若きシュタイナーと個人主義的アナーキズム

とある本を購入しようかどうか迷っていて、ちょっと検索かけてみたら、シュタイナーのジョン・ヘンリー・マッケイ宛の書簡が面白そうだということが判明し、それを原文で読んでみたものの、今日届いた当該の本(『シュタイナー危機の時代を生きる』)に全訳が載っていて絶望している僕です。まあ、しかし、せっかくなので僕訳を載せてみようと思います。なお、シュタイナー読みならば当然知っていてしかるべき人物ですが、マッケイについて簡単に述べれば、ドイツのアナーキストであり、ヘーゲル左派の思想家マックス・シュティルナーをドイツに逆輸入したアメリカの社会思想家です。彼自身、シュティルナー思想に傾倒したアナーキストであったようです。ついでに言うと、シュティルナーはシュタイナーが影響を受けた思想家で、とりわけニーチェとの対比で若い頃のシュタイナーはよく言及しています。シュタイナーとニーチェという関係については、よく言及されますが、僕は同じ思想のラインとして、シュティルナーとシュタイナーにも注目すべきだと思っています。もっとも、シュティルナーは著書も少ないので仕方がない部分もありますが…。あと、書簡に出てくる「暴力」と「権力」はどちらもGewaltです。
さて、件の書簡はそこそこの長さの上に、相変わらず僕の低いドイツ語力で訳したものなので、読みづらいと思います。なので、忙しい人のための要約を書いておくとこんな感じです。シュタイナーは、マッケイと自分の立場は同じであることを述べ、自分がもし「個人主義アナーキスト」かどうかと聞かれたら、無条件にそうだと答えねばならない、という。そして、そのために「個人主義アナーキスト」と「プロパガンダ行為」を区別する必要があるとし、この二つの差異を述べる。シュタイナーは、「個人主義アナーキスト」は個々の人間が、完全に自由に、その内なる能力や諸力を発展させることだけを望むものだとする。そして、そのために「個人主義アナーキスト」は権力・暴力によるあらゆる自由に対する抑圧に対する闘争者である。それは国家であると同時に、ルケーニ*1やカゼリオ*2のような暴力行為に訴えるアナーキストの行動(プロパガンダ行為)に対しても同様である、とする。
これがシュタイナーが述べる、「個人主義アナーキスト」と「プロパガンダ行為」の差異。この場合、ルケーニやカゼリオのような一般的な意味でのアナーキストが、後者に分類されていることに注意が必要だろう。本文を読めばわかるように、シュタイナーの言う「個人主義アナーキズム」とは、ほとんどシュタイナーの「倫理的個体主義」に近い考え方だ。というより、この場合、個人主義アナーキズムとはシュティルナー主義と同義と見たほうがよく、同じくマッケイへの別の書簡でシュタイナーが示唆しているように、ここで言う「個人主義アナーキズム」に対して哲学的基礎付けを行ない、またそこからいかにして倫理的になりうるか、換言すれば、人間が無条件に自由でありながら、同時に倫理的であることがいかにして可能かを哲学的に述べたのが、『自由の哲学』であるといっていいだろう。シュタイナーは自伝で、シュティルナー個人主義アナーキズムは人間の内面に留めるべきであって、政治にまで拡張すべきではないといったことを書いています。それだと、この書簡の内容と矛盾するのではないか、と思われるかもしれませんが、僕はこう解釈したいと思います。この書簡では、「<個人主義アナーキズム>は、彼の中にある能力と力を発揮することができることを、何物によっても妨げられないことを望みます。」と述べられています。つまり、内面的な能力を妨げられることなく発揮することなのであり、これはあくまで内面的なものなのです。そして、国家はその領域、つまり後年のシュタイナーの三分節論の用語を用いるならば、精神の領域については国家はGewaltによって干渉してはならない、というわけです。僕は以前からシュタイナーの三分節論における自由の原則に支配された精神の領域とは、シュティルナーの無政府主義が可能になるような限定を加えたものであると考えてきましたが、その観点からすれば、むしろ、この書簡の内容はシュタイナーの後の社会有機体三分節構造に通じる精神を表していると感じます。
GA39書簡集 通し番号529 ジョン・ヘンリー・マッケイへの書簡 1898年9月 ベルリン
親愛なるマッケイ氏へ!
私の『自由の哲学』が出版された四年前、貴方は私の理念の方向性に対して、賛同を表明してくれました。このことが私を心から喜ばせたということを、お伝えしておりませんでした。というのは、私は、私たちが私たちの意見に関して、二つの互いに全く無関係な性質が一致するように、一致することを確信しているからです。私たちは、完全に異なったやりかたで、自分の思考世界へ苦労して突き進んでいるにも関わらず、同じ目標を持っているのです。貴方も、このように感じておられるでしょう。前の手紙を貴方が私あてに送ってくださったという、まさにその行為こそが証拠です。私は、貴方から同志として呼びかけられることを、重要視しています。
私は今まで常に、私の世界観に対して<個人主義的>あるいは<理論的アナーキズム>という言葉さえ用いることを避けてきました。というのは、私はそのようなレッテルを、全く重要だとは思えないからです。ある人が、自分の著作において、はっきりと肯定的に自分の観点を表明するならば、流行の言葉でこの観点をレッテル付けることが、なお必要でしょうか?そのような言葉を、すべての人が特定の伝統的なイメージと結びつけます。そのイメージは、個々の人格が表現しなければならないことを、ただ不十分に再現するだけなのです。私が自分の思考内容を表明するとは、すなわち、私が自分の目的を説明するということなのです。私自身は、自分の考え方を通常用いられる言葉で呼びたいとは思いません。
しかしながら、私はそのようなことに賛成しうるという意味で、<個人主義アナーキスト>という言葉が、私に適用できるかどうかをいわねばならないとしたら、無条件の<ヤー>でもって答えねばならないでしょう。私が自分に対してこの名称を要求するがゆえに、私もまさにこの瞬間、どうやって<我々>、すなわち<個人主義アナーキスト>が、いわゆる<プロパガンダ行為>に熱狂する人々と、自分たちを区別するかを、手短いに述べたいと思います。私は確かに思慮のある人間にとっては、何も新しいことを言っていないことをしっています。しかし、私は貴方のように楽観的にはなれません、親愛なるマッケイ氏。貴方は単にこう言います。「政府は、その著作によってただ一人で、しかも、状況を血を流す事無く変えようとする、公的な活動に関与する人間に対して、盲目的で愚かな措置をとることはない。」私の唯一の異論を悪く受け取らないでください、貴方は世界がどれほど僅かな理性でもって統治されているかを、あまりよくお考えになっていないのです。
私は、一度はっきりと話したいと思います。<個人主義アナーキズム>は、彼の中にある能力と力を発揮することができることを、何物によっても妨げられないことを望みます。個人は、完全に自由な競争において力を発揮するべきです。現在の国家は、この競争に対して関心をもちません。国家は至る所で、個人の能力の発展を妨げます。国家は個人を憎んでいます。国家はこういいます。私はあれかこれかに振舞う人間だけを必要とする。そうでないものに、私は彼が、私が望むようになることを強制する。今や、国家は、人間が国家に、国家はそのようにあらねばならない、というときだけ、人間と折り合う事ができると信じている。もし国家がそうでないならば、そうならねばならない。しかし、現にそうなのです。個人主義アナーキストは、これに対して、最良の状態は、人間を自由な軌道に乗せるときに現れるだろうと言います。個人主義アナーキストは、人間が己を正しい状態に置くことを信用しています。もちろん、明日、国家が廃止されるならば、明後日、すりがもはや存在しなくなる、などと信じてはいません。しかし、権威と権力によって、人間を自由へと教育できないことを知っています。すべての権威と権力を廃止するというやり方で、独立不羈の人間を自由にするということを知っています。
しかし、現在の国家はまさに権力と権威に基礎づけられています。個人主義アナーキストは、権力と権威に対して、敵意を持って相対します。というのも、それらは自由を抑圧するからです。彼は、自由で妨げられることのなく諸力を発展させること以外のことを望みません。彼は自由な発展を抑えつける権力を取り除こうと望みます。社会民主主義がその結果を引き出すとき、最後の瞬間に国家は大砲を発射することを知っています。個人主義アナーキストは、権威の代表者たちが常に最後には、暴力による秩序付けに訴えることを知っています。しかし、彼はあらゆる強制手段は自由を抑圧すると信じています。それゆえ、彼は暴力に基づく国家と戦います、そしてそれ故、彼は同じくらいエネルギッシュに、同様に暴力的秩序付けに基づくプロパガンダ行為と戦うのです。国家が、一人の人間をその信念のために打首にしたり、監禁したりさせるならば−それを思うように呼ぶことができます−それは、個人主義アナーキストにとって、非難すべきことのように思われます。彼にとって、ルケーニが、偶然、オーストリの皇女である一人の女性を刺殺するとき、それは同様に非難すべきことと思われます。同様の事柄と戦うことは、個人主義アナーキストの第一の根本原理に属します。もし彼がそのようなことと同じことを承認しようとすれば、なぜ国家と戦うのかを知らないということを、白状しなければならないでしょう。彼は、自由を抑圧するう暴力と戦います、そして彼は、国家が自由の理念をもつ理想主義者を国家に従わせるとき、国家と戦うのと同様に、血気盛んな愚かな若者が、オーストリア皇位にある共感的な女性夢想家を暗殺するときも、これと戦うのです。
私たちの敵対者に対して、<個人主義アナーキスト>がいわゆる<プロパガンダ行為>とエネルギッシュに戦うことを十分明確に伝えることはできません。このアナーキストが、カゼリオとルケーニのように、吐き気をもよおすようなものは、国家の暴力的秩序以外にはひょっとしたら存在しないのかもしれません。しかしながら、私は貴方のように楽観的ではいられません。親愛なるマッケイ氏。というのも、私は、<個人主義アナーキスト>と<プロパガンダ行為>のあいだのような粗野な区別を行うちっぽな理性すら、私がどこを探しても、たいてい見つからないのです。
友愛を捧げながら
あなたのルドルフ・シュタイナー

*1:オーストリア皇女エリザベートを暗殺したアナーキスト

*2:フランスのカルノー大統領を暗殺したアナーキスト