「永遠に幼きものについて」読書会レジュメ

テキスト選択の目的

ミヒャエル・エンデの読書会を行うにあたり、せっかくなのでミヒャエル・エンデの世界観について考えたいと思い、僕がエンデの世界観/芸術観が最もコンパクトにまとまっていると思う「永遠に幼きものについて(Über Ewig-Kindliche)」を選びました。この講演で展開される遊戯/美/超越性/フモール(Spiel/Schöheit/transzendent/Humor)をエンデは自分の詩的風景の4方位(vier Himmelsrichtungen)として位置づけています。言い換えれば、これはエンデの芸術観あるいは世界観の4つの主要な柱といえると思います。なお、「ある中央ヨーロッパ先住民の思い」では文明砂漠の4方位をマルクスフロイトダーウィンアインシュタインといっており、この対比も面白いです。このテキストの核心の一つは、芸術とは価値を生み出し、その経験を通じて人間が治癒される、という点だと思います。これらは特に『はてしない物語』にも通じると思います。詳しいことは、読書会の際に参加者の方々とお話出来ればと思っています。

要約

なぜ自分は子どものために書くのか

この問いからエンデは出発します。エンデは、子どものためではなく、自分の内なる子どものために書く、と語ります。内なる子どもとは、人間の創造性・未来・人間が人間であるもの、つまり人間性であるような内なるものです。エンデはこれをゲーテの「永遠に女性的なもの(Ewig-Weiblichen)」と並置して「永遠に幼きもの(Ewig-Kindliche)」と呼びます*1。ファンタジー形式とは、この内なる永遠に幼きものが捉える彼岸的なもの、超越的なものの実在を語る芸術の形式なのです。

なぜ詩人は書くのか

エンデはこの問いに一般的に言われる神秘的な答え/理性的な答えの二つの答えを検討します。神秘的なものは、詩人は実存的な理由で書かざるをえないのだ、ということ。理性的なものは、詩人は啓蒙的な教師である、というものです。しかし、この正反対に見えるどちらもが共通するものがある。それは、意味に満ちたこと=有意義性(Sinnvoll)と役に立つこと=有用性(Nützlichen)とを同一視している、ということです。エンデはこのどちらでもない第三の立場を取ります。それは詩人は価値(Wert)を創りだし、新しくするものである、ということです。

遊戯(Spiel)

エンデは自分を創作に駆り立てるのは、ファンタジー(想像力)の自由で意図のない遊びの楽しみ(Lust am freien und absichtlosen Spiel der Phantasie)である、といいます。遊戯の本質とは何か。道徳的な説教をしないこと、モラルの外にあるということです。遊戯の最中に要求されることは、ルールを守ることだけです。ルールを守る限りにおいて、参加者は自由に振舞うことができます。そして、芸術の遊戯の体験を通して、人間は頭と心と感覚の統一(Ganzheit von Kopf,Herz und Sinnnen)を回復する、この治癒こそが芸術の課題なのだ、というのがエンデの考えです。

美(Schönheit)と美の超越性(transzendent)

意図のない遊戯を通して人間の統一性を取り戻すもの、これが美です。美だけが、自由な遊びの価値、ポエジーや芸術の価値を決定します。しかし、美は自由な遊戯と関連しているときにのみ、その有効性を保つことができます。美の尺度を現実に適用すれば、すぐに非人間的なことになってしまいます。(cf.誘惑者の日記)さて、美はその本質において超越的なもの(transzendent)です。*2美とはもうひとつの現実から射し込む光であり、その光の中で此岸の世界のありふれたものが、彼岸の世界、超越的な世界、もうひとつの別の現実を開示します。エンデは、唯物論的世界観に対して、価値や意味に溢れた世界観を対置し、生に意味や価値を与えることが詩人の仕事であるとします。

フモール*3(Humor)

遊戯・美・超越性だけでは、詩人は再びスピリチュアルなもの、神秘的なものを教示するグルになってしまいます。そこにフモールが導入されます。フモールは、超越的/内在的、神秘的/世俗的、理想的/現実的といった二値的なものを、同時に肯定します。いわば、フモールはあるがままを受け入れ、あるがままで愛されることを教えてくれる、そういったものです。そして、同時に、フモールには意図がなく自由であり、ここで遊戯へと返っていき、遊戯/美/超越性/フモールは回帰的な円環を作るわけです。

引用

本文から重要と思われる文章をいくつか引用します。僕の解釈上、訳を変更している部分もあります。底本は、Michael Ende,1994,Michael Endes Zettelkasten: Skizzen & Notizen,Weitbrecht(エンデのメモ箱,田村都志夫訳,岩波書店,1996)。

これまでの生涯を通じて、今日、ほんとうの大人と称されるものになることを、私は拒み続けてきました。つまり、脱魔術化され、凡庸で、啓蒙された、いわゆる事実の世界に存在する、あの脱魔術化され、凡庸で、啓蒙された不具の存在に、です。その際、私は偉大なフランス詩人の言葉を思い出します。「我々が全く子どもでなくなったとき、我々はすでに死んでいる。」

まだ凡庸になりきらず、創造性が少しでも残る人間なら、だれのなかにもこの子どもは生きていると、私は思います。偉大な哲学者、思想家たちは、太古からの子どもの問いを新しく立てたにほかならないのです。私はどこから来たのか?私はなぜこの世にいるのか?私はどこへ行くのか?生きる意義とは何なのか?偉大な詩人や芸術家や音楽家の作品は、かれらのなかにひそむ、永遠の神聖な子どものあそびから生まれたのだと思います。9歳でも90歳でも、外的な年齢とは無関係に、私たちのなかに生きるこの子ども、いつまでも驚くことができ、問い、感激できるこの私たちの中の子ども。あまりに傷つきやすく、無防備で、苦しみ、慰めを求め、望みを捨てないこの私たちのなかの子ども。それは人生の最期の日まで、私たちの未来を意味するのです。

永遠に幼きものは―あらゆる外的な利口さの彼方で―(シャガールが描くような不思議なものの)すべてが存在することを知っています。それどころか、それが此岸の現実にすぎないものすべてより現実的であることさえ知っています。

(詩人が書く理由の)二つの答えは俗物的な思考、つまり、意味のあるものを役に立つものとして以外に考えられない思考の帰結です。

価値は自ずからそこにある、いわば生得的な、自明のものではありません。そうではなく、価値は創造され、常に更新されねばなりません。そのことによって、価値は現存する(現前する)のです。あらゆる社会批判は共通の価値を前提にしています、つまり人間の価値です。この価値を常に新しく作り出すこと、それが詩人の課題です。

遊戯はそれが本物の遊戯にとどまるならば、一度として道徳を教えることが出来ません。それはその本質に従えば道徳を超越しているのです。つまり、それはあらゆる道徳的なカテゴリーの外に存在します。

真のポエジー、真の芸術は常に頭とこころと感覚の統一体から生まれ、この統一体を感じとる人間に、再びこの統一体を創りだします。つまり、それは人間を回復させ、癒すのです。

美は、他の世界から我々の世界の中に輝き入るいわば光であり、それによってあらゆる事物の意味を変容させます。美の本質は秘密に満ちた、奇跡的なものです。この世界のありふれたものがその光のなかで別の現実を開示します。我々の誰もがそこからきて、そこへ帰っていき、我々がそれを忘れているにもかかわらず、全人生を通じて憧れ続ける、あの別の現実をです。

このような(唯物論的な)世界像からは、もはや倫理的、宗教的、美的価値を導き出すことはできません。すべては、一番どうでもよい生の機能(nebensächlichste Lebensfunktion)ですら、このような見方のなかでは無意味だし、茶番にすぎないのです。このような世界観に対して、別な世界観を打ち立てねばなりません。世界にはその聖なる秘密を、人間にはその意義を取り戻してくれる世界観です。

フモールは狂信的でもドグマ的でもない。それはいつも人間的だし、優しい。フモールとは、自分の不完全さを苦渋に陥ることなくみとめ、気持ちを楽にしてくれる、あの意識の姿勢です。そしてまた、他人の不完全さも微笑んでうなずける。

おまけ

エンデの他文献から補足になりそうなものを一部。それとエンデとの関係の有無に関わらず、なんとなく僕が気になった思想家の文章を載せておきます。

本当の芸術は、耐えられないほどの悪や罪を描きます。悲劇の名作なんか、ほんとうに耐え難いものです。でも、それが舞台という魔術的な次元に移し替えられることによって、ホメオパティー的方法で観客の中に逆方向の力を呼び覚まします。観客をかえって健康にしてくれる力です。それが芸術の秘密です。(ミヒャエル・エンデ/子安美智子,エンデと語る)

エンデ:芝居を見るときの私たちは、舞台上の出来事に対してモラーリッシェ・ファンタジー(道徳的想像力)を実行する必要がありません。オセロがデスデモーナを殺している場に、あなたは制止しに飛んでいく必要はない。が、日常空間のなかでは、だれかがだれかを殴っているのを見たら、あなたはその瞬間モラルの決断をせまられます。
子安:するとその舞台空間と日常空間とは別の世界であること、そして舞台空間でモラルの意識から解放され、犯罪的な行為をもエンジョイすることによってホメオパティーの作用が生じ、私たちはかえって健康になって、日常世界でのモラーリッシェ・ファンタジーも強められる、ということでしょうか…(ミヒャエル・エンデ/子安美知子,エンデと語る)

週の平日には教壇から学生にむかい、人間の意識とは脳と神経組織における電気化学的プロセスの総和にすぎないと宣告する大学教授が、日曜日になると善良な市民、よきキリスト者として教会のミサに出席し、人間の持つ不滅の魂についての説教に耳をかたむけている。この大学教授は一方を信仰し、他方を知る事をうまくやりおおせるのだ。(Michael Ende,Michael Endes Zettelkasten,Gedanken eines zentraleuropäischen Eingeborenenある中央ヨーロッパ先住民の思い)

もちろん、私は―思慮深い人たちの大半が常にそうしており、今もまたそうするように―天使と悪魔、そして叡智存在たちと様々な性質の存在たちによってヒエラルキー的に秩序付けられた霊的宇宙を信じている。(Michael Ende,Michael Endes Zettelkasten,Auch ein Grundこれもまた根拠です)

一本の木の外的形姿の背後になんらかの生の本質的なものが存在します、つまり霊的な性質があるのです―自然のあらゆる被造物の背後にも同様に。愛をもたず、唯物的に(非精神的に)世界をイメージすることだけが、これを疑うことができます。この唯物的な解釈が、まさに我々を自然の荒廃へと導いたのです。私が言うことは、汎神論とは完全に無関係です。(Michael Ende,Michael Endes Zettelkasten,Brief an eine erschrockene Leserinびっくりした女性読者への手紙)

明るいことや軽やかなことも、いやこれらこそ、死を背景にしてはじめて価値がある、特別な価値があるのです。死について知っているということです。これはしかし、語ることではないし、語るべきでもない。おのずから経験として生まれることです。それを私は船の難破と言いました。…(中略)…東京での講演(本テキスト)で、わたしはこのことを少し示唆しようとしました。ユーモアとはおふざけではないし、おふざけや陽気さの一種でもない、ユーモアとはひとつの世界観なのだということをしめそうとしたのです。この世界観は、実は挫折が避けえないと知っていることから生まれるのです。(ミヒャエル・エンデ,田村都志夫編訳,ものがたりの余白)

劇場の観客席からの本当に大きいな笑いは、反省されたものではまるでありません。それは純粋に無意識から、本当にお腹から出る笑いです。「他人の不幸を喜ぶこと」とはまったく関係ない。わたしはこういったことがあります。「精神は語り、心は泣き、知覚は笑う」(ミヒャエル・エンデ,田村都志夫編訳,ものがたりの余白)

エンデの芸術の作用とモラルの関係という論点は非常に逆説的です。分かりにくい部分があると思ったので、子安さんとの対談でかなり明確になっているところを引用しました。また、本文からの引用は少なかったので、唯物論に関連する部分を同メモ箱から少し。訳は変えてあります。メモ箱からですと、書簡二つ、創造力、ファンタジーとアナーキー、ある中央ヨーロッパ先住民の思いなどが参考になると思います。追記:フモールについて、晩年のエンデのインタビューから追加しました。

人間は具体的な表象を想像力(ファンタジー)を通して、理念全体の中から作り出す。だから自由な精神にとって、自分の理念を具体化するためには、道徳的想像力が必要なのである。道徳的想像力こそ、自由な精神にふさわしい行動の源泉である。したがって道徳的想像力をもった人だけが道徳的に生産的であると言える。(ルドルフ・シュタイナー,高橋巌訳,自由の哲学)

シュタイナー自身は、ディオニュソス的精神の作り出す思想なら、みんな自分で創った思想なのだから、重すぎることはない、というのです。だから楽々と、軽々と、世の中を舞踏家のように踊りながら、笑いながら、思想を担って歩いていけるのだ、と。シュタイナーは、ディオニュソス的精神に由来するユーモラスで明るい生き方をとても大事にしていたのです。…(中略)…ディオニュソスは、もともと苦悩の神と言われていました。苦しみもがいている神様です。苦しみを嫌というほど知っている神様なのです。けれども明るい笑いを好み、軽い生き方を通して、新しい精神を打ちたてようとしているのです。(高橋巌,シュタイナー 生命の教育)

先ほどの引用の道徳的想像力の章から。エンデが芸術体験は道徳的想像力を必要としないと言っている点に注意。エンデの思想とアントロポゾフィーの関連は常に重要だと思いますが、永遠に幼きものについてでは主に芸術論を扱っているため、あまり親和性は高くないように思います。もちろん、世界観に関わる部分ではまた別なのですが。後者は日本のシュタイナー研究の第一人者、高橋巌先生の著作から。エンデがフモールについて述べているところと、高橋先生の言う「軽い神秘学」にとても共通点があると思い引用しました。

幼子は無垢である。忘却である。そして一つの新しいはじまりである。ひとつの遊戯である。ひとつの自転する車輪。ひとつの第一運動。ひとつの聖なる肯定である。そうだ、創造の遊戯のためには、我が兄弟たちよ、聖なる肯定が必要なのだ。ここに精神は自分の意志を意志する。世界を失っていたものは自分の世界を獲得する。(フリードリヒ・ニーチェ,氷川英廣訳,ツァラトゥストラはこう言った)

真の男性ならば、彼の中には子どもが隠れている。それは遊戯をしたがる。(フリードリヒ・ニーチェ,氷川英廣訳,ツァラトゥストラはこう言った)

ニーチェも創造・遊戯・子どもを関連付けているところは興味深いです。後者はエンデが講演中で引用している部分です。前も書きましたが、ボカリウスの伝記によると、エンデは高校生くらいの頃にツァラトゥストラ老子を熟読したそうです。(ボカリウス,ミヒャエル・エンデ 物語の始まり)もっとも、ここで引用した箇所のように興味深い関連もなくはないですが、僕の見る所ではニーチェの影響はそれほど見られません。

詩は、先験的健康を構築するための大いなる術である。ゆえに詩人は先験的な医者である。(ノヴァーリス,今泉文子訳,ノヴァーリス作品集1)

卑俗なものに高い意味を、ありふれたものには神秘的外見を、既知のものには未知のものの尊厳を、有限なものには無限という見かけを与えるならば、私はそれをロマン化したことになる。(ノヴァーリス,今泉文子訳,ノヴァーリス作品集1)

「詩(ポエジー)に特別の名前がかむせられ、詩人に特別なギルドがあるかにみられている」とクリングゾールが言った。「そんな特別なものがあるわけではなく、詩は人間の精神に固有の働きに過ぎないのだがね。」(ノヴァーリス,青山隆夫訳,青い花)

癒しの芸術、ロマン化、普遍的原理としてのポエジー、ノヴァーリスにはエンデに共通したところが多々見受けられます。エンデ自身、ロマン派の中でもノヴァーリスを精神的な父と呼んでいます。

フモールにはまじめで純粋な美が不可欠である。フモールは哲学や文学の、軽やかに澄んで流れる狂想詩の上を漂うことをもっとも好み、鈍重なかたまりや脈絡のない切れ端を避ける。(フリードリヒ・シュレーゲル,山本定祐訳,アテネーウム断章)

初期ロマン派の支柱とも言えるフリードリヒ・シュレーゲルの断章から。ポエジー・ロマン化・イロニーなどはロマン派の中核的概念だと言えるでしょう。それらの概念ほど頻出してはいないと思いますが、フモールや遊びも非常に特徴的なロマン派的概念でもあると思います。

内部的な限界に同意することはゲームのプレイに関するルールを作ることである。ルールは各々の有限ゲームによって異なるであろう。実際、我々がどんなゲームかを知るということは、どんなルールかを知ることによるのである。(James P.Carse,Finite and Infinite game)

ルールは、ゲームのプレイに先立ってつくられねばならない、そしてプレイヤーたちはプレイが始まる前にそれに合意しなければならない。(James P.Carse,Finite and Infinite game)

エンデは『物語の余白』で本書を自分が遊戯について考えていたことを、とても良く表現している、と言っています。ルールとゲームの関係は非常に興味深い問題です。ここから、システム論や言語ゲームとの接続点を見いだせると思っています。未邦訳ですので私訳になりますが、誤訳があったらすいません…。

美というものは単なる生命でも、単なる形態でもあってはならない、それは生命ある形態、すなわち人間に絶対的な形式性と絶対的な現実性との二重の法則を伝授してくれる美でなければならない―と。したがって理性はまたこうも発言しています。―人間は美と一緒にただ遊んでいればよい、ただ美とだけ遊んでいればよい―と。ようするに、これを率直に一言でいってしまえば、人間は全く文字通り人間であるときだけ遊んでいるので、彼が遊んでいるところでだけ彼は真の人間なのです。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

感性的衝動は変化のあること、時間が一つの内容を持つことを欲し、―形式的衝動は、時間が廃棄されること、変化のないことを欲しています。それゆえに自分の中で二つのものが組み合わされて作用しているこの衝動(これに適当な名前が付けられるまで、これを遊戯衝動と呼ばせてもらいますが)、この遊戯衝動は、時間を時間の中で廃棄すること、生成を絶対的な存在と協定させ、変化を同一性と協定させることに向けられているものと言えましょう。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

遊戯衝動の対象は、一般的な一つの式であらわせば、まず生命ある形態とでもいえましょう、すなわち現象のすべての美的な性状、一言で言えば、最も広い意味においてびと言えるものの表示となる一概念です。…中略…ただ単に考えている限り、形態は生命のないものであり、ただ抽象にしかすぎません。ただ、その形式が私たちの感覚の中で生き、その生命が私たちの理性の中で形となってこそ、人間は生命ある形態であり、そしていかなる時でも常に私たちが、美と評価するところのものです。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

美はただひとつの真理をも見つけず、何一つ私たちが義務を履行するのを助けてくれず、そして一言で言えば、性格を築くにも、頭脳を啓発するにも共に不適当なものです。それゆえ、美的教養によっては、人間の個人的な価値とか、ただその価値如何によるところの人間の威厳などは、全然規定されず、さらにその他何一つとして得るものはないのです。要するにただ彼には、自分自身の欲するものに自分自身を作るということ―自分がありたいと思うものである自由を、完全に自分に取り戻すことが、自然に生まれつき可能にされたというだけのことです。(フリードリヒ・シラー,小栗孝則訳,人間の美的教育について)

シラーの美的書簡は、この講演中でも参照されていますが、とても重要だと思います。相違点を挙げれば、シラーが美学的判断をそれ以外の領域にも適用している点だと思います。一方、シラーの遊戯美学は同時代の初期ロマン派に大きな影響を与えました。またシュタイナーもシラーの美的書簡を高く評価しています。いわば、ロマン派、シュタイナー、エンデの接合点としても重要だと思います。

6・42 倫理が言い表しえぬものであることは明らかである。倫理は超越論的である。(倫理と美は一つである。)(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,野矢茂樹訳,論理哲学論考)

6.41 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、すべては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。―かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,野矢茂樹訳,論理哲学論考)

幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。記述可能なメルクマールなど存在し得ないことも、また明らかである。このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。倫理学は超越的である。(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,奥雅博訳,草稿1914-1916)

芸術作品は永遠の相の下にみられた対象である。そしてよい生とは永遠の相の下にみられた世界である。ここに芸術と倫理の連関がある。(ルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン,奥雅博訳,草稿1914-1916)

前期ヴィトゲンシュタインから。論考は内在的な観点から言語の限界を引いたといえると思いますが、価値や倫理や美と事実との問題を考える上で参考になると思います。すでに触れたように言語ゲームとの関連も面白いですね。

子どもたちはそれまでは理解を超えていた意味を把握するに至るまで、言葉を弄び、それをつなぎあわせ、それで遊ぶのである。そして最初の遊戯的活動は理解という最終的な行為のために本質的に必要なものなのである。このような機構が成人にあっては機能することをやめねばならぬという、どんな理由もない。…中略…事物の創造と、事物の正確な観念の創造プラスその完全な理解とは、極めてしばしば、同一不可分な過程の部分をなしているのであり、これを分ければその過程は停止せざるをえない。(ポール・K・ファイヤアーベント,村上陽一郎訳,方法への挑戦)

我々は科学と非=科学との分離は人工的であるのみならず、知識の進歩のために有害であるという結論に達する。もし我々が自然を理解したく思うのであれば、もし我々が物理的環境を支配したく思うのであれば、我々はすべての観念、すべての方法を用いなければならず、単にその中からの小規模な抜粋を用いてはならないのである。(ポール・K・ファイヤアーベント,村上陽一郎訳,方法への挑戦)

『ファンタジー神話と現代』のインタビューの中で、因果論的思考のオルタナティブが出てきているという文脈で、ちょうど『方法の挑戦』を挙げています。もっとも、『オリーブの森で語り合う』ではファイヤアーベントの物理主義を批判していましたが。しかし、同『メモ箱』の「創造力」などを読んでいただければわかりますが、創造力への言及では重なるところがあります。

個別の実験について、もはや因果性を論じることはできない。統計的な因果性についてだけ論じることができる。このことは、実は、量子力学の出現以来ずっとそうであったが、古典力学や化学においてさえ乱雑性と確率とが本質的役割を演じることがわかった最近の進歩によって、大きく増幅された。(I・プリゴジン/I・スタンジェール,伏見康治/伏見譲/松枝秀明訳,混沌からの秩序)

散逸構造論で有名なプリゴジンの一般向け科学書から。エンデはハイゼンベルクをよく引用しますが、その意味でなら散逸構造論もかなり興味深いですね。本書でも量子力学相対性理論なども色々と論じられています。

唯物論者は、同じ事実の二つの異なった現われという考えを導入するよう強いられる。しかしこの現れという考え自体が、脳の事実と同一とされないあらわれという事実があることに立脚している。水の現れがH2Oに還元されないのとまさに同じように、痛みの現れはC-神経線維の発火には還元されない。だから、心は脳に還元されないのだ。(コリン・マッギン,石川幹人/五十嵐靖博訳,意識の<神秘>は解明できるか)

エンデは大脳生理学という言い方をよくしますが、エンデが指しているような領域だと脳神経科学の方が一般的だと思います。広義に認知科学と言ってもいいですが。マッギンはエンデとは立場は全然違いますが、反唯物論の論点を参照するのは面白いと思います。

*1:直訳すると永遠に子ども的なるものです。Kinliche Kaiserin幼ごころの君に引っ掛けた訳かと思います。

*2:超越的とは言っても、別の現実、などの言葉からわかるように、内在的な超越性であることに注意。メモ箱ですと「隠れたものの実在」や「これもまた根拠です」などを参照。

*3:邦訳ではユーモアになっていますが、一般的にフモールとドイツ語発音で使うのでここではフモールとしています。