エンデカフェ告知と遊戯論

エンデカフェ告知

エンデカフェ第三回目になります。今回は『はてしない物語』を取り上げる予定です。映画『ネバーエンディング・ストーリー』に対するエンデの批判を通じて、『はてしない物語』においてエンデが特に何を重要視していたのか、といった論点を逆に浮き彫りにしていければと考えています。また、なぜ映画があのような形になったのか、『はてしない物語』の解釈問題として捉えることで別の論点を提出できればと思っています。
日時:2019年1月26日(土) 17:00~
場所:町田三丁目会館
参加費:1000円
主催  風の会まちだ
協力 エンデカフェ
協力  社会の未来を考えるホリステイック教育研究所
申し込み・お問い合わせ niemandsgarten@gmail.com

『有限ゲームと無限ゲーム』

告知ばかりでなんなので、James.P.Carseの『Finite and Infinite Game(有限のゲームと無限のゲーム)』について、エンデとの関連で少し述べてみたいと思います。エンデがとりわけ遊戯(Spiel)をその芸術観の基礎においていたことは争いがないと思いますが、エンデにおいて遊びとはどういったものだったのかについて知ろうと思うとき、エンデの発言自体がかなり雑多な視点を含んでいるためー特にエンデ自身の創作論と芸術の受容論など、それぞれに異なった論点が截然と区別されないままに議論されているのでー、全体の見通しを得ることが難しくなっているといえます。一方、エンデはCarseの本について、『ものがたりの余白』では「すくなくとも、わたしが理解したところでは、この本はまさに、わたしが遊びについて言わんとすることを、語っています。人生の原理としての遊びです。」と述べています。また1988年のロマン・ホッケ宛の手紙では「ぼくはこの関連で最近見つけた本を君に勧めたい、James.P.Carseの『有限ゲームと無限ゲーム 人生のチャンス』という本だ。それは本当にパガト(Pagad)のはじめての哲学的定式化と言えるようなものなんだ。」(『Michael Ende und seine phantastische Welt』)と書き送っています。以上の発言からもわかるように、Carseの議論がエンデの遊戯論を理解するための補助線として有用だと言えるでしょう。個人的には、エンデの遊戯論を語る上での必読文献であろうと思います。
Carseはゲームには二種類のゲームが存在するといいます。タイトルにもなっている、有限ゲームと無限ゲームの二種類です。この二種類のゲームの最も根本的な違いは、ゲームの目的である、と言えます。簡略化していうと、有限ゲームはゲームに勝つこと(=ゲームを終わらせること)を目的とするのに対し、無限ゲームはゲームを続けることを目的としています。Carseは他の多くの遊戯論同様、ルールをゲームを特定するものであると規定します(「実際、我々がどんなゲームかをするのは、どんなルールなのかを知ることによるのである。」)。有限ゲームにおいて、プレイヤーは勝利条件ーこれはルールの一部でもあるわけですがーに合意します。一方、無限ゲームではプレイヤーはゲームを続けるという合意のもとにゲームをプレイします。場合によっては、無限のゲームのプレイヤーはゲームの継続のためにゲームのルールを変えることもできます(=終わることがない=無限)。また、無限ゲームは外的な成約を一切受けないため、例えばプレイヤーが死亡したとしてもゲームは継続します。他にも様々な概念対として無限ゲームと有限ゲームは表されます-例えば、庭と機械、文化と社会、ドラマ的と劇場的等々-が、基本的には上に述べたように、有限ゲームは終わることを、無限ゲームは続けることを目的としたゲームであるというのが基本にあります。
さて、Carseの議論とエンデの思想的関連を巡っては様々な論点がありえると思いますが、ここでは簡潔に示唆だけをしておきたいと思います。一つは、『はてしない物語』や『鏡の中の鏡』に見られるように作品自体が開かれて、無限に続けられることが目指されている点です。『夢世界の旅人マックス・ムトの手記』では、ムトが今まで他者からの強制によって続けて来た旅が、ルールを変えることによって継続されるところで物語は幕をおろします。ムトが旅を続ける理由はムトが旅が好きだからというものでした。つまり、ゲームを楽しむためにルールを変えるということが、ここでは作品の主要なモチーフになっているわけです。こうして、作品を受容することがそのまま読者・鑑賞者にとっての一つの遊びであり、作品がある種遊びへの招待になるという観点から捉える事ができ、またその遊びが続くような作品の開かれた構造が、エンデ作品の-少なくとも一部の作品の-特徴となっていると言えるでしょう。もう一つは、文化との関連です。先に引用したホッケ宛書簡では、文脈として文化の問題、(文化の)創造的な原理としての遊びが問題として語られています。つまり、ホイジンガが明らかにしたような文化の原点としての遊びであり、ホモ・ルーデンスとしての人間です。Carseは社会は有限ゲームであり、それを含む形で文化としての無限ゲームが存在するといいます。この文化を根底におく態度は、エンデと共通する点でもあるように思います。また、Carseにおいてもエンデにおいても、文化と芸術(カルチャーとアート)と創造性は強く結びついています。特に、Carseは無限ゲームのプレイヤーは驚きに対して開かれているといいます。これはエンデの永遠に幼きものの概念と共通した特徴を持っています。なぜなら、この私たちのなかの永遠の子どもと呼ばれるものは、驚きに対して開かれており、創造性を失っていない者だからです。この子どもの遊びから文化が生じるのであるとすれば、エンデの永遠に幼きものとは無限ゲームのプレイヤーでもあると言えるかもしれません。また、先の引用でエンデが「パガトの哲学的定式化」といっています。エンデにとってパガトとは魔術師であり奇術師、つまり創造的で技芸/業(マニエラ!)のあるものだからです。そして、「自己紹介」にもあるようにパガトと子ども(Kind)こそが、エンデの芸術を象徴する2つのモチーフであり、それを媒介するのが遊びなのだとすれば、やはりエンでの芸術理解を知るためには、エンデの遊戯論をこそ取り上げる必要があるのと言えそうです。