魔法の学校の組み合わせ術

エンデのメルヒェン集『魔法の学校』の表題作「魔法の学校」の中で描かれている、魔法を使う訓練の一つを取り上げてみたいと思います。その訓練とは次のようなものです。

ジルバー先生はつぎの練習へと授業をすすめていました。それは、ある物をべつな物に変えるという練習です。ムークとマーリの話では、練習はそのたびに「魔法の橋」とでもいうようなものを必要とするということでした。つまり、ある物とべつな物とに共通している点、つまり両方が似ているところをさがしだすことらしいのです。この「魔法の橋」をつうじて、望む力で、べつな物に変えるわけです。

あるものを別な物に変えるという時点で、以前取り上げたカエルを王子様に変えることというエンデのメモが想起されます。それはそれとして、単に二つの物の類似点を見つけるだけならば簡単なものに思えます。しかし、エンデは次のような例を挙げています。

フォークをリンゴに変えようとすると、たいへんです。この場合は、つぎのようにかんがえるのです。形が大きくても小さくても、フォークはフォークです。形が大きいとすると、つぎにフォークが鉄でできていても木でできていても、やっぱりフォークにかわりはありません。さて、木のフォークは、大きくても小さくてもそれぞれ形は木の枝ににています。だから、木とは、大きくて、先がたくさんわかれているフォークだということもできます。もちろん、リンゴの木も、そのなかにはいります。リンゴは、リンゴの木の一部分ですが、それぞれのリンゴのタネには、リンゴの木ぜんぶがおさまっています。ということは、リンゴはフォークである、ということができるのです。とすれば、反対のこともいえます。つまり、フォークはリンゴである、と。

エンデはこれでもまだ魔法の橋は短いほうだと述べています。さて、ここで行われているのは、合理的言語においては異質なもの同士を結びつけるという操作であるように思えます。エンデが強く影響を受けたグスタフ・ルネ・ホッケは、その著書『文学におけるマニエリスム』で文学的マニエリスムにおける組み合わせ術(アルス・コンビナトリア)について述べています。「文学的マニエリスムはこれ(筆者注:組み合わせ術)を美学的異論理学、つまり幻想についても用立てる、という意味は、演繹の連鎖を、合理的な語の結合ならぬ非合理な語の結合、〈奇妙な〉〈異常な〉隠喩や〈鬼面人を驚かす〉象徴を獲得するために用いる、ということである。」また、このような結合を可能にする能力は機智(インゲニウム)と明察(アクテッツァ)と呼ばれます。ホッケはジャン・パウルを取り上げて、「明察は、ジャン・パウルにしたがえば、〈相違を発見するため〉に存在する。機智はむしろ〈通約可能な量における相似の状態〉を発見する。」といいます。この綺想主義の議論に従えば、「魔法の学校」におけるこの授業は綺想主義的な綺想の発見と極めて近いものであると同時に、類似点の発見という作業は機智という能力に依拠していると言えそうです。また、エンデが文学的マニエリスムの潮流に棹さしていることを表していると推測させもします。
ところで、エンデは引用した箇所の続きで、あらゆるものが魔法の橋でつながると述べています。それゆえに、あらゆるものは一つである(全は一である)というのです。組み合わせ術の伝統には、もう一つそのような全てを記述し尽くす方法が存在します。文字の順列組み合わせによって作られる、いわばバベルの図書館、万象図書館です。ジョン・ノイバウアーは組み合わせ術の伝統をライムンドゥス・ルルスから始めて、アタナシウス・キルヒャーライプニッツを経由し、ドイツロマン派、そして現代の記号論理学にまで伸ばしています。このような合理的で盲目的な文字の順列組み合わせがエンデ作品の中でも存在します。『はてしない物語』の中の元帝王たちの都におけるサイコロ遊びです。そこでは猿が書いたシェークスピアと似たことが行われています。つまり、サイコロを振って出た文字の組み合わせを書き留めていけば、いつか何らかの詩、何らかの文学作品も生まれうる、というわけです。そこではこの遊びの結果として記述された文字列が記されていますが、その一部はキーボードのQWERTY配列から取られています。エンデが使っていたのは当然タイプライターで、私たちが現在使っているようなパソコンは当時はまだ存在していませんが、ここに奇妙な一致を感じさせます。ともかくも、このような盲目的な順列組み合わせによる組み合わせ術が元帝王たちの都に帰されていることは示唆的であるように思います。元帝王たちの都の描写自体が、おおよそグロテスクと言えるような様相を呈しています。「町といっても、これまで見たこともない奇妙きてれつなものだったが、とにかく建物がたくさんあるのだから町というのに近いものではあった。その建物は、まるで大きな袋からさいころを無造作にぶちまけたように、計画も意味もなく、ごちゃごちゃになっていた。通りもなければ広場もなく、秩序らしいものは何もなかった。」「玄関が屋根についていたり、階段が登れるはずもないところにあったり、頭を下にして降りなければならなかったり、しかも降りたところは空中でなんにもないというぐあいだった。塔は斜めに立ち、バルコニーは壁から垂直にぶらさがり、ドアのあるべきところに窓があり、壁のはずが床になっていた。(中略)この町は、狂気そのものに見えた。」。元帝王たちの都の描写の中では、確かに異質なものの組み合わせがあるにもかかわらず、それは「狂気そのもの」なのです。このような組み合わせ術がネガティブなものと捉えられていることは明らかです。この二つの間には、どんな違いがあるのでしょうか。それは結合に際する機智であり、一つの法則、ルールであるように思えます。それは合理的な法則ではありませんが、一つの法則であり、ホッケの言葉で言えば異論理学ということになるかもしれません。夢の論理とも言えるかもしれません。これらは物語における、あるいはファンタジーにおけるルール、遊びのルールとの関係を推測させます。エンデにとって、物語の内的法則に従うことがその作劇上、非常に重要なことでした。例えば、アッハライがシュラムッフェンになるのは、彼らが芋虫なので蛹になり孵化して蛾になるわけです。元帝王たちの都の住人が、もはやファンタージエンで先に進めない、望むことができないのは、過去を持たないからです。過去とは歴史であり物語(Geschichte)です。『魔法の学校』で語られる望む力の規則に「自分の物語に属しているのは、本当に望んでいることだけ」というものがあります。望むことと物語を持つことは関連付けられているわけです。物語を持たないので、望みも持たず、物語の内的規則にも縛られないので、そこには純粋に狂気と言えるものが現れるのだと言えそうです。余談ですが、ロマン・ホッケ編の「偉大なるミヒャエル・エンデ読本」のなかで、『はてしない物語』の未公開原稿と言われる一章が収められています。それは『魔法の学校』の原型といえるような物語であり、バスチアンはアイゥォーラおばさまから魔法を教わります。上述の、あるものを別のものに変える魔法の訓練もそこにはあります。つまり、『はてしない物語』と『魔法の学校』が連関しているのは偶然ではないとかんがえられるわけです。
いずれにしても、こうして内的法則に従う詩的錬金術としての組み合わせ術と盲目的で順列組み合わせ的な組み合わせ術とを対比させてみますと、『魔法の学校』のこの訓練そのものが合理的言語に対する、換言すれば唯物論的思考に対する、形象言語の詩的錬金術の試み、世界のもう一つの別の語りだと考えさせるものになります。ヴィーコデカルト的クリティカに対して、トピカを称揚しました。その際、重視されたのがインゲニウムという能力であり、上村忠男氏はヴィーコのこのインゲニウムの重視を同時代の綺想主義と関連付けています。つまり、この綺想主義的詩的錬金術はそれ自体、デカルト主義的、科学主義的なものへのアンチテーゼであり、合理的言語に対する形象言語の力なのだ、そういえるように思います。