家を規定できない/しないのであれば、他の観点からそれをしなければなりません。そして、それは手仕事職人に通じるものだというわけです。これについて、エンデは『モモも禅を語る』の著者重松創育禅師との対談で、壺焼きの職人を話題に挙げながら次のように述べています(拙訳)。

マーケット向けのごく普通の壺を作るただのなんてことない手仕事職人にすぎないにも関わらず、この職人は名人だと私は思います。
同じことをサーカス芸人のところでも見出すことができます。曲芸師や綱渡り師がいて、彼らが動けばすぐわかります。こいつは名人だ。(中略)ちょうどいい瞬間にちょうどよいことをすること。それだけなんです。あらゆる偉大な芸術はこの点で際立っています。どんな対象を取り扱うかは問題ではありません。壺だろうが、指物師が戸棚を作ろうが、絵を描こうが、それは全くどうでもいいことです。常にこの名人芸の原理(eine Prinzip der Meisterschaft)が問題なんでです。(『MOMO erzählt ZEN』S.127)

手仕事職人とサーカス芸人とがここでは結びついています。それは有り体に言って技の問題だと言えるのではないかと思います。これはエンデの芸術観の象徴とも言えるパガートとも結びつきます。田村先生のインタビュー『ものがたりの余白』でエンデは

魔術師とは、実は創造的な人間です。(中略)そして、曲芸師とは「芸ができる人(ケネンデ)」なんです。曲芸師は、本当は、意図を持たない「芸(ケネン)」の代表者といえます。いうまでもなく、これらは表裏一体です。

と語っています。先の引用の中で、芸術家は美の領域で創造的な人間なのだといわれていました。表裏一体というように、単にこの創造性だけを取り上げるだけならば芸術家を規定できないが、しかし芸術的な技と組み合わさることで、それはパガート的なもの、創造性と技とが表裏一体となったものとして現れてくるのだと考えられそうです。そして、エンデにとってこの技=芸(Kunst)を代表するものこそ、手仕事職人であり、何よりもサーカス芸人や大道芸人なのではないでしょうか。余談ですが、サーカスということでクラウン=道化がイメージされがちですが、エンデはむしろ綱渡り師(Seiltänzer)や奇術師(Taschenspieler)、曲芸師(Gaukler)を取り上げていると思います。エンデが強い印象を受けたパレルモカンタストーリエ、旅のサーカス一座からひいてはかつての旅の劇団まで、エンデの芸術(観)の根本には近代的な芸術家像よりむしろ旅芸人や大道芸人に連なる人々の芸があると言えないでしょうか。これは、エンデがサーカスに非常に強い印象を受け、また自らの芸術を代表するものとしてパガートという表象を持ち出してくる点からも理解できるように思います。

終わりに

この論点については、まだまだ詰めるべき点、展開させる余地があると考えていますが、ここでは上のようなざっくりとした概要だけでご容赦願いたいと思います。最後に、2つの点を指摘して終わりにしたいと思います。
第一点は、上の芸術家像はやはり父エトガーの仕事の仕方と無関係ではないのではないかと考えられる点です。エトガーはある種の瞑想を通して(霊的な)ビジョンを得て、そのビジョンをもとにして絵を描いたと言われており、そのやり方はエンデによってさまざまなところで言及されています。ここで注意したいのは、エトガーが自分のビジョンから得たモチーフを芸術的に塑形したという点です。あるときは足したり、あるときは引いたりして、ビジョンそのものを描くことで満足してはないなかったことをエンデは報告しております。ここにはやはり芸術家の芸の部分、単なるビジョンの内容を表現するだけでなく、そのモチーフにふさわしい美的形式を与える芸術家の技が問題になっていると言えそうで、この点で上述のエンデの芸術論と父エトガーの制作スタイルとの共通点を見いだせるのではないでしょうか。
第二点は、最初に述べたことと少し関連しますが、エンデ作品における芸術家の表象です。例えば、ジジはカンタストーリエとは言わないまでも、見方によっては語りの大道芸人のような存在です。また、オフィーリアさんの一座は旅の劇団ですし、サーカス物語はそのままサーカス一座の話です。あるいは、フェーリクス・フリーゲンバイルのバラードでは綱渡り師がテーマですし、ジム・ボタンのルーカスは唾飛ばしの大道芸を披露します。以上、思いつくままに挙げて見ましたが、エンデ作品における芸術家(作中で芸術家と呼ばれるかどうかはともかく)の表象は、詩人や画家や音楽家などよりはるかに旅芸人=大道芸人に近いものだと言えるのではないでしょうか。この点からも、エンデの芸術観における芸への親近性について考えることができるのではないかと思います。