エンデのなかの相反するものについて

シュタイナーとの対立

なんだか一年に一回程度、新しい記事書くみたいなペースになってますが、先日ここ数年毎年お邪魔させて頂いている黒姫童話館さんで開催された堀内美江先生のエンデ講座で伺ったお話のなかで、ちょっとしたことを書いてみようかなという気になるようなことがあったので、相変わらずざっとですが書いてみたいと思います。なんて書くと何かすごく新しい発見だったり、新しい知見に触れたりということがあったかのようですが、特別そういうわけではないです。なのでこれから書くことも基本的には今まで書いてきたことと大きく変わりませんし、きっかけとなった話というのも、割と有名な話だったりします。じゃあ、なんで触れるのかというと、俯瞰してみたときに一つの一貫した視点になるのかなぁという感触があったためで、まとめという意味でも書いて見たいと思います。さて、堀内先生のお話の中で、エンデは一部に流布しているような印象とは違い、必ずしも文明を否定はしていなかった。実際に、水洗トイレだけは手放せないとか、エンデの書斎にコンピューターゲームをするためのコンピューターがあった、なんてエピソードをお話して頂きました。こういうエピソードから、エンデは文明批判的な視点と文明をきちんと受け入れる態度というのを両立していたということだったのですが、この一見相反する態度を両立するというところを今回は3つの論点から見てみたいと思います。
最初の論点は、この文明批判的なところとも関係するところで、シュタイナーとの関係について見ていきましょう。そもそも、この文明=唯物論的なものをいわば必要悪として受け入れるという立場自体が、シュタイナーの影響を感じさせるところではあります。シュタイナーはよく悪をルシファーとアーリマンという存在として語りますが、この2つの悪の影響(平たく言えば、唯物論と利己主義)を単に避ければよいというわけではなく、「悪になる可能性のなかで生きよ」というのがシュタイナーの基本的な立場となります。ですから、先に言ったようなエンデの態度自体は必ずしも反シュタイナー的とは言えず、見方次第では非常にシュタイナー的な立場だと言えるかと思います。では、シュタイナーとエンデの間の相反するものとはなんでしょうか。エンデの対談等をお読みになったことある方、エンデの思想に少なからず興味があるかたなら自明かと思いますが、これはもちろん芸術に対する考え方・捉え方の点です。エンデは自分の人生観や世界観について、シュタイナーから多大な影響を受けたことをはっきりと明言していると同時に、シュタイナーの芸術観だけは絶対に受け入れられないとも言っています。私見ですが、私を含めてこの点について表面的に「エンデはシュタイナーの芸術観に批判的だった」と理解されてはいるにせよ、そもそもこの点についてその内実をきちんと指摘できる方はほとんどいないんじゃないかという印象を受けています。そういう意味では、これから書くこともそれほど踏み込んだ内容ではないのですが…。まずはその理由を述べてみたいのですが、ざっくり言えば二点挙げられると思っています。第一に、シュタイナーの美学を明確に語ることが難しいという点、第二にエンデとシュタイナーとの関係について、とりわけ芸術に関する論点をどう評価するかという点です。
一つ目の論点について、筑摩書房が出したシュタイナーコレクションというシリーズの最終巻に『芸術の贈りもの』というタイトルの芸術をテーマにして編集したアンソロジーがあります。翻訳は高橋巌先生で言わずと知れた日本のシュタイナー研究の第一人者であり、美学者でもある方です。美とシュタイナーについて論じるのに、これ以上の方は日本にはいないのではないかという気がしますが、その高橋先生が解説でシュタイナーの俗に言う1900年の「神智学的転回」後に書かれた主著『神智学』について次のように書いています。

「その第一部の人間の本質を論じたところで、思考と感情と意志のことを繰り返し取り上げながら、思考と感情と意志が真なるもの、善なるものとどのように結びつくかを述べていますが、不思議なことに、美についてはまったく触れていないのです。ところが、真とは何か、善とは何かを、思考、感情、意志との関係の中で論じながら、美とは何かを論じていないために、よけいに美とは何かが見えてくるのです。」(シュタイナー,高橋巌訳『芸術の贈り物』,344P)

ここでは書いていないので逆照射される形でシュタイナーの美についての考え方が見えてくると言われていますが、なかなかそういう読み方ができる人はいないのではないかという気がしてしまいます。私が理解する限りでは、シュタイナーという人は基本的にはカント以来のドイツの哲学潮流に棹さしています(それが後にシュタイナーが主張するように、あえてしていたことかどうかはここでは棚上げしたいと思います)。とりわけ哲学的主著と言われる『自由の哲学』では3部構成の第一部では認識論で自らの哲学的立場を基礎づけし、第二部ではエンデも強い影響を受けていると言っていい道徳的想像力の議論を含む倫理学へと敷衍していくという構成になっており、理論哲学と実践哲学というドイツ観念論的にメジャーな構成になっているのですが、第三部では美学が扱われることなく、ここでも美について明確に語ってはいません。前述の『芸術の贈りもの』所収の「新しい美学の父としてのゲーテ」という講演が、かなりはっきりと美の論点について若きシュタイナーが触れたものになるのではないでしょうか。つまり、理論的に美学を自分の思想のなかで位置付けて論じた資料が、認識論=真や倫理学=善に比べてかなり少ないと言えると思います。もちろん、シュタイナーは芸術をかなり重要視しており、よく言われるようにゲーテアヌムの設計や彫刻「人類の典型」といったシュタイナー自身の創作や、シュタイナー教育のカリキュラムのなかでもよく話題に挙げられるフォルメン線描やオイリュトミーなど、アントロポゾフィーの活動のなかではかなり芸術が重要な位置を占めていることは一般的にも認められていると思います。簡潔に言えば、シュタイナーは自身の思想・活動全体のなかでは芸術を重視しているにも関わらず、理論的には少なくとも真や善ほどには美をきちんと自分の思想体系のなかに位置づけていないと私には感じられるということです。一方で、エンデ自身も折に触れてシュタイナーの芸術観を批判してはいるものの、決して体系的なものではないので結果としてエンデのシュタイナー批判自体の内容はある程度わかるものの、シュタイナーの理論や実践のどういう点を見てそう言っているのか、多くの場合かなり不明瞭になってしまっていると思います。またここを明瞭にするにはかなりシュタイナーの美学に精通している必要があると思うのですが、それがかなり困難な仕事だというのがこの論点を更に難しいものにしているのではないかと思います。
第二に、これはエンデ解釈の問題になってくるのですが、全体としてエンデへのシュタイナーの影響をどの程度に見積もるかに関する差がかなり解釈者によって差があるように見えるし、まだ評価が全然固まっていないように見えるというところに起因します。全く個人的な感想になってしまいますが、この論点はほとんど真っ二つと言っていいほど両極端だという感じがしていて、シュタイナーを含めたエンデの神秘主義的な部分をできるだけ触れずにすませたい、脱臭したいという傾向を感じる論者がいる一方、シュタイナー思想に親和的でエンデとシュタイナーを強く結びつけようとする論者がいると感じています。前者については、少し私自身の偏見を含んでいる可能性がありますが、最大限公平に言っても、シュタイナーの議論は多岐にわたる上に一次資料は膨大で内容的にも一方では哲学的にゲーテドイツ観念論系の議論の影響を受けながら、後年は神智学を含めヨーロッパの秘教的思想の影響を様々に感じさせる議論があり、エンデとシュタイナーの関係を論じようとしてちょっとかじってみたくらいではとても手に負えないのは確かだと思います。そうなると、前者の人たちは今回問題にしている論点について深く踏み込み難いので、比較するまでもなくエンデの言葉を額面通りに受け取って概ね無視する形になり、一方シュタイナー思想の側から見ると、エンデがシュタイナーから強い影響を受けているのは確かなので、芸術についてのエンデとシュタイナーの議論の齟齬「程度」であれば、それほど大きな問題とみなさないということになりがちではないかと思います。これはエンデとシュタイナーにおける芸術の位置づけと重要度の違いに起因していると思いますが、私個人の見解からすれば、エンデにとって芸術について齟齬があるというのは極めて大きな問題であるはずで、芸術については意見が違うけど、それ以外の多くの点ではシュタイナーに同意しているんだから、そこはエンデの芸術家としてのこだわりだよね、といった形で流せる問題ではないと考えています。ちなみに、私もかつてはこれに近い考えをしていて、ここがそこまで重要な問題であるとは考えていなかったことは言っておきたいと思います。これについて私個人の感想だけでなく、具体的な例を挙げるとすれば、エンデとヨーゼフ・ボイスとの対談を読むとこの二人の間の対立のなかで、間接的ではありますがこの論点が鮮明になっているのではないかと思います。この対談だけではありませんが、エンデの議論を読んでいると社会や経済について論じていたはずがいつの間にか芸術の問題へと移行していきます。こういったエンデの議論の展開にボイスは少し苛ついたように話はすぐまたそのクソ芸術家のところに戻ってくる!とかなり強い言葉で批判しています。もちろん、ボイスの立場は必ずしもシュタイナーに忠実というわけではないにせよ、芸術家や芸術の位置づけや重要性の落差について推測する一つの手がかりにはなっているのではないでしょうか。
以上の話を踏まえて、この美の論点に関する対立というのを少し眺めてみます。シュタイナーは「新しい美学の父としてのゲーテ」という若い頃に行った講演のときから、神智学的転回以後も一貫して美についてシラーの有名な「美的教育に関する書簡」の議論を支持しています。一方で、エンデは東京講演「永遠に幼きものについて」などで同じく「美的書簡」について高い評価を与えています。エンデの場合、シラーの遊戯(Spiel)衝動における遊戯と自由と美の関係を重視しているように見え、他方、シュタイナーは遊戯の点というより真と善の必然的な法則の中間にある美の領域における自由で道徳的な行為(これはカリアス書簡的な論点でもありそうですが)という『自由の哲学』の論点にも通じるように見えるところを評価しているように見えます。シュタイナーはのちの講演では感覚的‐超感覚的なものについて語っています。おそらくですが、ここでイメージされているのはゲーテの原植物なのだと思います。シュタイナーにとってこの原植物のイメージは霊的な事実そのものではないが、しかし感覚的な事物を超えた何かと捉えられているようです。しかし、エンデの「隠れたものの実在」のようなテクストを読む限りだと、エンデにとってこのゲーテが目に見える理念として説明した原植物はそのまま霊的‐イデア的なものだと考えられているように見えます。となると、この点で双方の間には齟齬があり、というかエンデのシュタイナー理解に問題があった可能性というのはあります。しかしながら、理論的な問題は一旦棚上げしたとして、エンデは「シュタイナーの芸術には闇がない」「霊的な事実を単に表現すればよいと思っている」などと言った批判をしています。こういったところからすると、どちらかと言うと理論的な問題というよりシュタイナー自身の実際の芸術の取り扱い方を見るのが良さそうな気がします。私自身、とても印象深かったエンデの言葉なのですが、ある書簡で叔父のヘルムートにシュタイナーに関して批判をしているのですが、要約すると次のような内容なのです。シュタイナーはある講演(おそらく「キリスト衝動の告知者としてのノヴァーリス」)でノヴァーリスの『青い花』の遺稿に残された「もはや数や図形が~」という有名な詩を取り上げています。ここでシュタイナーはこの詩の最後の部分を改変しているのです。

「霊の言葉が世界観を基礎づけているとき、言葉はもはや単なる言葉ではありません。最高の魂にとってももっとも素朴な魂たちにとっても、この言葉は照明され温められます。これが私たちの憧憬にほかなりません。それはまたノヴァーリスの憧憬でもあります。ノヴァーリスはこれを美しい言葉で表現しています。私は終わりにこの言葉をたった一語だけ変更して、ご紹介したいと思います。」(拙訳)Rudolf Steiner,TB739『Erfahrungen des Ubersinnlichen Die drei Wege der Seele zu Christus』238P

シュタイナーはこう述べたあと、ノヴァーリスの詩の「Das ganze verkehrte Wesen fort(さかしまのものはみな飛び去っていく)」(ノヴァーリス,今泉文子訳『ノヴァーリス作品集2』315P)という部分を「Das ganze verkehrte Herden-Wesen fort.(狂った畜群‐存在はみな飛び去る:拙訳)」と変更して引用しています。この講演を例にとってエンデはこの変更は詩を台無しにするものであり、シュタイナーが詩芸術を理解していない証拠だと言っています。シュタイナーは引用文の少しあとで、自分を自由な精神とみなす俗物はちょっと怒るかもしれないと皮肉を言っていますので、この点では両者の立場は正反対になっているのです。前回の記事に書いたことですが、エンデは重松禅師との対談で自分の芸術観について、ちょうどよいときにちょうどよいことをなすことだということを言っています。エンデのこうした芸術観から見れば、ここでのシュタイナーの振る舞いは芸術家が美的な観点から彫琢した言葉を霊的な真理を伝達するために歪めているように見えたに違いありません。エンデは父エトガーの制作法を説明する際、エトガーがある種の瞑想から得たスケッチを絵画に仕上げるにあたり、付け足したり削ったりふさわしい美的表現を探していたと言っていますが、エンデにとってはこの相応しい美的な表現を作り出すことこそ芸術であり、美的な創造だったのだと私は理解しています。もしそのように理解するのであれば、エンデとシュタイナーの対立は決定的なものになりますし、エンデがシュタイナーは芸術を全然わかっていないと批判するのももっともなことのように思えます。また、エンデが目に見える理念=具体化された概念=表象というシュタイナーの『自由の哲学』的な図式を直接的に霊的なものそのものの現れと考えたのだとすれば、エンデにとってはシュタイナーの立場は霊的自然主義とでも言えるようなものに見えたのではないでしょうか。

マニエリスムとの対立

エンデとシュタイナーの芸術を巡る対立について、エンデがあれほど深くシュタイナーから影響を受けながら、しかしこの一点において全く無視できない溝が両者にあることが少しは指摘できたのではないかと思います。次の論点はマニエリスムに関するものです。こちらはエンデの芸術観と深く関わってくる論点なのかなと思っています。マニエリスムというとルネサンスバロックの間にある美術史上の一区分ですが、ここではG・R・ホッケが師E・R・クルツィウスから継承・発展させた「ヨーロッパ文学のひとつの常数」としてのマニエリスム概念を指しています。エンデはホッケの追悼文集に寄稿した「どうやって私がグスタフ・ルネ・ホッケと知り合ったか」という文章のなかで、ホッケとの出会いについて書いています。マイナーなテクストなのでここで取り上げることに関する重要な部分を拙いながら訳出してみます。

「ぼくはひどく緊張していた。とうとうあの人に、ぼくに深い感銘を与えたあの本の著者に会えるってことに。もう二、三年前になるが『迷宮としての世界』と『文学におけるマニエリスム』をむさぼり読んだんだ。これらの著作はぼくとぼくの作家としての発展にとって決定的な転換点だった。この著作の助けをかりて、ぼくには初めて次のことが明らかになった。ぼくを芸術的並びに詩的に動かすものすべて―ファンタジー的なもの、魔術、イデア‐芸術―が、当時そう言われていたように”現実逃避的”でもなければ、多かれ少なかれ現実から離れて、奇妙なもの、突飛なものを楽しむことに端を発するわけでもなく、全ヨーロッパ文化の中で、いや本来世界中の文化の中で、あのもう一方の”古典的”身振りに補完的かつ弁証法的に、しかし同じ権利をもって対置する、あの根本態度、”原身振り”に由来しているんだってことを。ぼくはぼく自身を位置づけることができる歴史的伝統をこれらの著作の中に見出した。そして、このことはぼくの文学的な努力を美学的に正当化するという意味でだけでなく、世界と人生に対する極めて普遍的な哲学的態度としてであり、その伝統の中に同時にぼくの全く個人的なアイデンティティの重要な部分を見出すことでもあったのだ。」『Viersen Beiträge zu einer Stadt 16』113P

前述のシュタイナーとの芸術を巡る溝について思い出して頂きたいのですが、ここでエンデが言っていることはこの溝が私たちが当たり前に考えるよりかなり深いのではないかという印象をより強くします。というのも、ここでエンデは自分自身が棹さす文化的伝統を見出せたことが、自分のアイデンティティの重要な部分に関わることだと言っているのですから。いずれにしても、これでエンデにホッケ・マニエリスムがいかほど深い影響を与えたかは明らかになったかと思います。残念ながら、この論点は管見の限りではまだまだ未開拓で、ロマン・ホッケや日本では司修さんがボマルツォの「聖なる森」(あるいは怪物庭園)についてわずかに触れたくらいです。しかし、ヨーロッパ精神史の常数として考えられたホッケのマニエリスム概念の広さからすれば、この論点はまだまだ未知の領域であるといって良いかと思います。
さて、マニエリスムとは何かをここで簡潔に述べるのは、私自身の力に余ることなのでとてもできないのですが、一つの特徴付として古代修辞学における対立としてホッケの師クルツィウスが立てたアッティカ風とアジア風(アッティシズムとアジアニズム)との対立=古典主義とマニエリスムの対立を取り上げてみたいと思います。ホッケは『文学としてのマニエリスム』の中で

「アッチカ風とは古代修辞学にあっては、的確、集中的、簡潔、精巧、本質的なることを意味する。アジア風とはその極端な反対、すなわち過剰、多義性、非本質的なもの、凝りに凝ったくわだてや核心を老獪かつ饒舌に包囲すること、主観的な、遠近法の上で意識的に<欺瞞的な>表現を指していう。」(グスタフ・ルネ・ホッケ,種村季弘訳『文学としてのマニエリスム』40P,平凡社ライブラリー)

とこの2つの立場を特徴づけています。またこの対立は同時に自然的‐人工的であり、ミメーシス‐ファンタジアの対立でもあります。このマニエリスムの伝統の中に、エンデが強く愛着を示す作家たちも列せられています。例えば、シェイクスピアボルヘスベケット、ドイツロマン派…。また絵画ではシュールレアリスムもまたマニエリスムの現代的な形式として大きく取り上げられています。美術史的な区分の意味に近づきますが、先程挙げたボマルツォの「聖なる森」やエンデがボルヘス風短編「ボロメオ・コルミの回廊」のモチーフとした遠近法を用いた錯視的建築もまたマニエリスムです。私見ですが、エンデ作品で言えば『鏡の中の鏡』は非常にマニエリスム的な作品と言えるのではないかと思います。このように、エンデは人生観や世界観の面でシュタイナーの影響を強く受けた一方で、芸術的にはホッケ・マニエリスムの影響を強く受けているといえます。さきほどエンデはシュタイナーの立場を霊的自然主義と見ていたのではないかと述べました。もしこの理解が正しいとすれば、エンデに理解された限りでのシュタイナー的立場はどこまで言っても自然主義的‐古典主義的であって、こういう対立図式としてみたときに、エンデをシュタイナーとは相対する立場に位置づけることができると考えることもできそうです。『鏡の中の鏡』には迷宮という副題らしきものがついています。『迷宮としての世界』との表題からも分かる通り、迷宮とはホッケがマニエリスムの象徴としたイメージであり、工人ダイダロスの神話的イメージと結びついたモチーフでもあります。『鏡の中の鏡』はミノス王の迷宮を想起させる物語で始まり、ダイダロスの息子イカロス神話を想起させる物語へと続いていきます。私個人はここにエンデのマニエリスム宣言を見ないわけにはいきません。
エンデがホッケ・マニエリスムに強く影響を受けていたことは良いとして、では対立とは何なのでしょうか。ホッケは文学的マニエリスムとしてゴンゴリスモ、コンチェッティスモ、クルティスモ、マニリズモ等々を挙げています。絵画で言えばミケランジェロ風の蛇状曲線フィグーラ・セルペンティナータ(figura serpentinata)などが典型となるわけですけれど(わかりづらい方はいわゆるジョジョ立ちをイメージしてください)、マニエリスムの特徴の一つとして痙攣的で過剰で装飾的な文体への偏倚とでも言うべきものが挙げられます。そもそも、古代修辞学におけるアジア風の様式とはそのような過剰に装飾的な様式でした。それに対して、エンデは過剰に意識的な文体への嫌悪感を「文体のはったり」というメモのなかで露わにしています。

「執筆時にはいつも小指をちょっと上げ、口を上品にすぼめているのではないかと思ってしまう作家たちがいる。その大半は批評家から文体の大家として称賛されている。わたしはどちらかと言えば腹が立つのだ。読んでいて、作者があたかも「気づいたかい?わたしがまた、いかに非凡で繊細な表現をしたかを」と言いたげに、行間から、眉を上げてわたしを見るような気がしてしかたないときは、わたしは読みつづける意欲をうしない、その本を閉じる。」(ミヒャエル・エンデ,田村都志夫訳『エンデのメモ箱』PP205-206,岩波書店)

もちろん、先にも述べたようにこの分野での議論は全くなされておらず、まだまだ未開拓の領域ですから、こういった点を整合的に理解する仕方があるかもしれません。ですが、このわたしがここで挙げたいエンデの相反することの一つです。エンデ作品の中には確かに構成上マニエリスム的と言えるような部分がある一方で、文体上、表現上はむしろ簡潔で衒いのないスタイルを取っていることが多いと感じます。その源泉は何よりもパレルモの原体験と呼ばれる、カンタストーリエとの出会いにあるのかもしれませんが、エンデは音読されることを重視しており、自分の文章を奥さんに何度も音読してもらったといったエピソードも残っているくらいです。エンデは自分自身をErzählerと規定しています。ストーリーテラーと日本で浸透した英語での訳語があてられたりしますが、ストーリーを重視するタイプの作家というようなことではなくて、ここでは大道芸人風、吟遊詩人風の物語を語る人=語り部のことを指していると考えたほうが妥当かと思います。エンデが芸術家として深くホッケ・マニエリスムの影響を受けて、自らをその文化的伝統のなかに位置づけている反面、この文体上の過剰という点についてはむしろ正反対の立場に立っているのではないか、というのがここで提起してみたい「相反するもの」でした。

最後にブレヒトとの対立を考える

エンデは事あるごとに、自分が若い頃ブレヒトでとても苦労した、ブレヒトの影響下にある間、全く作品が書けなかったということを言っています。実際、エンデとブレヒトはとてもかけ離れているように見え、私を含めて多くの人は、エンデのこういった発言を見るにつけ、なるほどなぁと納得するのではないでしょうか。そういう意味では、今更ブレヒトと相反するなんて当たり前じゃない?と思われそうです。確かにその通りなのですが、これに一つの視点を付け加えてみたいというのがこの記事の最後の試みになります。先程、エンデがパレルモカンタストーリエの影響を受けたことを書きました。エンデファンにはよく知られたエピソードかと思いますが、エンデがテレビ局の取材旅行でイタリアに旅したとき、パレルモカンタストーリエと呼ばれる大道芸人の物語芸を見て、エンデは自分の芸術というのはカンタストーリエに長く語り継がれるようなそういう作品を書くことなんだと思い、自分の方向性が定まったというお話です。数年前、カンタストーリエって実際どんなものなのかというのを知りたくて、カンタストーリエについて調べたことがあります。カンタストーリエについては資料が乏しくてほとんどなにも分からなかったのですが、各地に似たような大道芸人がいたことはわかりました。ドイツ文化圏にも似たような物語師がいて、ベンケルゼンガーと言いました。20世紀の前半にはまだ活動していたらしいので、もしかしたらエンデも幼い頃ベンケルゼンガーの興行を見たことがあるかもしれません。いずれにしても、ベンケルゼンガーについてエンデ自身が言及しているのは、私の知る限り存在しません。ではなぜベンケルゼンガーを持ち出したかというと、このベンケルゼンガー的伝統に影響を受けたのがブレヒトその人だからです。名倉洋子先生は『ベンケルザング』のなかでこう述べています。

ブレヒトはここで、彼の演劇論の重要な柱の一つとなった異化効果について、歳の市の見世物の手法から学んだことを述べている。ここでは直接言及してはいないが、ベンケルゼンガーの語り方や掛け図の絵の描き方も、異化効果の実例として当然ブレヒトの念頭にあったものと思われる。(中略)しかし、ブレヒトとベンケルザングのかかわりは演劇理論の面だけに留まらず、実作面でも多岐にわたって認められ、ほとんど一生涯に及ぶものといっても過言ではない。」名倉洋子,『ドイツの民衆文化 ベンケルザング―広場の絵解き師たち』PP117-118,彩流社

こういう観点から見ると、ブレヒトとエンデ、実に近いところにいたとも言えそうな気がします。むしろ、実作上、エンデの著作の中に明確にカンタストーリエ的要素を見出すことは難しい点から見れば、この点ではむしろブレヒトのほうが強い影響を受けていたと言えそうです。エンデ自身はブレヒトのとりわけ政治的で教育的な部分、特に芸術を通して意図的に何かを教え込もうとする仕方が受け入れがたかったと考えているし、それはその通りだと思うのですが、エンデがブレヒトから抜け出せなくなるくらいの影響を受けたというのは、単に当時の文学的スターであり流行りの演劇理論だったからというだけでなく、こういった根本において近親な部分があったからかもしれないとも思えます。そして、道は別れたとは言え自分の芸術の根としてカンタストーリエのような大道芸的なもの、語りの民衆文化的なものを置く点に、ブレヒトとの関係でエンデの相反するものを見いだせるのではないかと思います。

蛇足

エンデ講座に行ったという話から、正直最初に思っていた以上の分量になってしまったのですが、最後にエンデ講座のときの話に戻りたいと思います。今回の趣向として、『モモ』の一節が引用されたカードを各々もらったのですが、私が手にしたカードには「世のなかの不幸というものはすべて、みんながやたらとうそをつくことから生まれている。それもわざとついたうそばかりではない。」というベッポの言葉でした。嘘と芸術=フィクションの違いの問題はエンデにとっておそらくかなり重要なテーマではないかと思います。それはエンデが芸術家のイメージとしてパガートを大事にしていることからも推測できます。エンデ自身がパガートとは魔術師であり奇術師であると言っています。魔術師は本当の奇跡を扱い、奇術師はその手練手管(マニエラ!)で奇跡と思わせるフェイクですが、パガートはその両方を象徴しているというのです。「道しるべの伝説」というエンデの短編には、トゥット・エニエンテTutto Enienteという人物が登場します。この名前が言葉遊びになっている―Tutto e niente(全と無)/Tutto è niente(全は無である)―人物は大道芸のマイスターで、自分の弟子である本物の奇跡を求める主人公ヒエロニムス―弟子としての名はイル・マットil Matto(狂人)―そんなものはすべて嘘っぱちだと教えます。一旦はこの教えに従うヒエロニムスは、紆余曲折を経て真の奇跡にたどり着くというのが物語の結末です。ヒエロニムスがエンデ自身だというつもりはありません。それはジジがエンデではないのと同様に。ですが、この真の奇跡の希求と芸術の提示する虚構との緊張関係は、エンデ自身にとって重要な問題だったのではないでしょうか。エンデが芸術によって何かを教え込もうとする態度に批判的なのも、この芸術のもつ虚構の力をそのように使うことへの戒めのようにも思えてきます。エンデのなかの相反するものというテーマで3つの視点で考えてきましたが、この相反するものの緊張関係のなかでそれをおおらかに受け入れること、このロマン派的な遊びの態度こそが、エンデの根本態度であるのではないか、そのような結論じみたことを述べて本稿を終わりにしたいと思います。

技としての芸術

芸術家の創造性を巡って

ここ何年か中心的な関心なのですが、平たくいえばエンデにとって理想的な芸術家像とはどういうものか?というものがあります。今回の記事は、このテーマの中心的な問題の一つについてざっくりと書いてみたいと思います。本記事の大まかな見通しを得るということも含めて、エンデとボイスの対談『芸術と政治に関する対話』(ページ数などは岩波全集版による)の中のエンデの一つの発言を最初の手がかりにしてみたいと思います。それは次のような発言です。

ラップマン 芸術家は職業なわけですか?
エンデ ええ、手仕事職人であるとさえ思っています。前世紀では芸術家についてさまざまなイメージがありましたが、そのどれよりも、はるかに手仕事職人に近いものではないでしょうか。私に言わせれば、芸術家というのは、指物師からはじまったわけです。使うことができる戸棚だけでなく、美しい戸棚をつくることのできる指物師からね。美の領域で創造的であるというのが、芸術家の特性なのです。(『芸術と政治に関する対話』22P)

このあたりの議論は、ボイスのだれでも芸術家というコンセプトを巡る議論の一環なのですが、エンデはこの前段で、近代的な、特別な人間、創造的な人間としての芸術家像を否定しています、つまりシュトゥルム・ウント・ドランクやロマン派における天才=創造的精神のような芸術家像と言えると思います。私自身はボイスのコンセプトをきちんと知らず、正当な評価を下せないため、ボイスとエンデの比較についてここで言及することはしません。ですが、この芸術家や芸術を巡る論点こそ、シュタイナー思想を軸にして基本的な世界観を共有できているように見えるエンデとボイスの最も鮮烈なコントラストを描いている点であり、私見ではエンデがシュタイナーを芸術に関して批判する、その相容れなさの核心であるように思えます。
話が先走りすぎましたが、引用について少し考えて見たいと思います。少し触れたように、エンデは芸術家の創造性について特別視することを否定しているように見えます。初めて読んだときびっくりしたことがあるのですが、安野光雅氏との対談の中でエンデは現代においてオリジナルなものというのは非常に稀で、常に何らかの引用であり、その引用の仕方がこそが問題なのだというようなことを言っていました。エンデ自身、自分の作品のオリジナリティのようなものについて言及することは稀で、ぼくの記憶の限りでは、『鏡の中の鏡』について自分の最もオリジナルな作品だということをどこかで言っていたと思いますが、全体的にオリジナリティということにあまり重きをおいていないところがあると感じます。エンデは先の引用の前段部分で次のようなことを言っています。

創造が芸術家だけに特有のことだなんて、原則として言えっこないわけです。どんな人間も、どんな職業においても、創造はできるんですから。(中略)
私に言わせれば、創造的であるというのは、要するに、人間的であるということにほかならない。それが、つまり、創造的でありうるということが、人間を動物から区別するものなんです。(18-19P)

創造的であるとは人間の条件であり、それによって芸術家を規定することはできないというわけです。芸術家は芸術の領域、美的な領域において創造的ではありますが、それは他の職業において人が創造的であるのと同程度の意味でしかない、特別なことではないとエンデは主張しています。これをぼくなりにパラフレーズしてみます。芸術家の創造性といえば、ある種の着想、場合によっては神がかり的なものとしてイメージされるようなインスピレーションがイメージされるのではないでしょうか。この話が自分の中で明確になる切っ掛けとなった会話の中で、ある方が降りてくると表現していましたが、まさに何かが降りてくる、巫女的・霊媒的ですらある特別な人間としての芸術家像というのが一つありうるのだと思います。厳密な議論をするとなると、シュタイナー的世界観を基礎に据えた概念実在論的考えに基づく概念やイデーの問題が絡んできますが(この場合、「降りてくる」ものが実在すると考えるかどうかは重要な問題のように思えます)、本論ではこの手の細かい議論は割愛させていただきます。いずれにしても重要なのは、私たちは日常生活や日々の仕事のなかで実際にはそのようなインスピレーションを得ているのではないかといことです。仕事上、生活上の難問や問題等々に対して、名案や解決策を突如として思いつく、こういうことは誰にでも起こりうることではないでしょうか。このようなインスピレーションや着想を問題にする限り、エンデの言うように芸術家だけが特別だとは言えなくなりそうです。

技=芸としての芸術

さて、最初の引用に戻りますと、エンデは少し驚くようなことを言っています。つまり、芸術家というのは手仕事職人(Handwerker)に近いのだというのです。上述のように、着想のオリジナリティによって芸術家を規定できない/しないのであれば、他の観点からそれをしなければなりません。そして、それは手仕事職人に通じるものだというわけです。これについて、エンデは『モモも禅を語る』の著者重松創育禅師との対談で、壺焼きの職人を話題に挙げながら次のように述べています(拙訳)。

マーケット向けのごく普通の壺を作るただのなんてことない手仕事職人にすぎないにも関わらず、この職人は名人だと私は思います。
同じことをサーカス芸人のところでも見出すことができます。曲芸師や綱渡り師がいて、彼らが動けばすぐわかります。こいつは名人だ。(中略)ちょうどいい瞬間にちょうどよいことをすること。それだけなんです。あらゆる偉大な芸術はこの点で際立っています。どんな対象を取り扱うかは問題ではありません。壺だろうが、指物師が戸棚を作ろうが、絵を描こうが、それは全くどうでもいいことです。常にこの名人芸の原理(eine Prinzip der Meisterschaft)が問題なんでです。(『MOMO erzählt ZEN』S.127)

手仕事職人とサーカス芸人とがここでは結びついています。それは有り体に言って技の問題だと言えるのではないかと思います。これはエンデの芸術観の象徴とも言えるパガートとも結びつきます。田村先生のインタビュー『ものがたりの余白』でエンデは

魔術師とは、実は創造的な人間です。(中略)そして、曲芸師とは「芸ができる人(ケネンデ)」なんです。曲芸師は、本当は、意図を持たない「芸(ケネン)」の代表者といえます。いうまでもなく、これらは表裏一体です。

と語っています。先の引用の中で、芸術家は美の領域で創造的な人間なのだといわれていました。表裏一体というように、単にこの創造性だけを取り上げるだけならば芸術家を規定できないが、しかし芸術的な技と組み合わさることで、それはパガート的なもの、創造性と技とが表裏一体となったものとして現れてくるのだと考えられそうです。そして、エンデにとってこの技=芸(Kunst)を代表するものこそ、手仕事職人であり、何よりもサーカス芸人や大道芸人なのではないでしょうか。余談ですが、サーカスということでクラウン=道化がイメージされがちですが、エンデはむしろ綱渡り師(Seiltänzer)や奇術師(Taschenspieler)、曲芸師(Gaukler)を取り上げていると思います。エンデが強い印象を受けたパレルモカンタストーリエ、旅のサーカス一座からひいてはかつての旅の劇団まで、エンデの芸術(観)の根本には近代的な芸術家像よりむしろ旅芸人や大道芸人に連なる人々の芸があると言えないでしょうか。これは、エンデがサーカスに非常に強い印象を受け、また自らの芸術を代表するものとしてパガートという表象を持ち出してくる点からも理解できるように思います。

終わりに

この論点については、まだまだ詰めるべき点、展開させる余地があると考えていますが、ここでは上のようなざっくりとした概要だけでご容赦願いたいと思います。最後に、2つの点を指摘して終わりにしたいと思います。
第一点は、上の芸術家像はやはり父エトガーの仕事の仕方と無関係ではないのではないかと考えられる点です。エトガーはある種の瞑想を通して(霊的な)ビジョンを得て、そのビジョンをもとにして絵を描いたと言われており、そのやり方はエンデによってさまざまなところで言及されています。ここで注意したいのは、エトガーが自分のビジョンから得たモチーフを芸術的に塑形したという点です。あるときは足したり、あるときは引いたりして、ビジョンそのものを描くことで満足してはないなかったことをエンデは報告しております。ここにはやはり芸術家の芸の部分、単なるビジョンの内容を表現するだけでなく、そのモチーフにふさわしい美的形式を与える芸術家の技が問題になっていると言えそうで、この点で上述のエンデの芸術論と父エトガーの制作スタイルとの共通点を見いだせるのではないでしょうか。
第二点は、最初に述べたことと少し関連しますが、エンデ作品における芸術家の表象です。例えば、ジジはカンタストーリエとは言わないまでも、見方によっては語りの大道芸人のような存在です。また、オフィーリアさんの一座は旅の劇団ですし、サーカス物語はそのままサーカス一座の話です。あるいは、フェーリクス・フリーゲンバイルのバラードでは綱渡り師がテーマですし、ジム・ボタンのルーカスは唾飛ばしの大道芸を披露します。以上、思いつくままに挙げて見ましたが、エンデ作品における芸術家(作中で芸術家と呼ばれるかどうかはともかく)の表象は、詩人や画家や音楽家などよりはるかに旅芸人=大道芸人に近いものだと言えるのではないでしょうか。この点からも、エンデの芸術観における芸への親近性について考えることができるのではないかと思います。

エンデとカバレット

はじめに

ある作家を語る際、その作家の伝記的事実を参照するべきか否かについては、様々な立場があると思います。また、作家によっても事情が異なると思いますが、ミヒャエル・エンデに関しては、その伝記的事実が作品理解に寄与する程度はかなり低いと考えて良いと思いますし、また一般的にそう考えられているのではないかと思います。一方で、エンデの伝記研究については、ボカリウスによる半生を書き留めた伝記及び、Roman Hockeによる略歴を含んだエンデ本二冊(未邦訳)があり、また数年前にDankertの本格的な伝記(未邦訳)が公刊されるなど比較的充実しているのも事実かと思います。そんなエンデの伝記的なエピソードの中で、この記事ではカバレットとの関係について書いてみたいと思います。結論から申し上げますが、この記事で書くことはエンデの作品理解や思想理解に寄与するところはほとんどないと考えています。多くの資料がカバレットの関係について軽く言及して終わっていますが、これは単純にカバレットとの関係がエンデにそれほど影響を与えなかったためだと考えてよいと思います。それでもここで取り扱うのは、一つには直接には影響がなかったとしても、エンデが20代を過ごしたミュンヒェンの文化的空気には、なにか共通するものがあるのではないかと思うためです。そこから浮かび上がってくる論点もあるのですが、それはできれば別記事で扱いたいと思います。
さて比較的充実している、などと書きましたが、エンデの伝記的な事柄について、主要な資料のうちで日本語で読めるのはペーター・ボカリウスによる『ミヒャエル・エンデ 物語の始まり』といくつかファンブックで略伝が掲載されている程度で、エンデ研究では今や必ずと言っていいほど参照されるBrigit Dankert『Michael Ende Gefangen in Phantasien』を始め、主要なものは―と言ってもそれもそれほど多くありませんが―未邦訳のため、日本のファンには意外と知られていない事柄が結構多くあるのを―あるいは(それゆえに?)不正確な情報が流されているのも―Twitterなどでしばしば観察します。そのため、まずは周辺的な事柄について、ざっくりとですが触れてみたいと思います。

20代のミヒャエル・エンデ

第二次大戦後、ギムナジウムを卒業したエンデは1949年オットー・ファルケンベルク演劇学校に入学します。こちらは本当に有名な話ですが、劇作家を目指していたエンデはエンデ家の財政的な事情から作劇を直接学ぶことを諦め、俳優の卵としてそこで演劇を学ぼうと考えたと言われています。どうやら、極度のあがり症だったエンデにとって、俳優はあまり向いている職業ではなかったようで、落第寸前ながらなんとか学校を卒業して同級生たち同様に俳優として活動するために、レンズブルクの劇場と契約を結びます。しかし、これも一年後の1951年には契約更新を諦めて実家のあったミュンヒェンに帰ることになります。その時エンデは一つの作品を携えていました。それが『サルタンの二乗』という戯曲です。エンデはこの戯曲をもって作家として華々しくデビューしようと計画したらしく、有り金をはたいて「ミュンヘンの批評家、演出家、劇団主事、そのた事情通たちの名簿を作り(…)全員に招待状を送った」らしいのですが、しかし「客たちはやってきた。(…)ミヒャエルが立ち上がり、丁重にしばらくのご静聴をと乞い、ユーモラスな前口上を簡単に述べた。それから座って、原稿を広げた。『サルタンの二乗』が披露された。(…)しかし反応はなかった(…)サルタンを話題にしたのは、書き手以外には、のちには彼の妻となるインゲボルク・ホフマンただ一人である。」(ペーター・ボカリウス『物語の始まり』P.219 )と、完全なる失敗に終わってしまいました。ここからエンデの人生の中でも非常に困難な時期がやってきます。まず、父であるエトガーが弟子のロッテ・シュレーゲルという女性と浮気して、最後には家を出てしまいました。またそれが原因でエンデの母ルイーゼは精神的に非常に不安定になり、ただでさえ経済的に余裕がなかったのに加えて、エンデは生活の糧を得ながら、母親の面倒も見なければならなくなりました。仕事面でも、前述のように俳優としては失敗に終わったわけで、別の仕事が必要でした。そのとき、エンデを助けたのが当時の恋人であり、のちの配偶者であるインゲボルク・ホフマンでした。インゲボルクの紹介で、エンデはラジオの映画批評の仕事にありつきました。この仕事は後のエンデの映画についての考えに影響を与えたのではと言われています。そして、カバレットの仕事を得たのもインゲボルクの紹介でした。ボカリウスによれば、「ある日、例によってインゲボルクが彼を売り込みに連れ出した先は、ケーニギン通りの見覚えある建物だった。(…)独裁者が消え、手に負えない神経質な馬たちもいなくなった場所に今、政治風刺のカバレットが、ほやほやの民主主義を流行らせようと試みていた。カバレットの名は『小さな魚』、興行主はテレーゼ・アンゲロフという女性だった。」(同235P )*1

カバレットについて

さて、とうとうカバレットが出てまいりました。おそらく、多くの方はカバレットとはなんぞや?と思ったのではないでしょうか。また、先程引用したボカリウスの子安美知子先生による訳でもそうなのですが、わかりやすさからかしばしばカバレットは寄席と訳されており、カバレットという名詞が見えにくくなっています。では、カバレットとはそもそもなんなのでしょうか。以下の記述は主にハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ・Ⅱ』に従います。カバレットについて、グロイルは先に挙げた本の冒頭で次のように書いています。

「この事柄の起源はいうまでもなくきわめて古い。われわれドイツでは、カバレット(Kabarett)という。オランダ、デンマークスウェーデンではキャバレー(Kabaret)、ハンガリーではカバレー(Kabare)、フランスではキャバレー(cabaret)といい、本来、酒場とか居酒屋を意味する言葉である。今日ではキャバレーというとたいていきらびやかなナイトクラブを指している。そこで催されるショウでは、「言葉」というものが全く取り去られているといっても過言ではない。……今日のフランスで、ドイツのカバレットに相当するのは、むしろ<シャンソニエ>だといってよいだろう。パリの<テアトル・ド・シャンソニエ>のプログラムの中には、シャンソンが一曲も含まれていないことも稀ではない。つまり、<シャンソニエ>(ジャンルの名称としてのそれ)は、まさに政治的な言葉の芸術全般を意味するものになっている。歌われるシャンソンは、エロティックなもの、センチメンタルなもの、詩的なもの、反逆的なものなどさまざまで、ショウと文学との中間的存在である。」ハインツ・グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ』(P.9)

ここからグロイルは風刺の文化とカバレットとを接続します。グロイルの引用の中にもあるように、とりわけ日本では「キャバレー」というと華やかな、そして多分にいかがわしい響きをもつものになっていますが、ここで取り上げるカバレットはシャンソンや風刺芸や文学ヴァリエテ、劇芸術とも接続する多様な大衆文化だと言えると思います。グロイルの引用は抽象的ですので、名倉洋子先生のもう少しわかりやすいまとめを引用してみましょう。

「文学キャバレーは、グラスを傾け、煙草をくゆらせながら司会者の話術や詩の朗読、シャンソンに興じる、何物にも縛られぬ、開放された気分でくつろげる場だった。そこは狭い空間であるが故に、客席と舞台との交流がきわめて親密で、当意即妙のやりとりを楽しむことができた。出し物は、閉鎖的な世界に陥りがちになった従来の因襲的な文学・芸術を打破しようとする意欲にみちていた。客席と舞台が一体となったこの空間には、自由な批判精神が躍動していた。そして、時の権力、権威、市民社会の規範などに対し、鋭い風刺の矢が放たれた。」名倉洋子『ドイツの民衆文化ベンケルザング 広場の絵解き師たち』(P.109)

さて、カバレットはもともとフランスはモンマルトルの黒猫亭から始まったと言われています。モンマルトルの芸術家やボヘミアンたちが芸術家たちが集う酒場を作ったのが始まりでした。このキャバレー文化は、20世紀の直前にはドイツに移植されました。ドイツでのカバレットの中心地はベルリン、ウィーン、そしてエンデが育ったミュンヘンでした。ミュンヘンのカバレットは奇しくもエンデが幼少期を過ごしたシュヴァ―ビングから生まれました。グロイルはシュヴァ―ビングをパリのモンマルトルに相通ずる性格を持っていたと指摘しています。「あらゆる種類の秘教的な詩人、革命家、芸術ジプシーたちが、<カフェ・シュテファニー>と<宿泊所フュールマン>との間の一角を彼らの縄張りとし、避難所(アジュール)としていた。」(グロイル『キャバレーの文化史Ⅰ』P.145) というのです。もっとも、ボカリウスによればこのようなシュヴァ―ビングの空気はエンデが過ごした時期にはナチスの足音によって変わっていってしまったようですが…。いずれにせよ、ミュンヘンカバレットが生まれた土壌とエンデが過ごしたミュンヘンが非常に近しいところにあったことは事実でした。その一例として、初期ミュンヘンの代表的カバレット十一人の死刑執行人には、若きオットー・ファルケンベルクが名を連ねているのです。前述した、エンデが通った演劇学校がその名を冠するオットー・ファルケンベルクがカバレットと深く関わっていたという事実は、エンデの生きた文化的な空気をどことなく感じさせるエピソードではないでしょうか。

ケストナーブレヒト

エンデとカバレットの関わりが僅かだったこともあり、また日本語で寄席などと見ると、カバレットそのものの文化的な意味を過小評価してしまいそうになります。かく言うぼく自身、カバレットの文化について調べて見るまで、ここまで文化的に豊かで文学シーンと繋がりのあるものだとは想定していませんでした。ですが、カバレットと関係した芸術家の中には、シュタイナーが高く評価したモルゲンシュテルン、フランク・ヴェーデキント、トゥホルスキーといった名前が見い出せますが、ここで注目したいビッグネームは何よりベルトルート・ブレヒトエーリッヒ・ケストナーです。若きブレヒトケストナーも元はベルリンカバレットで活躍していました。第二次大戦後、ケストナーミュンヘンでカバレット再興の中心人物となりました。ロマン・ホッケはエンデは「60年にはシュヴァ―ビング・シーンにしっかりと根を下ろしていた。」といい、エンデが食堂で友人たちと議論する隣で「時折、エーリヒ・ケストナーも隣の机に現れた。もっとも議論には加わらなかったが。」(Roman Hocke『Michael Ende und seine phantastische Welt』S.83)と書いています。余談ですが、エンデはジム・ボタンの推薦文をケストナーに依頼しています。その時は門前払いされたようなのですが、それも単にケストナーが『飛ぶ教室』や『二人のロッテ』の作者だったから、というだけでなく、こういった文化圏に一時はともに属していたことも関係しているのかもしれません。更にエンデにとって重要なのは、なんと言ってもブレヒトでしょう。良くも悪くも、若きミヒャエル・エンデに最も影響を与えた人物の一人はなんと言ってもブレヒトだからです。興味のあることに、名倉洋子先生によれば、ブレヒト(やケストナー)はドイツの大衆文化であるベンケルザングの文化をカバレットの舞台上に蘇らせたというのです。先に引用もした著書『ベンケルザング』で名倉は「演劇論的に見て、ベンケルザングはブレヒトの原点ともいいうるもの」(名倉洋子『ベンケルザング』P.117)と指摘してます。ベンケルザング及びベンケルゼンガーについてここで細かく述べるのは、この記事の本筋から離れるので避けますが、ざっくりといえばエンデのいわゆるパレルモ体験で知られるイタリアのパレルモカンタストーリエのドイツ版の大道芸人だと言って差し支えないと思います。日本にも同じような旅芸人がいて、おそらく世界の様々な文化の中に、似たような大道芸・旅芸人の文化が存在したのではないのでしょうか。それはそうと、エンデにとって大きな壁であったブレヒトが、カバレットという文化を通して、似たような大衆文化、大道芸と触れ合っている点は実に興味深い点であり、この論点はまた別に議論が必要な、そしてエンデ研究の文脈ではこの記事で書いた瑣末な話に比べてより重要な論点であると考えています。

おわりに

エンデが紹介された<小さな魚>の座長テレーゼ・アンゲロフは「多年に渡って、ミュンヘンのカバレットの良識的な存在であり、女座長、演出家、作家として活動した。彼女はのちにもほかの多くのドイツのカバレットの協力者となっている」(グロイル『キャバレーの文化史Ⅱ』127P )という人物で、当時のミュンヘンカバレットの中心的な人物の一人でした。そのためか、エンデは「スケッチ、シャンソン、ソロを書いた。初めて書き物でわずかながらの収入をえたのである」(Roman Hocke『Michael Ende und seine phantastische Welt』S.82)*2と言われているように、<小さな魚>だけでなく当時のミュンヘンのカバレット<爆笑爆撃協会><小さな自由><無名人>などで仕事をしたようです。エンデの伝記によれば、アンゲロフにはじめに依頼されたシラー生誕150周年の出し物のためのスケッチはかなり好評を博したとのことです。その後の仕事も好評だったと言われていますが、グロイルの記述には残念ながらエンデの名前がありません。エンデがごくわずかな間しかカバレットに関わっていなかったからなのか、その点についてはわかりませんが、ホッケが指摘するように書き物仕事として初めての収入を得たというわりには、これらについてあまり情報がないのが実情なのだと思います。さて、若きブレヒトケストナーなど、ドイツを代表するような作家たちもその名を連ねているカバレットは、作家を目指す若きミヒャエルにとってある種のスプリングボードになりえたのではないか?と思わざるをえません。ですが、ボカリウスも「彼らの話題はもっぱらその日その日の政治に向かった。それが彼に、これもやはり自分の世界ではない、と感じさせるのだった。」(ボカリウス『物語の始まり』P.237)と指摘しているように、エンデにとってカバレットはあまりに政治的すぎたようです。これには、時代の影響も少なくなかったのだと思います。カバレット文化もナチス時代に苦汁を味わいました。最初にご紹介したように、本来、風刺的な文化出会ったカバレットですが、戦中の経験もあってか、特にアンゲロフらのカバレットは政治風刺色の強いものだったようです。こういった傾向は、エンデにとってはやはり肌に合わなかったのでしょう。結果的に、エンデとカバレットは一瞬ふれあいながらも、互いに大きな影響を及ぼすことなく離れていったというのが実情だと思います。最初に書いたように、その意味ではエンデとカバレットを論じる意味というのはあまりないのは確かです。ですが、ぼく個人としては、やはりそこには共通する土壌や空気のようなものもあったと考えられるではないかと感じています。また、カバレットを通じて、ベンケルザング文化を背景として持つブレヒトと、カンタストーリエに大きく感化されたエンデの対照が浮かび上がってくる点は、また別の意味で重要であると思いますし、できればこれに関連する議論は別の記事で行いたいと思います。

参考文献

名倉洋子『ドイツの民衆文化 ベンケルザング―広場の絵解き師たち』,彩流社,1996
ハインツ・グロイル,平井正、田辺秀樹訳,『キャバレーの文化史Ⅰ 道化・風刺・シャンソン』,ありな書房,1983
ハインツ・グロイル,岩渕達治、平井正、田辺秀樹、保坂一夫訳『キャバレーの文化史Ⅱ ファシズム・戦後・現代』,ありな書房,1988
ペーター・ボカリウス,子安美知子訳,『ミヒャエル・エンデ 物語の始まり』,朝日選書,1995
Roman Hocke,Thomas Kraft,『Michael Ende und seine phantastische Welt』,Weitbrecht,1997

*1:固有名など、本記事全体の一貫性を考えて一部改変しました。カバレットの名前はハインツ・グロイル『キャバレーの文化史』の邦訳名に従います。

*2:スケッチ(Sketch)とはカバレット用の台本のことを指します。

エンデカフェ告知と遊戯論

エンデカフェ告知

エンデカフェ第三回目になります。今回は『はてしない物語』を取り上げる予定です。映画『ネバーエンディング・ストーリー』に対するエンデの批判を通じて、『はてしない物語』においてエンデが特に何を重要視していたのか、といった論点を逆に浮き彫りにしていければと考えています。また、なぜ映画があのような形になったのか、『はてしない物語』の解釈問題として捉えることで別の論点を提出できればと思っています。
日時:2019年1月26日(土) 17:00~
場所:町田三丁目会館
参加費:1000円
主催  風の会まちだ
協力 エンデカフェ
協力  社会の未来を考えるホリステイック教育研究所
申し込み・お問い合わせ niemandsgarten@gmail.com

『有限ゲームと無限ゲーム』

告知ばかりでなんなので、James.P.Carseの『Finite and Infinite Game(有限のゲームと無限のゲーム)』について、エンデとの関連で少し述べてみたいと思います。エンデがとりわけ遊戯(Spiel)をその芸術観の基礎においていたことは争いがないと思いますが、エンデにおいて遊びとはどういったものだったのかについて知ろうと思うとき、エンデの発言自体がかなり雑多な視点を含んでいるためー特にエンデ自身の創作論と芸術の受容論など、それぞれに異なった論点が截然と区別されないままに議論されているのでー、全体の見通しを得ることが難しくなっているといえます。一方、エンデはCarseの本について、『ものがたりの余白』では「すくなくとも、わたしが理解したところでは、この本はまさに、わたしが遊びについて言わんとすることを、語っています。人生の原理としての遊びです。」と述べています。また1988年のロマン・ホッケ宛の手紙では「ぼくはこの関連で最近見つけた本を君に勧めたい、James.P.Carseの『有限ゲームと無限ゲーム 人生のチャンス』という本だ。それは本当にパガト(Pagad)のはじめての哲学的定式化と言えるようなものなんだ。」(『Michael Ende und seine phantastische Welt』)と書き送っています。以上の発言からもわかるように、Carseの議論がエンデの遊戯論を理解するための補助線として有用だと言えるでしょう。個人的には、エンデの遊戯論を語る上での必読文献であろうと思います。
Carseはゲームには二種類のゲームが存在するといいます。タイトルにもなっている、有限ゲームと無限ゲームの二種類です。この二種類のゲームの最も根本的な違いは、ゲームの目的である、と言えます。簡略化していうと、有限ゲームはゲームに勝つこと(=ゲームを終わらせること)を目的とするのに対し、無限ゲームはゲームを続けることを目的としています。Carseは他の多くの遊戯論同様、ルールをゲームを特定するものであると規定します(「実際、我々がどんなゲームかをするのは、どんなルールなのかを知ることによるのである。」)。有限ゲームにおいて、プレイヤーは勝利条件ーこれはルールの一部でもあるわけですがーに合意します。一方、無限ゲームではプレイヤーはゲームを続けるという合意のもとにゲームをプレイします。場合によっては、無限のゲームのプレイヤーはゲームの継続のためにゲームのルールを変えることもできます(=終わることがない=無限)。また、無限ゲームは外的な成約を一切受けないため、例えばプレイヤーが死亡したとしてもゲームは継続します。他にも様々な概念対として無限ゲームと有限ゲームは表されます-例えば、庭と機械、文化と社会、ドラマ的と劇場的等々-が、基本的には上に述べたように、有限ゲームは終わることを、無限ゲームは続けることを目的としたゲームであるというのが基本にあります。
さて、Carseの議論とエンデの思想的関連を巡っては様々な論点がありえると思いますが、ここでは簡潔に示唆だけをしておきたいと思います。一つは、『はてしない物語』や『鏡の中の鏡』に見られるように作品自体が開かれて、無限に続けられることが目指されている点です。『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』では、ムトが今まで他者からの強制によって続けて来た旅が、ルールを変えることによって継続されるところで物語は幕をおろします。ムトが旅を続ける理由はムトが旅が好きだからというものでした。つまり、ゲームを楽しむためにルールを変えるということが、ここでは作品の主要なモチーフになっているわけです。こうして、作品を受容することがそのまま読者・鑑賞者にとっての一つの遊びであり、作品がある種遊びへの招待になるという観点から捉える事ができ、またその遊びが続くような作品の開かれた構造が、エンデ作品の-少なくとも一部の作品の-特徴となっていると言えるでしょう。もう一つは、文化との関連です。先に引用したホッケ宛書簡では、文脈として文化の問題、(文化の)創造的な原理としての遊びが問題として語られています。つまり、ホイジンガが明らかにしたような文化の原点としての遊びであり、ホモ・ルーデンスとしての人間です。Carseは社会は有限ゲームであり、それを含む形で文化としての無限ゲームが存在するといいます。この文化を根底におく態度は、エンデと共通する点でもあるように思います。また、Carseにおいてもエンデにおいても、文化と芸術(カルチャーとアート)と創造性は強く結びついています。特に、Carseは無限ゲームのプレイヤーは驚きに対して開かれているといいます。これはエンデの永遠に幼きものの概念と共通した特徴を持っています。なぜなら、この私たちのなかの永遠の子どもと呼ばれるものは、驚きに対して開かれており、創造性を失っていない者だからです。この子どもの遊びから文化が生じるのであるとすれば、エンデの永遠に幼きものとは無限ゲームのプレイヤーでもあると言えるかもしれません。また、先の引用でエンデが「パガトの哲学的定式化」といっています。エンデにとってパガトとは魔術師であり奇術師、つまり創造的で技芸/業(マニエラ!)のあるものだからです。そして、「自己紹介」にもあるようにパガトと子ども(Kind)こそが、エンデの芸術を象徴する2つのモチーフであり、それを媒介するのが遊びなのだとすれば、やはりエンでの芸術理解を知るためには、エンデの遊戯論をこそ取り上げる必要があるのと言えそうです。

告知「第二回エンデカフェ」

告知ばかりで申し訳ありませんが、前回行わせて頂いたエンデカフェの第二回を開催します。今回は、続けて『モモ』を扱います。内容的には、『遺言』以来の『モモ』の貨幣論的解釈を概観したあと、お金と時間の共通点を足がかりに、「時間の花」のシーンを中心に読んでいこうと思っています。特に、「心Herz」と「言葉Wort」を巡る議論になる予定です。ヴァインレープの議論を参照して、既存の解釈とは違う方向の議論にできればなぁと思っています。ちなみに、余談ですがエンデカフェで『モモ』を扱っていることもあったり、先日黒姫童話館でモモプロジェクトのイベントに参加してきたりしたこともあって、『モモ』について多少考えたので(道化としてのモモとか無としてのモモとか)、エンデカフェのネタにはならなそうですし、そのうち記事にしたいと思ってます。

日時:11月17日(土) 17:00~
場所:町田文学館ことばらんど
(https://www.city.machida.tokyo.jp/bunka/bunka_geijutsu/cul/cul08Literature/)
参加費:1000円
主催  エンデカフェ
協力  社会の未来を考えるホリステイック教育研究所
申し込み・お問い合わせ niemandsgarten@gmail.com

告知「エンデカフェ」

ひょんなことから、私が講師役としてエンデについてお話させていただくことになりました。まずは初回ということで、9月22日(土)に町田にて『モモ』についてお話させていただく予定です(詳しい日時等は下記参照)。今のところ、エンデの演劇学校時代~モモ出版時期くらいまでの伝記的お話をメインに、可能であれば『モモ』のロマン派的形式について少し触れてみたいと思っています。もしご興味のある方がいらしたら、ぜひお越しください。なお、お申込みは原則下記メールアドレスで受け付けております。

9/15追記:場所が変更になりました。お間違いのないようお気をつけください。

日時   2018年9月22日(土)18:00~19:30
場所   町田生涯学習センター 8階 学習室7

参加費  一人1000円
主催  エンデカフェ
協力  社会の未来を考えるホリステイック教育研究所
申し込み・お問い合わせ niemandsgarten@gmail.com

魔法の学校の組み合わせ術

エンデのメルヒェン集『魔法の学校』の表題作「魔法の学校」の中で描かれている、魔法を使う訓練の一つを取り上げてみたいと思います。その訓練とは次のようなものです。

ジルバー先生はつぎの練習へと授業をすすめていました。それは、ある物をべつな物に変えるという練習です。ムークとマーリの話では、練習はそのたびに「魔法の橋」とでもいうようなものを必要とするということでした。つまり、ある物とべつな物とに共通している点、つまり両方が似ているところをさがしだすことらしいのです。この「魔法の橋」をつうじて、望む力で、べつな物に変えるわけです。

あるものを別な物に変えるという時点で、以前取り上げたカエルを王子様に変えることというエンデのメモが想起されます。それはそれとして、単に二つの物の類似点を見つけるだけならば簡単なものに思えます。しかし、エンデは次のような例を挙げています。

フォークをリンゴに変えようとすると、たいへんです。この場合は、つぎのようにかんがえるのです。形が大きくても小さくても、フォークはフォークです。形が大きいとすると、つぎにフォークが鉄でできていても木でできていても、やっぱりフォークにかわりはありません。さて、木のフォークは、大きくても小さくてもそれぞれ形は木の枝ににています。だから、木とは、大きくて、先がたくさんわかれているフォークだということもできます。もちろん、リンゴの木も、そのなかにはいります。リンゴは、リンゴの木の一部分ですが、それぞれのリンゴのタネには、リンゴの木ぜんぶがおさまっています。ということは、リンゴはフォークである、ということができるのです。とすれば、反対のこともいえます。つまり、フォークはリンゴである、と。

エンデはこれでもまだ魔法の橋は短いほうだと述べています。さて、ここで行われているのは、合理的言語においては異質なもの同士を結びつけるという操作であるように思えます。エンデが強く影響を受けたグスタフ・ルネ・ホッケは、その著書『文学におけるマニエリスム』で文学的マニエリスムにおける組み合わせ術(アルス・コンビナトリア)について述べています。「文学的マニエリスムはこれ(筆者注:組み合わせ術)を美学的異論理学、つまり幻想についても用立てる、という意味は、演繹の連鎖を、合理的な語の結合ならぬ非合理な語の結合、〈奇妙な〉〈異常な〉隠喩や〈鬼面人を驚かす〉象徴を獲得するために用いる、ということである。」また、このような結合を可能にする能力は機智(インゲニウム)と明察(アクテッツァ)と呼ばれます。ホッケはジャン・パウルを取り上げて、「明察は、ジャン・パウルにしたがえば、〈相違を発見するため〉に存在する。機智はむしろ〈通約可能な量における相似の状態〉を発見する。」といいます。この綺想主義の議論に従えば、「魔法の学校」におけるこの授業は綺想主義的な綺想の発見と極めて近いものであると同時に、類似点の発見という作業は機智という能力に依拠していると言えそうです。また、エンデが文学的マニエリスムの潮流に棹さしていることを表していると推測させもします。
ところで、エンデは引用した箇所の続きで、あらゆるものが魔法の橋でつながると述べています。それゆえに、あらゆるものは一つである(全は一である)というのです。組み合わせ術の伝統には、もう一つそのような全てを記述し尽くす方法が存在します。文字の順列組み合わせによって作られる、いわばバベルの図書館、万象図書館です。ジョン・ノイバウアーは組み合わせ術の伝統をライムンドゥス・ルルスから始めて、アタナシウス・キルヒャーライプニッツを経由し、ドイツロマン派、そして現代の記号論理学にまで伸ばしています。このような合理的で盲目的な文字の順列組み合わせがエンデ作品の中でも存在します。『はてしない物語』の中の元帝王たちの都におけるサイコロ遊びです。そこでは猿が書いたシェークスピアと似たことが行われています。つまり、サイコロを振って出た文字の組み合わせを書き留めていけば、いつか何らかの詩、何らかの文学作品も生まれうる、というわけです。そこではこの遊びの結果として記述された文字列が記されていますが、その一部はキーボードのQWERTY配列から取られています。エンデが使っていたのは当然タイプライターで、私たちが現在使っているようなパソコンは当時はまだ存在していませんが、ここに奇妙な一致を感じさせます。ともかくも、このような盲目的な順列組み合わせによる組み合わせ術が元帝王たちの都に帰されていることは示唆的であるように思います。元帝王たちの都の描写自体が、おおよそグロテスクと言えるような様相を呈しています。「町といっても、これまで見たこともない奇妙きてれつなものだったが、とにかく建物がたくさんあるのだから町というのに近いものではあった。その建物は、まるで大きな袋からさいころを無造作にぶちまけたように、計画も意味もなく、ごちゃごちゃになっていた。通りもなければ広場もなく、秩序らしいものは何もなかった。」「玄関が屋根についていたり、階段が登れるはずもないところにあったり、頭を下にして降りなければならなかったり、しかも降りたところは空中でなんにもないというぐあいだった。塔は斜めに立ち、バルコニーは壁から垂直にぶらさがり、ドアのあるべきところに窓があり、壁のはずが床になっていた。(中略)この町は、狂気そのものに見えた。」。元帝王たちの都の描写の中では、確かに異質なものの組み合わせがあるにもかかわらず、それは「狂気そのもの」なのです。このような組み合わせ術がネガティブなものと捉えられていることは明らかです。この二つの間には、どんな違いがあるのでしょうか。それは結合に際する機智であり、一つの法則、ルールであるように思えます。それは合理的な法則ではありませんが、一つの法則であり、ホッケの言葉で言えば異論理学ということになるかもしれません。夢の論理とも言えるかもしれません。これらは物語における、あるいはファンタジーにおけるルール、遊びのルールとの関係を推測させます。エンデにとって、物語の内的法則に従うことがその作劇上、非常に重要なことでした。例えば、アッハライがシュラムッフェンになるのは、彼らが芋虫なので蛹になり孵化して蛾になるわけです。元帝王たちの都の住人が、もはやファンタージエンで先に進めない、望むことができないのは、過去を持たないからです。過去とは歴史であり物語(Geschichte)です。『魔法の学校』で語られる望む力の規則に「自分の物語に属しているのは、本当に望んでいることだけ」というものがあります。望むことと物語を持つことは関連付けられているわけです。物語を持たないので、望みも持たず、物語の内的規則にも縛られないので、そこには純粋に狂気と言えるものが現れるのだと言えそうです。余談ですが、ロマン・ホッケ編の「偉大なるミヒャエル・エンデ読本」のなかで、『はてしない物語』の未公開原稿と言われる一章が収められています。それは『魔法の学校』の原型といえるような物語であり、バスチアンはアイゥォーラおばさまから魔法を教わります。上述の、あるものを別のものに変える魔法の訓練もそこにはあります。つまり、『はてしない物語』と『魔法の学校』が連関しているのは偶然ではないとかんがえられるわけです。
いずれにしても、こうして内的法則に従う詩的錬金術としての組み合わせ術と盲目的で順列組み合わせ的な組み合わせ術とを対比させてみますと、『魔法の学校』のこの訓練そのものが合理的言語に対する、換言すれば唯物論的思考に対する、形象言語の詩的錬金術の試み、世界のもう一つの別の語りだと考えさせるものになります。ヴィーコデカルト的クリティカに対して、トピカを称揚しました。その際、重視されたのがインゲニウムという能力であり、上村忠男氏はヴィーコのこのインゲニウムの重視を同時代の綺想主義と関連付けています。つまり、この綺想主義的詩的錬金術はそれ自体、デカルト主義的、科学主義的なものへのアンチテーゼであり、合理的言語に対する形象言語の力なのだ、そういえるように思います。