エンデとカバレット

はじめに

ある作家を語る際、その作家の伝記的事実を参照するべきか否かについては、様々な立場があると思います。また、作家によっても事情が異なると思いますが、ミヒャエル・エンデに関しては、その伝記的事実が作品理解に寄与する程度はかなり低いと考えて良いと思いますし、また一般的にそう考えられているのではないかと思います。一方で、エンデの伝記研究については、ボカリウスによる半生を書き留めた伝記及び、Roman Hockeによる略歴を含んだエンデ本二冊(未邦訳)があり、また数年前にDankertの本格的な伝記(未邦訳)が公刊されるなど比較的充実しているのも事実かと思います。そんなエンデの伝記的なエピソードの中で、この記事ではカバレットとの関係について書いてみたいと思います。結論から申し上げますが、この記事で書くことはエンデの作品理解や思想理解に寄与するところはほとんどないと考えています。多くの資料がカバレットの関係について軽く言及して終わっていますが、これは単純にカバレットとの関係がエンデにそれほど影響を与えなかったためだと考えてよいと思います。それでもここで取り扱うのは、一つには直接には影響がなかったとしても、エンデが20代を過ごしたミュンヒェンの文化的空気には、なにか共通するものがあるのではないかと思うためです。そこから浮かび上がってくる論点もあるのですが、それはできれば別記事で扱いたいと思います。
さて比較的充実している、などと書きましたが、エンデの伝記的な事柄について、主要な資料のうちで日本語で読めるのはペーター・ボカリウスによる『ミヒャエル・エンデ 物語の始まり』といくつかファンブックで略伝が掲載されている程度で、エンデ研究では今や必ずと言っていいほど参照されるBrigit Dankert『Michael Ende Gefangen in Phantasien』を始め、主要なものは―と言ってもそれもそれほど多くありませんが―未邦訳のため、日本のファンには意外と知られていない事柄が結構多くあるのを―あるいは(それゆえに?)不正確な情報が流されているのも―Twitterなどでしばしば観察します。そのため、まずは周辺的な事柄について、ざっくりとですが触れてみたいと思います。

20代のミヒャエル・エンデ

第二次大戦後、ギムナジウムを卒業したエンデは1949年オットー・ファルケンベルク演劇学校に入学します。こちらは本当に有名な話ですが、劇作家を目指していたエンデはエンデ家の財政的な事情から作劇を直接学ぶことを諦め、俳優の卵としてそこで演劇を学ぼうと考えたと言われています。どうやら、極度のあがり症だったエンデにとって、俳優はあまり向いている職業ではなかったようで、落第寸前ながらなんとか学校を卒業して同級生たち同様に俳優として活動するために、レンズブルクの劇場と契約を結びます。しかし、これも一年後の1951年には契約更新を諦めて実家のあったミュンヒェンに帰ることになります。その時エンデは一つの作品を携えていました。それが『サルタンの二乗』という戯曲です。エンデはこの戯曲をもって作家として華々しくデビューしようと計画したらしく、有り金をはたいて「ミュンヘンの批評家、演出家、劇団主事、そのた事情通たちの名簿を作り(…)全員に招待状を送った」らしいのですが、しかし「客たちはやってきた。(…)ミヒャエルが立ち上がり、丁重にしばらくのご静聴をと乞い、ユーモラスな前口上を簡単に述べた。それから座って、原稿を広げた。『サルタンの二乗』が披露された。(…)しかし反応はなかった(…)サルタンを話題にしたのは、書き手以外には、のちには彼の妻となるインゲボルク・ホフマンただ一人である。」(ペーター・ボカリウス『物語の始まり』P.219 )と、完全なる失敗に終わってしまいました。ここからエンデの人生の中でも非常に困難な時期がやってきます。まず、父であるエトガーが弟子のロッテ・シュレーゲルという女性と浮気して、最後には家を出てしまいました。またそれが原因でエンデの母ルイーゼは精神的に非常に不安定になり、ただでさえ経済的に余裕がなかったのに加えて、エンデは生活の糧を得ながら、母親の面倒も見なければならなくなりました。仕事面でも、前述のように俳優としては失敗に終わったわけで、別の仕事が必要でした。そのとき、エンデを助けたのが当時の恋人であり、のちの配偶者であるインゲボルク・ホフマンでした。インゲボルクの紹介で、エンデはラジオの映画批評の仕事にありつきました。この仕事は後のエンデの映画についての考えに影響を与えたのではと言われています。そして、カバレットの仕事を得たのもインゲボルクの紹介でした。ボカリウスによれば、「ある日、例によってインゲボルクが彼を売り込みに連れ出した先は、ケーニギン通りの見覚えある建物だった。(…)独裁者が消え、手に負えない神経質な馬たちもいなくなった場所に今、政治風刺のカバレットが、ほやほやの民主主義を流行らせようと試みていた。カバレットの名は『小さな魚』、興行主はテレーゼ・アンゲロフという女性だった。」(同235P )*1

カバレットについて

さて、とうとうカバレットが出てまいりました。おそらく、多くの方はカバレットとはなんぞや?と思ったのではないでしょうか。また、先程引用したボカリウスの子安美知子先生による訳でもそうなのですが、わかりやすさからかしばしばカバレットは寄席と訳されており、カバレットという名詞が見えにくくなっています。では、カバレットとはそもそもなんなのでしょうか。以下の記述は主にハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ・Ⅱ』に従います。カバレットについて、グロイルは先に挙げた本の冒頭で次のように書いています。

「この事柄の起源はいうまでもなくきわめて古い。われわれドイツでは、カバレット(Kabarett)という。オランダ、デンマークスウェーデンではキャバレー(Kabaret)、ハンガリーではカバレー(Kabare)、フランスではキャバレー(cabaret)といい、本来、酒場とか居酒屋を意味する言葉である。今日ではキャバレーというとたいていきらびやかなナイトクラブを指している。そこで催されるショウでは、「言葉」というものが全く取り去られているといっても過言ではない。……今日のフランスで、ドイツのカバレットに相当するのは、むしろ<シャンソニエ>だといってよいだろう。パリの<テアトル・ド・シャンソニエ>のプログラムの中には、シャンソンが一曲も含まれていないことも稀ではない。つまり、<シャンソニエ>(ジャンルの名称としてのそれ)は、まさに政治的な言葉の芸術全般を意味するものになっている。歌われるシャンソンは、エロティックなもの、センチメンタルなもの、詩的なもの、反逆的なものなどさまざまで、ショウと文学との中間的存在である。」ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ』(P.9)

ここからグロイルは風刺の文化とカバレットとを接続します。グロイルの引用の中にもあるように、とりわけ日本では「キャバレー」というと華やかな、そして多分にいかがわしい響きをもつものになっていますが、ここで取り上げるカバレットはシャンソンや風刺芸や文学ヴァリエテ、劇芸術とも接続する多様な大衆文化だと言えると思います。グロイルの引用は抽象的ですので、名倉洋子先生のもう少しわかりやすいまとめを引用してみましょう。

「文学キャバレーは、グラスを傾け、煙草をくゆらせながら司会者の話術や詩の朗読、シャンソンに興じる、何物にも縛られぬ、開放された気分でくつろげる場だった。そこは狭い空間であるが故に、客席と舞台との交流がきわめて親密で、当意即妙のやりとりを楽しむことができた。出し物は、閉鎖的な世界に陥りがちになった従来の因襲的な文学・芸術を打破しようとする意欲にみちていた。客席と舞台が一体となったこの空間には、自由な批判精神が躍動していた。そして、時の権力、権威、市民社会の規範などに対し、鋭い風刺の矢が放たれた。」名倉洋子『ドイツの民衆文化ベンケルザング 広場の絵解き師たち』(P.109)

さて、カバレットはもともとフランスはモンマルトルの黒猫亭から始まったと言われています。モンマルトルの芸術家やボヘミアンたちが芸術家たちが集う酒場を作ったのが始まりでした。このキャバレー文化は、20世紀の直前にはドイツに移植されました。ドイツでのカバレットの中心地はベルリン、ウィーン、そしてエンデが育ったミュンヘンでした。ミュンヘンのカバレットは奇しくもエンデが幼少期を過ごしたシュヴァ―ビングから生まれました。グロイルはシュヴァ―ビングをパリのモンマルトルに相通ずる性格を持っていたと指摘しています。「あらゆる種類の秘教的な詩人、革命家、芸術ジプシーたちが、<カフェ・シュテファニー>と<宿泊所フュールマン>との間の一角を彼らの縄張りとし、避難所(アジュール)としていた。」(グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ』P.145) というのです。もっとも、ボカリウスによればこのようなシュヴァ―ビングの空気はエンデが過ごした時期にはナチスの足音によって変わっていってしまったようですが…。いずれにせよ、ミュンヘンカバレットが生まれた土壌とエンデが過ごしたミュンヘンが非常に近しいところにあったことは事実でした。その一例として、初期ミュンヘンの代表的カバレット十一人の死刑執行人には、若きオットー・ファルケンベルクが名を連ねているのです。前述した、エンデが通った演劇学校がその名を冠するオットー・ファルケンベルクがカバレットと深く関わっていたという事実は、エンデの生きた文化的な空気をどことなく感じさせるエピソードではないでしょうか。

ケストナーブレヒト

エンデとカバレットの関わりが僅かだったこともあり、また日本語で寄席などと見ると、カバレットそのものの文化的な意味を過小評価してしまいそうになります。かく言うぼく自身、カバレットの文化について調べて見るまで、ここまで文化的に豊かで文学シーンと繋がりのあるものだとは想定していませんでした。ですが、カバレットと関係した芸術家の中には、シュタイナーが高く評価したモルゲンシュテルン、フランク・ヴェーデキント、トゥホルスキーといった名前が見い出せますが、ここで注目したいビッグネームは何よりベルトルート・ブレヒトエーリッヒ・ケストナーです。若きブレヒトケストナーも元はベルリンカバレットで活躍していました。第二次大戦後、ケストナーミュンヘンでカバレット再興の中心人物となりました。ロマン・ホッケはエンデは「60年にはシュヴァ―ビング・シーンにしっかりと根を下ろしていた。」といい、エンデが食堂で友人たちと議論する隣で「時折、エーリヒ・ケストナーも隣の机に現れた。もっとも議論には加わらなかったが。」(Roman Hocke『Michael Ende und seine phantastische Welt』S.83)と書いています。余談ですが、エンデはジム・ボタンの推薦文をケストナーに依頼しています。その時は門前払いされたようなのですが、それも単にケストナーが『飛ぶ教室』や『二人のロッテ』の作者だったから、というだけでなく、こういった文化圏に一時はともに属していたことも関係しているのかもしれません。更にエンデにとって重要なのは、なんと言ってもブレヒトでしょう。良くも悪くも、若きミヒャエル・エンデに最も影響を与えた人物の一人はなんと言ってもブレヒトだからです。興味のあることに、名倉洋子先生によれば、ブレヒト(やケストナー)はドイツの大衆文化であるベンケルザングの文化をカバレットの舞台上に蘇らせたというのです。先に引用もした著書『ベンケルザング』で名倉は「演劇論的に見て、ベンケルザングはブレヒトの原点ともいいうるもの」(名倉洋子『ベンケルザング』P.117)と指摘してます。ベンケルザング及びベンケルゼンガーについてここで細かく述べるのは、この記事の本筋から離れるので避けますが、ざっくりといえばエンデのいわゆるパレルモ体験で知られるイタリアのパレルモカンタストーリエのドイツ版の大道芸人だと言って差し支えないと思います。日本にも同じような旅芸人がいて、おそらく世界の様々な文化の中に、似たような大道芸・旅芸人の文化が存在したのではないのでしょうか。それはそうと、エンデにとって大きな壁であったブレヒトが、カバレットという文化を通して、似たような大衆文化、大道芸と触れ合っている点は実に興味深い点であり、この論点はまた別に議論が必要な、そしてエンデ研究の文脈ではこの記事で書いた瑣末な話に比べてより重要な論点であると考えています。

おわりに

エンデが紹介された<小さな魚>の座長テレーゼ・アンゲロフは「多年に渡って、ミュンヘンのカバレットの良識的な存在であり、女座長、演出家、作家として活動した。彼女はのちにもほかの多くのドイツのカバレットの協力者となっている」(グロイル『キャバレーの文化史Ⅱ』127P )という人物で、当時のミュンヘンカバレットの中心的な人物の一人でした。そのためか、エンデは「スケッチ、シャンソン、ソロを書いた。初めて書き物でわずかながらの収入をえたのである」(Roman Hocke『Michael Ende und seine phantastische Welt』S.82)*2と言われているように、<小さな魚>だけでなく当時のミュンヘンのカバレット<爆笑爆撃協会><小さな自由><無名人>などで仕事をしたようです。エンデの伝記によれば、アンゲロフにはじめに依頼されたシラー生誕150周年の出し物のためのスケッチはかなり好評を博したとのことです。その後の仕事も好評だったと言われていますが、グロイルの記述には残念ながらエンデの名前がありません。エンデがごくわずかな間しかカバレットに関わっていなかったからなのか、その点についてはわかりませんが、ホッケが指摘するように書き物仕事として初めての収入を得たというわりには、これらについてあまり情報がないのが実情なのだと思います。さて、若きブレヒトケストナーなど、ドイツを代表するような作家たちもその名を連ねているカバレットは、作家を目指す若きミヒャエルにとってある種のスプリングボードになりえたのではないか?と思わざるをえません。ですが、ボカリウスも「彼らの話題はもっぱらその日その日の政治に向かった。それが彼に、これもやはり自分の世界ではない、と感じさせるのだった。」(ボカリウス『物語の始まり』P.237)と指摘しているように、エンデにとってカバレットはあまりに政治的すぎたようです。これには、時代の影響も少なくなかったのだと思います。カバレット文化もナチス時代に苦汁を味わいました。最初にご紹介したように、本来、風刺的な文化出会ったカバレットですが、戦中の経験もあってか、特にアンゲロフらのカバレットは政治風刺色の強いものだったようです。こういった傾向は、エンデにとってはやはり肌に合わなかったのでしょう。結果的に、エンデとカバレットは一瞬ふれあいながらも、互いに大きな影響を及ぼすことなく離れていったというのが実情だと思います。最初に書いたように、その意味ではエンデとカバレットを論じる意味というのはあまりないのは確かです。ですが、ぼく個人としては、やはりそこには共通する土壌や空気のようなものもあったと考えられるではないかと感じています。また、カバレットを通じて、ベンケルザング文化を背景として持つブレヒトと、カンタストーリエに大きく感化されたエンデの対照が浮かび上がってくる点は、また別の意味で重要であると思いますし、できればこれに関連する議論は別の記事で行いたいと思います。

参考文献

名倉洋子『ドイツの民衆文化 ベンケルザング―広場の絵解き師たち』,彩流社,1996
ハインツ・グロイル,平井正、田辺秀樹訳,『キャバレーの文化史Ⅰ 道化・風刺・シャンソン』,ありな書房,1983
ハインツ・グロイル,岩渕達治、平井正、田辺秀樹、保坂一夫訳『キャバレーの文化史Ⅱ ファシズム・戦後・現代』,ありな書房,1988
ペーター・ボカリウス,子安美知子訳,『ミヒャエル・エンデ 物語の始まり』,朝日選書,1995
Roman Hocke,Thomas Kraft,『Michael Ende und seine phantastische Welt』,Weitbrecht,1997

*1:固有名など、本記事全体の一貫性を考えて一部改変しました。カバレットの名前はハインツ・グロイル『キャバレーの文化史』の邦訳名に従います。

*2:スケッチ(Sketch)とはカバレット用の台本のことを指します。