『ミスライムのカタコンベ』について-IwriとMisraim

エンデの短篇集『自由の牢獄』に『ミスライムのカタコンべ』という作品があります。エンデ作品の中でもぼくが好きな作品のベスト5には入る作品なのですけど、この記事ではこの作品について少しだけ書いてみたいと思います。とはいえ、全体的な作品解釈というわけではなく、フリードリヒ・ヴァインレープ*1の観点からイヴリィとミスライムについて興味深いと思える点を書いて見たいと思います。もちろん、これは解釈の一つのバリエーションにすぎないので、これが正しいとかそういうことではないことは最初に書いておきたいと思います。
さて、まずは本作の主人公の話をしないといけません。本作の主人公の名前はイヴリィと言い、原文ではIwriと書かれています。実はこのIwriというのはヘブライ語由来の言葉で、旧約聖書のヨセフに使われている言葉でもあります。ヴァインレープはIwriという言葉について、次のように説明します。

ヨセフはIwri、ヘブライ人、「彼岸から」―ヘブライ語からはそう訳せる―である。彼はここに現れている人間であるが、しかし、彼岸から来た。彼の現れの中で、彼は二つの側、二つの現実を一つにしている。(Kabbala im Traumleben des Menschn S.73)

つまり、Iwriとは「彼岸の人(向こう側から来た人)」だというのです。エンデが隠れたもの、もう一つの別の現実というのと同様に、ヴァインレープにとっても世界はこちらとあちら、此岸と彼岸、現れる側と隠れた側とにわかれています。また、ここもエンデと共通するところですが、何かどこか彼方に隠れた側がある、というのではなく、現れたものと同時に隠れたものはそこにある、しかし人間にとって隠されているという立場をとっています。もう一つ付け加えるなら、ヴァインレープは聖書の出来事はかつて起こったことではなく、今、ここで、人間の中で起こっていることだといいます。子安美知子先生が『「モモ」を読む』でモモの作品全体を人間の内面の反映として解釈されていたように、エンデにとっても作品の世界は同時に人間の内面のイメージでもあるわけです。そう考えていくと、カタコンベ・システムのなかにおけるイヴリィとは、人間の内面における隠れたものであるという風に考えることもできそうな気がしてきます。さて、ヨセフにはもうひとつ興味深い点があります。ヨセフは夢の解釈者なのです。ヴァインレープは、

ヘブライ語で書かれた「夢解釈」というタイトルの本がある。それはこう始まる。「この本はヨセフが我々に残した夢解釈に従って書かれている」。あらゆる夢解釈はヨセフ-側から人間の中へやってくる。だから、「残した」はここでは歴史的な意味でいわれているのではない。そこで言わんとされていることは、夢解釈に関する我々の全ての知は、現れているものの世界のなかで、我々の中で「目に見えることなしに」生きることができるヨセフに由来するということである。(ibid S.194)

と書いています。作中でイヴリィは夢を見るというところが重要なポイントになってきます。イヴリィが自分たちがカタコンベに囚われている囚人であることに気づくきっかけは、夢に由来するからです。ここでも、イヴリィとヨセフは何か響きあうところがあるように思います。
ところで、タイトルにもあるミスライムとは一体なんのことなのでしょうか。実はミスライムもヨセフと関係している言葉です。ちなみに、エンデはMisraimと書いていますが、ヴァインレープではmizrajimです。ヴァインレープは次のように語ります。

病気であることは、ヘブライ語でエジプトに対応するミツライムmizrajimに属している。この言葉はすでに自身のうちに2性、分裂を含んでいる。ミツライムで人間は常にあれか-これかに苦しむ。人は結びつくことのない二つの現実を生きている。そうして、混乱し、1性が存在することを信じず、聖なるものと俗なるものを区別し、交互に攻撃的であったり抑圧的であったりする。あらゆる人間は多かれ少なかれミツライムにいる。(ibid S.142)

ミスライムはエジプトだというのです。そして、旧約のヨセフはエジプトに売られていきます。そして、ミスライムは2性であり分裂であるといいます。つまり、現れたものの側です。「カタコンベ」ではどうでしょうか。イヴリィたち地下の住人はカタコンベに逃げて来ます。そして、彼らはGULを食べることでかつて来た場所を忘れます。GULについて、訳者の田村先生は物質を意味する言葉であると解説されています*2。物質とは、現れたものの側です。GULを食べることによって、彼らは一種の病気になるのです。1性の世界から2性の世界へと逃げてくることで、一つであったもの・1性(Einheit)が、現れたものと隠れたものとに分裂するわけです。ヴァインレープは旧約聖書の洪水やバベルの塔建設における混乱*3によって、人間は半分になった、半分は隠されたと語りますが、地下の民もミスライムに逃げ込むことによって半分になるのです。イヴリィがこのことに気づくのは、夢を通じてです。夢世界とは1性の側、隠れた側です。夢を見るとは、1性の世界に触れるということなのです。隠れた側を思い出すからこそ、イヴリィは自分の来し方を思い出すわけです。ちなみに、ヴァインレープにおいては、覚醒の世界、昼の世界は因果的(Kausal)であり、夢世界は非因果的(akausal)であると言われます。因果論的/非因果論的という、特に合理性と創造性に関するエンデの観点からも、このことを見ることができるかもしれません。
最後に、ヨセフとイヴリィの物語はかなり異なったものになっていきます。ヨセフは夢の解釈を通じてエジプトを支配したとヴァインレープはいいます。一方で、イヴリィは危険な扇動者に仕立てあげられ、ミスライム・システムの外部へと追いだされます。イヴリィがどうなったのか、エンデは書いていませんし、作中からそれを確実に推測させる描写もありません。これはまさに読者の解釈に委ねられているのであって、エンデ作品の多くに見られる作品の開かれでもあるように思います。そこをどう捉えるかは、まさに読者次第だというように思います。

*1:エンデがシュタイナーと並んで集中的に取り組んだと言われている人物でカバリスト。ロマン・ホッケの報告によれば、1981年4月、ヴァインレープはエンデ夫妻を訪れ、そこから彼らの交流は始まったという。エンデはその後ヴァインレープが当時開催していたチューリッヒのセミナーに足を運んだといわれている。

*2:ぼく自身はまだヴァインレープの著作中では出会っていません。とはいえ、エンデの知識はヴァインレープだけに基づくものではないので、他のところから得ている可能性も否定できません。

*3:ヴァインレープによれば、洪水(Sintflut)はヘブライ語で混乱を意味するといいます。