「魔法使いの弟子の皆さんに警告!」を読む

ミヒャエル・エンデのエッセイ・詩・物語の構想・原稿・断片・書簡等を集めた『エンデのメモ箱』の中から、「魔法使いの弟子の皆さんに警告!(Warnung an alle Zauberlehrlinge)」という短いフラグメントをどう読むか、ということをやって行きたいと思います。まずこの短いテクストを全文引用してみます。
「Einen Prinzen in einen Frosch zu verwandeln ist nichts Besonderes und gelingt verhaeltnismaessig leicht. Jeder uebellaunige Abteilungsleiter bringt es taeglich fertig. Aber einen Frosch in einen Prinzen zu verwandeln, das erfordert grosse Kunst oder Kraft - oder Liebe.」

「王子を蛙に変えるのは大したことではない。比較的簡単だ。ごきげんななめの課長なら、だれでも毎日やってこなす。でも、蛙を王子に変える、これには大いなる芸か力か、それとも、愛が入ります。」(田村都志夫訳)

まず、本文そのものに入る前に、タイトルに注目しますと、ここでは「魔法使いの弟子」が語りかけの対象になっていることがわかります。では、そもそもエンデにとって魔法とは何なのでしょうか。ロマン・ホッケ(エンデの担当編集者)編『Das grosse Michael Ende Lesebuch』に収録されている『はてしない物語』の原稿の中で、エンデは次のように書きます。
「しかし、(魔法の杖や魔術的な器具などの)そのすべては魔法使いが特定の物事に自分の注意と意志を集中することを助ける補助手段に過ぎない。本当はそれらは不必要なのだ。必要なものはある意味でずっと簡単で、同時にずっと難しい。魔法を使おうとする人は自分自身の”真の意志”を発見し、実行しなければならない。」
ご存知のように『はてしない物語』ではバスチアンの真の意志の発見がファンタージエンを巡る旅の本当の目的であるわけですが、この「真の意志」を発見し、実行することが魔法を使うことだ、とエンデはいうわけです。更に同じ物語の中でエンデはこう書いています。
「自分の全存在でもって、霊・魂・体でもって何か特定のことを意思する人は魔法が使える。―そして、それはファンタージエンの中だけではないのだ。」
魔法を使う、と言うことはエンデにとって何か特別な、ファンタージエンの中、ポエジーの世界の中だけの話ではなく、現実的な事柄だというわけです。多くの人は、自分の望みだと誤って信じ込んでいるものを自分が望んでいると考えるので、魔法を使うことができないというわけです。バスチアンの失敗の道を思い出させるところでもあります。
ところで望みとは何かについてエンデは『はてしない物語』の中で、
「しかし、望みは恣意的に呼び出したり、抑圧したりできるものではない。それはあらゆる意図より深いところから我々あの中にやってくる。良いものであろうが、悪いものであろうが。そして、それは気づかぬうちに生まれるのだ。」
と書いています。これは望みが無意識の深みからやってくることを示唆しています。それを(シュタイナー的な意味で)カルマと呼んでも良いかもしれません。というのも、カルマというのは死後生のはじめに、カマロカでの魂の浄化を通じて、次の人生ではこういうふうに生きようと決意する、それがカルマになると言われるからです、もちろんそれはカルマの一側面ではあるのですが。シュタイナー的な意味での無意識は、肉体の中に働く力です。私たちは例えば歩く時の筋肉や骨の動きを意識せずとも動かせますが、そこには意思の力が働いているというのです。この無意識の中からやってくる望み、これを捕らえよとエンデは言っているといえるでしょう。
『鏡の中の鏡』の「息子は父であるマイスターに…」で始まる物語では、エンデはその話のテーマは「自分の課題を捕まえよ」ということだと言っています。その物語の中では、主人公である息子は「自分の課題は不服従である」ことに最後に気づきます。いわば、モラーリッシェ・ファンタジーを行使して、他者や外的な規則に服従するのではなく、創造的に行動することが問題になるわけです。そして、それは自己認識と、あの「汝自身を知れ!」と結びついているのです。それゆえ、エンデはある書簡の中でファンタージエンにおける規則「汝の欲することをなせ!」と結びつけてこう言います。「汝自身を知れ!―そして汝の欲することをなせ!」。つまり、魔法を使うこと、「汝の欲することをなせ!(Tu, was du willst!)は自己認識、正しい意味での自己認識を前提としているのです。では、正しい意味での自己認識とは何でしょうか。エンデは心理学的・精神分析的な探求は迷路に迷いこむだけだ、と言います。なぜなら、自分の中をいくら探してみても、そこには無しか見つからないからだ、というのです。そうではなくて、シュタイナーがいうように、自分の自我を知りたければ外界を探求しなさい、世界を知りたければ自らの自我を探求しなさい、これが重要なのだというわけです。
魔法について、もう一つ重要な点があります。メルヒェン「魔法の学校」では、魔法の規則として以下の3つが挙げられています。ちなみに、先に取り上げた『はてしない物語』の未公開原稿でも同様のことが語られており、このふたつの物語は内容的にかなり似通ったものになっています。
「1.あなたは可能と思うことだけを本当に望むことができる。
2.あなたは自分の物語に属するものだけを可能とみなすことができる。
3.あなたが本当に望むことだけが、あなたの物語に属する。」
自分の物語(Geschichte)とありますが、Geschichteは歴史の意味もありますので、自分史と読むこともできるでしょう。となれば、自分の歴史=物語、つまり繰り返される転生とカルマの連関に属するものだけが本当に望むことができることなのだ、というわけです。この円環的な定義から、まさに自分の物語を知ること、自分の課題を捕まえること、言い換えるならば、「汝自身を知れ」ということがいかに重要であるかがわかるのではないかと思います。
最後に、エンデが「精神の父」といったノヴァーリスの「魔術」とエンデの「魔法」を比較してみましょう。ノヴァーリスの魔術的観念論という名称からもわかるように、「魔術(Magie)」はノヴァーリスの核心的な概念の一つだと言えるでしょう。ノヴァーリスは魔術を「感覚界を意のままに操る術」だと定義しています。なぜそうなるのでしょうか。
「器官を積極的に使用することは、魔術的な、奇跡を呼び起こすような思考、つまり、意のままに物質界をあやつることにほかならない―というのも、意志とは、魔術的な力強い思考能力にほかならないからである。」
「魔術の時代には、身体が魂あるいは霊界に奉仕する。」
高橋巌先生が霊主体従という言葉をよく使っていらっしゃいますが、霊が主になり、身体が従になるために、意のままに感覚を操れるというわけです。更にノヴァーリスもまたそれを意志と結びつけています。これはシュタイナー的には自我による肉体の完全な変容、すなわち霊人に通じる考え方だと言えるかも知れません。更にノヴァーリスはこう言います。
「この二つが魔術的になるのは、もっぱら道徳化によってである。愛が、魔術の可能性の根拠である。愛は、魔術的な作用を及ぼす。」
ここで道徳化と愛(この2つもノヴァーリスの重要なキーワードです。一般にオランダの哲学ヘムステルホイスの影響だと言われています。)が魔術と結び付けられている点も注目に値します。『果てしない物語』に従えば、バスチアンの「真の意志」とは愛することであり、生命の水をのむことによって、愛する力を手にするのですから。そしてそれは『自由の哲学』における自由とも深く関連するところではないでしょうか。
エンデの「魔法」について概観したところで、いよいよテクストの中身へ入って行きたいと思います。このフラグメントの前半で、エンデは王子を蛙に変えることと蛙を王子に変えることとを対比しています。エンデは前者は比較的簡単だが、後者は難しいというのです。蛙と王子が何を象徴するかは度外視するとしても、この2つは明確に低次のものと高次のものを指していると考えられます。この高次のものを低次のものへ、低次のものを高次のものへの変換/演算をノヴァーリスはロマン化と呼びました。ノヴァーリスの有名なロマン化を定義したフラグメントを見てみましょう。
「世界はロマン化されねばならない。そうすれば根源的な意味が再び見出せよう。ロマン化とは質的な累乗にほかならない。この演算を行うと、低次の自己が高次の自己と等値になる。われわれ自身もそのような質的な冪級数なのだ。[…]卑俗なものに高い意味を、ありふれたものには神秘的外見を、既知のものには未知のものの尊厳を、有限なものには無限という見かけを与えるならば、わたしはそれをロマン化したことになる。高次のもの、未知のもの、神秘的なもの、無限なものを対象とすれば、この演算は逆になる。」
エンデはこのノヴァーリスのフラグメントを省略した形で自分のメモに残していたようです。エンデの遺稿では次のように引用されています。
「世界はロマン化されねばならない。私が卑俗なものに高次の意味を、ありふれたものには神秘的外見を、既知のものに未知のものの尊厳を、有限なものに無限の見かけを与えたならば、私はそれをロマン化したことになる。」
ノヴァーリスにおいてはロマン化とは高次→低次/低次→高次の上昇下降運動(累乗/対数)が重要視されていますが、引用からもわかるようにエンデは低次→高次の変換の方を重視しているように見えます。いずれにしても、王子様を蛙に、蛙を王子様にというのはロマン化にほかならないということができるでしょう。また、これはエンデの詩的なコンセプト「詩的錬金術」、つまり内部のものを外部のものに、外部のものを内部のものへと変換する操作に通じます。エンデはある書簡の中でそれはノヴァーリスのPoesierung(詩化)であり、これを通じてのみ世界は住むことができるようになると言っています。
少し脱線しますが、エンデに対する現実逃避文学批判と結びつきますが、エンデは必ずしも、例えば唯物論や自然科学、あるいは資本主義や貨幣そのものを否定していたわけではありません。ただ、これらの世界観が支配的であるがゆえに、その反対を強調したのだと言えるでしょう。実際、テクストの中でも「王子を蛙に変えるのは、比較的簡単だ。不機嫌な課長なら誰でも毎日やってこなす。」と言われています。現代においては心や精神は脳の生理学的プロセスに、価値は貨幣や数字に置き換えられています。エンデはある対談で「貨幣の黒魔術/白魔術」という話をしています。貨幣そのものが悪いものなのではなく、むしろその機能は極めて重要であるがゆえに、現代の貨幣の問題を引き起こす貨幣の黒魔術ではなく、よりよい未来を生み出す事ができる貨幣の白魔術があるのではないか、とエンデはいうのです。その観点から見れば、ここでも黒魔術/白魔術という構図を見ることができるのではないでしょうか。なんといっても、「王子様を蛙に変える」のは悪い魔法使い(魔女)なのですから。また、エンデが『モモ』の冒頭で引用する予定であったと言われ、現代社会に対して「文明砂漠」という表現を用いたエッセイ「ある中央ヨーロッパ先住民の思想」で引用されているノヴァーリスの詩にはこうあります。
「もはや数字と図形が
あらゆる被造物の鍵ではなくなり、
歌い、キスするものが、
学識者より多くを知るなら、
世界が自由な生へ、
世界へと戻るならば、
光と影が交わり、
真の光明へ変じるならば、
メルヒェンと詩の中に、
真の世界史を認識するならば、
一つの神秘的な言葉の前に、
すべての狂ったものは飛び立つ。」
エンデが『私の読本』で取り上げている、「キリスト教世界、あるいはヨーロッパ」でも、ノヴァーリスは唯物化する世界に対し、中世―史実としての中世ではなく、理想の、来るべき黄金時代としての中世―の精神性を賛美しています。この点で、ノヴァーリスはエンデやシュタイナーと同じ方向を向いていたといえるでしょう。
ノヴァーリスはロマン化によって「高次の自己と低次の自己が等価になる」と言っています。エンデのフラグメントでも、蛙=低次のものが王子=高次のものへと変容しています。では、蛙とは何を指すのでしょうか。エプラー、テヒルとの鼎談でエンデはグリム童話の「蛙の王様」のメルヒェンを取り上げています。ここでは主知主義的な「メルヒェン解釈」の問題と「攻撃性」の問題が語られている文脈で取り上げているのですが、エンデはこう言います。
「蛙はまさにあの不快なもの、新陳代謝系から、内臓の深みから意識の中へ押し入る嫌なものなんだ。」
ここで蛙が新陳代謝系に結び付けられている点に注目しましょう。蛙とはまさに無意識のもの、それも精神分析などで言われるような、シュタイナーならば夢意識と呼ぶような、意識の上らない感情のような無意識ではなく、内臓の深みのような無意識からの衝動だというのです。昨日、望みとは無意識の深みからやってくるものだといいましたが、腺や新陳代謝系はシュタイナーにおいてはエーテル体の物質的表現だと言われています。『はてしない物語』では望みは人間界の記憶と引換にして満たされるのですが、シュタイナーによればエーテル体とは記憶をいわば貯蔵している構成部分でもあるのです。また、僕の理解する限りでは、シュタイナーのカルマ論・転生論では死後生において人間はエーテル体のエッセンスを担っていくと言われていますが、これは前世のカルマを指していると思います。
グリム童話では、蛙から逃げ回っていた王女が、この無意識を象徴する蛙を掴んで壁に投げつけることで蛙から王子への変容が起こります。エンデはまさにこの攻撃性について、鼎談の中で語っているのです。攻撃性(Aggressivitaet)とは何でしょうか。エンデは攻撃性について「攻撃性は魂的能力だ。そしてそれはさしあたり善悪とは無関係なんだ。それがどのような関連の中に現れるかが全く問題なんだ。」と言っています。悪とは間違った場所に置かれた善であるとはシュタイナーも言っていますが、『ジム・ボタン』で描かれる悪のように、エンデも同じ考え方をしています。攻撃性ということを考えるとき、まずは自己-他者の区別が必要になる、ということができると思います。それは創世記における原罪であり、シュタイナー的に言えば、ルツィファー的な力の影響ですね。それまで蛙から逃げ回っていた王女が、最後に攻撃性を、魂的な力を行使して、嫌な不快なものと対決することで、換言すれば、意識に上らせることで、初めて変容が生じる、というわけです。エンデのSFストーリーの構想「論理的帰結」では、まさにこのことがテーマになっています。大脳生理学者エーヴァルト教授がつかの間旅する未来の世界では、教授の発見によって人を決して傷つけることができない装置が発明されていました。しかし、その世界では文化も遊びもすべてがグロテスクな攻撃性を示していたのを発見し、エーヴァルト教授は装置の発明につながる自分の発見を発表することをやめた、という筋書きです。シュタイナーが「悪になる可能性の中で生きよ」というように、自分の中の悪を見ないふりするのではなく、対決して変容させねばならないというわけです。そしてそのとき「高次の自己と低次の自己」は等価になるわけです。
さて、エンデはフラグメントの中でこの変容を起こすために「大いなる芸か力か―それとも愛が必要です。」と言っています。まず大いなる芸と訳されていますが、僕はこれを「偉大な芸術grosse Kunst」と取りたいと思います。芸術家についてエンデはボイスとの対談の中で、美の領域で働く手仕事職人なのだと言っています。エンデにとって、芸術は美と結びついています。シラーは美的書簡の中で「人間は美ともっぱら遊ぶべきであり、また美とだけ遊ぶべきである。」「人間は言葉の完全ない見で人間であるときのにのみ遊ぶのであり、遊ぶときにのみ全き人間なのです。」と書いています。それゆえ、エンデにとって芸術とは遊戯の最高の形式なのです。更に、エンデの芸術的・詩的コンセプトを象徴するのは「パガート」です。つまり、道化であり魔術師です。それは遊ぶ人間であり創造的な人間です。エンデは晩年のインタビューでこう言います。
「魔術師とは何なのでしょうか?魔術師とは、実は創造的な人間です。創造的人間は、だれでも、本当は魔術師なのです。」
すでに述べたように、美の領域で創造的であるのが芸術家だ、とエンデは言いますが、エンデは美とは超越的なものであり、
「それは別の世界から私たちの世界へ輝き入るいわば光なのです。それによって、あらゆる事物の意味は変容します。[…]この世界の凡庸さは美の光の中で、私たち誰もがそこからやってきてそこへ帰っていく、私たちがそれを忘れているにもかかわらず、一生涯憧れ続けるもう一つの別の現実を開示します。」
と語っています。まさに、芸術の美的で創造的な行為の中で、卑俗なもの、凡庸なもの、有限なものが高次の、未知の、無限なものへと変容するというわけです。
では、力(Kraft)とは何でしょうか。エンデはエプラー、テヒルとの鼎談で助けの手を差し伸べ、必然的なコンディションを作り上げる別の諸力(andere kraefte und maechte)について語っています。これは霊的な諸存在、エンデの言い方ではIntelligenzenとWesenのことを明確に指していると思われます。ですが、ここではMachtという言葉も使われている上に複数形です。となると、この場合の力(Kraft)とは人間の中の力であると考えた方がよさそうです。エンデにとって、人間の人間らしさを保証するものとは何なのでしょうか。それはとりもなおさず創造力だということになります。エンデにとって、それは「事実の強制」「因果の鎖」から人間を解き放ち、人間を自由にする力です。『サーカス物語』であしたの国(Morgenland)のジョアン王子はこう言います。「僕たちは、自ら創造するものの中でこそ自由なのだ!」。この人間の創造力はどこにあるのでしょうか。重松創育さんとの対談でエンデはこう語ります。
「私たちが自分の自我を知覚しようとしても、何も知覚しません。空っぽなのです。[…]本当はここに人間の本来の創造的な力があるのです。」
自我の、本当の自我の無の中に人間の本来の創造力があるというのです。エンデの遺稿の中に次のような文章があります。
「創造的な力は最高の人間の力である。それは決して基礎づけられたり、習得されたりしないが、私はどんな人間もそれを身につけており、神との真の類似性―あるいは神との同一性でさえ―がその中に含まれていると確信している。」
シュタイナー的に言えば、人間の霊的な部分、高次の自我といえるでしょう。まさにこの力を通して、低次のものは高次のものに変容するのです。
最後に愛です。エンデは人間が自然に付け加えることのできるものが一つだけある、それは愛だと言っています。それは例えば自然霊であるゴッゴローリを愛ゆえに自らを供犠に捧げることで救済するツァイポットのようにです。人間の創造的な力の源泉といえる、生命の水を飲むことでバスチアンは愛するという望みを叶えます。愛とは何でしょうか。エンデは
「この創造的な力の最高の形式は愛です。[…]愛を超える力も意志も状態も存在しません。それはカバラの生命の木の王冠、ケテルなのです。」
と言っています。人間の諸力のうちの最高のものである創造力の最高の形式が愛だというわけですが、なぜ愛が創造的な力と関係するのでしょうか。ある読者への書簡で、エンデはこう語ります。
「人のなかに、その人を愛したいと思うものを見ず、はっきりととらえることができなくては、言うまでもなく、一人の具体的な人間を愛することはできないということです。それには、たしかに少なからぬ努力がいります。もっぱら優越感に浸り、冷たい振りをする人間の仮面のうしろに、途方に暮れたさまや傷つきやすさを見るには、創造的な努力が必要なことだってあります。」
シュタイナーがゲーテの詩の中で、キリストが死んで腐敗した犬の死体を見て「なんと美しい歯!」といったということをよく取り上げますが、愛するということはまさに愛する対象の中に、不快なもの、嫌なものの中にすら、愛すべきものを見出す創造的な能力を必要とされるのです。そのため、愛もまた卑俗なもの、ありふれたものを、高貴で未知なものに変えるのです。『はてしない物語』では「今バスチアンにはわかった。世界には幾千もの悦びの形があるが、根本的にそれらすべてはたった一つ、愛することが出来る悦びなのだ。」と言われています。更に、自分がまさに他の誰でもない自分自身であることと、愛することができること、「2つは一つの同じ事なのだ。」と。
つまり、エンデにとって偉大な芸術、力、愛とは同じ一つのことなのです。それは取りも直さず、人間の最高の力、創造的な力に関わるものなのです。そして、この創造的な力の行使こそが魔法を使うことなのです。それは低次のもの、低次の自己を、高次のもの、高次の自己へと変容させます。となると、「魔法使いの弟子の皆さん」とはとりもなおさず人間を指すといえないでしょうか。エンデのこのフラグメントは、まさに高次のものを低次のものに還元しようとする唯物論的な黒魔術ではなく、低次のものを高次のものに変容させる白魔術を行使するために、人間の最高の力である創造力が要求されることが語られているのです。『サーカス物語』では愛と自由と創造的な遊び、それらはひとつのものなのだ、と語られます。この三つは、芸術・力・愛に対応するといえるでしょう。この三重にして一つの力、これを用いて「真の意志」を実現するとき、人間は魔法を使える、エンデはそういうわけです。
最後は駆け足になりましたが『魔法使いの弟子の皆さんに警告!』の解釈はこれで終わりです。僕がなぜ意味深いテクストといったか、お分かりいただけたかと思います。この短いテクストは、エンデの世界観を凝縮したような高密度なテクストであると僕は思います。
「結局のところ、僕たちは生の中にポエジーを織り込み、生そのものの中にポエジーを見出そうとしているのだ。」(Ende,親友ボカリウス宛の書簡より)