私訳『自然と我々の理想』

昨日、Twitter上で、高橋巌先生の『若きシュタイナーとその時代』で一部が取り上げられている(自伝の7章にもあります。自伝は邦訳では西川訳と伊藤訳が出ています。)、シュタイナーのマリー・オイゲーニエ・デレ・グラツィエへの書簡、GA30所収『自然と我々の理想(Die Natur und unsere Ideale)』が話題になり、原文を調べてみました(原文リンク)。短い書簡ですので、僕自身が読むついでにメモがわりに訳を取ってみました。Twitter上でもかなり関心が高かったので、ついでに公開してみようと思います。ただし、僕のドイツ語能力は極めて低いので、訳文については何一つ保証できません。あくまで参考程度だと思ってください。要するに、自分で原文にあたってくださいw斜線部は原文強調ママです。あと、手紙の中の慣用表現とかはよくわからないので、適当に訳しましたwまあ、内容には関係ないのでご容赦下さい…。
ちなみに、この非常に短い文章ですが、高橋先生が「『自由の哲学』の原細胞」と書いておられるように、『自由の哲学』のエッセンスが凝縮されたようなものだと感じました。19世紀末にシュタイナーが抱いた問題意識は、現代においてますますアクチュアルであるように思います。関心を持たれた方は、ちくま学芸文庫で手軽に入手できますので、是非『自由の哲学』をお読み頂ければと思います。

自然と我々の理想

「ヘルマン」の女性詩人M・E・デレ・グラツィエへの書簡

敬愛する詩人へ!
貴女は、その思索に富んだ哲学的な詩『自然』の中で、現代人に支配的な根本的なムードを表現しています。現代人は自然と精神の現代的な理解を心に刻みつけられ、その際、その理解と我々の精神と心の中の理想との間にある不協和音を認識させられるという深い感情をもっています。そうです、あの時代、我々の神への子どもっぽい信仰において成り立つ、軽薄で皮相な楽観主義が、自然と精神の分裂を人間に超越させる時代は過ぎ去りました。人間があまりに表面的で、世界の至る所で血を流している幾千もの傷口を無視する軽薄な心の時代は終りました。我々の理想は、このしばしば退屈で空虚な現実に満足するためには、もはやそれほどまでには皮相ではありません。
それにも拘わらず、私にはこの認識から生まれる深いペシミズムからの克服が存在しないとは信じることができません。この克服は私にとって、我々の内的世界を見るとき、我々の理想世界の本質に近づくときに生じます。それは外的な事物によっては何も付け加えることも、引くこともできない、隔絶した完全な世界です。我々の理想は、もしそれらが現実にいきいきとした個的なものであるならば、自然の寵愛があるかないかに拘わらず、本質的なものではないでしょうか?たとえ美しいバラの花が無慈悲な突風によって散らされたとしても、バラの使命は満たされています。というのは、バラは何百もの人間の目を喜ばせたのですから。星空を破壊することが、無慈悲な自然の気にいるとしても、数百年を通して、人間は畏敬の念を込めて夜空を見上げました、そしてそれで十分なのです。無常な存在ではなく、事物の内的な本質がそれらを完全にするのです。我々の精神の理想は、自ずから現れねばならず、親切な自然の協力によっては獲得できない、独立した一つの世界なのです。
人間は、自分自身の理想世界の中で満足するのではなく、初めに自然の協力を必要とする憐れむべき被造物なのでしょうか?自然が、自立してない子どもと同様に、我々を引きひもをつけて、面倒をみるならば、崇高な自由はどこに残るのでしょうか?それどころか、そのことが我々にとって幸福であったとしても、我々の自由な自己が作り出すもの全てを断念しなければならないでしょう!自然が毎日、我々が創りだしたものを破壊するとしても、我々は毎日新たな創造をを喜ぶことができるでしょう!我々は自然ではなく、自己自身の全てに基礎を打ち立てるように望むのです!
しかし、この自由はただの夢にすぎないと、人は言いうるかもしれない。我々が自分を自由であるとうぬぼれることで、我々は自然の強固な必然性に属している。我々が把握するもっとも高次の思考内容は、我々の内で盲目的に作用する自然の成果にすぎない、と。
おお!ですが、我々は最終的に、自己自身を認識する存在が不自由ではありえないことを認めるに違いありません!我々が、自然の永遠の法則性を探求する限り、我々は自然の外面を基礎付けている諸物質を、自然から引き離します。我々は事物を支配する法則の織物を見ます。そして、その法則は必然的なものを生じさせます。我々は自分の認識の内に、自然の事物の法則性を自然から引き離す力を所有しています。それにも拘わらず、この法則の意志無き奴隷であるべきなのでしょうか?自然の事物は不自由です、というのは、それらは法則を認識することなく、自分自身について知ることなしに、法則によって支配されているからです。我々が精神的に自然を貫いているのに、一体どうして自然が我々を強制するというのでしょうか?認識する存在は不自由ではありえません。この存在は最初に理想の中でその法則を作り変え、自己自身を法則にするのです。我々は、老衰した人類が夢想する神が、自分の心の中、精神の中に住んでいることを認めなければなりません。神は、完全な自己放棄において、すべてを人類に注ぎ出しました。かれは自分のために何一つ残しておこうとしませんでした、というのは、自分自身に自由に働きかける種族を望んでいたからです。神は世界のうちに消えました。人類の意志は神の意志であり、人類の目的は神の目的です。神は人間に自分の全ての本質を植えつける限り、自分自身の実在を断念します。<歴史の中の神>は存在しません、神は人間の自由の代わり、世界の神性の代わりに、存在することをやめました。我々は自分自身の中に存在の最高の能力を受け入れます。それゆえ、外的な力は我々に満足を与えることはできません、我々自身が創造するものだけが、満足を与えることができるのです。我々を満足させない存在への、この冷たい世界への全ての悲嘆の声は、我々が世界に、その力によって世界が我々を上昇させ、喜ばせる、自己自身の魔法の力を貸し与えなければ、世界の力は我々を満足させえないという思考内容に対して、沈黙しなければなりません。もし世界の外にいる神が我々にあらゆる至福を与え、我々がそれを自分と関係なく準備されたもののように甘受しなければならないならば、我々はその至福を拒絶するに違いありません。というのは、そのような至福は不自由の喜びなのですから。
我々は、自分の外にある諸力によって満足を得るよう要求しません。信仰は、我々に、世界の外にいる神がもたらさねばならないような、この世界の災厄との和解を約束します。この信仰は、神がもはや存在しないために、消え去ります。人類がもはや外的なものによる救済を望まない時代が到来するでしょう。なぜなら、深い傷に自ら鞭打つように、自己自身で浄福を準備しなければならないということが認識されるからです。人類は、己の運命の御者なのです。この認識から現代の自然科学の成果を取り除くことはできないでしょう、なぜなら、それらは我々が事物の外面を理解することによって達成した認識だからです。一方で、我々の理想世界の認識は、事物の内的な深みへと突き入ることと関係しているのです。
敬愛する詩人である貴女、貴女はその詩でもって、哲学のサークルを激しく追い詰めました。あなたはきっと、この返答をお聞きになることを嫌とはお思いにならないでしょう。そのことで、私は最大の敬意と従順を示します。
ルドルフ・シュタイナー

エンデ「比喩」注解-シュタイナー入門

Twitterで管理?しているエンデボットに、遺稿集「誰でもない庭」の「比喩」という文章の一部を引用しているのですが、少し見なおしてみたら、(一部を引用しているせいもあるけど)かなりハイコンテクストな文章なので、少しつらつらと書いてみることにしました。まずは、ボットに登録している部分を田村都志夫訳から引用。


文字とは遺伝される物質だ。言語はエーテル体であり、本の生命なのだ。物語はアストラル体。よろこびやかなしみをかたり、様々な「人格」をのべる。「わたし」は全体の理念である。この理念は他の文字、別の言語、いや、そればかりか他の物語ででも実現されうる。高次の「主体そのもの(ゼルプスト)」は、これら全ての背後に立つ詩人である。
ちなみに、本文ではこの後に神はこの世界のすべてだ。それがあればこそ、詩人は本が書ける。と書かれて終わっている。さて、僕がボットに登録した文章は、文字数を切り詰める意味も含めて訳し変えているので、そちらも引用してみる。

書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。
文字(Schrift)をあえて「書かれた文字」としたのは、このテキストの文脈では「本は紙や厚紙か皮革、更に糊、糸、麻布、そして印刷インキかインクでできている。それは本の、物としての身体(物質的身体:physischer Leib)」であり、物質的に見れば、紙の上のインクのシミにすぎない文字を「物質主義者(唯物論者:Materialist)はそれらが記号(Zeichen)であることを認めようとはしない。それらが語(Worte)を意味し、読まれなければならず、そのもの自体はからっぽ(Wesenlos)であることをみとめない」という部分を受けている*1
さて、この文章にはシュタイナー思想の用語が使われている。シュタイナーによれば、人間は物質体・エーテル体・アストラル体・自我(体)から成る*2。つまり、エンデの「比喩」というタイトルは、本を人間の比喩として見るということなのである。なお、遺伝される物質(Erbmasse)を物質体としたのはこのためだ。
まず、紙の上のインクのシミに過ぎない文字は物質体だ。例えば、アルファベット一つ一つをとってみても、何の意味も他のアルファベットとの関連も持たない。そこで言語(Sprache)がエーテル体だとされている。かなり大雑把に言えば、エーテル体(生命体)とは物質的身体に有機的関連を与えるもの、無機物を有機物にするものである。つまり、ある文字列が一定の意味を持つのは、特定の言語の言葉として文字列が有機的に関連付けられているからだ、というわけだ。次に、物語がアストラル体だとされる。アストラル体とは一言で言えば感情を司る部分であり、これも大雑把に言ってだが一般的に心と言われるものに相当する。経験的に理解できるように、感情は人間の中でももっとも個的なものである。各々の本の個性を表す物語がアストラル体だと解釈できるだろう。次に、自我(体)(Das Ich)である。ちなみに、田村訳では「私」となっているが、名詞として使われた「Ich」は一般的にも自我と訳されるし、シュタイナーの文脈でも「自我」の方が相応しいのでそうした。自我は一般的な意味で考えられている自我とほぼ同じで、言い換えるなら自己意識と言ってもいい。これが全体を統率する理念(Idee)であるというわけである。また、別の文字や物語や本でも実現されうるというのは、どういうことか。一般的に解釈すれば、いわばペルソナのことと考えられるかもしれないが、シュタイナーの文脈では、これは輪廻転生を意味する。つまり、今私が「私」と感じている肉体や心ではない別の存在に転生したとして、歴史的に制約された別の私(自己)意識においても、理念は実現されうるというわけである。そう捉えて初めて、次の文章が理解できる。理念を生みだすのは、著者たる詩人である(勿論、ここで言う本は詩人が書く本を意味している)。そして、その詩人、つまり歴史的に制約されない転生する主体は、高次の自我、シュタイナーの用語で言えば霊我(Geistselbst)である、というのだ*3。なお、hoehere Selbstは田村訳で「高次の主体そのもの」と訳されているが、シュタイナーの文脈で捉えて霊我の意味で時折用いられる「高次の自我」とした。その後の文章は直訳すれば「神は必要不可欠な全世界だ。それでもって詩人は本を書くことができる」とでもなるだろうか。ポエジーの素材となる全世界に当たるものが、人間にとっての神(神的存在・インテリゲンツィア・ヒエラルキア存在)なのだということだろう。この一文は、エンデの人間に対して神的存在たちからの働きかけている、という考えを示している(この点に関しては、M.エンデ・子安美知子対談『エンデと語る』、田村登志夫インタビュー『ものがたりの余白』などを参照されたい)。つまり、エンデの考えでは、人間が高次の自我の生む理念を達成できるのは、神的存在たちの働きがあってこそなのだ、ということになるだろう。
また、別の側面から見ると、エンデが人生の中で影響を受けた本の一文を紹介した本「M・エンデの読んだ本」(シュタイナーの「自由の哲学」や輪廻転生を論じたレッシングの「人類の教育」なども入っている)で引用されている、ボルヘスの「Everything and Nothing」を参照するのがいいだろう。ボルヘスはこの詩でシェイクスピアについて、シェイクスピアシェイクスピア劇のあらゆる登場人物の中にいた、しかし彼自身はどこにもいなかった、ということを書いている。つまり、エンデの「比喩」の文脈で言えば、詩人=シェイクスピアは全ての人物=自我の中にいるが、それは彼自身=高次の自我ではない、ということである。エンデはこれを好んで引用する。詳述は避けるが、ここにはエンデの物語=文学というのは詩人の思想を美しくラッピングしたものではないという考え方、踏み込んで言えば、エンデの遊戯に関する考え方も含み込まれていると考えられる。余談だが、僕はこの文章で表される、あるいはボルヘスの文章に表されるようなエンデの考え方を、物語の構造にまで昇華した作品が、エンデの晩年の長編作「鏡の中の鏡」であると考えている。
日本のエンデの翻訳は、友人の田村登志夫氏や第二夫人でもある佐藤真理子氏など、かなり充実しているが、やはりエンデの神秘学、とりわけシュタイナーやカバラとの関連で書かれた文章は、個々の思想をあまり理解されていないことと、一般読者向けに一般的な語にしようとして、意味を損なったり、わかりにくくなっている部分があるため、多少訳し変えた上で、シュタイナー思想からの注釈をつけてみた。

*1:なお、エンデが唯物論という言葉を使うとき、シュタイナーが使った意味で、つまり20世紀初頭頃にその言葉が意味したような意味で使われていると思われる。エプラーとの対談でエプラーにも指摘されていたが、現代における唯物論はエンデが言うほど単純なものではないので、そこは注意しておく必要がある。ただし、哲学的、あるいは物理学的にはともかくとして、一般的にはシュタイナーの言う意味での唯物論は根強くあることも確かではあるが。

*2:この分け方以外に、霊・魂・体という分け方があり、そちらの方が詳細である。この三分節では各部分がさらに三つに分かれ、物質体・エーテル体・アストラル体は全て体に属する。魂は感覚魂・悟性魂・意識魂、霊は霊我・生命霊・霊人に分かれる。また、この文章におけるそれぞれの説明は、シュタイナー入門本などで解説されるようなかなり簡略なものであり、シュタイナー思想全体においては、それぞれがかなり複雑に絡まりあっていることは付記しておく。

*3:歴史的制約と書いたが、要するに現世で得た経験・記憶などからなっているという程度の意味で使った。これらは肉体や記憶に密接に関連する。シュタイナーによれば、エーテル体とは記憶を担う部分である、とも言われており、死後、このエーテル体は一部を残して解消する、ちなみにこの一部、エーテル体のエッセンスと呼ばれるものがカルマである。そのため、地上生での記憶は死後生においては保持されないことになる。同様に、アストラル体も死後生においてカマロカにおいて浄化され、地上との関連を失う。そのため、新たに転生した人間は、新しい地上的な経験・記憶・両親の遺伝に影響を受ける身体によって制約される。ちなみに、エンデが文字を遺伝される物質体といったのは、生物学などが明らかにするように、遺伝による身体への影響はアントロポゾフィーでは完全に肯定されていることと関連する。

貨幣の隠喩としての時間という解釈の一面性

エンデの遺言」と「モモ」があの松岡正剛氏の千夜千冊で取り上げられた。松岡氏は最近積極的に資本制に関わる著作について千夜千冊しているので、当然、エンデの貨幣と経済システムへの問題意識に関する部分が取り上げられた。で、僕はそれを読んで、多少の違和感を覚えた。「遺言」の話ではなく「モモ」の話だ。僕は、別に松岡氏の「モモ」解釈自体に異論はない。むしろ、「遺言」の内容が発表された後でのスタンダードな「モモ」解釈だ。が、それが”スタンダード”であるがゆえに、違和感を覚えたのだ。結論から言って、それは少し貧困すぎないか?ということだ。一つはっきりさせておくと、「モモ」は発表当時、基本的に「時間に余裕のなくなった現代人への警鐘」というこれまた貧困な捉えられ方をしていた。これに対して、エンデ自身も不満を述べている。例えば、子安美知子との対談「エンデと語る」では、

「…じつは「モモ」の書評などで褒められても、ひどく外面的表面的な理解しか示されていないと思うことはあるのです。…けれども、いや、いや、ちょっと違います、とは言いたい。私としてはもう少し先のところまでいっているつもりなのです。」

と言っている。エンデの死後、日本ではエンデが示した貨幣・経済のオルタナティブな考え方(主にゲゼルの貨幣論とシュタイナーの社会有機体三分節論)を取りまとめた「エンデの遺言」が出版された。ここでエンデの経済学者ルドルフ・オンケンへの書簡の一部が掲載されている。その中でエンデは「老化するお金という概念が私の本「モモ」の背景にあることにきづいたのはあなたが最初でした。」と書いている。ある意味で、「モモ」における「時間」を貨幣の比喩で解釈することは、エンデのお墨付きといえなくもない。しかし、一方で、それはエンデの嫌う芸術の解釈の仕方でもある。つまり、作者(エンデ)が言っているから、こう読むのが正しいんだ!というのは、作者のメッセージの容器として文学を捉えていることに他ならないからだ。無論、オンケンの気づきは素晴らしいが、それを知った僕らが同じ解釈をする必要もないし(「遺言」と全く無関係に自分でそれに気づいたのなら別だが)、それが唯一の「モモ」解釈だと思う必要は全くないのではないか。僕が貧困だと思うのは、貨幣解釈を唯一解であるかのような取り扱いなのだ。

さて、「モモ」における時間を貨幣の隠喩とする解釈について、簡単に僕なりの解釈を述べて置くとこんな感じになる。灰色の男たちは、他人の時間(=時間の花)を騙しとって冷凍し、それを葉巻にして吸うことで生きながらえる。ここで人間の中にある時間は「生きた時間」とされ、灰色の男たちの葉巻は「死んだ時間」とされる。つまり、生きた時間を死んだ時間にして利益を得るのが灰色の男たちだ。ここにはゲゼルの「減価する貨幣」やシュタイナーの「老化する貨幣」の隠喩を読み取ることができる。生きた時間=貨幣は、経済領域の中で価値を減じながら流通する、シュタイナーの三分節論では社会はひとつの有機体として考えられており、貨幣は血液のように市場を循環すると想定されている。そして、貨幣の機能は交換機能だけに限定される。それに対して、灰色の男たちの時間=貨幣は価値を減じず、むしろ時間=貨幣そのものが価値を持つようになる。エンデの比喩で言えば、パン屋のお金と株式市場のお金の違い、だ。そもそも、時間貯蓄銀行という名前や、灰色の男たちのレトリック(時間の利子=自己増殖のレトリック)を見れば、貨幣というキーワードがあれば、貨幣の比喩というのはかなり簡単にわかる比喩なのだ。
ここからが本題。じゃあ、「モモ」における「時間」は「貨幣」の比喩にすぎないのか?僕は、これには反対だ。エンデの友人でもあり、日本にシュタイナー思想/教育を紹介したことでも知られる子安美知子さんは、「モモ」に大変感銘を受け「モモを読む」という本を書いている。この本の「モモ」解釈自体はシュタイナー思想(エンデはシュタイナーに非常に大きな影響を受けている)に基づいたとても面白いものだが、ここではその内容については触れないし、僕は当たり前だがこれが「モモ」の正統解釈だとか言いたいわけではない。ただ、この本で子安さんは非常に重要な指摘をされている。それは翻訳の問題だ。モモの一節に「なぜなら、時間とはすなわち生活だからです。そして人間の生きる生活は、その人の心の中にあるからです。」というところがある。二部の最初のところだ。これはドイツ語では「Denn Zeit ist Leben. Und das Leben wohnt im Herzen.」となっている。子安さんはこの「Zeit ist Leben」は「時間とは”いのち”なのです」と訳した方がよいのではないか、と提案する。ドイツ語のLebenは英語だとlifeにあたり、生活の他に生命などと訳せるのだ。子安さんの指摘では、Lebenを生活と取ると、時間の花(Die Stunden-Blumen)は生活=時間=生活の花になってしまうのではないか、という。時間=生命であり時間の花=生命の花と取った方が、時間の花をよりよく表現できるのではないか、というわけである。僕は、「Zeit ist Leben」の後の文にも注目したい。Lebenを生命ととれば、そこは「生命(=時間)は心(ハート)の中にあるのです」となる。さて、「モモ」のこの箇所をこのように解釈すると、僕には別の連想が生まれる。それは何か?「はてしない物語」だ。「はてしない物語」で重要な役割を果たすものに「生命の水(die Wasser des Lebens)」がある。そう、ここでもLebenがでてくるのだ。ここで「生命の水」と「時間の花」の関連性を詳しく論じることはできないので、簡単に言ってしまうと、これらはシュタイナーの言葉で言えば「高次の自我」あるいは「人間の中の神的なもの」と解釈できるのだ。言い換えれば、これらは人間の中の超越的、形而上的なものの表現だと言えるのである。詳細は省くが、こう捉えれば「生命はハートの中にある」という一文にも、初期ロマン派的・人智学的な意味を読み取ることができる。
さて、僕が問題にしたのは貨幣だった。結論から言おう。時間を貨幣の比喩と捉えると、時間の花の意味の深みが失われてしまうのだ。短絡的に言ってしまえば、時間=貨幣=貨幣の花は、時間の花の壮大なイメージと全く合わない。更に言えば、マイスター・ホラのことを考えて見るといい。マイスター・ホラはいわば超越的・神的存在だ。しかし、もし時間を貨幣の比喩”だけ”で捉えれば、マイスター・ホラはせいぜいのところ貨幣鋳造所の所長か、中央銀行の頭取になってしまう。僕が、貨幣の比喩”だけ”で捉えるのは貧困だと思うのは、こういうことなのだ。これは蛇足かもしれないが、エンデ自身、政治家エアハルト・エプラーとの対談で「モモ」の射程を聞かれてこう答えている。

「「モモ」はすでに、限界の向こうに何があるか、を暗示している。特に僕の念頭にあるのは、マイスター・ホラのところでの話なんだけどね。そこでは物語は、何よりも外的な日常の現実を越えて、超越的で、形而上的な、あるいはシュルレアルな領域に移っている。モモは「時間の花の池」のところで、これまでとはまるで違ったふうにして、自分が人間であることを知る。精神的で物理的な宇宙の子どもなんだと気づく。宇宙全体の働きかけがあって、モモはモモの人生の一時間、一時間を授けられる。この体験によってモモは、「不安よりも大きな」あの感情を抱くようになる」

繰り返しになるが、僕はエンデが言っているから、時間の花を超越性と結びつける解釈の方が正しいと言いたいわけではない。ただ、「モモ」の射程の話なのだ。「モモ」に限らず、エンデにとり超越的なものの体験と人間の意識の変容は重要なモチーフの一つだ。だが、ただ貨幣として”だけ”時間を解釈すると、この射程を取りこぼすことになる。しかし、エンデの対談などを読めばわかるが、エンデにとってこの問題は極めてクリティカルなポイントだと、僕には思われる。ある意味では、貨幣と経済の問題はその問題のひとつの部分だとすら言えるのではないかとすら思う。勿論、これは僕のエンデ観であり、僕の今のところの社会三分節論の捉え方から発しているのだけど。とにかく、僕は貨幣の問題を大きく取り上げるあまり、エンデに通底する他の問題意識が捨象されるのは望ましくないし、一面的だということを指摘したかったのだ。
蛇足になるが、エンデとシュタイナーの関係について一言いっておきたい。これは松岡正剛氏がエンデへのシュタイナーの影響を、エンデがシュタイナー学校に通っていたことと結びつけているので、あえて書いておきたいのだが、僕が読んだ限りでは、エンデがシュタイナーに自発的に関心を持ったのは、20代前半の頃である。エンデは様々な神秘主義・秘教思想に通じているが、そういう書物を求めているときにシュタイナーの「自由の哲学」と「歴史兆候学」に出会い、その後、シュタイナーの著作に極めて精力的に取り組んだ。エンデの伝記を書いたペーター・ボカリウスは、シュタイナーとヴァインレープについては右にでるものがいないくらい熱心に研究していたと書いている。エンデがシュタイナー学校に通っていたのは事実だが、これは18歳ごろの一時である。ここは松岡氏に誤解があるようだが、小学校一年生のとき、人智学に影響を受けた先生が担任だったが、シュタイナー学校に通ったわけではない。また、エンデの父エトガーも神秘主義への関心が強くシュタイナーの研究もしていたし、おじのヘルムートは三分節論関係のシュタイナーの講演にも参加したことがあるらしい。(これらは全てボカリウスの「物語のはじまり」に書かれている。)そのため、神秘学への傾向を父親からの影響と見るのは正統だと思うが、シュタイナー思想に限定して言えば、必ずしも父からの強い影響は認められない。何よりも、エンデ自身がシュタイナー思想との出会いについて、20代前半の頃であり、シュタイナー学校にも通っていたが、アントロポゾフィーの考え方を教わったわけではないし、このことに関しては影響がないことを、前述の子安美知子さんとの対談で述べている。勿論、本人が言っているからと言って、心理学的な意味で必ずしも全てが正しいとは言えないが、それを反証するためにはかなり強力な反証材料が必要なはずだ。僕の読む限りで、これらの事実を反証するような事実は存在しないし、そもそもシュタイナー学校はアントロポゾフィーの考え方を教えるところでもない。以上から、エンデへのシュタイナーの影響は、エンデが自発的にシュタイナーに取り組んだ20代前半の時期を基準とすべきだ。これ自体蛇足だが、誤解を避けるためにあえて記述してみた。ちなみに、前述のボカリウスの本を読めば、このあたりの関連は一目瞭然なので、興味のある方は目を通して頂ければわかるとおもう。