エンデとシュタイナー

せっかくなので、少し生産的な議論をしてみようということで、エンデ―シュタイナー―ゲーテというラインを見る一つの見方を概略的に書いてみたいと思います。といいますのも、この点を詳細に述べようと思えば、かなり膨大な前準備と論証が必要になるでしょうが、僕にはその準備がありませんので。エンデ―シュタイナー―ゲーテといったのは、この議論の焦点がエンデであり、エンデの考え方/世界観の中に、シュタイナーやゲーテ的な考え方がどのように影響しているかを示すことが、本論の目的であるからです。無論、一つの見方と言いましたように、これが全てだというわけではありませんけれども。

手がかりとしての「隠れたものの実在」

議論の手がかりとして『エンデのメモ箱』に収録されている「隠れたものの実在」(「Die Wirklichkeit des Verborgenen」直訳すると「隠れたものの現実性」)という文章を取り上げたいと思います。なお遺稿集『誰でもない庭』にはこの文章を縮約した形の「隠れたもの」という文章が収録されており、この問題についてのエンデの関心の高さが伺えます。このテキストを参照する理由はいくつかありますが、少し議論を先取りして言いますと、この文章で書かれたエンデの思索は、シュタイナーの初期の哲学的な仕事―言うまでもなくそれは後のアントロポゾフィー思想に通じるものなのですが―に通じたものであり、同時にシュタイナーのゲーテ理解に通じるものであります。そのため、この流れについて論じる際の有力な手がかりと見ることができると考えられるのです。
少々脱線しますが、補足的な事柄を書いておきたいと思います。エンデの思想的なテキスト―『メモ箱』や対談―を読みますと、シュタイナーに直接言及したものが意外と少ないことに気づきます。比較的多く見られるのは、シュタイナーの芸術観に対する批判や社会3分節論についてのものです。一方で、エンデ自身、シュタイナーからの影響の大きさについては様々な箇所で述べています。ここにエンデとシュタイナーの関係性を描き出すときの困難があります。つまり、エンデはシュタイナー研究の成果をエンデなりに消化し、自分の世界観の中に組み入れていると推測できるわけです。言い換えれば、シュタイナーの影響と呼べるものが、エンデのテキスト全体に遍在しているので、特定の箇所を指摘することが非常に困難になっているのです。子安美知子さんが『モモ』を読んだ時、「これはアントロポゾフィーだ!」と思ったとおっしゃっていますが(エンデと語る)、いわば「読む人が読めばわかる」状態なわけです。そのため、子安さんの『モモを読む』のようにエンデ作品を取り上げて、アントロポゾフィー的観点から読み込むことは、アントロポゾフィーに馴染んだ人間には比較的容易にできますが、エンデのエッセーなどのテキストから取り出すのは難しいわけです。私見ですが、エンデとシュタイナーの関係について、3分節論やメルヘン論が比較的よく取り上げられる理由の一つもここにあるのではないかという気もします。無論、神秘主義的な部分について語りにくいということも大きいのでしょうが…。また、ゲーテについても同じで、エンデがゲーテに直接言及していることはほとんどありません。僕の読む限りでは、ゲーテの文学作品については、おそらくまったくないに等しいのではないかと思います。だからといって、ゲーテの影響がないというわけはなく、例えば、エンデ自身が「自分に決定的な影響を与えたテキスト」を選んだと言っている、『エンデの読本』ではゲーテの『メルヒェン』が取り上げられています。以上のようなことを踏まえてテキスト選択を行ったとき、比較的よくシュタイナーやゲーテの影響が見られるテキストとして、この「隠れたものの実在」を選択しました。

テキストの要約

まず、テキストの内容を要約します。エンデは隠れたものの実在を語るとき、霊界の現実(der Wirklichkeit geistiger Welten)から始める必要はない、と書き出します。これは例えば降霊術やその他様々な霊的現象(と言われているもの)です。そういったものではなく、例えばありふれたタンポポに目を向けて見ると、種―葉―草―花と種々にその現象形式を変えていきます。しかし、この様々に異なる現象形式の背後にある、感覚的に知覚できない非時間的な全体こそ、タンポポの本質ではないのだろうかとエンデは議論をすすめます。しかし、この本当のタンポポは知覚できると思うとエンデは言います。タンポポの生きたプロセスを内的に繰り返しなぞるように試みる、そうすると、ある種の全体性の知覚へと到達するのだというわけです。それは部分の総和を超えたものであり、それどころかそれはあらゆるタンポポに現象する非時間的で非空間的な本当のタンポポだというのです。更に、これはタンポポに限ったことではなく、それどころか「植物性」さえ知覚できるといいます。エンデはこれをゲーテが「原植物」と呼んだ何かと関わるものだと考えます。最後にエンデは、ゲーテの「シラーとの出会い」を引用し、この逸話から、この本質を知覚するために必要な内的態度が示されているとして、この引用で文章を締めくくります。

テキストを読む

元々2Pしかない短い文章ですので、あまり要約になっていないところがありますが、テキスト自体を読んでいきたいと思います。まず、上述のまとめを読んで頂ければ容易にわかると思いますが、エンデはここでタンポポイデアについて語っているわけです。ちなみに、言葉は何でもいいのですが、ここではある理由からさしあたりイデアという言葉を採用したいと思います。最初の議論はそれほど奇抜なものではありません。タンポポの種々の様態は、タンポポの本質=イデアの現象形式に過ぎず、「本物のタンポポ」=タンポポイデアは非時間的で超感覚的なものであり現象の背後にある、というわけです。ここまでは形而上学的には普通の議論と言えるでしょう。さて、問題は後半です。エンデはこのタンポポイデアは知覚可能である、と考えます。それは、タンポポの生きたプロセス(lebendigen Prozess)への内的沈潜によって可能になるのだ、というわけです。ここにシュタイナーの強い影響ないし関連を見出すことができます。シュタイナーは人間を霊(Geist)・魂(Seele)・体(Leib)の3つの構成部分からなる存在と捉えます*1。そのそれぞれの機能について、シュタイナーは『神智学』で次のような例を挙げています。

「私が花の咲いている牧場を通るとしよう。花々は私の目を通して、その色彩を私に伝える。このことは所与として私が受け入れる事実である。私はその華やかな彩りを楽しむ。このことによって、この事実は私の要件となる。私は自分の感情によって、花々を私自身のあり方と結びつけたのだ。…(中略)…去年私が花々について認識し、今年も再び認識するもの、それは、このような花々が生えている限りは存続するだろう。それは、私に開示されたものではあるが、私の喜びとは異なり、私の存在に依存していない。私の喜びの感情は私の中にある。花々の法則と本質は私の外に、世界の中にある。」(シュタイナー,神智学)

簡略にまとめると、人間が五官によって知覚するものが体に、知覚と私(自我/主観)を結びつける快/不快の感情が魂に、時間や空間を超えて自然法則や花の花性(本質)として認識されるものが霊にあたるわけです。ここではエンデのテクストとの関係で、とりわけ霊の部分に着目します。ここまででわかるように、エンデが「隠れたもの」と呼ぶものと、シュタイナーの霊とは極めて緊密な関係にあります。エンデは現象形式=知覚像(ないし知覚表象)として与えられるもの、つまり体に属するものの背後に、タンポポの本質、タンポポが従う自然法則としての隠れたもの=霊が認識可能だ、というわけです。この点について、もう少しシュタイナーの叙述を見てみましょう。シュタイナーは『ゲーテの世界観』で次のように述べます。

「有機的な自然現象の領域で、ゲーテの見解として重要なのは、彼が生命の本質について築き上げた観念である。葉、萼、花冠等々が互いに同一の植物器官であり、共通の基本形態から発展してきたものであるという事実をゲーテが強調したことが重要なのではない。そうではなくて、生きたものとしての植物の本性全体について、ゲーテがどのような観念を持っていたか、そしてこの全体から個々のものがどのようにして生み出されてくると彼が考えたか、ということが重要である。」
「肉体の目が有機体において観察しうるものは、精神の目によってのみ到達可能な、互いに錯綜して作用し合う形成の法則の生きた全体の単なる結果にすぎないとゲーテには思われる。」(シュタイナー,ゲーテの世界観)

シュタイナーのゲーテ解釈によれば、「肉体の目」、すなわち感覚器官によって知覚されたものは、「精神の目」、すなわち霊的に知覚されたもの、言い換えれば思考(あるいは知的直観と言ってもよいと思いますが)によって感覚された形成の法則の「単なる結果に過ぎない」。「共通の基本形態」とは無論「原植物」のことです。原植物そのものではなく、原植物からいかに個々の植物が有機的なものとして発展してくるかがゲーテの見解の重要な部分である、とシュタイナーは考えるわけです。そして、ここで言う個々の植物の発展を、エンデは生きたプロセスと呼ぶわけです。ここに、ゲーテ、あるいはシュタイナーのゲーテ受容とエンデの世界観とを接続する点を見いだせます。
さて、若きシュタイナーの一つの論点は、カント的な意味での「認識の限界」の突破でした。『神智学』の記述に戻りますと、シュタイナーによれば、外的に知覚されるものと霊的な自然法則の認識(いわば知的直観)は共に客観的なものです。人間が独我論的に「私(自我)」の中に閉じこもっているように思われるのは、魂=感情を通して、外的なものの知覚が人間の内的なものと結びつき、私の表象=主観的になることを通してそうなるというわけです。この霊的なものの認識について、エンデは内的に生きたプロセスに繰り返し沈潜することで可能になると思う、といいます。まず、ここで考えたいのは、「隠れたもの」の認識ということについてです。エンデの文章では、この隠れたものを明確に認識できるとは書いていません。「全体性のある種の知覚に至る」という言い方がされています。言い換えるなら、エンデが言っているのは、シュタイナーが霊視(イマギナツィオン認識)と呼ぶような、はっきりした明視的状態まで言っているとは少し考えにくいのです。勿論これは、エンデがシュタイナーの言う高次の認識を否定していた、という意味ではありません。むしろ、エンデが隠れたものを語るとき、霊界の現実から始める必要はない、と言っていることに留意しますと、何か特別な、エンデの言い方で言いますと、「パラサイコロジー」や「グル」や「多かれ少なかれ不気味な聖別式」について語ることがなくても、隠れたものの現実性は認識可能である、という文脈で考えるべきでしょう。ここで重要なのは、現実性(Wirklichkeit)という言葉です。エンデの「愛読者への44の問い」に「現実(Wirklichkeit)が”実際に作用すること”(wirken)と関連があるとすれば、夢はどのような現実を持つのでしょうか?」というものがあります。これに従って、現実性を作用することと関連させるとすれば、「隠れたもの」の作用が重要だということになります。言い換えるならば、帰納的推論によって導きだされる類、つまりタンポポA、B、C…といった個物から帰納的に導きだされた抽象的な類=タンポポが重要なのではなく、現実に作用するところの理念の認識についてエンデは語っているわけです。ここに一つの分岐点が存在します。僕は先にイデアという言葉を使いました。通常、プラトン主義的世界観は二元論、つまりイデアの世界と現象世界の二元的世界観、として捉えられます。そこでは―例えば、ニーチェが批判したように―彼岸/此岸が分割され無関連化されます。しかし、エンデがここでいっているのは、そのイデアタンポポの本質・本当のタンポポは「現実的なるもの=作用するもの」だということです。個々の現象形式が展開し、メタモルフォーゼしていくプロセスをエンデは「生きたプロセス」と言い、この生きたプロセスを「演じる・なぞる(nachzuspielen)」ことで本当のタンポポの知覚に至るといいました。ここでエンデはプラトン主義的二元論的世界観ではなく、シュタイナー的な霊的一元論の世界観に基づいているのです。つまり、何か怪しげな「オカルト」的な手法によらずとも、ゲーテの言い方で言えば「不断に創造する自然」の形成法則、これ自体が「隠れたもの」「オカルト的なもの」「精神的な実在」なのであって、この点にエンデの世界観の一つの重要なポイントがあると考えられます。この点についてはここで論じ尽くすことはできません。またあとで触れるつもりですが、さしあたりエンデの世界観がただの二元論的形而上学的世界観ではない、ということだけ留意していただきたいと思います。
では、もう少し「生きたプロセスへの内的な沈潜」という事柄について掘り下げてみたいと思います。先に述べたような帰納法的推論による抽象化はエンデの言う「生きたプロセス」の外部に観察者を想定しています。これに対して、ゲーテ的/シュタイナー的な観察とはどのようなものでしょうか。ゲーテはハインロートからの自分への賛辞に対し、「私の思考が対象から分離せず、対象の諸要素、つまり直観された事柄が私の思考の中に入り込み、これによって緊密に浸透され、私の直観それ自体が一つの思考、また私の思考が一つの直観である」(ゲーテ,ゲーテ全集14)と自分の観察法を自己分析します。また、シュタイナーは『ゲーテの世界観』でこう言います。

「人間がイデアへと高まり、知覚されうる個々のものをイデアから理解することが実際にうまくいくような場合には、自然が神秘に満ちた全体から被造物を生み出すことによって自然が成し遂げるのと同じ事を人間を成就する。人間がイデアの活動と創造を感じ取ることをしないかぎり、彼の思考は生きた自然からは切り離されたままである。」(シュタイナー,ゲーテの世界観)

シュタイナーは、「生きた自然から切り離された」思考を死んだ思考、「イデアの活動と創造を感じ取る」思考を生きた思考と呼びました。「ゲーテ―精神研究の父」という講演でシュタイナーは、

ゲーテの場合、諸存在の世界の中に沈潜し、生長して絶えず変化するものを追求することが認識でした。追求する際、自分の思考自体が絶えず変化・生成し、あるものから別のものへと絶えず移りゆきます。つまり、普通だったら単なる思考を、ゲーテは内的に運動させるのです。そうすると、それはもはや単なる思考ではありません。…思考は生命的なものになります。もはや思考について思考できなくなり、思考は別のものに変化します。思考についての思考は、思考の精神的観照に変化します。そうすると、普段自分のまえに外的な感覚的対象があるように、思考が自分の前に存在します。」(シュタイナー,ゲーテ 精神世界の先駆者)

つまり、エンデが「内的に沈潜する」というように、外部から観察するのではなく、内部的な植物の生長プロセスに沈潜するわけです。さて、内部/外部という言葉を使いましたが、問題はこれがただの視点の変換ではない、ということです。シュタイナーの引用にもあるように、生きた思考とは思考を通してそれ自体が変容するものです。河本英夫はこの視点の差異を次のように表現しています。

「自分自身を形成する運動では、内的視点そのものを巻き込んで形成運動が起きているため、内的にも何が起きているかがわからないままになる。外的視点を内的視点に変換するという視点の転換だけでは済まない事態が生じている。自己を形成する運動の捉えにくさは、視点の問題とは別のところにある。」(河本英夫,システム現象学

つまり、エンデのいうような「内的な沈潜」とは、既に一つの行為/体験なわけです。ここに対象的思考との違いが存在します。フィヒテが探求したように、あるものを対象化するとき、常に既に自我と非我が分割されます。A=Aたる自我の(定立する)働き=事行に対して、観察は常に一歩遅れます、つまり自我と非我が分割されます。言い換えれば、主観と客観が分裂します。ここに認識の限界が、決して超えられないように思われる裂け目が存在します。しかし、この事行そのものに照準することで、言い換えれば無限の反省的作用のプロセスそのものの体験を通じた、動くものそれ自体の経験/変容、これがエンデのいう「内的なプロセスの沈潜」と言えるでしょう。既に述べたように、この「認識の限界」の突破こそ、シュタイナーの認識論的著作の一つの目的でした。シュタイナーは哲学的主著『自由の哲学』で次のように言います。

「思考の働きを洞察出来る人は、知覚内容の中には現実の一部しか存在せず、別の現実部分はこの知覚内容を思考することによって体験されるものであり、それによってはじめて現実が完全な姿をとって現れる、ということを知っている。その人は意識の中に現れる思考内容が現実の影絵のようなものではなく、自己に基づく精神的本質性であることを理解するであろう。」(シュタイナー,自由の哲学

既に述べたように、シュタイナーにとって思考が捉えるものは、知覚内容と同じように客観的なものです。この客観的なもの=概念が個別化されたものが表象として意識の舞台に現るとシュタイナーは考えます。思考の働きの洞察を通して、この客観的な本質についての洞察が得られる、というのがシュタイナー認識論の一つの論点です。この点について詳しく述べることは、あまりに本題と外れますし、僕の手に余るのでできませんが、シュタイナーは思考だけが思考を思考できる点に着目します。河本英夫「社会システムと心的システムは、もろもろのシステムのなかでも特異である。…(中略)…思考を構成素とする心的システムとコミュニケーションを構成素とする社会システムは、本来どのようにしても観察者の視点を取ることができない。」(河本英夫,オートポイエーシスと思考システムの特殊性について述べています。シュタイナーはこの点に着目して、自らの認識論を打ち立てたわけです。つまり、思考システムの作動を観察する観察システムも思考の作動の結果に過ぎないという再帰的自己言及性に、です。そして、この思考の作動(動き)に照準することによって、感情や意志の作用に影響を受けない「純粋思考」が可能になります。思考とはシュタイナーの定式において霊の領域に属するのですが、この「純粋思考」の経験の中で「精神的本質性」が開示される、というわけです。
それでは、少しまとめてみましょう。エンデは、霊的世界(精神世界)の現実性について、不断に創造する形成作用への沈潜、エンデの言葉で言うならば内的なプロセスへの沈潜によって知覚可能になる、といいます。そして、この考え方はシュタイナーの認識論に基づくものでした。そして、それはシュタイナーのゲーテ受容と大きく関係していました。そのため、エンデはこのエッセーの最後にゲーテの「シラーとの出会い」という文章から―エンデの引用はおそらく記憶に頼って行ったためでしょうが不正確なのですが―引用をします。ゲーテはシラーに自らの原植物を描いて見せました。しかし、ゲーテの話が終わるとシラーは「それは経験ではなく理念です」と答えました。ゲーテは怒りを堪えて「私が自分で気づかずに理念をもっており、しかもそれを目で見ているというのは、たいへん結構なことでございましてね。」と答えました。この逸話に、エンデは隠れたものを知覚するための「内的な姿勢」の必要性が現れている、といいます。そして、その内的な姿勢とは言うまでもなく、既にさんざん述べたように理念を経験すること、言い換えれば有機的なものの全体のプロセス(自然の不断の創造プロセス)へ沈潜する、ということなのです。ここに、エンデがいかにシュタイナーとゲーテの影響を受けているかを見出すことができると思います。

エンデのシュタイナー受容の一側面

さて、ここまでは「隠れたものの実在」というテキストを僕なりの仕方で読んでみたわけですが、上述の読み方からエンデのシュタイナー受容について少し考えてみましょう。勿論、既に述べたようにこれは一側面にすぎないことを強調しておきます。エンデは子安美知子さんとの対談で、シュタイナーについて次のように言っています。

「今私が話したような考え[=主客二元論の克服]を、現代になってからほんとうに初めて言い出したのは、シュタイナーでした。彼はこの本質的問題を鋭く指摘した最初の人間だったのです。…(中略)…シュタイナー自身のたどった非常に論理的かつ哲学的な準備過程を抜きにして、彼の秘教的側面だけをとりあげると、宗教か神秘主義かオカルティズムの奇妙な一派が、また一つできたというだけのことになります。古い形式のオカルト信仰をまねて、そこに先祖返りする動きになる。そのやりかたでは、新しいものは何も得られないし、何の救いにもなりません。」(エンデ,エンデと語る)

ここでエンデがシュタイナーの初期の哲学的な仕事の重要性について強調していることに留意してください。エンデとシュタイナーの関係を考えるとき、このことが非常に重要に思われます。僕の見る限りで、エンデとシュタイナーのことに言及する人は、大抵エンデがシュタイナーの秘教的思想から多大な影響を受けた、と見ているようです。例えば、先日取り上げた「ミヒャエル・エンデの貨幣観」はまさにそうした視点を取っていたように思います。しかし、それではエンデがシュタイナーを重視する理由を洞察することはできません。既に述べてきたような、シュタイナーの認識論的洞察、これにエンデが立脚していることを、本稿では「隠れたものの実在」というテキストを読むことを通してみてきたわけです。エンデはたびたび降霊術などのオカルト的儀式を「オカルト的なキッチュ」として退けます。先の引用で「先祖返り」とよんでいたようなことです。これは「隠れたものの実在」でも、「パラサイコロジー」や「グル」や「不気味な聖別式」に頼らずとも、霊的世界の現実について語ることができる、と述べていることと同型です。この洞察を抜きにすると、エンデを単なる神秘主義者にしてしまいます。同時に、エンデの世界観の中で神秘思想が占める位置を見誤ります。シュタイナーの世界観を、いわば血肉化したエンデの世界観は、既に霊的一元論という言葉で述べましたが、世界をどう見るかという問題と密接に関係するわけです。例えば、『メモ箱』にある「びっくりした女性読者への手紙」 の中でエンデは、

一本の木の外的形姿の背後になんらかの生の本質的なものが存在します、つまり霊的な性質があるのです―自然のあらゆる被造物の背後にも同様に。愛をもたず、唯物的に(非精神的に)世界をイメージすることだけが、これを疑うことができます。この唯物的な解釈が、まさに我々を自然の荒廃へと導いたのです。私が言うことは、汎神論とは完全に無関係です。」(エンデ,エンデのメモ箱)

と述べています。ここに「隠れたものの実在」と同型の議論がなされていることがわかると思います。そして、エンデはその洞察と「自然の荒廃」を接続します。これは言うまでもなく、エンデの自然科学批判に通じています。「アインシュタイン・ロマン」のインタビューでは、エンデはこう言っています。「世界と人間の意識は同一なのです。そこには差異はありません。それを、客観的実在と人間の意識を区別し続けることは無意味です。互いに単独では存在し得ないものだからです。」そして「精神的なものはすべて人間が創りださなければ、創造的に創りださなければ存在しません。ですが、存在するようになれば、それは実在するものとなるのです。それは、生成する理念と言えましょう。真実もまた、生成する理念であり、「存在するもの」ではありません。」というわけです。前者の言及についてよいでしょう、後者の言及には少し注釈が必要かもしれません。シュタイナーは『自由の哲学』の前半では既に概略を示したように認識論的問題を取扱い、後半では自由の問題を扱います。エンデが『読本』で取り上げた『自由の哲学』の「道徳的想像力」の章で、シュタイナーは「道徳的想像力」とは、理念界から直観によって取り出された理念から具体的な表象を作らなければいけない、そのためには道徳的ファンタジーが必要だ、と言っています。認識論的には(理論的にはといってもいいですが)理念の経験であったところの生きた思考―生成する理念―は、実践的にはこのようにイデー(イデア)を具体的に「創造する」働きをする、というわけです。ここにも、エンデとシュタイナーとの関係性を見いだせると同時に、ロマン派的な思考との接続点も見いだせると思います。さて、いずれにしても、現代の唯物論的な文明を「文明砂漠」と呼び、有機的な自然の認識を再び獲得すべし、とするエンデの考えが既に述べたような認識論的基礎とアントロポゾフィー的世界観から導きだされていることがお分かりになるかと思います。同時に、概略的ではありますが、エンデが「創造」とりわけ「価値創造」ということを重視したことも、さきの引用からお分かりになるかと思います。そして、それらの事柄もシュタイナー受容と―勿論それだけではありませんけれども―関係することがみられると思います。

エンデとメタモルフォーゼ

「隠れたものの実在」の一つの論点として、理念のメタモルフォーゼということが言えます。つまり、「本当のタンポポ」と呼ばれるものが、個々の現象形式へとメタモルフォーゼしていくという洞察です。この点について、少しと取り上げてみたいと思います。エンデは『読本』の最初に荘子の「胡蝶の夢」を、最後にボルヘスの「エブリシング アンド ナッシング」を挙げています。エンデはこれを最初と最後に取り上げたのは、この二つが同じ思想を違う表現で述べているからだ、と言っています(エンデと語る)。「胡蝶の夢」については言うまでもないでしょうが、ボルヘスの作品について少し解説しますと。ボルヘスは、この作品でシェークスピアはあらゆる登場人物(ハムレット、デスデモーナ、オセロ等々…)の中にいるが、そのどこにもいない、というわけです。胡蝶の夢と同様に、ここには中心がありません。荘周か蝶か、二つの変容プロセス(とここでは言いたいのですが)だけがある、シェークスピアはいない、だが様々な登場人物への現象、つまり、既に述べたようなメタモルフォーゼプロセスだけが存在する。これはエンデが禅の雲水について、たびたび言及していることとも関連するでしょう。エンデがこのメタモルフォーゼという考え方を、非常に重視していたことが伺えると思います。これに関するエンデ自身の言及を取り上げるとキリがないほどです。なので、一つだけ取り上げます。遺稿集『だれでもない庭』のなかの「鏡に映る鏡には何が映っているのか?―さすらい山の古老」という文章です。この文章自体は、エンデの後期代表作『鏡の中の鏡』についてのものです。と同時に、タイトルにもあるように『はてしない物語』に登場するさすらい山の古老の問いでもあります。エンデは読者と本を共に鏡に例えてこう言います。

「読者と、彼が読む本との間で(人間と世界の間で)おきることは、一体どこで起きているのだろう?ただ本の中だけではない。本は白い紙の上の黒インキでできているだけだ。読者がいなくてはならない。ただ読者のなかだけでもない。本がなければ読むというプロセスそのものができない。…(中略)…読者の注意力をこの謎めいたプロセスへとむけるため、私は、読者を読者自身に差し戻す物語を書こうとした。…(中略)…読者を自然落下の無重力状態に置く物語、同時に、オルビットに似て、(神、人間の自我、現存在の意義のように)存在し、しかも存在しないとしか言い表せない中心を巡る周回軌道へ投げ出す物語。語られたどのプロセスも、はっきりと、あるいはひそかに、次の新しいプロセスへのキックオフを秘めていて、それはまた新しいプロセスへというふうに続き、ついには新しい旋回がはじまるまで…。」(エンデ,だれでもない庭)

『鏡の中の鏡』という本で、エンデはまさに変容のプロセスを取り扱っていたと言えます。そこには、中心というべきテーマのようなものがありません。ただ変容と変容のプロセスだけがあります。そして、読者はまさにその変容のプロセスに巻き込まれ、脱中心化した、あるいは常に中心からズレ続ける無限の反省作用の中で、自分自身の変容を体験する、そういったプロセスだ、というわけです。ここにエンデの芸術観が既に現れていると言えます。『はてしない物語』では、このプロセスの中に(本当の意味で)巻き込まれたバスチアンが、一夜の冒険を通じて自己変容を体験します。一方、『鏡の中の鏡』では脱中心化された中心、常に中心からズレ続ける反復される鏡像としての物語―今風に言えばシミュラークルとしての物語―がその構造を通じて表現されます。素描的ではありますが、エンデがどれほどメタモルフォーゼの理念を重視しており、エンデ思想の根幹の一つにあるということが以上に挙げた事柄からでも推察できると思います。

終わりに―視点について

さて、最初に述べたように素描的/示唆的なものにとどまりましたが、これで本論を終わりにしたいと思います。この文章を書いたのは、前回記事があまりに批判的だったので、少し僕なりのエンデ-シュタイナー-ゲーテというラインについて、どのように見るかを示したいと思ったからです。もっとも、ゲーテにはあまり触れられませんでしたが。ここで僕の視点について、少しだけ補足的な事柄を述べたいと思います。今回、「隠れたものの実在」というテキストを叩き台として使用したわけですが、僕が本当に取り上げたい問題はミヒャエル・エンデの世界観にあります。どういうことかといいますと、前回の記事で著者の前書きを引用して同意を示しましたが、エンデ思想という視点を取るとき、あまりに貨幣論や社会論、あるいは芸術論に偏っているという印象があります。前回取り上げた本も、結局のところ貨幣論を論じていますし、神秘思想(著者の言い方だと錬金術思想)との接続もそれほどうまくいっていると思えませんでした。各論を取り上げることに、この問題の根幹があるように思います。エンデの考え方を本当に洞察するためには、そのような枝の部分ではなく、まず幹の部分をみなければいけないと思います。僕がエンデの世界観というのは、まさにそのことを指しています。かなり大雑把ではありますが、本稿では「隠れたものの実在」にみられるエンデの考え方から、唯物論批判や芸術論への橋がどのようにかけられるかを示唆できたのではないかと思います。無論、貨幣論やその他の考えに対しても、同様の作業ができるでしょう。また、各作品論へも接続可能でしょう。ここで扱った問題はあまりに抽象的に思われるかもしれませんが、本稿の言い方で言えば、ここから個々の問題に対するエンデの具体的な言及がメタモルフォーゼしてくるのです。ここで改めて、本論の考察―理念のメタモルフォーゼ―へと戻ってこれたと思います。エンデが精神的な父というノヴァーリスの断章に「わたしがある著者を理解したと言えるのは、私が彼の精神がおいて振る舞うことができ、彼の個性を縮減せずに翻訳し、多様に変化させることができた場合のみである。」というものがあります。エンデの世界観を知る、というのは、このような試みであるように思います。本論が少しでもこの試みに近づけていればと思います。

*1:ドイツ語のGeistには精神/霊と言った訳語があり、シュタイナー研究ではケースバイケースで訳し分けるのが通例となっています。ここでは基本的に霊という言葉を採用しますが、ドイツ語のGeistに精神の含みがあることは念頭において頂ければと思います。