エンデのファンタジーは空想的か?エンデの擁護とSpiel概念

さて、今日『ミヒャエル・エンデ ファンタジー神話と現代』を借りてきて読みました。内容的には、エンデのインタビュー、映画について、ボイスとの対談についてで、僕個人としてはアントロポゾーフ*1がインタビュアーのため、エンデが普通の対談ではなかなか直接は言及しないアントロポゾフィーについて、かなり突っ込んだ話をしていて新鮮で面白かったです。が、解説がエンデ本のはずなのに、むしろ(正統派?)アントロポゾーフ的な観点(と僕は言いたくなるのですが)から書かれており、かなり批判的な内容だったので、少しそのことについて書いてみようと思い、久々のブログ更新と相成りました。一応、参考文献名は逐一挙げていきたいと思いますが、僕の記憶によっているのでご承知おきください。また、それほど長々と書くわけにもいかず、かなり素描的なものにとどまること、僕自身理論構成について構想中のものも含まれること、僕が用いる個々の概念道具についていちいち詳しい説明を省いている点はご了承ください。

問題点

この本の解説では、ゲーテ的想像力を想像力、エンデ的想像力を空想力と呼んでいる。僕はゲーテにそれほど詳しくないので、そちらについての言及はしないが、解説では「人間には、空想とは別にもう一つ、たとえば<夏>という言葉から、冷たい水を引っ掛けあう川遊びや、セミを思って木立の間を駆け回ることをイメージするような、自然や生命に沿ったファンタジーもある。これを筆者<想像力>と呼ぶことにする。」とある。一方「エンデが、ファンタジーを強調せんとするあまりに相対的に過小評価する論理性も、それがすっかり取り払われてしまったら、悟性とともに人間理性までもが失われる可能性のあることを忘れてはなるまい。…ロマン的な空想力が、自由な人間精神の働きの一要素として、大きな創造力となっていることも一つの事実である。それは文学世界では、現実とは隔絶した虚構世界を司る<遊びのルール>を構想する力でもある。」とある。ある意味、アントロポゾーフらしい言い方である。*2本題に入る前に、僕自身の立場を予め表明しておくと、エンデがロマン的(正確にはドイツ・ロマン派的)であることは確かであり、エンデ自身がロマン派の継承者であると自認している。もっとも、エンデ自身がクリッヒバウムのインタビューの際答えているように、エンデはロマン派を空想的な(いわゆるロマンチックな)ものではなく、その根底には明晰な思考がある、と考えている。(cf.闇の考古学)いずれにしても、ファンタジーに偏る傾向性がエンデにあるというのは当たっていると思う。言い換えると、ステートメントなどにおいても、哲学的な形で表現することを好まないということだが。エンデ自身、自分には問われたことに対してパッと答えがでるような哲学体系は持ち合わせていない、と言っている。(cf.だれでもない庭)また、エンデのシュタイナー解釈がいわゆる正統派ではなく、自己流に解釈されたものであることも確かだろうし、すでに僕は何度も言及してるけれど、例えばフリードリヒ・ヴァインレープなどの影響や他の神秘主義からの影響が強いことも確かだろう。(cf.ミヒャエル・エンデ 物語の始まり)それと最後に、僕自身がいわばエンデ「信者」であって、かなりエンデ寄りであること、僕は僕自身のエンデ解釈に従っているということだけは言っておきたいと思います。ただし、僕はエンデの考え方をエンデの対談やメモ箱など、小説などの作品からではなく直接語られたものから解釈しているということは付言しておきます。

エンデは空想的か

第一に、エンデは本当に空想的なのか、まずはこの点について考えていきたい。まず、重要なのはエンデのSpielの概念である。通常、遊び/遊戯と訳されるが、ゲームとか演劇のような意味もある。エンデは、美的な領域にある事柄を倫理的な領域に適用することに、様々な対談等で繰り返し注意を促している。例えば、観劇の最中ならば、劇中で誰かが殺人を犯しても、観客はそれを阻止しようとはしない。演劇の中では善も悪も等価なのである。しかし、これが現実世界で起こった場合はその限りではない。さて、この違い=区別は何によって成り立つのだろうか?それこそが、Spielであり、Spielのルールなのである。エンデは遊戯にはルールがある、ということを再三強調している。そして、参加者はそのルールに従わなければいけない、と。この本のインタビューでは自身の創作法についての言及のように読めるが、エンデのSpiel概念はそこだけにとどまらずもっと広い範囲を持っている。(cf.ものがたりの余白・エンデのメモ箱「永遠に幼きものについて」)ルール=制度はゲームの境界を生成し、ゲームの領域を確定する。言ってみれば、システム/環境の差異を生み出すものがゲームのルールなのである。ゲーム内での行為連鎖はルールの範疇にあるときにのみ、そしてそのゲーム内の文脈に従うときにのみ意味がある。仮に、このゲーム内での行為を他のゲームに持ち込むとしたら、それは異なるゲームのルールに違背する大きな間違いになるだろう。そう、先程の劇の例のように。エンデはこのことを例えばキルケゴールの『誘惑者の日記』を引いたりして、何度も説明しているのである。エンデはルールが明文化されたものかどうかを言明していないと思うが、おそらくこれについて完全に明文化することも、言及することも不可能である。これは例えば、ウィトゲンシュタインパラドックスを見れば十分だろう。*3また、このことは参加者がルールに従うということと矛盾するわけではない。原理的にルール自体は完全に明文化され、知ることができなくても、参加者たちはルールへの合意が可能である。例えば、数列1・3・5…の規則はウィトゲンシュタインパラドックスから確定不可能である。しかし、これがゲームとして行われるならば、プレイヤーは奇数数列のゲーム規則として合意できるし、プレイヤー間の合意がある限りにおいて、この数列の規則は奇数の数列であるとしてゲームを展開可能である。そして、この規則は同時に変更可能でもある。参加者が異なる規則に従う数列のルールとして合意すれば、これは異なる規則のゲームとして展開可能なのである。さて、ここから帰結するのは、ゲームのルールを作り出すのが空想力(あえてこの用語を使うが)ではない、ということである。ルールはルールとして、ゲームが始まる(システムが作動する)時にそれとしてあるのであり、そのゲームの成り立ちそれ自体がゲームとそれ以外とを分けるのである。つまり、プレイヤー間の行為連鎖そのものが規則として遊戯空間を分出するわけである。*4だからこそ、エンデは例えば『モモ』の創作の際、どうやったら時間泥棒はモモからだけ時間を盗めないのか、あるいは、バスチアンはどうやったらファンタージエンから戻ってくるのかという問題について、ゲームのルールに従って答えを導き出すのに多大な時間をかけたといえるだろう。それどころか、ゲームのルールに従う、ということは空想力の暴走を防ぎ、一定の領域(ゲームの中)に収めるのである。ゲームの中では、すべてが自由であり恣意的であるがゲームのルールに従う限りにおいて、なのである。これは例えば、映画版『ネバーエンディングストーリー』でバスチアンがファンタージエンの力を使って、現実世界のいじめっ子に仕返ししようとしたというシナリオ改変に、エンデが激怒したことからもわかるだろう。あまり作品を例として挙げたくないが、以上のことを、『はてしない物語』の内容に沿って少し分かりやすく言ってみると、バスチアンはファンタージエンではなんでもできる。それは「汝が欲することをなせ!」という一つのルールである。しかし、例えば、彼は幼ごころの君には二度は会えない、またファンタージエンのものを人間界に持ち帰ることもできない。このルールを破るものはゲームから除外される。そう、元帝王たちの都の住人のように、である。この観点から『はてしない物語』論を展開することも可能だが、このあたりにしておこう。まとめるとこういうことだ、たしかにエンデはファンタジーの自由な遊びを重視する、ただし遊びが遊びとして成り立つ限りにおいて、つまり遊びのルールに従う限りにおいて。そして、その遊戯空間においては、現実から遊離していること、虚構にいることが一つのルールですらあるのである。そのため、エンデが遊びを強調する限りにおいて、それは空想的なファンタジーの領域と、現実世界とを画然と分けることなのである。

エンデは論理を軽視しているのか?

次の論点に移りたい。これはエンデが様々な対談で、唯物論的思考、因果論的思考を(特にこの解説で取り上げられているのは因果論的思考)批判している点、そして因果論的思考の軛を脱するにはファンタジーが必要であり、それによって人間の自由が得られる、と言っていることに由来していると思われる。この点、最初に最も象徴的で僕が一番好きなエンデの作品中の言葉を引用しておこう。『サーカス物語』の一節、「お前は、自分の認識しないものは価値がないというのか?そして、ファンタジーは現実ではないというのか?しかし、未来の世界はファンタジーからしか生まれない。我々は自ら創造するものの中でこそ、自由なのだ。」つまり、エンデが批判するいわゆる論理的思考というのは、因果論的思考であり、スピノザ的決定論、あるいはアインシュタインの有名な「神はサイコロを振りたまわず!」という決定論的な思考様式なのである。*5まず一つ指摘できるのは、現代的に言って自然科学的認識に沿った意味での思考が、すでに素朴な因果論的には捉えられない、ということは例えば複雑系の議論などを見れば自明ではないだろうか。つまり、こう言った点を見てみれば、エンデ自身はむしろ新しいパラダイムを見据えていると言えるし、エンデが論理を軽視しているとはとても言えないのではないだろうか。エンデがいっているのは、こういうことである。因果論的思考はファクトのことしか扱えない。それだけでは人間は生の意味や価値、倫理などといったことを獲得できない。それが可能になるのは、因果思考のゲームではなく芸術や宗教のゲームだ、ということだ。そして、そのなかで芸術、特にエンデ自身の創作活動の範囲においては、狭義の文学ジャンルとしてではなく広い意味でファンタジーの自由な遊びを実現することで、このようないわば「語りえぬもの」*6を体験するような物語をつくろうとしたし、その意味でファンタジーを擁護するのである。*7つまり、論理的思考とファンタジーのゲームは完全に分離されているのであって、どちらかを軽視するとか重視するというわけではない。あえて言うなら、エンデ自身の立場からファンタジーへの言及が多くなるということはあるかもしれないが。ただし、純粋に論理的な思考の領域においては、物事は全く正反対のものが同程度に確からしくありうるのである。この点は、シュタイナーも事あるごとに指摘している。つまり、抽象的に思考する限り、人はある立場を論証することも、同じくらい確かな仕方で反証することもできる、というのである。つまり、判断の基準は基本的に価値の領域にしか存在せず、そのためにファンタジーの領域が必要になるというわけだ。
さらにこの解説ではエンデは、シュタイナーのモラーリッシェファンタジー(道徳的想像力)*8のファンタジーを空想的想像力へと翻案してしまっている、と言っている。そこで、エンデの考えにできるだけ沿う形で、自由とモラーリッシュファンタジーについてひとつだけ書いておきたい。解説では、モラーリッシュファンタジーの想像力とは、倫理的なものである限りの想像力である、と語られているが、エンデは子安美知子との対談で、アントロポゾーフはモラーリッシュファンタジーというとき、モラーリッシュ(道徳的)ということにアクセントを置くが、これはファンタジー(想像力)にアクセントを置くべきだと語っている。そして、道徳的想像力の反対は非道徳的想像力ではなく、道徳的不毛である、と述べている。*9一歩踏み込んで、エンデの想像力(空想力)とシュタイナーの道徳的想像力と違っているとは必ずしも指摘できないということを、ここで展開したSpielの考えに従って『自由の哲学』の一部を見てみることで例示してみたい。ただし、これは多分に僕の解釈が入り込んでいるので、エンデのそれではなく、あくまで遊戯=空想的=非論理的であり、道徳的想像力とは別ものである、という考えに対する一つのアンチテーゼとして考えていただきたい。シュタイナーは『自由の哲学』で「道徳的想像力と道徳的理念能力は、それらが個人によって生み出されたあとにならなければ、知識の対象には成り得ない。しかしそうなったあとでは、もはや生活を規定しない。すでにそれを規定している。それらは他の一切の諸原因と同じような作用する原因として理解されねばならない。(それらの原因を目的として捉えるのは、もっぱら主観だけである。)」と言っている。つまり、個人の行動があり、それが事後的に観察されることで倫理規則が得られるが、それは予め行動を規定するのではなく、事後的に見出されるに過ぎない、と言っているわけである。このことを本論の観点から述べるとこうなる。ゲームの参加者は、ゲームの内部/外部の区別をつけない(付けられない)参加者として自由に振舞う。その参加者たちの行為連鎖を一定の規則=ルールのもとに見る観察者が事後的に遊戯空間を分出するものとして=システム/環境(構成素/環境)の差異として見出すのである。この時、注で述べた倫理的/非倫理的の区別の先取は問題にならない。なぜなら、自由な行為それ自体が倫理的遊戯の空間を分出し、事後的に見出される固有の倫理規則によって区別するからである。
いずれにしても、ここで言われている、「論理的」ということが何のことをいっているのかはっきりしていないので(当然だがそれは自明なことではない)、少々曖昧になってしまったが、エンデが少なくとも論理的なるものを軽視したりしていないということは、はっきり言えるのではないか。もっとも、ファイヤアーベントやヴィトゲンシュタインを非論理的であるというならば別だけれども。もちろん、エンデはシュタイナーを完全に踏襲しているとは言いがたい部分はある。とりわけ、シュタイナーの哲学的認識論の議論に関わるようなことは基本的にはそれほど言及していないし、自分の立場を一貫した形で示すこともそれほど多くはない。しかし、そもそもエンデ自身、何かの思想の布教者やグル、活動家を目指していたわけではないのであって、これは当然のことと言えるだろうし、そこからエンデが論理的でない、などというのはただの短絡である。なお、この解説では、思考ということも言われているが、僕の考えではこれは完全にシュタイナーの解釈問題なので、本論では触れないことにする。というのは、エンデはその点にそれほど詳しく触れているわけではなく、それはあくまで「僕の」シュタイナー解釈になるということだからだ。*10ひとつだけ指摘するならば、空想的だろうとなんだろうと、イメージする力それ自体が思考の領域に含まれるはずだ、ということである。無論、夢のイメージのようなものは別だけれども。しかし、思考システムが自己言及的に作動し、オートポイエーティックな作動を通して本質的に外界と独立にイメージを生み出すことができ、かつ思考システム(とコミュニケーションシステム)だけが再帰的自己言及作動(思考の思考)を行える(河本)点こそ思考の特殊性である、とは言える。つまり、思考という言葉でイメージされる領域があまりに狭すぎると思う。さて、まとめの意味で、作品から少し見てみると、『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』では、因果論的に辿ってきた旅の終りに、さらに旅を続けるための(つまりゲームを続ける為の)新しいルールに従った、新しい非因果論的ゲームを続けるという話になっている。これは、先ほど指摘した意味で、因果論的思考が支配するゲームから、非因果論的なゲームへの転換だと言えるだろう。注目すべきは、因果論ゲームを突き詰めた上での転換という点であって、この点についてもエンデは色々と言及している。特に、ゼロ点突破の繰り返しということは繰り返し強調していて、ある焦点を過ぎると以前と同じように見えるが本質的に全く別物の(あるいは進化した)ものが現れるという考えである。(cf.芸術と政治をめぐる対話)そう考えれば、因果論的思考を突き詰めることは、エンデにとっても前提になっており、思考や論理を軽視しているとはとてもいえない。また、余談だが、思考とゲームということでドゥルーズは『意味と論理学』でこんなことを言っている。「理念的なゲームは、思考されるしかないし、しかも無‐意味として思考されるしかない。まさしく、理念的なゲームは、思考そのもののリアリティである。理念的なゲームは、純粋思考の無意識である。」「このゲームを思考の中以外でやろうとしてもなにも到来しないし、芸術作品以外の成果を生産しようとしても何も生産されない。したがって、理念的なゲームは、思考と芸術のために確保されたゲームである。」ドゥルーズの言うゲームとエンデのSpielを同一視できるかどうかは疑問だが、しかしエンデのいう芸術における無意図的で自由な遊戯(Spiel)を思い起こさせないだろうか。
ところで、この論理的か否かという問題について、少し脇道にそれた話をしたい。とはいえ、次の節へのつなぎにもなるかもしれないけれど。エンデの思想*11に言及されるとき、一般には貨幣論、あるいは経済問題への言及が取り沙汰される。一方で、エンデがファンタジーを重視すること、あるいは彼のアントロポゾフィー的、あるいは神秘主義的世界観については、言及されないことがほとんどである。あるいは、作家の個人的な空想に過ぎない、というような受け取り方。これは個人的なことであまり重要じゃない、という態度である。これについては、僕は何度か言及しているが、エンデは貨幣や経済の問題を語るとき、必ずといっていいほどセットで内面の荒廃について語っているのである。つまり、この二つ、内面の問題と外面の問題は双生児的であり、相補的な関係にあるのであって、どちらかが重視され、どちらかが軽視されていいものではない、というのがエンデの基本的な立場である。(cf.物語とはなにか)この内面と外面とは、ファンタジーと論理、と言い換えてもいいだろう。つまり、通常ファンタジーの問題、内面の問題が軽視されるか、よく理解されていないというのが僕の印象なのだが、ここではむしろエンデが内面を重視しすぎるということに力点が置かれているわけであり、先程いったように、内と外の相補性は全く無視されているといわざるをえないのである。

エンデは社会問題に対して空想的か

無論、ここで言われているのは社会3分節論の空想性とは全く関係ない。率直に、普通の視点からいえば、3分節論自体が空想的と取られても仕方がないと思うが…。ここでは、ボイスとの対談が挙げられており、アクティビストのボイスに対して、エンデは所詮書斎派であり、社会問題の改革に対してすらファンタジーを持ち出してきて、それゆえにあまりに現実に対して無力である、そして、空想的であるがゆえにエンデが3分節論を語るときは具体性に欠ける、といった論調で書かれている。さて、僕も3分節論の基本文献くらいは抑えているが、そこまで集中的に研究したわけではないので、エンデとシュタイナーの異同やエンデとボイス、どちらがシュタイナーに近いかのような議論は行わない。また、二人の芸術観の違いにも基本的には立ち入らない。問題は、エンデが社会問題に対して空想的かどうかという点で、エンデを擁護することだ。まず、エンデが作品だけでなく、個人的なレベルでも政治的コミットメントを(普通以上には)していないことは確かである。また、芸術による意識変革こそ芸術が真に政治的なものに作用することができるということも繰り返している。*12エンデはゴッホのひまわりは当時のあらゆる政治的活動より人々の意識を変えた、という例をよく挙げる。エンデの3分節論への指摘でもっとも重要視すべきなのは、おそらくエンデが子安との対談で現代ではシュタイナーが考えたような形で大改革を行うことは不可能だろう、と述べていることだ。(cf.エンデと語る)これには一定の説得力がある。なんといっても、シュタイナーが3分節論を唱えたのは一次大戦後のワイマールで、なのだ。つまり、その時は抜本的に立て直すことが可能であった。しかし、現代においては、すでに一国の経済システムをラディカルに変えることは不可能に近いだろう。シュタイナーの時代ならば、せいぜいヨーロッパの範囲に収まったかもしれないが、すでに経済活動はグローバルな範囲の活動なのだから。つまり、シュタイナーが3分節論を唱えたときと時代状況が全く違うのである。それは例えば直接民主制についても言える。東浩紀が指摘するように、情報環境の変化は直接政治に関われる範囲を劇的に広げたといえる。この時点で、シュタイナーが構想したものとは異なる民主制を構想可能であるはずだ。もっとも、誤解のないように言えば、東自身は直接民主制を支持していないが。シュタイナー自身、自分が語っている制度は、あくまでありうるモデルの一つであって、3分節論の理念に従って現実に即した制度を考えるべきだ、というようなことを述べている。つまり、3分節論的な制度は、3分節論の理念に従う限りにおいて、その都度その都度、創造的に考えられなければならないのである。こういった点から察するに、エンデは現在の時代状況に即した3分節論的制度をどうすべきか、その点についてのビジョンを構築しえなかったのだろう。実際、これを現実的なものに練りあげるのは極めて難しい。*13そのため、エンデの3分節論が具体性を欠くのは当然だし、このことについて少なくとも対談を読む限り、ボイス自身明確で現実的な案を出していたとは僕には思えない。
もう一点、意識の改革の話に移ろう。すでに述べたように、意識か制度かはエンデにとって相補的な問題であり、鶏が先か卵が先か問題なのである。ただ、エンデは芸術家として自分の領域で意識の改革の必要性を主張したということだ。そうでなければ、例えば、貨幣論にあれほど繰り返し言及したり、あれほど熱心に貨幣について研究しなかっただろう。(cf.エンデの遺言)つまり、エンデは制度も意識もどちらの改革にも取り組まなければいけない、そして、制度をラディカルに変えることは現実的に不可能に近く、自分の領域でもないので、芸術を通して意識の改革に取り組むことが自分の出来ることである、と考えていたのではないか。いずれにせよ、エンデはかなり現実的に3分節化を思考しており、決して空想的とはいえない。むしろ、僕からすれば、シュタイナーの言うとおりの3分節化が可能であると考えたりする方が、はるかに空想的、いや妄想的とさえ言える考え方のように思える。エンデの意識改革の試みがうまくいったかどうかはわからない。しかし、ボイスの活動もそれほど大きな成果を産まなかったであろうことも言えるのではないか。とはいえ、僕自身はボイスの活動について詳しいことを知らないので、この点を批判したり論じたりするつもりはないのだけれども。エンデとボイスの違いについては、また機会があったら述べたいと思う。意識の変容の話に戻るならば、宮台真司がよく例に挙げるが、スローフード運動などを見ればこれこそ意識の変革の成果だ、といわざるをえないのではないか。意識の変容は、たしかに直接観察できるわけではない。そのため、実際、どういう影響関係にあるのかはわかりにくい。しかし、デモ行進にエンデの本を掲げた人たちは、やはり何がしかの影響を受けたのだと考えるのはそれほどおかしいことだろうか。また、制度と意識の点について言えば、例えばシュタイナー教育の奇異な方法論(形式)だけ模倣して、子どもに対する意識を変えない人たちをアントロポゾーフたちはシュタイナー教育と言わないのではないか。つまり、制度を変えれば意識は変わる、と考えるのは無意味だし、意識が変われば制度が変わるというのも無意味であって、それらは相補的であり両方を変革する必要があるのである。*14その意味で、エンデは極めて現実的に考えていたと言えるだろう。
補足的に、エンデがシュタイナーの<精神>の領域における自由を、空想的自由に置き換えている、と言われているが、これはエンデのファンタジーの問題を論じたときと同じことが言える。<精神>の領域にも様々なゲームが存在するのであり、それぞれにルールが異なる。言ってみれば、自由を原則とすべきゲームの集合が<精神>の領域に属するのである。例えば、教育のゲームを考えてみよう。エンデは教師は創造的に生徒とかかわり、常に創造的な方法でことに当たらねばならず、その意味で教育とは一つの芸術だ、と言っている。この時の、教師の創造性とは恣意的想像力=空想力による創造性だと言えるか。当然だが、教師の働きかけは生徒を前提にする。つまり、生徒に対してよい教育を行うことを目的にするならば、その自由は当然制限される。この点について詳述するのは、目的とそれるので簡潔に述べたが、すでに述べたようにゲームを行うこと(あるいはシステムが作動すること)それ自体が、空想的恣意性をルールに従う限りにおいて制限するのであり、社会的なレベルに適用しようとも、決して空想的とはいえないのである。また、実存哲学との比較が行われていたが、エンデと比較するならサルトルではなく、キルケゴールヤスパースにすべきだろう。エンデに実存哲学的なところがあるのは確かだが、それはエンデの言い方ではヤスパースの挫折の哲学などに代表される、船の難破や失敗の神秘に関わるものである。つまり、実存的危機の経験とそこからの飛躍、あるいは変容といった問題であって、自由の問題とは原則的に無関係である。

終わりに

さて、正直、あの解説を一度に読むことができず、何度も何度も中断しなければいけなかった。それくらい、僕の気に入らないもので、無理解、もしくは誤解に満ちているように思ったので、その思いのたけをぶつけてみた。ここまで読んでいただいたならご理解いただけたかと思うが、僕の考えでは、何よりもエンデのSpielの概念と射程を、全く見誤っていることが最大の原因である。つまり、通常の意味での<お遊び>とみなしてしまったわけである。しかし、僕はエンデのSpiel概念はエンデの思想の中核であり、最も奥深いものであり、かつ言語ゲームやシステム論と接続することによって、十分現代的で論理的な考えとしてまとめることができると考えている。いずれにしても、このSpielの奥深さ、論理性、射程を掬いきれなかった時点で、僕には誤解しか見いだせないのである。エンデが言うように、ロマン派とはそのファンタジーの戯れの素地に、煌めくような論理を秘めているのである。(ノヴァーリスを見よ!)この記事を書くに当たって、エンデの様々なステートメントを参照しているが、これについてはエンデボットに使った文献として、別記事として後日コメントをつけてまとめたいと思っている。それ以外には、何度か言及したがヴィトゲンシュタイン言語ゲームと『論考』の思想、河本英夫オートポイエーシスシステム論、宮台真司のシステム論などを参照にしている。さて、自分で考えていたより随分と長くなってしまったが、ここで終わりにしたい。いくつかの点では、様々な理由で不十分であると思われるがその点はご勘弁願いたい。

*1:ルドルフ・シュタイナーが創始したアントロポゾフィー(人智学)にコミットする人たち。明確な定義はなく、広義にはシュタイナーの思想に共感して活動する人たち一般を指す。エンデ自身は自分がアントロポゾーフかどうかは当のアントロポゾーフたちが決めること、と一定の距離を置いている。

*2:アントロポゾフィーには、ルシファーとアーリマンという二つの悪魔的力の概念がある。そのうちルシファーは、空想に熱狂する力、利己主義的な力として考えられている。つまり、アントロポゾフィー用語で言えば、エンデはルシファー的だ、と言っているのである。

*3:ここまでの内容でご周知のことと思うが、僕はエンデのゲーム概念について、ヴィトゲンシュタイン言語ゲーム論との類似性について考えており、接続可能であると構想している。

*4:エンデは遊戯空間と現実とを明確に区別することも強調している。(cf.オリーブの森で語り合う)そこでは、テヒルの演劇論に対してフィクションをフィクションとして知らしめる舞台装置の必要性が語られている。また、エンデが嘘とフィクションの区別を時にピカソステートメントを引用して(cf.エンデの読んだ本)繰り返し強調していることも考慮するべきである。

*5:一方で、エンデは必ずしも自然科学的認識や成果や探求を否定しているわけではないのでその点は注意されたい。エンデは人間の生の価値に関する領域においては、因果論的思考だけでは人間の生は干からびてしまう、と言っているに過ぎない。

*6:無論、前期ヴィトゲンシュタインの「論考」の7である。本論の文脈で言えば、必ずしも全部が一致するとは言えないにせよ、前期ヴィトゲンシュタインはまさに論理的にファクトの世界の外に意味や倫理や美はあることを導き出したといっていいだろう。

*7:エンデが自分の芸術の課題を癒しだというのもこの意味においてである。人間の全一性、あるいは価値や意味などを再び見いだせるような体験を行える芸術である(cf.エンデと語る)。

*8:シュタイナーの哲学的主著『自由の哲学』で提唱された概念。自由な人間は過去の前例などにとらわれず、理念界から自ら取り出した理念に従って、常に新しく創造的に行為をする、そのために必要な能力がモラーリッシュファンタジーだと言われている。

*9:僕には僕なりの見解があるけれど、それについては本論では詳しく言及しないことにしたい。というのは、それはすでに僕のシュタイナー解釈問題だからである。しかし、ひとつだけエンデに援護射撃を行うならば、もし道徳的想像力による行為が、予め道徳的なものとして想定されているとしたら、そこに自由はあるのだろうか?というのは、その場合、倫理的なるものと非倫理的なるものの境界が予め設定され、何が倫理的かについての基準が先取されていないといけないのではないだろうか。しかし、そうだとすれば、それはシュタイナーが批判したカントの定言命令とどんな違いがあるのか僕には理解出来ない。

*10:とはいえ少しだけ示唆しておくと、私見ではシュタイナーが『自由の哲学』で思考という言葉を使うとき、明らかに僕らが通常使う意味とは違う意味でも使われている。とりわけ、後半はそうである。僕自身の解釈では、シュタイナーが「生きた思考」と呼ぶ思考のモードは、普通僕らが思考と思いなすものとは全く別ものであり、論理性という範疇では捉えられないものである。

*11:ところで、僕はエンデ思想なる言い方が好きではない。エンデは思想家ではないし、思想というには体系化されているわけでもなく、断片的なステートメントを集積してなんとか輪郭が見えるという体のものだからだ。もちろん、これはエンデが考えていたことの内容を軽視しているわけではないが、それは本論を読んでいただいている方には十分理解してもらえると思う。

*12:これは芸術作品が直接に政治的な思想やイデオロギーといったものを表すべきではない、という批判の文脈で語られる事が多いことは注意。

*13:私見では、日本のアントロポゾーフがヴェルナー経由のBI理論に殺到するのも、このことと関係があるように思う。BIそれ自体が3分節論的かどうかについては僕自身は懐疑的だが(とは僕はBI肯定派だけれども)、BI自体はそれなりにありうる(それでも人によっては空想的とみなすだろうが)議論だからだ。

*14:ちなみに、制度と意識、どちらを変えるかを問うのは馬鹿げたことだ、その両方が必要なのだ、とはシュタイナー自身も言及している(cf.社会改革案)。